霧の境界

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霧の境界

遊園地のあった平原を越え、一つのはげ山を登りきると、頂上の盆地に広大な森があった。はげ山だったのにいきなり森なんてどうかしてるけど、もう何も驚かなくなってきた。 「この中に朱越と同じような境の土地があります。その前にここを越えなければなりません」 「この森?広すぎじゃない!?」 「広く見えているだけで実際はそう遠くはないはずですよ。半時もあれば抜けられます」 「もう時間がよくわからないんだよねえ」 ずっと歩いているような、さっき朱越を出発したような。太陽のないこの場所では一日の時間もわからなくなってくる。 「ここは霧がひどいですねぇ…でもここが、元の場所に一番近いみたいなんです。先輩のお札は、あとどれくらい残っていますか?」 お腹に貼ったお札は半分くらい文字が消えていた。 「ちょっと心許ないですが、仕方ありませんね。いいですか、平井。記憶が取られそうになったら、新しい記憶から差し出してください。現世での大事な記憶を取られたら、生きていけませんから」 「ちょ、ちょっと待ってよ。別のところから行こう。記憶喪失は怖いよ」 風志朗くんは遠い目であたりを見回して、困った顔をする。 「ここ以外だと、十年か、もっと後の時代に出てしまいますよ。十年も時が空いてしまっては、人間はうまく生きられないでしょう?心配しなくても、大事な記憶は消えたりしません」 霧の森に入って、しばらくは大丈夫だった。おかしくなったのは、なぜか急に、去年亡くなった親戚のおじさんのことと、朱越の食事処であった何か楽しかったことが同時に思いだされたあたり。何かっていうのは、もう覚えていないからだ。朱越で見た、たった一昨日の何かのことを僕は一向に思い出せない。慌てておなかに貼った先輩のお札を見る。もう文字が消えてただの紙になっている。僕自身が溶け始めたのだと悟った。 「風志朗くん、お札が消えてる!」 風志朗くんが静かに振り返る。 「僕、ご飯屋さんで…あれ、だれだっけ…何か楽しいことがあったはずなのに、覚えてない…」 「いよいよですか…現世に帰るまで、あと半分です。気張ってください。大丈夫です。おしゃべりすれば気がまぎれますよ」 怖くてめそめそする僕を、風志朗くんが励ましてくれた。そして今まで杜番をしていて出会った迷子の話や、朱越にいる友人の話をしてくれた。きっと新しい記憶を書き込むことで、僕の記憶が消えないように時間稼ぎをしてくれているのだ。風志朗くんは長生きなだけあって、話は尽きなかった。 霧の中で、僕は幾度となく記憶の選択を迫られた。なぜか急に思い出す複数のシーン、次の瞬間には、そのうち一つしか覚えていない。一番強く思っている記憶だけが残るのだと思う。というのも憶測でしかない。だって消えたことを覚えていないのだから。 数十回はその現象に見舞われたと思うが、回数さえ覚えていない。僕は耐えられなくて、立ったまま気を失った。 「ひらい!!ひらい!」 この声は、だれだっけ。知り合って間もないけど、世話になった人だ。前を行くこの人に手を握られているけど、びっくりするくらい霧が濃くて、ぼんやりと小柄な背中が見えるだけだ。 「大丈夫ですか?起きてください。がんばって。自分の名前、言えますか?どこに住んでいましたか?」 「だれですか、僕は、…ひらいです。住所…?…ああ、おおさか…」 「上出来ですよ。そのまま目を瞑って。私の手を握って、ついてきてください」 握っている手は小さくて熱い。僕のなのか、この手の誰かのなのか、手汗がすごい。地面の感触があいまいで、何を踏んでいるのか、進んでいるのかわかならい。 「大阪はいいところでしょう?たこやきが食べたいですね。まよねーずとネギがたくさんのたこやき、平井は好きですよね」 そう、たこ焼きが好きだ。一駅先のいきつけの大粒たこ焼き、久しぶりに行こうか。タコ似の店主の顔が浮かんだ。 「携帯電話、すぐ充電してあげてくださいね。そうしたら、お母さまに電話してください」 誰かに繋がれているのとは逆の手に、握りしめていた硬い板。一番手に馴染んだ、でももう飽いた形。今はとても大切なような気がして胸ポケットに仕舞って上から握りしめる。面倒がらず、母にも連絡しようか。 「試験の勉強はしなくてはだめですよ。心残りで登山にも教本を持ってきたのですから」 この人が話すほど、忘れていたことを思い出す。それにしてもこの人は、どうして僕に他愛のない話をするのだろう。この人自身は、こんなに心が乱れているのに。こんなに怯えているのに。こんなに寂しいのに。 僕の、平井のものではない記憶が体に入ってくる。きっと手を握っているこの人のものだ。 どこかの林の木の上だ。林の少し外には畑や電線や道路があり、車がたまに通る。のどかな平野の風景だ。ぬくぬくとして守られていて、幸せな気分だ。 木漏れ日が差している。誰かの背中におぶわれている。とても安心する。大きな翼に包まれて、その中で寝てしまった。 言葉が喋れないもどかしさ。しゃべろうとしてもうめき声しか出せなくて、でも励まされるからまた声を出そうとする。言葉も、生活も、地理も、文化も、摂理も、自分の役目も、あらゆることを教えてくれる人がいた。その人が大好きだった。 淡い紫の朝焼け。誰かが去ってしまった。ついて行きたかったが、「私」は残らねばならなかった。 暗くなる空に焦りが募っていく。なんで、そんなに必死に。崖の下でやっと見つけたのは、怖くて震える僕だった。 「君は、どちら様…でしたっけ…?お世話に、なったよね?ごめん僕、忘れてしまった…」 「私はただの夢だから。だから安心して全部忘れていいんですよ。あなたは平井です、それは覚えていてください」 僕はこの人と一緒に進まなければならない。そうなった訳を覚えてはいないけど、どこかに辿り着きたいと強く思っていた。片足の感覚がどこかに行ったかと思えば、手の感覚が三つもあったりする。目を瞑っているのに自分の姿を見下ろしている。皮膚は暑いのと寒いのをまだらに感じる。どこまでが自分の体かわからない。覚えていられることが、思い出せることが少ない気がする。怖いと思う気持ちすらすぐに変わってしまう。それが心細かった。この人が喋る僕に関することが、僕が人で、平井であることを思い出させてくれる。こんなに僕に詳しいこの人を、僕は思い出せない。でも自分を覚えているのに精一杯で、思い出す余裕はない。僕はこの人が誰かを思い出すのをやめた。母のこと、恋人のこと、自分のことを考えた。あやふやな道と誰かとのおしゃべりは続いた。 「はい、目を開けてください、平井!」 トン、と背中を押される。つんのめって慌てて目を開ける。痛いくらい景色がはっきりして眩しい。足の裏に体重がかかって重い。ずいぶんと地面がかたい。舗装されたアスファルトだ。白線がすこし剥げている。目の前には交番がある。しっかりとした形のある世界に立っていた。 自分の体を確かめる。手足は二本ずつ、五体に過不足なし。何か離しちゃいけないものを握っていたような気がするが、僕は空の拳を握りしめていた。手汗がすごい。誰かに押された感触が背中に残っているが、見晴らしの悪くない道路には誰もいない。ずっと口を動かしていた気がする。とてものどが渇いていた。 「すいません、お水もらえませんかあ?」 「どうしたの、寒い格好して」 カルキ味の水道水で、ぼんやりしていた頭が完全に醒めた。
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