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朱越街道
翌朝目を覚ますと、やっぱりそこはボロ屋だった。夢であってほしかった。
「平井、おはようございます。ちゃんと眠れましたか?」
「疲れてたからかな、結構ぐっすり寝たみたい」
明るいところで見ても、風志朗くんの羽は本物だった。口が達者だから大人っぽく感じていたけど、どうやら思っていたより幼い。中学生くらいだろうか。
「すみませんが、ここにはごはんがありません。もらいに行きましょう」
「もらいって、どちらへ?」
「ここから少し上がるとご飯屋さんがあるんです。近くに宿もあるので、今日はそこに泊まるといいです」
ここは山の途中らしく、ご飯屋さんがどのくらいの距離かはわからなかった。昨日は夕飯が少なかったからお腹がすいていた。
「私がもっと優秀な天狗なら、平井を担いで飛べるのですが。すみませんが歩いてください」
僕の気持ちが伝わってしまったのか、風志朗くんが謝る。
「いやっ、担いでもらうのは気が引けるなあ。全然いいよ。がんばります!」
「平井は健脚そうだから、大丈夫ですよね!」
荷物をまとめて、風志朗くんの家を後にした。山道を先導してもらって、三十分くらい歩いたらやや建物がある場所に出た。人がいる場所じゃないか、助かった。と思った。早朝の街道にいたのは、羽があったり顔が獣だったり、腕がたくさん生えてたり、二足歩行する動物だったり、人に似てるけど人じゃない人たちだった。
僕は叫びそうになって何とか口を塞いだ。挙動不審の僕に視線が集まって、いたたまれずフードを被った。風志朗くんが心配そうに目くばせする。逃げないようにと小声でささやかれた。無遠慮な視線を我慢して、通りのひなびた店のうちの一軒に入った。
「キヌさん、お邪魔します」
「なんだい、風志朗かい。最近来ないじゃないか。飯はちゃんと食べてるんだろうね」
「はい、お陰さまで。今日は朝ご飯をいただきに来ました」
「あ…お邪魔します」
キヌさんと呼ばれたのはこのご飯どころの女将さんらしい。髪がすっかり白くなっておばあさんのようだが、背が高く褐色の肌でお達者のご様子。
「構わないけどさ。うしろのあんた、もしかして里の人間かい?風、どうして森に入れてんだい」
「それが、天狗の姿を見られてしまいまして。この人が逃げ回ったので出し損ねました」
「ふん、ヘマをしたね」
女将さんは僕たちに何を食べるか聞いた。おなかがすいているから、とんかつが食べたいと言ったらそんなものはないと言われた。アユの塩焼きにしてもらった。カウンター席には僕らしかいなかった。女将さんはアユを捌きながら僕に話しかけた。
「まあ、あんたみたいなのは初めてじゃないさ。あの世の方に行っちまったり、次の日に逃げ出してそのまんまって奴もいるんだ。杜番が見つけてくれりゃ、運がいいほうだね。迷ったのがシュエツでよかったね。ここはちゃあんと、杜番がいる境の土地さね」
「杜番て、何ですか?」
「ここは変わった土地なのさ。この世からあの世に開いた穴みたいなものなんだ。杜番てのは、里の人間があの世に行かないように、見張ってる役目のことさ。となりの天狗の坊やのことだよ」
風志朗くんはバツが悪そうにお茶をすすっている。昨日の夕方、僕を捜す風志朗くんを思い出した。あのときはてっきり、僕を食べようとか殺そうとかしてるのかと思っていたが、僕のために捜してくれていたのか。
「県とか藩とか国とか、ここはそういう括りのなかにはないんです」
風志朗くんはゆっくりと、この世の成り立ちを説明してくれる。
「平井たちが住んでいるところ…私たちは現世と呼んでいます。その裏側に重なるように、しかしもっと広い土地があります。それが常世です。シュエツはその二つの境目の土地なのです」
曰く、常世は朝もなく夜もなく、世を縛る道理がない土地だ。広大ゆえに、風志朗くんはもちろん、風志朗くんと同じような「常世側」の人たちも全容を知らないのだという。現世で生きた者は死後、朱越のような境の土地を通り、常世に行くと考えられている。
そして境の土地は、現世の時と場所を移動する。夜明けとともにある時代の現世の土地と地続きに、境の土地が出現する。そして日没とともにつながりが絶たれる。数日か数か月か、数十年ということもあるが、一時的にそういう状態になり、あるとき別の時代と土地に移動する。境の土地が移動する現象を渡りという。
つまり僕はタイミング悪く渡りの日に朱越に来てしまったので、朱越とともに別の場所に移動してしまった、という話らしい。風志朗くんが僕をだまそうとしているようには見えない。かといってその話が本当だとも思えなかった。確かに風志朗くんは天狗だし、半分だけ暗い空も異常だった。しかしその話はあまりにも、僕が望む以上に壮大だった。
「ごめんね…逃げて」
「いえ、私が未熟だったので」
ご飯を食べながら、風志朗くんと女将さんに聞いた話によると、シュエツは「朱越」と書き、街道の名前だという。東西に伸びる街道に沿った一帯を含めて朱越と呼ばれている。メインストリートに多くの施設が揃っていて、山間の観光地のようだ。街道からは出るなと言われた。北は鬼の領土、南は波山とかいうでかい鳥の妖怪の領土だそうだ。
「私は西を見回らないといけません。平井は私の家にいてもよいですし、ここにいてもよいですよ」
風志朗くんは僕を置いて出かけてしまった。これ以上僕みたいに入ってくる人がいると困るのだろう。
「あの、お金って…?」
「風志朗は特別さ。あんたもだよ。腹が減ったら好きなのをこさえてやるよ。その代わり残すんじゃないよ」
ありがたくおかずも頼んだ。おひたしは近くで採れる山菜、街道に沿った川では魚も捕れるらしい。塩味ベースの素朴なお味だ。
「お兄さん、現世の人?」
「えっ?!うん、そうだね」
急に女の子が話しかけてきたから声が裏返ってしまった。つやつやした銀髪と同じ色の羽を背負っている。実は少し前から視線を感じていた。でも僕は人で、周りはたぶん全員人じゃない。絡まれたら怖いから静かにしていたのだ。
「だよねー」
「お嬢ちゃん、里の人間と喋りなさんな」
女将さんが白玉ぜんざいを運んできて、女の子に注意する。
「あ、そうだった。ねえねえねえ、お兄さんはなんでここにいるの?仕事?迷子?」
一瞬で言われたことを忘れて、僕のテーブルに寄って来る。女将さんは呆れている。
「うん、神隠しだって天狗の子に言われたよ」
「ふーしろー?」
「そう、知ってるの」
「友達だからね」
なるほど、確かに年は近そうに見える。
「ね、どこに住んでるの?東京?遊びに行っていい?」
ぐいぐいくるな。この子が何者なのか気になるけど間髪入れず質問責めにされているから聞くに聞けない。地元の子なんだろうけど、羽織っている黄色いアウターだけ今風なのが気になる。
「住んでるのは大阪。きみに遊びに来られるとちょっと困るかな〜、彼女がいるしね」
「大阪!いいな〜〜ユニバとか行くの?」
ユニバまで知ってるのか。
「あの、すごいね?いろいろ知ってて。ところで君って誰?」
きょとん顔の女の子の頭を後ろから撫でる手があった。
「外からのお客人か?世話をかけた。これはちと好奇心が強くてのう。女将、これのと同じ白玉ぜんざいを二つ。わしと客人に」
長い髪を垂らして、爺さんみたいにおっとり喋る優男だった。艶のある真っ黒な羽を背負って着流しと羽織を着こなしている。耳から赤い羽根が生えて、ストレートの髪を割っている。そういう飾りだろうか。
「大将〜、あたしおかわりが欲しい〜」
「なんじゃ、儂の妻になるなら考えんではないな」
「じゃあいらない」
「クック、嘘じゃ。たんと食べ」
息をするように妻になれとか言うからびっくりした。それにしても僕にも奢ってくれるなんて気前がいい。
「お主は現世の者らしいのう。すまぬ、少々聞き耳を立てた」
聞かれていたとは。僕は身の上を語った。
「災難じゃったな。でもわしは珍し物好きでのお。お客人は歓迎じゃよ」
女の子はユルキ、優男はホウエンと名乗った。ユルキは現世が気に入っていて、よく遊びに行くらしい。僕の身の上について、二人は楽しそうに聞いている。
「もう怖かったんですよお。ここからは帰れませんていわれるし、山の中の真っ暗なところに入ったら、雪山ってくらい冷たいし!」
「ここは日没で現世と切り離されるでの、外側は何もないんじゃ。そのままいたらどうなるか、わしも知らん」
「山の下には着かないんですか」
「うん、着かぬよ。いくら歩いてもあれは無い場所じゃから」
鳳炎は白玉を上品に食べた。そしておいしそうな顔をする。昨日こっちに取り残されてたあと、そのまま下山すればあの冷たい空間に入っていただろう。進めど進めど麓には着かないのに。風志朗くんと一緒じゃなかったら、今頃どうなっていたか。
「迷子があれば常世から帰らせるのが正解じゃ。常世には星見処という大きな御殿があってのう。常世で迷ったら水先案内をしてくれるそうな。一つか二つか…その星見処を目指してゆけば、帰れるかもしれんのう」
「そうなの?面白そう!着いていっていい?」
ユルキはおかわりの白玉ぜんざいをもう食べ終わってしまったらしい。相変わらずぐいぐい食いついてくる。僕が帰れるか帰れないかわからないのに、物見遊山じゃないんだぞ。
「天狗の仕事じゃろう。常世は怖いところだからのう、ユルキはお留守番じゃ。あぁ、怖いと言うても気にはするな。天狗の言うことを聞いておけば大丈夫じゃ」
「あたしもふーしろーの言うこと聞くもん!」
「本当かのう?童の頃はよく泣かしておったではないか。それに可愛い娘をそうそう外には出せんよ」
「ぷー」
「現世遊びも大概にせい」
鳳炎はユルキの髪を撫でた。色男がやるとなんでも様になるなあ。なんてぼんやり眺めていた。
「よく知ってるんですね」
「年の功ってやつじゃ。これでも三百年は生きておるからのう。あとは、行商人や琵琶法師をもてなして、話を聞かせてもらうんじゃよ」
三百年って冗談でしょ、と言いかけたとき、店に羽の生えた大柄な人たちが数人入ってきた。耳の飾り羽が鳳炎と一緒だ。仲間なのかもしれない。みんな前髪を上げてトサカみたいにしている。主張するタイプの方々のようだ。僕含め、大人しそうな客たちは縮こまっている。
「大将、そろそろ行きやしょ。まあたこんなところで油売ってるんですかい。嬢ちゃんも行くよ」
「なんじゃ、騒々しい。甘味くらい食べさせてくれてもよいではないか」
トサカ男の一人が僕に気づいて怖い顔をする。
「あんた、ナニモンだ?うちの大将と嬢ちゃんとなにしてンだ?」
怖い人とやりあったことがないから、ただただ恐ろしくて何も言えない。
「外からの客人じゃ。威嚇するな、失礼じゃぞ」
鳳炎の一声で、トサカ男はすんなり表情を緩める。
「そうかい、悪かったな兄さん」
ばたばたと鳳炎とトサカ男たちは去っていった。店の緊張感も消えた。
鳳炎がお詫びにお茶とみたらし団子を僕に注文したらしく、女将さんはそれを持ってきた。
「あんた、波山の女と喋っちゃダメだよ。波山の男は嫉妬深いんだ。女と話してるとこ見られたら喧嘩になるよ」
女将さんが耳打ちする。
「さっきのは波山の大将だよ。あんな遊び人のなりでここで一番のお偉いさんさ。…はあ、おっかない」
はあ、のところがちょっと甘ったるく感じた。
「大将、イケメンでしたね」
「いい男だろ。あたしももう百歳か二百歳若かったらねぇ」
「女将さん、おいくつなんですか!?」
「女に歳を聞くんじゃないよ!不躾な坊やだね!」
「さーせんっ!」
鳳炎にいっぱいごちそうになったので、腹ごなしに通りを散策することにした。初めは驚いたし、ここの人たちはおおいに変わってはいるが、僕に何かしてくる人はいないようだ。それに少しだが人間っぽい人もいる。言いつけどおり、街道を出なければ大丈夫だろう。
街道は山道に沿ってカーブして、両側に店や施設が並んでいる。いわゆる宿場町だ。道幅は一車線道路ほどで、馬や毛の長い牛、大八車やリヤカー、ときには原付がまばらに往来していた。彼らはどうやら行商人のようだ。まったりと商売相手を探す行商人たちの間を、トサカ男の飛脚が軽車両の速さで通り抜けていく。金銭のほかに物々交換もしているようだ。米と酒を交換。野菜と漬物を交換。多分地元の人だろう。
「あんた旅行中?海豹肉があるんだけど、何か交換しない?」
馬を牽いた商人風の男に声を掛けられる。
「いえ、迷子で」
「ああ、迷子ね。な~んだ。で、海豹食べる?脂のってるよ」
「アザラシ!?いやいや、僕は結構です…」
見ず知らずの行商人から買い物するほど僕は肝が据わってなかった。
「そう、じゃあいいや。お達者で」
商人はあっさり立ち去った。構える店も行商人たちも、街道全体が穏やかな雰囲気で、商売に対して必死さがない。それがなんだか心地よかった。
「現世」ではやらなきゃいけないことがあった。けど今は迷子になって異空間にいる。こうなってしまっては、仕方がない、仕方がない。僕は心細いようなすっきりしたような、浮ついた気持ちで通りを歩いた。
宿場町は数百メートル続いていた。宿場町の終わりで、道が川と合流して橋が架かっている。これ以上先は道も狭かったし、地元の人の生活の場といった感じだった。地元の人ということは、あの怖いトサカ男たちと人を食う鬼。民家や畑がぽつぽつと見えるが、本当にそんな人たちが生活してるのだろうか。
橋のたもとの、ふといい雰囲気を感じて覗いた路地に、二本しっぽの猫に構う着物の青年がいた。人だと思って声をかけようとして、青年の額に角があることに気づく。関わっちゃいけないと言われていた鬼だ。青年はこちらに気づいて振り向いた。人の顔に蛇の目をはめ込んだかのような鋭い顔をしていた。睨まれたカエルの僕を、青年が襲ってくることはなかった。青年は気まずそうに、あるいは関わらないで欲しいかのように猫に視線を戻して背を丸めた。いつ彼の機嫌が変わらないとも限らない。僕は来た道を引き返した。
ご飯処は、夜は飲み屋になるようだ。まだお腹は空いていない。暇を持て余してリュックを開くと、資格試験の問題集が目に入る。これに受かれば給料が上がると言われている。環境が違えば捗るかと思って、マーカーペン片手にぱらぱらとめくる。多分五分くらいやって、やはり飽きてしまう。もともとあまり気が進まなかったのだ。内容が入ってこない。
そうこうしているうちに日が落ちて、風志朗くんが帰ってきて問題集を覗き込む。本が珍しいのだという。
「何が書いてある本なのですか?」
「う~ん、パソコンの中身のこと。パソコンていうのは、…」
風志朗くんは携帯電話だけは知っていた。でも使い方はわからないらしい。それはきっとものすごく不便だけど、慌ただしさがなく幸せなのだろう。情報技術の発達していない国は幸せだなんて、いつかにそんな記事を携帯で見た。携帯は電池切れだ。
キヌさんの店は二階が宿になっているらしく、今晩はそこに泊まることになった。そして今夜が朱越での最後の夜となる。朱越は人のいない土地に来たのだという。今日一日見回りをして、風志朗くんがそう判断した。家から心ばかりの旅の荷物を持ってきていた。一緒に宿に泊まってくれるらしい。
ご飯の前に、一緒に街道の銭湯に行った。風志朗くんはお風呂が苦手らしくて、体を洗ったらすぐ出て行ってしまった。
宿に戻って、隣の布団でうとうとしている風志朗くんに話しかけた。
「僕、ここで暮らすのもアリだなって思うんだよ。それなら試験の勉強、しなくていいかな?」
「思い付きならやめたほうがいいですよ。常世は平井の体に合いません。もうしばらくは現世でがんばってください」
しばらくっていうのは無論、死んで常世に還るまでの「しばらく」なのだろう。
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