司水菫 三

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司水菫 三

【淵】えん、ふち 水を深くたたえているところ。流れの水がよどんで深くなった所。 深淵・淵叢(えんそう)・淵源など。「(こひ)ぞつもりて─となりぬる」 「女の子が欲しかったのよ」 と森沢のおばさまは嬉しそうに笑みをこぼした。そうだろうと、呼ばれた娘たち全員が内心考えたと思う。彼女の娘好きは周知の事実だからである。でも、だからこそ私は澪という名のその女児のことを気遣わしく思った。私の知る限りおばさまの愛し方は蝶よ花よの一辺倒で、一個人の人間に対するそれとは違ったから。化粧で塗り込められた顔の澪は、空になった盆を抱きしめてまだそこに立ったままでいた。 「澪、皆さんに御挨拶出来るわね?」 彼女は一礼して、森沢澪(もりさわみお)です、五歳です、と簡潔ながらもそつのない挨拶をした。 それから後のお茶会に、澪も一緒にテーブルを囲んでこちらも自己紹介をしたりしてひとときを過ごしたのだけれど、私には皆の会話もおばさまの甘い褒め言葉もほとんど頭に入っていなかった。機能しない聴覚の代わりに、(せわ)しなく働いているのは視覚と思考だった。出された飲み物はコーヒーだけれどお茶菓子は落雁(らくがん)で、その組み合わせは妙に私の脳を冴えさせた。 椿だ。どう思い直しても椿なのだ。 仕草も、顔も歳も違うのに、澪と目が合ったときのあの既視感は奇妙だった。次姉は死んで一年も経つというのに。私は生まれ変わりの類は信じない。非科学的だからだ。 今のところの所感としては、たぶん澪自身は普通の子。でも一方で、あの子は誰からの世話も──森沢のおばさまからも──必要としていないような、だからこそ森沢家の養女になっても問題ないような雰囲気があった。飼育生物のように衣食住を満たしてやる必要はあるものの、情緒のケアは不必要であるような独立して完成された存在。このちいさな花々を象った淡色の落雁のように見た目の装飾だけに特化したような。 あの児の化粧を取った素顔が見たい。 「結局菫さんだけは菫さんのままなのね」 帰り際、靴を履くのに手こずって玄関で最後のひとりになっていると、森沢のおばさまがすっと添ってきてつまらなそうな顔をした。 「皆さんのお話しも碌に聴いていなかったでしょう」 見抜かれた私はぎくりとする。 「御免なさい、少し疲れていたのかも」 そうなの──おばさまは訝しみつつも、好いわ、と応えた。そうして(はしばみ)色の目を寄せて、さらに続けた。 「お帰りになられたら休養にきちんと時間をお充てなさいね。なにしろ司水の娘さん方は病んでしまうひとが多いから」 思いがけない言葉にえ、と惑っていると、玄関の引き戸が細く引かれて智世子お姉さんが顔を覗かせた。 「百合ちゃんが随分と待っているわ」 おばさまは微笑のまま掌をひらひらと振られた。 * 帰路は、百合と智世子お姉さんと三人で歩いた。学校帰りにそれぞれ直に森沢邸を訪ねたので、私たちはセーラー服に学生鞄のままだった。黒いスカーフの百合や私と違って智世子お姉さんは学校が異なるから、少しグレーがかった生地に赤いスカーフの制服で、それが物珍しい。 「あの澪っていう子」 智世子お姉さんにしては唐突な物言いだった。去年よりも伸びたお下げを後ろになおして、私と百合に挟まれて歩く彼女の視線はどちらにも振れていない。 「少し不気味だったわ。あの子自身が悪い子という意味じゃないんだけど。不気味というか、可哀想と思ったのかも知れない」 「私も同じことを思った」 「百合ちゃんは?」 私? と百合は少し困った顔をした。 「私は──よく分からない。可哀想かどうかも、ひとの境遇の善し悪しは他人が決めるものでもないし」 それはそうね、智世子お姉さんは曖昧に同意して、しばらく観察するように百合の横顔をさりげなく眺めていた。 森沢のおばさまはのこと、その養女の澪、百合、椿そして私……彼女にとっても彼女なりに、何か思うところがあるのかも知れない。 久し振りの蝶や花や倶楽部で予想通りちやほやされて、あの女児の正体も解けて、手厚くもてなして頂いて、だけれど私はひどく疲れた。本質的におばさまとは相性が悪いのだ。おばさまが私と過剰に距離を詰めようとするとき、身体の内側から粟立つようだ。 森沢のおばさまは危険な匂いがする。 ──結局菫さんだけは菫さんのまま。 あのときは、必要以上に寄り添ってくるおばさまに気を取られて言葉の意味をあまり意識しなかったけれど、今思えば意味深なことを言われたと思う。 私が私のままだと言われるのなら、百合の方は? たしかに百合は以前にも増してぼんやり何事か考えていることが多くなったとは思う。もともと夢見がちでおっとりとした姉だったけれど、ここ一年の地に足のついていない様子はどうだろう。おばさまが仄めかされたように、百合はあの水難の一件を起点に変わってしまった? 右隣を(うかが)う智世子お姉さんも、百合のことを同じように考えているのだろうか。 あの橋に差し掛かった。昨年引き摺り込まれて椿を喪った、あの。 夕暮れのなか、ふたつの川の混ざりあう淀みの淵はコントラストが曖昧でよく分からない。 「ねえ、私ここにあんまり長く居たくない」 あの事故以降もう何度も渡っているというのに智世子お姉さんはそう言って早足になり、私たちを振り返った。大きな四角の襟がひらめいて、襟の裏側のスカーフまで覗けた。 「正直、今も気が気じゃないの、この橋を渡るの。いつか二人まで椿ちゃんみたいに──」 言われてばちんと何かが跳ねた気がした。ずれていた何かが、たとえば脱臼していた肩の可動部がなにかの拍子にあるべき位置に戻ったように。 「智世子さんは」 思わず橋の真ん中で立ち止まってしまった。 「椿のこと、おぼえているの」 椿を憶えている人がいるの。 ──司水の娘さん方は病んでしまうひとが多いから。 あれは、誰のことを言っていた? いつからいつまでの代の人を? この橋は危険。智世子お姉さんの危惧通り、ここはよくない。 私の視界はくらりと揺れた。
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