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常世の淵
「平井、面白いものが見えますよ」
風志朗くんが空を指さす。ひだひだの、妙な柄の雲が斜めに横切っていた。ほかは何もない、ピンク色の空だ。
「へんな…雲?」
「万年鯨のおなかです」
「マンネンクジラ?」
ひだひだは端が見えないくらい、空いっぱいに広がっていた。これすべてがクジラのおなかなのか?よく見るとひだひだには何対もひれがついている。
「はい、空に棲む、大きな白いくじらです。大きすぎて、たいてい見かけるのはおなかだけですけど」
振り返っても万年鯨のおなかはどこまでも続いていて、頭も尻尾も見えない。
「えっ!?これクジラなの?降りてきたりしないよね?」
大きすぎてどのくらいの高さにいるのかわからないが、ちょっとでも地上におなかを擦り付けたら僕たちなどぷちっと潰れてしまう。
「当たったら、平井などすぐ溶けちゃいますよ。あれは万年鯨というだけあって長生きです。大きいほどたくさん生きているんですよ。心得のないものは吸い込まれてしまいます」
「やだよ〜怖いこと言わないでよ」
「そうそうここまでは、降りてこないと思いますよ。でもあんなに大きいのは珍しいです」
「ふ〜ん、今日はいいことあるかなあ」
「そういうものでもないですけど」
万年鯨を見てから、常世の空にいろいろな生き物が見え出した。頭と胴と脚が外れてしまっている犬や、四つ足のなにかの骨。紙のようにひらべったい鳥の群れ。どれも重力の外にいるようで、羽ばたきもせず上空に漂っている。魚のようだなと思った。
「どうやって浮いてるんだろう。浮きでも持ってるのかね」
「あれらは溶けているので、年中地面にくっついていられないんですよ。常世だけにあるもので、私や平井とは性質が違うのです」
風志朗くんはふわふわとは緩慢なはばたきだけで飛んでいる。僕とこの子もそこそこ違う生き物だなあと思った。
「あ、牛がいる」
道端の木に毛の長い牛が繋がれていた。牛の周囲は草がなくなっていた。牛はまだ草のあるところに口を持っていきたくて、首の縄を目一杯に伸ばしていた。少しやつれているようだが、縄を切ろうとはしない。
「どうしたんだろ、飼い主とはぐれたのかな?」
荷を背負っているから、朱越で見かけたのと同じような行商人の牛なのだろう。
「繋がれていますから、迷子ではないでしょうね。お腹が空くくらい元気なようですし、荷物もありますから捨てられたわけでもないでしょう」
草をむしって牛の口元に持っていく。長い舌で舐め取られる。手ごと持っていかれるかと思った。僕なんかが草を集めたって埒があかない。風志朗くんが牛の縄を解こうとして手こずっている。リュックの中のサバイバルナイフで切ってあげた。自由になった牛は夢中で草を食べ始めた。
近くに簡易のテントと焚き火の跡があった。焚き火には肉をさした棒切れが立てかけられていて、これから食べようとしていたかのようだ。
「飼い主いないねえ」
周囲に声をかけたけど、飼い主らしき人は現れない。
「きっとお前の主人は溶けてしまったんですね。よしよし」
風志朗くんは牛にまたがってその背中を撫でている。牛は草に夢中で気に留めていないようだ。
「荷物ごともらってしまいましょう」
「勝手にもらっていいのかなあ」
「いいんですよ。常世ではよくあることです。溶けた人のものは、生きている人がもらっていいんです。この子はよく慣れていますし、こんなに荷物を背負って働き者です。ひとりぼっちで常世にいるより、これからも人と一緒のほうが幸せでしょう」
牛が首を振っただけで風志朗くんなんて薙ぎ倒されそうだけど、牛は人に慣れていて大人しいみたいだ。
僕が縄を引くに従い、牛は従順に着いてきた。
風志朗くんは歩くのに疲れると飛び、飛ぶのにも疲れると牛の上に乗った。牛は乗られようが乗られまいが変わらないという顔で黙々と歩いた。
常世にいる間は強弱はあれ常に夢を見ているような感覚があった。常世の影響が少ないとき、風志朗くんは僕や現世のことをしきりに知りたがった。杜番をしているからなかなか外に出られないのだという。都市の文化を珍しがる様子が田舎の親戚の子みたいで可愛かった。
「大阪ってどんなところですか?」
「そおだね、ビルがいっぱい立ってる。都会だよ」
「びるとは…?」
「こう、大きくて高くて四角い建物。家だったり、会社だったりするよ」
「人は飛べないのでしょう?どうやって外へ出るのですか?」
「飛んで出られたら便利よね。僕らは飛べないからエレベータかな」
「えれべーたとは?」
こんな感じで都市のテクノロジーを知らないのが新鮮だ。
「平井も、びるに住んでいるのですか?えれべーたに乗るのですか?」
「まあビルといえなくもないかな。九階建ての六階東向きの部屋。もちろんエレベータ付き。最寄りの地下鉄まで徒歩七分。ホームまでは九分。職場まで三十分のまずまずな物件だよ」
「なんと面妖な」
数日前までそんな繰り返しをしていたのだ。毎日楽しいかと言われればそんなことはないが、全てを投げ出してこっちの世界で生きるには、あのワンルームに思い残したことが多すぎる。
「高校までは田舎暮らしだったけど、案外慣れちゃうんだよね。引っ越したてはよく母さんに電話してたんだ。都市は確かに面妖だよね。でもここに比べたらわけないよ」
常世の地理は現世よりはるかに難解のようだ。なにしろ常世ではものが急に現れたり消えたりするのだ。近い距離は遠いし、遠い距離は近い。うまく歩けないと思ったら急に浮いたり飛んだり出来た。知らない家の天井を歩いたりもした。現世だと言われてみる景色も、山の中かせいぜい小さな集落の中で、僕の見覚えのあるものではなかった。
「それぞれ得意な場所があるということなのですよ。常世を歩くには場所の層が読めないといけないんです。平井にはたぶん難しいですから、はぐれないでくださいね」
「乗る電車間違えちゃうみたいな感じ?」
「たぶん、そんな感じです」
「梅田駅だね」
「なんですかそれ?」
呪文を唱えないと通れない鳥居や、目を瞑らないと進めない橋。白線だけを踏まないと渡れない横断歩道。いくつものローカルルールをかいくぐって、僕たちは常世を歩いた。
「狐に化かされてるのかね?」
「ふふ、狐だなんて恐れ多い。私はカラスですよ、平井」
「それもそっかあ」
常世は広いが、人が通れるように開拓された道はそう多くはないようだ。だからたまに何かとすれ違う。風志朗くんはそれが見えるより先に気づいて、それがすれ違っていいものか否か、注意深く見ているようだった。たまに道を逸れようとか、やり過ごそうということがあった。中にはラッキーな出会いもあった。商人のジープを見つけた僕たちは、風志朗くんの提案でちゃっかりヒッチハイクした。迷子の牛は、ここで商人に渡すことにした。
「牛もありがたいけど、天狗に会えるとは、ツイてるね。俺も一緒にいてくれると助かるわ」
天狗の千里眼は旅人に重宝されているらしい。障害物があっても時空が歪んでいても見渡せる視界なのだ。旅においてこんなに便利なものはない。と言っても、風志朗くんは目的地と道中のいくつかの助言をし、そのあとすぐに寝てしまった。昼も夜もここにはないけど、生きている限り眠くなるのだ。それにいつも道中で気を張っているみたいだから、疲れてしまうのも仕方ないのだろう。
ジープのおじさんは気さくな人で、快く僕たちを乗せてくれたしいろいろ話しかけてきた。後続車も対向車も歩行者もいないので、運転は道に沿うだけの適当なもの。ずいぶんとお気楽なものだ。
「兄ちゃん、常世へ何しに?自分探し?」
「僕、その、人間なんです。迷子で。ここにあんまり長くいるとよくないんだそうです」
「そうだ、生身の人間が常世に長くいちゃいけない。けど行商人にとってこんなにいい場所はない。いろんなところに商売に行けるからな。俺も昨日だか、一昨日だか観測所で道を聞いてな。兄ちゃんたちと近いところに商売に行く途中だよ。現世でばったり会ったりしてな!」
おじさんも人間なのだそうだ。行商人の仲間には、常世ではぐれてそれっきりだった人や、凶暴な生き物に食べられた人もいると、おじさんは語った。一晩で常世に溶けてしまう人もたまにいるらしい。
「兄ちゃんは、…最悪だよ、最悪元の場所に戻れないかもしれん。それでも常世に長居するより、現世にいたほうが絶対に、いい。どうしようもなくなっても、どこかで抜け道を見つけたらそこから現世へ行っちまいなよ」
―いよいよだめだったらここで雇ってあげよう―
別れ際の上谷さんの言葉が思い出される。上谷さんは半分本気で言ってくれたのかもしれない。ジープの揺れに眠気を誘われ、僕もいつの間にか眠ってしまった。
「おい兄ちゃん、起きな。天狗の坊やが言ってた四つ辻だ。坊やは、まだ寝てるかい」
「すいません、寝ちゃってた」
「いいのよ、俺は常世へ入って長いから、時間がずれてんだ」
声をかけたが、風志朗くんは起きない。
「起こすのも可哀想ですし、すみません。このままお別れさせてください」
牛はおじさんに渡してしまうから、僕が背負って受け取った。ジープの後ろの席から、牛が名残惜しそうに風志朗くんに顔を寄せた。
「餞別だ。常世に溶けないためには、現世の水を飲んだほうがいい」
おじさんは乾パンと水を分けてくれた。
「俺も先を急ぐのでね。悪いがここらでさよならとしよう。もう会うことはないと思うが、達者でな」
「ありがとうございました!」
ジープは四つ辻を曲がり、おじさんのサムズアップと、牛の鳴き声が遠ざかった。四つ辻には僕と、ぐっすりおやすみする風志朗くんが残された。
空は常に朝焼けのようなピンク色だ。しかし僕が迷う前からつけているカシオの針は、午前二時を示している。つまり僕の体はこの時間を過ごしていることになる。
近場の木の下に毛布を敷いて、風志朗くんを寝かせよう。この子はだいぶ、寝相が変なんだけどどう寝かせたらいいんだろうか。仰向けで寝かせたら苦しそうにしたから横向きに置いてみた。すぐに寝がえりをうってうずくまりスタイルになる。絶対苦しいと思うんだけど、すやすや寝ているからまあいっか。出会った夜も、風志朗くんはこの姿勢で寝ていたっけ。
風志朗くんは最初から変わらず僕を呼び捨てにするが、別に嫌ではなかった。場所も時も夢も現もでたらめな迷子の旅で、僕は身分も肩書も歴史も繋がりも剥奪されている。僕が知っているのは風志朗くんだけだし、風志朗くんだけが僕が誰なのかを知ってくれていた。僕が僕の存在を確認できるのは、この天狗しかいないわけだ。
「無事に帰れたら、ぜひお礼させて。大阪はタコ焼きとかお好み焼きとか、粉物が名物なんだ。近所にね、大粒たこ焼きのお店があるんだよ。マヨネーズとネギたっぷりが美味しいの」
小さな頭を撫でてみたけど、柄じゃないからすぐやめた。僕も寝なおすことにした。
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