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熊野?
「みぃつけた」
視界も足場も悪い山の中、着物の少年はまっすぐこちらに歩いてくる。
「だめですよお、こんな時間まで隠れんぼしては。もっと早く見つかってくれればよかったのに」
穏やかに僕に声をかける少年は、人のフリをしている鳥なのだ。僕は一人で山登りに来ていて、たまたま双眼鏡でそれを見てしまった。
今日は熊野に登山に来ていて、特に紅葉が見事な場所があった。進む予定の登山ルートからは逸れるが、急ぐわけでもないし、新しいカメラを買ったこともあって、少しだけ見に行こうと思ったのだ。幸いそちらへも、登山道が続いているようだった。
果たして紅葉は実に満足で、僕のカメラのメモリは潤った。下には青い川も流れていて、そのコントラストに見惚れた。ふと、その西日の差した河原に人影を見つけた。着物姿の人が、河原の流木のそばでくつろいでいた。山に一人、きょうび珍しい着物の装い、というだけで目立つが、一番おかしなのは背中に羽のようなものが生えている点だった。見間違いか、作り物かと思われた羽は、バタバタと羽ばたいて着物の裾を揺らした。鳥だと思った。双眼鏡でそれを捉えた次の瞬間、双眼鏡越しに鳥と目があった。かなり遠くに、しかも下になる位置にいたのに、鳥は僕の方へ飛んできた。妖怪だ、UMAだ。見ちゃダメなやつだ。姿を見られたから僕を殺しに来るんだ。僕は見晴らしのいい場所にいたから、走って山の中の隠れた。鳥には見つからずに済んだが、辺りは暗くなってきた。荷物も無くしたし道もわからなくなった。鳥の妖怪が一匹いたのだから、もしかすると夜になったらもっとたくさん妖怪が出てくるかもしれない。やだやだこんな山の中で、しかも妖怪に食われて死ぬなんてあんまりだ。ほとほと困った頃、とうとう僕は羽を仕舞った鳥の人に見つかったわけだ。
「うあっ……」
こういう時どうしたらいいんだっけ。目を合わせず背中を向けずゆっくり後退?それは熊か。少年は僕に話しかけてるし、血相を変えて僕を捜していたし、どこかへ行ってくれるとは思えない。
「ええと、怖がらないでください。本当の姿を見られてしまいましたが、私はあなたを傷つけません」
本当か?じゃあなんで僕を捜していたのだろう。
「その木の棒は、下ろしていただけたらありがたいのですが。私とて怖いですよ」
本当に怖いみたいに身をすくませる。
「き、君は何…?鳥なの?なんで、僕を追いかけてきたの…」
「ご明察。私は鳥の妖怪です。ですが先から申しておりますように害意はありません」
この人は丸腰だし、そんなに強そうではない。戦ったら勝てそうだ。
「驚かせてしまって申し訳ありません。追いかけたのは、あなたが迷子になりそうだったからです」
その人は空を見上げて、気の毒そうな顔をした。夜の虫が鳴いている。
「残念ですが、もう迷子になってしまいました」
「私は風志朗と申します。天狗です。そして、ここはシュエツという場所です」
少年はふうしろうくんというらしい。よく見れば修行者のような着物で高下駄、背中に翼があるそのいでたちはまさしく天狗だった。
「僕、平井です。ここ、シュエツ?って言うんだ、熊野にそんな土地があったとは」
「平井は今、少々厄介なことになっているんですよ。まずは…シュエツは熊野の土地ではありません」
どう見ても年下の風志朗くんにいきなり呼び捨てにされてびっくりした。そのあとの話はあまり入ってこなかった。クマノノトチデハアリマセン。
「どういうこと?」
「ご自分の目で見たほうが早いかと…」
登山道を少し戻ったところに案内される。途中、逃げているときに落とした荷物を拾った。ラッキーだ。
風志朗くんに促されて天を見る。暗く深く、澄んだ空気に満天の星が散っている。夜までいるつもりはなかったが、図らずもいいものが見られた。
「これは、どういう現象?」
しかしその星空は、僕達のちょうど真上辺りで終わっていた。半分から向こう側は星がなく、よく見ると空の色が余計に暗い。その境界線は揺らいでいた。
「空の色が違っているでしょう?さっきまで、この先は熊野だったのですが、向こうにはもう行けないんです。明日には行けるようになりますが、そこはもう熊野ではないでしょう」
そんなアホな。そう思って空が暗いほうに進んでみる。少し歩くと明らかに道の先が暗い。夜の山だから暗いとかじゃなく、宇宙みたいに完全に暗いのだ。途切れた道の向こう側にそろりと足を突っ込んでみる。暗い場所に入った瞬間、冷凍庫みたいに寒かった。そして生理的な気持ち悪さがあった。
「それ以上進まないほうがいいですよ」
もう一歩進もうとしたとき、風志朗くんの声がやけに遠くから、しかもいろんな方向から聞こえた。声の場所を捜していると、今度は後ろから手を引かれて、元の場所に連れ戻された。
「どう…なっているの…?」
奪われた体温が戻らず身震いが止まらない。
「神隠しにあったのです。平井は今、そういう身の上です」
「きみがやったの?!」
寒さと驚きで声が荒くなってしまう。
「…私は何もしていません」
風志朗くんは考えるように黒目がちな目を泳がせた。そして沈んだ声で言う。
「私が平井を見つけられなかったから、平井はこちらに取り残されてしまったんです」
今夜は野宿かと思われたが、シュエツには泊まれる家があるらしい。ここが自分の家だという古めかしい家に着き、風志朗くんは囲炉裏に火を入れてくれた。冷えた体が温まった。木造の家の中は、自然の趣というか、野性味があるというか、そういう匂いがした。
「今日は遅いですから、もう寝ましょう。どこかに行ったらだめですよ。おやすみなさい」
最低限、トイレはどことか布団はどれとか教えてくれると、風志朗くんは体を丸めて座布団にうずくまって寝てしまった。自前の羽根布団で寒くないみたいだ。カシオの腕時計のバックライトをつける。午後七時。本当なら予約した宿で温泉に浸かっている頃だ。携帯を確認したが圏外だった。どうにか電波が入りそうな場所を探してみたが無駄だった。山の中だからなのか、ここが本当に異空間だからなのかはわからない。
どこかに行ったらだめ、とは言うが、この家には鍵も掛かっていない。だから逃げようと思えば逃げられるのだが、さっき味わった冷たい空間からして、逃げる、というか今すぐ山を下りることはできないのだと思う。そういえばお腹がすいている。リュックの中に携帯食があったはずだ。カロリーメイトとお茶を飲んでお腹が落ち着いたら、ひとまずやることはない。歯磨きは宿に預けた荷物の中だからあきらめた。暗い中、外のトイレに行かなきゃいけないのは参った。真っ暗だから年甲斐もなく怖い。でも風志朗くんを起こすのは大人として矜持が許さなかったから、僕は本当に頑張った。昔話ではここで寝たら山姥に食われるところだけど、ぐっすりおやすみしている風志朗くんに襲われる心配はなさそうだし、家の周りはあまりに静かだ。曰くもう熊野じゃないどこかの土地に迷い込んでしまい、温泉宿の代わりにボロ屋で寝泊まりすることになったわけで。不安で仕方なくなってしまいそうなものなのに、僕は登山の疲れもあってすぐに寝付いてしまった。呑気に家の近所の夢を見たりして。
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