熊野

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熊野

交番のおまわりさんによれば、平井千秋は去年の十月に、熊野の山に行くと友人に言って行方不明になった。最後に僕を目撃したのは下山途中にすれ違ったクライマーだったそうだ。山を一週間捜索したが、僕の痕跡はなかった。家族と恋人はずっと悲しんで正月どころではなかったという。 僕が登った山のふもとにある交番に、自分の足でひょっこり帰ってきたのは翌年の一月、日の入り前。僕はちょっと脱水していたけど無傷で、行方不明になったときと同じ格好だったという。 僕がなぜ三か月も生きていられたのか、捜索したのになぜ見つからなかったのか、結局わからずじまいだった。僕を診た医者は、僕があまりに問題がないから、山の中で仮死状態だったのではないかと言った。警察は誘拐事件だったのではないかとも言った。当の僕は、山で何をしていたのか覚えていない。数日分の記憶が抜けている感覚だ。でも僕は僕の記憶がなくて行方不明だった時間、確かに活動していたのだと思う。僕のリュックに入っていた試験の参考書は、僕の記憶のないところに栞が挟まって、マーカーが引いてあった。 交番に来る直前まで誰かと一緒にいた気がするのに、僕はそれが誰なのか思い出せない。きっとその人と、長い時間を一緒に過ごしたのに。あの人は誘拐犯だったのか、助けてくれた恩人だったのか、それとも僕の見た夢だったのだろうか。 僕の中に知らない誰かの記憶が残った。代わりに一つの秋の記憶がない。双眼鏡を覗くと、今もあの山で忘れた記憶を懐かしく思うのだ。
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