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地球出発から二百六十一日目、火星はもうすぐそこにあった。着陸に備え、僕ら乗員は席についた。直前まで何やら忙しくしていたセイは、ほとんどの乗員が席についた頃に、ヘルメットを小脇に抱え、防護服のジッパーを上げながらやってきた。
「ちょっと持ってくれる」
セイは僕に荷物を押し付け、右隣の席にベルトで身体を固定する。固定し終わったのを見てヘルメットを手渡すと、セイは「じゃあこれも持ってて」といつもの眼鏡を外して差し出した。初めてまともにセイの顔を見る。危うく眼鏡を受け取り損ね遊泳させるところだった。伸ばしっぱなしの前髪をヘルメットにしまったセイは、いつもの小汚い身なりとは正反対の、繊細に整った顔立ちをしていた。
「いよいよだね」
僕の驚きに気付きもしない様子で、セイは声を弾ませる。眼鏡を渡したが、セイは掛けずにポケットにつっこんだ。おかげで、大きな目がよく見えた。
この宇宙船での旅も、もう終わりか。そう考えると、妙に感傷的な気分になった。火星でも同じ人たちと暮らすとはいえ、何が起こるかはわからない。着陸に失敗する可能性だってあるのだ。
衝動的に、「あのさ」と声をかけた。
「僕、実は元々他の人たちみたいに、本気で宇宙に行きたいとか火星に行きたいとか思ってなくて」
突然の告白に、セイは驚いた様子もなく「まあ、そうだろうね」と言った。
「知ってたの?」
「だって自殺しようとしてたじゃないか」
「まあ、確かに」
火星に行くなんて予想もしていなかった頃のことを思い出す。毎日が重くのしかかり、常に何かに追われていた日々。
「必死で勉強していい大学入って、大手企業に入って必死で働いてた。でも交通事故で両親が死んで、その二ヶ月後に、闘病中だった婚約者が死んだ」
貯めていた金の使い道を失って人生に価値がなくなって、どうしても前に進めなくなった時、目に飛び込んできたのが、一般人の火星移住者募集の広告だった。自己負担分の費用は、ちょうど自分の貯蓄と両親の生命保険でまかなえる金額だった。
「気づいた時には応募の電話をかけていたよ。多分、何もかもから逃げたかったんだ。あの広告を見なかったら自殺していたと思う。でもあの時は、火星に移住、っていう突飛さに、妙に惹かれてしまった。どうせもう人生終わりだから、普通なら考えもしないことをやってやろうって」
初めて過去を他人に打ち明けていくうちに、心の深い部分が解け、満たされていくのがわかった。セイは隣で神妙な顔で聞いていたが、急に吹き出した。
「でも、そこで火星に行っちゃえ、っていうのがすごいよね。自殺した方が絶対楽じゃないか」
「うん、何度も思ったよ。いったい自分は何をしているんだ、って」
「だよねえ。変な奴だな」
セイには言われたくない。むっとしたけれど、楽しそうなセイを見ているとつられて笑ってしまった。
しばらくして笑いを収めたセイは、前に向き直り、静かな声で「私も、君に話したいことがある」と言った。
「初めて会った時、君は聞いたね。私が男と女どっちかって」
初対面で、ずいぶん失礼な質問だったものだ。苦い思いで頷いた僕に、セイは言った。
「私の本当の名前、せいなっていうんだ。星に、菜の花の菜」
思わず隣のセイを見た。せいな、星菜。男性の名前の可能性もあるが、おそらく……。
セイはふっと口角をあげた。
「私がこの宇宙船に乗った理由はね、地球が狭すぎたからだ。多様性の尊重などと言いつつ、どの場所もどの人間の集団も、歴史やら固定観念やらルールやらにがんじがらめになっていた。私はそこから逃げ出したかった。君と同じさ。地球を出れば、新しい価値に出会えると思った。まあ、どこに行っても人間は人間だし、変わらないのかもしれないけれど」
つぶやくセイの目は、どこか寂しげに遠くを見つめていた。僕は口を開いたけれど、結局何も言えなかった。
ひとつ息を吐いたセイは、切り替えるように「でも、宇宙への愛は本当だよ」と熱をこめた。
「こんなに未知の領域に、惹きつけられてやまないんだ。宇宙というものをこの目で見たい、肌で感じたい。そのためなら何だって惜しくないさ」
セイの目には、いつものきらきらした光が戻っていた。その光は船内の照明の明かりだけれど、僕にはそれが、セイがいつも見つめる無数の星明かりのように見えた。眩しかったけれど、目はそらさなかった。
セイは光だ。暗闇の中にいた僕を、強い力で照らし、引っ張り上げてくれた、大きな光。
なぜか、今は亡き婚約者を思い出した。病室のベッドの横に膝をつき、みっともなく震える手で一生を誓った時の、彼女の照れた微笑。顔立ちは全く違うのに、その明るさはどこか目の前のセイに似ていた。あのプロポーズのすぐ後に絶望が待っていたけれど、今、閉じたまぶたの裏に映る亡きひとはただ優しく美しかった。
「着陸船とのドッキングに成功!」
放送が流れ、乗員たちからわっと歓声が上がった。左隣の仲間が、自国語で喚きながらハイタッチを求めてくる。右隣を見れば、セイも頬を紅潮させ見返してきた。
いよいよ、火星に着陸だ。
「まあ、火星でもよろしくな」
セイが差し出した左手を、右手で握り返す。小さく柔らかだが、力強い手だった。「うん、よろしく」と答えれば、セイはニヤッと白い歯を見せた。
この笑顔が見られるのなら、火星で死ぬのも悪くない。
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