観測所

1/1
前へ
/9ページ
次へ

観測所

空気がひんやりして、頭と目が冴えてきた。いつの間にか木のある場所を歩いていた。土が湿っている。雨が降っていた。おなかも空いてきた。 「ここ、どこ?」 「もうすぐ観測所ですよ」 風志朗くんは雨を嫌がって羽をぷるぷるさせる。傘を貸してあげた。 大きな御殿と聞いていた観測所は、大きな天文台だった。森の中に現れた独特な白くて丸いドーム。古びてツタや苔が生えているが壊れてはいないようだ。でも人がいるかは怪しい。 「ごめんください。朱越の杜番です。迷子が出たので道案内をお願いします」 錆びた扉が開いて、出てきたのは着物に白衣を合わせた人だ。古めかしいタイプの丸眼鏡をしている。 「あらどうも、ご苦労様。迷子はどちら?」 「平井、詳しくお話してください。平井のほうが詳しいですから」 「えっと…」 中へ通され、僕は自分が迷子になった状況を話した。眼鏡の人は、梛橋(なぎはし)観測所のカミヤと名乗った。 「ここには私と所長だけだよ。週に一度、商人に寄ってもらってるけど。あとはたまに旅行者とか、杜番が訪ねてくる」 くたくたのソファの上で横になっている大きな犬を、上谷さんは所長だと言った。風志朗くんは所長に恭しく挨拶している。所長はワウ、と鳴く。巨大な施設に一人と一匹、寂しいだろうか、気ままだろうか。 「朱越街道は三日前に平成の熊野だね。ちょうどひと月と…その前はどこ?周期はどうかな?」 「その前は明治の四国でした。確か、ひと月より短かったです。朱越は夏には渡りが多くなります」 上谷さんは何やらノートに書きつけている。 「春から夏に渡りが増える土地は多いよ」 二人は情報交換をしているようだが、僕にはよくわからない話だった。どうやら風志朗くんは新米らしく、上谷さんの話を感心して聞いている。僕は出されたお茶を飲みながら、部屋を見回した。外があんなだから中も荒れているのかと思ったが、一通りの生活ができるようになっているらしい。少しレトロな現代風といった趣で、興味深いものはないけど整頓されている。 所長が僕のところに来て匂いを嗅いだ。やたら大きいけど、これは何犬なんだろう。見たことないけど雑種かな。 「所長~、僕、帰れますかね?」 頭をなでると、所長は三角の耳を伏せて僕を見つめた。大きいけど怖い感じはしなくて、賢そうなワンちゃんだ。 「あなたはずいぶんマイペースだね。迷子は大抵、泣きながらここへ来るのだけど」 上谷さんはお茶のおかわりを淹れてくれた。所長にお手を試みている僕を呆れて見ている。 「えっ、その方がいいですかね?」 「迷子が泣き喚くとこっちも大変だから、あなたみたいな方が助かる。余裕があるなら、自分がどういう状況に置かれているか聞いておくといいかもしれないよ」 「ハイ」 「よろしい」 上谷さんは大きな地図を机に広げた。日本地図が描かれていて、何やら細かく書き込みがある。使いこまれて丸めた跡はすっかり取れている。上谷さんが福島のあたりを指さす。梛橋観測所と書かれている。 「ここは会津の山の中だよ。ずっと変わらずここにある」 「熊野からずいぶん遠くに来たな。でも帰れない距離じゃないですよ。近くに国道くらいあるでしょ」 「そう簡単じゃないよ。ここから出た現世は15世紀だから。平井君は、いわゆるタイムスリップになっちゃうわけ」 僕はため息をついた。前途多難である。 「質問です!観測所って何を観測してるの?」 「境の土地が現世を渡った記録をつけるのが役目だね。梛橋の分はもちろん、こうやって杜番が来れば話を聞く。ここは周りの境の土地からアクセスがいいし、現世で動かない土地だから都合がいいの」 「上の天文台は?」 「現世の暦を読んでるよ。星を見て時間を知る、伝統的な方法」 朱越で星見処と呼ばれていたことを思い出した。 「では、平井君の帰り道を見つけようか。2000年以降かあ…うん、ここに出ればよさそうだ。ここから逆算すると…」 上谷さんは壁に貼られた大きな地図と、巻物みたいな資料を見比べている。集中しているようだから風志朗くんに聞いてみる。 「あれ何?」 「壁のは常世の地図です。上谷が持っているのは、境の土地の年表でしょう」 邪魔をしないように、風志朗くんと地図を眺めた。朱越と梛橋はほんの隣同士に書かれている。ここまで半日歩いたというのに。 上谷さんがよし、とこちらを振り返る。彼女は常世の地図の一点を指さしている。 「君たち、稲田関(いなだせき)を目指すといい。行き方だが、まずはここから現世に出て、古渡(ふるわたり)トンネルを抜けてもらう」 上谷さんは日本地図に目を落とし、爪の先で梛橋観測所のすぐ隣の「古渡トンネル」をつつく。それから常世の地図の一点に移動する。 「トンネルを抜けると常世のここに出るはずだ。常世から次の境の土地へ行って……」 上谷さんの指が日本地図、年表、常世の地図を飛び回る。僕は頭をひねり、風志朗くんは納得顔をしている。 「いろいろ説明したけど、要は境の土地から現世と常世を行ったり来たりして、君が迷子になったのと近い場所に出ればいいってことだ。結局常世の者に連れってってもらわなきゃまずたどり着けやしない。私ら人間には境の土地を嗅ぎ分ける能力がないからね」 絵の中の人間には、絵の外のことがわからない。上谷さんはちょっと悲しそうに言う。所長がちらっとこちらを見る。 「というわけだから、稲田関までは所長が案内してくれる。明日出発できそうかい?」 もう遅いからと、今日は観測所に泊まらせてもらうことになった。来客用の簡易な部屋があった。風志朗くんは柔らかい布団が落ち着かない様子で、夜中に近くの木の上に行って眠ったようだ。 翌朝、雨は止んでいた。 「ま、いよいよだめだったらここで雇ってあげよう。男手があったら助かるし」 「冗談はやめてくださいよ~」 「お世話になりました」 上谷さんは笑って手を振っている。所長は少し先で待っている。上谷さんにお別れを言いながら、所長を追って森へ入った。 少し進むと、舗装された道に出た。レンガの道の左右に無数のトンネルが暗く口を開け、ひんやりした空気を吐いている。電車が通るような大きいものから、かがまないと通れなさそうな小さいものまで、大きさはさまざまだ。木やツタに浸食されて、口を塞がれているものもある。近代的な施設なんだろうが、何の目的で作られたのか見当がつかない。 「なんだろうここ…古代…いや…現代遺跡?」 「わかりませんが…境の土地にこのような建物があるのは珍しいですね」 一つのトンネルの前で、所長は止まった。電車サイズのトンネルで、「古渡トンネル」と書かれている。 「上谷さんが言ってたやつね」 所長は真っ暗な古渡トンネルの中に入ってしまった。 「所長~~待って~~見えるんですかぁ?」 まだ入り口だから所長の後ろ姿がぼやっと見えているが、これ以上中に入ったら完全に闇だ。所長を見失っても困るし、仕方なしに入ろうとした。服を掴まれて振り返ると、風志朗くんが見たことない怯えた顔をしていた。 「どうしたの」 「……」 「暗いの怖い?」 「……暗いし狭い……苦手なんです」 「確かにおっかないな。別の経路がないかな。所長~~~!」 「いえ、平井……ここしか、ないので……仕方ないです。がんばります…」 「狭いのは仕方ないけど……せめて懐中電灯つけて入ろうか」 明かりをつけてトンネルに入った。いつも先導してくれた風志朗くんが、この時ばかりは後ろに隠れるようについてきた。中は少し寒い。壁も地面もコンクリートだ。入り口近くは昨日の雨が入り込んで水たまりができている。特にかわったところはないが、前方だけはいくら照らしてみても、向こう側が見えない。途中で曲がっているのか、かなり長いトンネルなのか。振り返ると入り口の明かりがだいぶ小さく見えていた。 「所長~~いますか~~?」 奥から所長の吠える声が反響してきた。そんなに遠くではなさそうだ。 「何かの巣穴っぽいな。食べられちゃったりして」 「やめてくださいよ~」 風志朗くんが泣きそうになりなっている。僕は逆に冷静になってきた。肝試しで周りが怖がっていると落ち着いてくるタイプなのだ。 進むにつれ、地面のところどころに線路の跡があるのに気が付いた。線路は壊れているから、電車が通ることはないはずだ。はて、入り口には電車が通るような雰囲気はなかったが。 「おお?見て風志朗くん、出口っぽいよ!」 風志朗くんを励ましていたら、いつの間にか前方に光が見えていた。所長の声が光の方から聞こえてきた。 そこは円い庭だった。立ち入る人のいない公園のように、割れた石畳の間から雑草が生えて、小さな花を咲かせている。庭の周りには同じようなトンネルがいくつも、無言で口を開けている。異様な光景だ。 所長が僕らを労うように足元にまとわりついて、トンネルで冷えた体を温めてくれた。風志朗くんが所長に丁寧に謝っている。 「変な場所だな」 「ここは中継地点ですねぇ。まだ先があるようです。もう狭いところは嫌なのですが…どの道なのでしょう」 所長が足元から離れて、トンネルの一つに進む。先ほどよりもずいぶん小さい。天井は2mくらいだろう。風志朗くんはさらに狭い場所に半泣きになっている。大人の僕だってこんな狭くて真っ暗な場所は嫌なのだが、やはりトンネルの向こうは暗く、出口は見えない。所長が見かねて、今度は懐中電灯の届く範囲で先導してくれた。振り返っても入り口の光が見えなくなった頃、花の匂いがして、前方に出口が現れた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加