病、罰、或いは恋情

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       *  目の前で思いっきり彼女の腕が振り抜かれる。正直な感想は、まあ、そうなるよな、だった。  バチン。目の前で火花が弾ける。  ぷっくりと愛らしく膨らんだ彼女の唇から吐き出されるのは、ドスのきいた一言。 「最ッ低」 「……うん」  彼女は潤んだ瞳で俺を睨むと、ほんの少しの沈黙の後、バタバタと俺の部屋を飛び出していった。玄関の扉が叩きつけるように閉められ、激しく音をたてる。  黙ってその様子を見送っているうちに、叩かれた頬がゆっくり熱を持ち始めた。これは完全に腫れるだろう。明日も仕事があるのだけど、俺は彼女に文句を言える立場じゃない。突然別れ話を切り出したのはこちらのほうだから。  よろめきながらソファに近寄り、寝転ぶ。この間まで彼女と隣り合って座っていたソファだ。  本当に、申し訳ないことをしてしまったな、と思う。俺のことを疑いながら、それでも一生懸命傍にいようとしてくれた可愛い人。自分から手放しておきながら、彼女と過ごした時間を振り返ると、なんだか泣きたいような気持ちになった。それでも後悔は浮かんでこない。……不思議で、皮肉なことに。  頬を押さえながら、俺は棚を睨みつける。 「……ぜんぶ、君のせいだぞ」  まるで返事をするかのように、声が返ってくる。 「ねえ」  この現象が精神的な病気から引き起こされるものだったにせよ、心霊現象だったにせよ。写真の中の彼女は、本当にそれしか言ってくれない。音にしてたった二音。  だけど、俺にはその続きが聞こえる。ここに関しては、完全に自分の妄想なのだけど。 「ねえ」  ——覚えてるよね?  ——忘れてないよね?  何を、と、考えるまでもない。  彼女は、俺に別れを告げられたその日に死んだ。自ら命を絶った。俺が殺したわけじゃない、でも、俺のせいで死んだのだから、俺が殺したようなものだろう。 「ねえ」 「……うん」 「ねえ」 「……覚えてるよ」 「ねえ」 「忘れないよ、君のことは」  嘘だ。  しまいこんでいた写真が出てくるまで、彼女のことを思い出す機会はなかった。……思い出さないようにしていたのかもしれない。でも写真を見つけて、声を聞くようになってからは、彼女のことばかり考えている。 「ねえ、ねえ」  そんな俺を見透かしたかのように、呼びかけてくる声は止まない。  暫く黙ってその声を聞いた後、俺は立ち上がって、棚から写真を取り出した。相変わらず綺麗に微笑んでいる彼女。俺は彼女の笑う顔が好きだった。そういう瞬間を切り取った。別れを告げた時だって、彼女を嫌いになったわけじゃ、なかったんだ。 「ねえ」  笑いながら呼びかけてくる彼女は、自分を殺した俺を責めているのだろうか。それとも。  写真をそっと親指で撫でる。彼女の声に心を削られている自覚はあるのに、なんだか妙に穏やかな心地になった。だからだろうか。 「ねえ」 「好きだよ」  彼女の呼びかけに、ふと、そんな答えを返した。 「俺は君を……君のことが、好きだ」  音にしてみると、その言葉はしっくりと口に馴染んだ。時間が止まったままの彼女と視線を合わせる。1秒、2秒、3秒……あれだけうるさくしていた写真が、ついに黙り込んでしまった。彼女はやっぱり笑っていて、その表情はどこか、満足げに見える。  俺は思わず笑ってしまった。そうか、君はこれが聞きたかったんだな。  持っていた写真を棚の上に置いて、俺は部屋の中を見渡した。写真立て、どこかにあっただろうか?  死んだ恋人の写真を飾り続ける男なんて、もう誰にも振り向いてもらえないだろう。だけど、それでいいのだ。いつでも捨てることができたこの写真を、そうしなかった時点で、もう俺の答えは決まっていたに違いない。  かつての恋人。俺が殺した人。  彼女への感情に名前をつけるとしたら、やっぱり愛しかないのだと思う。それがたとえ、正しく導き出されたものではないとわかっていても。
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