東の杜番

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東の杜番

二日目の目覚めはずいぶんと清々しいものだった。昨日は迷子になったショックが大きすぎたが、今日は現実を受け入れているからかもしれない。宿を出発し、風志朗くんと一緒に街道を東へ進む。宿場町を抜け、昨日は進まなかった橋を渡る。 「出発の前に、先輩に声をかけていきましょう。東の森は、私の先輩の縄張りなのです」 まるほど、こんもりとした巨大ブロッコリーみたいな森だ。遠目にも木が大きくて、地面に届く日の光が少ないのがわかる。街道は細くなって森の中に続いているようだ。そして極めつけは、森の入り口の意味深な祠や鳥居やしめ縄。やたらと置かれたそれらは人を拒んでいるように見えた。 「こんなところに住んでるの?先輩は何者なの?」 「私と一緒で、土地の番をしています。私は西側で、平井のような、人を里に返すお役目ですが…」 「平井のような」のところで心なしか恨めしい目をした気がする。僕が申し訳ない顔で手を合わせると、悪戯っぽく笑ってくれた。ときどき艶っぽいことをするのだこの子。 「先輩は朱越の東の杜番です。こちらは常世と面していますから、亡者がさまよって来ることがあるのです。先輩は、亡者が朱越や現世に来ないように追い払っているのですよ」 「へえ…」 中に入ると、外から見たよりも迫力がある。木の枝や葉で上までよく見えないし、光も入ってこない。高い柱が無数に並ぶ地下帝国のようでもあった。舗装も適当な石をところどころに敷き詰めただけの荒っぽいものになってくる。前方も見えづらくて、どこまで続くのかわからない。 「ほんとにいるのぉ?もう道ないけど?」 僕たちは巨大な幹の間を歩いていた。地面は自然の地形や木の根っこ、石とか岩とかででこぼこしている。日が入らないからか、下草はほとんどなく、腐葉土か、滑りやすい苔が地面を覆っている。 「さっき街道を逸れましたから。先輩は呼び鈴をしたら出てきてくれるような人じゃないんです」 「でも道くらいあってもいいんじゃない?」 「先輩は、道を使いませんから」 「はあ…」 その理由はすぐにわかった。 「深山先輩、私はこの平井を現世に送り届けてきます。しばらく留守にします」 一本の木に向かって、風志朗くんが話しかけている。先輩は…木なのか…? 「平井も挨拶してください」 「へ!?すいません、あの、ミヤマさん?僕、迷子で。ご迷惑おかけします」 僕は目の前の木に向かって頭を下げた。 「平井、先輩は上ですよ」 「えっ!?」 葉っぱが多くてよく分からないが、風志朗くんの話しかけるあたりに「先輩」がいるらしい。 「……ヒトぉ?」 返事がなく、そわそわしだしたあたりで上から声が降ってきた。 「さっさとそれ、現世に捨てて戻ってこい。わーは西の面倒まで見たくない」 「捨てるんじゃないですよ、送り届けないと。西はしばらく人のいない土地です」 「ならいい」 先輩は木から降りてきた。僕は勝手に、赤ら顔で鼻の長い、おなじみの天狗を想像していた。骨折じゃすまない高さの木から飛び降りてきたのは、風志朗くんより小さくて、しかし異様に高い下駄を履いた人だった。 「だ、大丈夫ですか!?」 僕がとっさにそう言い始める前に、先輩は階段でも降りるように着地した。地面から来るはずの衝撃は全くなかった。下駄のせいで少し視線が高い先輩が、僕の胸ぐらを掴んで服の中に何か突っ込んだ。硬い爪とざらざらの皮膚が僕の地肌を引っ掻いていった。 「持ってろ、返さんでいい。もうここに来るな」 「ひぇ、なっ、何ですかこれは?」 先輩は風志朗くんのほうに顔だけ向けた。 「北東、ここから、十時の方角。観測所がある。あとのことは、そこで聞け」 「私には見えません…ということは、遠いのですね。ありがとうございます」 先輩と風志朗くんは森の奥を見ていた。いや、もっと遠くかもしれない。大きな木と暗闇があるだけで、僕には何も見えない。 「ホッホ、うやまへ。シラズガハラを越えたら坊やにも見える」 「せんぱーい?何が見えるんですか?」 先輩は僕の問いは無視して木の上に帰っていった。そして長い着物をはためかせてどこかへ飛んでいって、戻ってこなかった。 「ごめんなさい、先輩は人とあまり関わりたくないのです」 代わりに風志朗くんが謝ってくれた。苦労するたちだなあ。 「亡者の中には朱越の者もいるのです。生前に仲良くしていては、手心を加えてしまうでしょう?」 森の入り口で見た物々しい鳥居や祠は、拒否の意思なのだろう。ここでは身内が幽霊になるのだ。 「ひとまず目的地が決まりましたよ。先輩が千里眼で見ていたのは観測所です。星見処のこと、大将に聞いたでしょう?」 「その話したっけ?何で知ってるの?」 「私も朱越の中くらいなら、千里眼で見通せるのですよ」 「やたらなことはできないなあ」 「それから先輩がくれたそれ、お守り…みたいなものですから、肌につけて持っていてください」 先輩の不器用なはなむけ、ありがたく頂戴しよう…と、先輩が僕の服につっこんだものを取り出してみたけどこれは…ゴ、ゴミに見えるんだけど…?くしゃくしゃのゴミを広げると、びっしりと字が書いてあった。 「それは亡者から剥ぎ取った記憶ですね。うわあ、これは…たくさん書いてありますね!余程の未練があったのですね。呪いにも使えそうですよ!」 「なにそれ、こわ!!」 「さまよってきた亡者から、そのお札に記憶や未練を移すと、成仏させられるそうですよ」 つまり、悪霊退散の副産物のようだ。 「うえ、やだよ~、そんなの持ちたくないよ~」 「こら!ちゃんとつけてください!平井より先に常世に消えてくれるんですから、ありがたいお札なんですよ!」 僕が地面に落としたお札を、風志朗くんが拾い上げてやっぱり僕の服の中に放り込んだ。 「消える?僕より先に?」 どういうことなのだろう。 「脅かしたいわけではありませんが、平井…よくよく気をつけてください。常世は世を縛る理がないとお話ししました。それは己が溶け出して、他が入ってくるということです。心身は徐々に崩れていきます」 「なにそれ、死ぬってこと?」 風志朗くんは説明する。 ー常世は生も死も曖昧です。平井がばらばらになり、他と混ざるのです。平井と、平井以外との境界がなくなる、とも言えます。それが死だと思うなら、死ぬということです。 僕が消えてしまうのなら、それは死ぬってことじゃなかろうか。哲学は得意じゃないけど。 「平井は大人なので多少はましですよ。それにこのお札を張っておけば、まずはこのお札の未練が溶けますから、平井はあまり溶けずに済みます」 「やだなあ怖いな~…」 とはいえ、僕より年下の風志朗くんが、僕のために行くと言ってくれているのだ。僕が尻込みしていては格好がつかない。 「ひとまず観測所です。そこに行かないことには、どこにいけば平成の熊野に戻れるか、わかりませんから」 「わかった…よろしくおねがいします!」 「いいお返事です!では、参りましょう」 森を抜けたら、平原とピンク色の空が広がっていた。 緩やかな起伏が永遠に続きそうなだだっ広い原っぱだ。ここから先は頭がぼんやりするかもしれない、と言われた。その通りにときどき眠気がやってきた。起きる前とか、寝る前のあの感じだ。 「ここは不知原(しらずがはら)といいます。朱越と常世の間にある、なんにもない広い野原です」 まだ頭がはっきりしているとき、風志朗くんが言った。風志朗くんは千里眼で遠くまで見えるのだろうが、僕には原っぱに次ぐ原っぱしか見えない。珍しさにはしゃいだのは最初だけだ。開放的ではあるが、心細さが強い。風でも吹いてくれたら気分も晴れそうなものを、ここは空気がしんと動かないのだ。 何度も眠気と覚醒を繰り返したころ、カシオの腕時計を見ると午後四時を表示していた。日のない空は時間が停止しているかのようだ。変わらないというのは随分と気がおかしくなってくるものだった。カシオの針だけが頼りだ。 「眠いですか?そろそろ覚めると思いますよ」 夢の中でそう励まされた気がした。
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