永遠の逃避行

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永遠の逃避行

 地球を出発して百日目、僕は宇宙船内の丸い扉の前にいた。船内外の圧力調整を行う通路のような小部屋、エアロックの扉だ。エアロック内に入り、もう一枚目の扉を開ければ、そこは冷たく真っ暗な真空の世界。今、僕は船外活動の準備を一切していないから、このまま圧力の低い環境に行けば体内の窒素が血液中で泡となり、細い血管が詰まって減圧症になる。そもそも宇宙服だって着ていないから、出た瞬間に即死だろう。そして、宇宙で自殺した最初の人類になるわけだ。  きっと話題になるし、地球でもニュースになるだろう。追悼式なんかもやってもらえるかもしれない。でも、本気で悲しむ人なんかいない。家族も親しい友人も、この宇宙のどこにもいないのだから。人類の宇宙開発史の一欠片になって、そのうち忘れ去られるだろう。  と、真剣に考えていても、無重力空間でふよふよと浮きながらではいまいち格好がつかないのだけれど。  最後に深呼吸して心を決める。壁に足を突っ張って体を安定させ、扉の取手をぐっと握った。 「Stop」  突然、背後から鋭い声が飛んだ。驚いて取手を離した拍子に、勢い余って天井に後頭部をぶつけてしまった。頭をさすりながら振り返る。長い白衣を着たひとが腕を組んでいた。太いフレームの丸眼鏡とでかいサージカルマスクのせいで、顔立ちがほとんどわからない。 「えっと……君、男?女?」  最初に思い浮かんだことを口に出してしまう。いや今それじゃないだろう、と自分で突っ込んだ。  年齢不詳性別不明、国籍さえよくわからないそのひとは、何も言わず僕の後ろ襟を引っ掴むと、通路を進み出した。もともと宇宙に住んでいるのではないかと思うくらい慣れた動作で壁を伝い、小さな丸窓の前で急停止する。頭ごとガラスに押し付けられ、額をぶつけた。 「Earth」  そのひとはガラス窓の外、暗い宇宙に浮かぶ青い故郷を指さし、今度は流暢な日本語で話し出した。 「地球。今日は出発から百日目。再接近時でも地球から七千五百二十八万キロメートルも離れた火星への旅、月への距離の二百倍に近いね、それももう三分の一以上過ぎている。最先端の原子炉を搭載したロケットだったらもう火星に着いている頃だけれど、コスト削減を重視したこの宇宙船ではあとおよそ百六十日かかる」  立て板に水のごとき怒涛の演説。久しぶりに耳にする母国語に驚く間もない。ただあっけに取られて、隣の横顔を見つめた。眼鏡の隙間からかろうじて見える瞳は、暗い宇宙を見つめているのに、星を宿したかのように輝いていた。長いまつ毛が、額から鼻にかけてのなめらかな曲線が、今はいない大事なあのひとに重なる。ぶつけた後頭部と額が重く痛んだ。  振り向いた白衣のひとに「あれ、何か間違っているか?」と聞かれ、僕は首を振った。 「そうじゃなくて、なんでいきなりこんな話を?」  そのひとはしばらく考え込んだ後、肩をすくめた。 「つまり、もったいないだろう?せっかくここまで来たのに、自殺なんて。あとね、普通に迷惑だからやめてほしいよ」  あっさりと正論を言われる。 「はあ、まあ確かに後処理が大変そうですね……宇宙へ出たら身体が爆発して、血とか飛び散りそうだし」 「いや、SF映画だと爆発死が描かれがちだけど、実際にはおそらく爆発はしない。人間の皮膚は柔らかいから、気圧の急低下による体内の気体の膨張には耐えられるらしい。が、減圧症で二分も持たない。もしこの船の連中が君の自殺に気付くのが遅れたら、君の死体は回収されないまま宇宙ゴミとして宇宙をふよふよと漂い続けることになる。おそらく細菌なんかを撒き散らしながらね。汚染物質そのものだし、そんなグロテスクな物体に出会うことになる人もかわいそうじゃないか。てことで、自殺はやめておくんだね。まあどうせ、その扉、鍵かかっているから君には開けられないけど」  そのひとはようやく僕の後ろ襟から手を離し、握手を求めてきた。 「私はセイ。君と同じ日本人だ。よろしく」  はあ、と気の抜けた返事が漏れた。自殺しようという気力は、もうすっかり失せていた。
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