伊澤ちはる

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伊澤ちはる

死んだ女生徒は物語映えするような美少女ではなかった。ただ、髪だけは黒く染め抜いた絹糸のように美しかった。特に濡れたときの艶は見事なもので、さながら上等の一枚布であった。 彼女がこの沼で死んだのも、今夜のような春の月無夜のことであった。 日付はとうに変わっている。だのに何処からか、こんな侘しい場所にそろそろと人が集うのである。よく見るとそれはどれも十代と思しき少女たちだ。 ひとり、ふたり。 三人(みたり)四人(よたり)……と、彼女たちは徐々に数を増し、やがて沼のほとりをぴたりと囲うのである。聴こえるのは踏み分ける草の音だけだ。 音もないのに暫くざわざわと賑やかげだったが、いつの間にやら少女らは忽然と姿を消していた。 * 春には、綻ぶ。 固く閉じていた蕾も木の芽も、頑固に固まった日陰に溶け残った雪も、春が来たというそれだけでなにやら呆気ないほどに、解れて膨れてぐずぐずとすんなりと。 私の複雑に絡まってほぐれぬ人間関係も、春になったので途端にとけて、ひょっ、とひとり簡単に抜け出せた。 ついでに服も靴も鞄も髪型も住処も、それから名前もみんな新しくした。 私は華やかな人間ではなかったし、たったそれだけで以前の私はすっかりいなくなってしまった。さみしいとは少しも思わなかった。 「私にはそもそもホームがないからホームシックにもならないもの」 何の話の流れだったか、(よう)にそう言ったことがある。 「そう」 それは毎日がシック状態であるとも言えるよねと葉は応じた。 葉のことを思い出していた。春雨で景色が白くけぶって、まるで白昼夢みたいな昼下がりだった。 あれのせいで冬の(かたく)なさが崩れてしまうのだと私は知っていて、せいせいするような、不安に内臓が握られるような、そんな気持ちになる。言いたいこと、書きたいことが沢山あった。私は胸の内に大量に言葉を貯める癖がある。それすらも春に流されてしまいそうで、怖くて。 違う。私はとっくにあの沼の中に自分の言葉すべてを置いてきてしまったのではなかったか。どうして今更惜しむのだろう。 思えば、これまでの私は固執し過ぎていたのだ。 葉のまつ毛は人よりうんと長いのに、瞼がそれを覆うように重いから目立たない。でも、私だけが知っていれば好いのだ。 葉の目はもっちりとした瞼とセットでこそ愛おしいパーツだと思う。白くて柔らかそうで触りたくなる。黒いまつ毛は雨に濡れると余計に黒々と艶を帯びて主張するので、そうだ、来月お小遣いをもらったら気まぐれを装って濡れるような透明なマスカラをプレゼントしよう。私が葉に塗ってあげよう。そんなことを考えていた。 葉の内気は私には都合が良かった。葉が誰の目にも留まらなければいいと思った。 葉が、誰にも恋をしないで、いつまでもいつまでも私の友達で居てくれればいいと思った。だって私は誠実に、本気で葉の友達をやっていたから。 葉が私を異性として見ていると知ったとき、打ちひしがれた。友情はとっくに失われていたのだ。 今は良いかも知れない。でも恋心は必ず冷める時が来る。そうしたらそのとき、恋と一緒に友情も冷めて失われるだろうと思った。寂しくて堪らなかった。 もういない。あんなに嬉しくてたまらない様子で、優しい口調で私に語りかけてくれる葉は、もういない。 急に孤独が襲い来て、耐えられなくなった。 私は悪い人だよ。存在していること自体が悪いことだよ。 もうそういうの、いやだよ。 いやなの。 沼は、美しかった。木立が揺れるので、その影も揺れて。 早々に実行出来たのは、偉かったと思う。そう思ってはいけないのかも知れないのだろうけれど、やはり偉いと思ってしまう。 後ろ向きに倒れ込んだら、それほど怖くはなかった。 どんどん沈む。水、そして水。沼というのは、実はそんなに深くない。昼間なら澄んだ水面からも底が見える。水草が繁茂している。沈みきっても、四メートル。 私の中に貯蓄されてきた言葉たちが出てきては星のように散らばった。 言葉の欠片達は、今まで近づかないようにしていた、地下へと続く沼の出口に螺旋を描き秩序良く吸い込まれていく。しまった、と気付いた時には既に遅く、私も螺旋の一部となって抗えない程の水流に呑み込まれていた。ぎゅ、と目を瞑る。覚えていようと抱いた言葉を祈りのように繰り返す。 活字に溺れたい、という言い方がある。 活字、つまり言葉達を多量の水に見立てての比喩なのらしい。 泳ぎたい、ではなく溺れたいと。 私が今溺れているのは沼なのか言葉たちなのか。 ──昔のことだ、と私は思った。 見上げたら春なのに寒い空だった。色合いと底なしの高さが寒い。
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