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人類が初めて火星に降り立ったのは三十二年前、ちょうど僕が生まれた年のこと。今回僕が参加している飛行と同じく、民間企業によって行われた。続いて開始されたNASAによる火星ミッションは、三十年経った今も、まだ研究や探査にとどまっている。しかし民間企業が目指すのは一歩先、人類の「火星への移住」である。この宇宙船に乗る三十余人は、火星の「都市」の最初の住民になるのだ。
民間企業が公的機関に先駆けて火星への有人飛行を実現できたのは、復路のための機材や燃料を準備していなかったからだ。つまり、火星へ出発したら二度と地球に帰れないということ。今回僕が乗っている宇宙船も同じだ。火星への長期滞在の影響がまだ完全には明らかになっていない段階で、火星に永遠に取り残されるのだ。何らかの危機で命を落とさなくても、いずれは故郷から遠く離れた星で寿命で死ぬことになる。あけすけに言えば、僕らは科学に殉死するモルモットだった。それでも火星に行きたい、化学に人類の進歩に貢献したい、という熱い思いを持つ無謀な人々が、この片道切符に応募したのだ。
僕個人は、そこまで高尚な目的も強い熱意も持っていなかった。火星移住メンバーになれてしまったのは、運がよほど良かったのか、あるいは悪かったのか。移住が決定してから、何度応募を後悔したかわからない。
地球での準備中はまだマシだった。でも、いざ宇宙船に乗り込み最初の感動が薄れてくると、夢にあふれる乗員の中での疎外感や単調な生活が、僕をじわじわと追い詰めた。気づけば、人生で一番辛かった時期に抱えていた希死念慮が再び脳内に取り付くようになっていた。その結果が、あの自殺未遂である。
そんな日々は、セイとの出会いで一変した。
セイは、僕が出会った中で一番変な人だった。無重力空間で非常に邪魔な白衣を普段着にしている時点でだいぶ変だが、もっと変なのは並外れた知識欲と探究心だった。しょっちゅう実験室にこもったり、望遠鏡を見つめたりと、科学から離れているところを見たことがない。食事中やトレーニング中にまで、タブレット端末にかじりついて論文を読んでいたりする。
セイはまるで、誰にも影響されず己の探究心のみで回り続け、光を放ち続ける恒星だった。そんなぎらつく星の重力に囚われてしまったちっぽけな星屑は、セイの周りをぐるぐる回る惑星になるしかない。セイに言われるまま、実験のアシスタントや荷物持ちや後片付けに駆け回った。
僕も一応エンジニアだけれど、セイの興味の幅は多岐にわたりすぎていて、理解できないことも多かった。時には理系の話だけでなく、現行の火星法の問題点なんかも議論してくる。そういうとき僕はまともに答えられないのに、セイは別に僕の意見など求めてこず、口に出すだけで満足していたようだった。だが僕は、単なる壁打ちに使われても悪い気はしなかった。好きなことについて喋っているセイは、本当に楽しそうだったから。
ただしばらく経っても、セイ自身のことは日本人ということ以外よくわからなかった。年齢は僕と同じくらいに見えるが、もう少し若いかもしれない。性別すら曖昧だ。喋り方は男っぽく、外見に全く気を使っていないから常に小汚く、背は僕より少し低いくらいで、声は女性男性どちらでもあり得るくらいの高さ。ふとした時の腕の細さや輪郭のやわらかさに在りし日のあのひとの姿が重なり、もしかしたら、と思うことはあったが、タイミングを逃してしまい聞けなかった。どっちでも関係ないか、とも思うようになった。
セイは自分ひとりで研究をするだけでなく、色々な人と議論を戦わせるのも好きだった。そのため僕も、セイと関わるようになってから、宇宙船内の他の人たちと交流するようになった。多くの人が何らかの専門家で、彼らと話すのは想像以上に楽しかった。
体力を落とさないための運動と、担当設備の点検以外にやることがなかった僕の毎日は、たちまち刺激的なものになった。何も想像できなかった火星到着後の日々に、やりたいことができた。残りの百六十日は、最初の百日とは比べ物にならないくらい早く過ぎていった。自殺しようとまで思い詰めたあの日は、もはや地球と同じくらい遠かった。
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