流れ狼

1/18
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
 明暦三(一六五七)年八月のある夜、蝦夷ヶ島沖合いのことである。  一隻の流刑船が今しも嵐の海に沈もうとしていた。  風がびょうびょうと吹き荒れていた。稲光の下に浮かび上がる海面は、疾駆する獣の群れのようにうごめいていた。  波と波とがぶつかりあい、見る間に盛り上がって小山のような三角波となる。泡立つ波頭を白く光らせながら、流刑船に向かって崩れかかる。船尾を一撃で打ち砕かれ、船は見る間に沈み始めた。  無涯は荒れ狂う海面に投げ出された。次々と押し寄せる大波に突き転がされ、上も下もわからなくなる。暗闇の中、水夫たちの呼び交わす声、助けを求める流刑囚の声が聞こえてくる。雷鳴とともに空が光った。船は舳先を空に向けて沈んでいく。暗い空よりもさらに黒々とした三角波が音もなく盛り上がって船の姿を覆い隠す。再びの暗闇。押し寄せる大波。次に空が光ったときには船の姿は跡形もなく消え、もう誰の声も聞こえない。  無涯は死を覚悟した。到底助かるはずがないと思った。  五尺ほどの板子の切れ端が波に乗ってぶつかってきたときにも、夢中でしがみついただけで何の考えもなかった。そうしていても水の冷たさ呼吸の苦しさがいささかも減じるわけでもなかったし、陸の影さえ見えないのだ。漂流の時間が長引くだけのことで、助かったとは微塵も思わなかった。だが、どれほどの時が過ぎ去ったことか、板子が岩礁にぶつかりわれに返ると、足が海底につくほどの瀬に流れ着いていた。板子を離し、岩礁に這い登る。周辺は岩場が続いているようだ。闇のなか、手さぐりで平たい乾いた岩を探しあて、その上で座禅を組んだ。精魂尽き果て、もうそれ以上動く気力もなかった。荒々しい波音が次第に静かになっていく。びょうびょうという風の音もだんだんと遠くなっていく 。嵐が去っていこうとしているのか、自分の命が絶えようとしているのかわからない。ただ、体の中に気が入っては出て行く。その繰り返しの中で無を念じ、無になりきろうとし、次第に眼前に光のようなものが見え出したとき、不意にそこに影がさして、女の声が聞こえた。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!