パーフェクトウーマン

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プロローグ 平成十七年の冬。  森嶋沙也加は夫の慎太郎が不倫をしていたという事実を知った。不倫相手は職場の派遣社員であった湯沢亜希子という女だった。しかもこの時、亜希子は慎太郎の子どもを身ごもっていた。この翌年の秋頃、沙也加はこの事実に対して不法行為に基づく損害賠償(慰謝料)の民事訴訟をおこしたのだった。  あれから一年が過ぎた……。  平成十八年十二月七日。この日は判決言渡しであった。沙也加は朝から落ち着かない。何をしていても心ここにあらずであった。黒の革張りのソファーに腰を下ろし、イタリア製のキャビネットや大きなフロアスタンド、マホガニーのコーヒーテーブル、年代物のチェスト、ペルシャ絨毯、そして世界中から集めた自慢の版画に視線を彷徨わせていた。  ―私はすべて手に入れてきた。これからだってそうだ。敗けるはずがない。  気味が悪いほど静かな豪華絢爛な部屋で、裁判所から判決の正本が届くのをじっと待っていた。  ―ようやく長い裁判に終止符を打てるのだ。すべてを終わらせることができる。  膝の上に置かれた手をこすり合わせて、外界の音に聞き耳を立てていた。郵便局のバイクの音を聞くと、心がかき乱され、サンダルをひっかけて、家の外に飛び出した。郵便ポストに入っていた目当ての分厚い封筒を手にすると、手が震えてきた。手の震えを抑えながら、一人自室に戻ると、部屋の床に座り込んだ。目を凝らしてその内容を確認した。  主文  原告の請求を棄却する。   主文を読んだだけで、瞳がわなないて、全身の血の気が引いた。心の中で激しく警告音が鳴り続けていたが、やがて何も聞こえなくなった。胃の粘膜がヒリヒリしてくるのを感じ、軽い吐き気がした。  ―敗けた。  膝のうえで拳を握りしめ、必死に涙を堪えた。堪えられない怒りはもうどうすることもできない。手にしていた判決文を床の上に放りなげた。  ―この怒りは何処へ向けたらいいの。もう何も考えられない。考えたくない。  宙を見つめて唇をかみ、ふと顔を窓の外に向けると、長かった一日を象徴すかのように薄紫の夕暮れが広がっていた。そのことはかえって、沈む直前の沙也加の心を一層みすぼらしくていた。  ―これは白昼夢なのか?  沙也加は身を震わせた。  判決文の内容はこうであった。 本件は、原告の森嶋沙也加が被告の湯沢亜希子に対し原告の夫である森嶋慎太郎と不貞行為をしたとして、その不法行為に基づく損害賠償(慰謝料)の支払いを求めた事案である。この請求に対して、被告の亜希子は自分には不貞行為に関わっていたという認識はなかったと主張した。被告の亜希子の主張によると、原告の夫の慎太郎から妻子と別れた旨を告げられたことから交際を始めた。交際後に妊娠が発覚したが、妊娠後に慎太郎が実は離婚していないことが判明した。そのためその時点で原告の夫の慎太郎との同居を解消した。その後は胎児の様子の報告のために、たまに二人で会うという関係に変わっていた。親としての当然の責任であるため不法行為などではない………。これに言渡された秋田地方裁判所の判決は、原告の夫の慎太郎と被告の亜希子は、胎児に対する親としての責任を負っていたのであるから二人が会うという関係は不法行為が成立するものではないというもので、被告の亜希子に過失があるという原告の沙也加の主張は、理由がないというものであった………。  ―こんな判決があってよいのか。不倫した男女の間に子どもができたら、親の責任が発生するという理由で、不倫関係の二人が会うことの理由が正当化されるなんて。ありえない。確かに親としての責任は発生するだろう。しかし、その後も二人の関係は続いており、亜希子は慎太郎の第二子まで身籠っているのだ。これが不倫でないのなら何というのだ。    いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。気がつくと沙也加はしゃがみこんで腕を体にまわして激しく泣いていた。虚ろな目であたりを見渡すと部屋は真っ暗であった。深い藍色の闇が窓から染み込んできていた。内臓が突き上げられるような激しい怒りは収まることはなかった。心のバランスが崩れ、自分が崩壊していく感じがした。  ―あの女。許せない。いったいどうことなの。法律婚が守られないなんて。  胸の中で小さく毒づいた。  ―私は真相を知りたかった。夫に裏切られて苦しんでいるのに、そのうえ、法律に見棄てられたという事実にも苦しめられるなんて。  ―許せない。未来永劫絶対に許せない。  腹ただしさが増すばかりであった。思えばあの時からすでに不倫が始まっていたのだ。一つの記憶がはっきりしてくると、別の記憶もはっきりしてくるものだ。やはり、女は皆パレスチナ人、はたまた韓国人なのか。昔のことはとにかくよく覚えているのだ。沙也加も例外ではなかった。サケが生まれた川を遡上するがごとく、記憶の川を遡った。  現在から時がさかのぼること、十二年前。私と慎太郎は東京大学の同級生だった。十九歳で、これが愛であると錯覚し、卒業と同時に結婚した。東大卒のエリート国家公務員の慎太郎との結婚は世間的には勝ち組だったのであろう。私は結婚してしばらくはこの幸せに酔っていられた。 慎太郎との結婚は私の自己顕示欲を大いに満たすものであったのは確かだ。私はまた一つ欲しいものを手に入れた…。  自分で言うのもなんですが、子どもの頃から人一倍自己顕示欲が強い方だった。自己顕示欲というと全うで穢れのない言い方だが、それは結局のところ見栄なのかもしれない。この世の中で見栄というものが一番高価であるということを無意識のうちに理解していたのだと思う。だから結婚の証である結婚指輪でさえも欲しいと思わなかった。指輪だけでない。高価なものにはほとんど興味がないと言ってもいい。だってそれらは生まれた時から簡単に手に入れることができるものであったから。そう、ものなんて手に入れて当然のものであるから特段欲しいと思わなかった。欲しいものはもっと違う次元にあるような気がしていたから。  卒業する前年のクリスマスイブの日、私は慎太郎からプロポーズされた。東京都心の高層マンションから一望する夜景はまるで『煌めく宝石のようだ』と誰かが言っていた。誰かは思い出せないが。その時のクリスマスの夜景はいつにも増してネオンが滲んでいた。プロポーズに相応しい見事な演出で大変結構なことだと思った。まあ、このプロポーズは定石通りだったから小躍りするような嬉しさではなく、むしろ普通の嬉しさだった。私は同年代の女性と比べて些か醒めていたのかもしれない。それは何故だろう。  『幸せ』というものはどれも似たり寄ったりであろう。しかし、『不幸せ』は人の数だけ存在する。この時の私は『不幸せ』の存在など知る由もなかった。慎太郎からのプロポーズはもちろん受けた。結婚相手として申し分ないから断る理由などなかったからだ。結婚の話が展開して結婚指輪の話題になった時、何かが違うと漠然と考えた。それは何故だろう。その存在に自分でも気がつかないまま、私は妖艶な含み笑いを返していた。 「私。指輪なんていらない。ものなんて何もほしくない。なんて言うのかなぁ。私の欲しいものは人と比べてどうというものでないし」  慎太郎は不思議そうな顔をして 「沙也加は変わっているね。女の人は指輪とか大好きなのだと思っていた。うぅーん。きっと満たされているんだね。なんかさ、沙也加と話していると団塊世代の人と話しているみたい」 「何それ。ひどい………。欲しいものはちゃんとあります。すぐに思いつかないだけ」  と唇を突き出してみせた。 「はいはい」慎太郎のいつもの無機質な声が響いた。  つと顔をあげると、慎太郎が目を細めて私を見つめていた。私は本当に満たされているのだろうか。わからない。うまくは言えないけれど、本当の私は欲張りのような気がする。『幸せ』か『不幸せ』かの二者選択なら、迷わず『幸せ』だと言えるだろう。周りから見たら、今の私たちは金屏風の前で記者会見している芸能人のように『幸せ』なカップルに見えるのだろう。 クリスマス独特の煌びやかな夜景から、頭上に広がる空に視線を漂わせた。この日の夜空は深い藍色の闇にひっそりと染まっていた。月もなく、星明りも心もとなかった。それは私の満足に水を差すような気がした。私は『幸せ』になれるのだろうか?今日は自答ばかりしている。 「沙也加。なんかボーとしているよ」  慎太郎の声で現実に戻された。あたりは気味が悪いほど静かだった。あわてて笑顔を張り付けた。どんな時でもオート笑顔。これ基本中の基本である。 「ごめんね。本当にごめんなさい。大丈夫。私たちは上手くやっていけるのかな?」 「大丈夫だよ…。きっとうまくやっていける」  慎太郎は横から私の顔を覗き込んだ。なんとも形容できない和やかな雰囲気に包み込まれ、胸の奥の方が温かく感じられた。結婚の『幸せ』はこんな感じなのだろうか。一瞬、もうこれ以上欲しいものはないとさえ思った。でも長く続くことはないとすぐに直感した。人間は欲張りな生き物だから。慎太郎の優しい眼差しに応えるように私も慎太郎の横顔を見つめ返した。横に並んで歩くことが多いせいか、この人の横顔が特に大好きだった。  慎太郎の横顔を見つめていた時、ふとあることに気が付いた。もしかしたら、私たちはお互いに横顔しか見てなかったのかもしれない。自分の見たいものしか見えなかったのかもしれない。二人の視線が交差している時、慎太郎が一瞬遠い目をした気がした。私はこの一瞬を逃さなかった。輪郭のはっきりしないものが頭の中を占領し始めた。無性にそのことが気になった。理由は分からないが慎太郎の真正面を見たくなった。どうしても見たいという衝動にかられた。 「ねぇ。慎太郎」  身を乗り出して正面から向き合おうと体の向きを変えた時、慎太郎の顔は陽炎のように揺らいで見えた。 「慎太郎?」    慎太郎と結婚してからしばらくたつと、結婚当初に感じていた『幸せ』のようなものが薄れつつあった。これまでの人生は何もかもが上手くいっていたのに、何故か最近は何もかもが上手くいかないとさえ思い始めていた。私は慎太郎の横顔しか知らないままだった。でもそんなことはどうでも良い。私はいつのまにか慎太郎の顔を真正面から見たいとは思わなくなっていった。  『幸せ』が無くなった後に残るのは『不幸せ』なのだろうか?だが、私は『不幸せ』の存在を認めたくなかった。それ以上のものを求めて始めていた。 「子どもが欲しい」と毎日呪詛のように呟いていた。子どもさえいたら満たされる気がしていた。私は東京の資産家の家に容姿端麗かつ頭脳明晰で生まれた。それは大事に育てられ、欲しいものは何でも手に入った。これからだって絶対に手に入れてみせる。しかし、私たちはなかなか子どもが授からなかった。 「子どもが欲しい。慎太郎は欲しくないの?」 「もちろん欲しいよ。でも焦ることはないよ。お互いまだ若いし」 「またか」と呟いた。会話と言えばこればかりだ。これ以外の話題なんてお天気かテレビのことばかりだ。いい加減にうんざりしてきた。何か突破口はないのだろうか?私は行き場のない思いを抱えて毎日を過ごしていた。慎太郎は子どもを持つことには積極的ではなかった。子どもが要らないという訳ではなかったのだが、不妊治療をしてまで子どもを持つということに理解はなかった。子どもがいなくてもいないなりの生活でいいという考えであった。私はと言えば、とにかく子どもが欲しかった。自分が子育てに向いているかどうか、子どもが好きかは分からなかった。周りの皆が持っているものを自分だけが持っていないことが考えられなかった。無駄だとわかっていても、言わずにはいられなくなった。 「子どものことをもっと真剣に考えてほしいの」 「………」  同じことの繰り返しの日々だ。それが生活であり、生きることだと言われたらそうなのであろう。時々何もかもぶち壊したらどうなるのだろうかと考えるようになった。最近、慎太郎のやることなすことすべてに腹が立つようになった。それでも大きな夫婦喧嘩をすることはないのは、私たちの生活が裕福だからだ。金持ち喧嘩せずという言葉通りに、私は辛うじて自分の気持ちに折り合いをつけていた。  子どもさえいれば、結婚生活にも自分の人生にも何の不満もなかった。慎太郎は子どものこと以外では理想的な夫であった。週末は二人で外食したり、お洒落なバーでじっくり酒を飲んだりした。時々は郊外の温泉地へ旅行にも連れていってくれた。家事についても細かく口出ししたりしない。だが、子どもの話となると不機嫌になった。気乗りしない様子でとりあえず話しに付き合うという態度を目の当たりにすると私は泣きたい絶望的な気持ちになった。私は望んだものは何でも簡単に手に入れることができていたのに。 「子どもが欲しい」  平成十四年四月頃。   結婚してから十年の年月が過ぎた。私はようやく妊娠し、待望の長女さくらを出産した。長い間持ち続けていた満たされない気持ちはきれいに消え失せた。私は再び満たされていた。これまでの長い妊活を経て、慎太郎との関係は少しギクシャクしたものになっていたが、喧嘩になるほどのことではなかった。世の中の夫婦などこんなものであろうというある種のあきらめのような感情が芽生えていた。だから、慎太郎が私以外の女にもよそ見していることを知ってからも、そんなことは全く気にならなくなった。私にとっては長女のさくらが人生のすべてであり、生きがいであった。慎太郎は私たちの人生の名脇役になってくれればそれで良かった。さくらが生まれたことで、全身からエネルギーが沸き上がるのを感じた。それが何かと言われたら自分でも上手くは言えないのだが。これまでの慎太郎との二人の生活の中では決して得られなかったものであるのは確かであった。私の人生はまた良い方向へ向かうであろう。過去の満たされていたあの頃のように。そう、絶対にそうしてみせる。  それからまた、一年が過ぎた。 平成十五年四月頃。 私は平和な毎日を謳歌していた。さくらが生まれたことで人生が満足感で満たされつつあった。まるで膨らませた風船が弾ける手前のようにそれはぐんぐん大きくなっていった。風船が弾ける日は確実に迫っていたのだ。 この日、慎太郎は帰宅すると黙り込んでリビングに入ってきた。いつもの無機質な声で、「新潟に転勤になった」と告げた。私はさくらを腕に抱きながら、視線を向けた。 「今なんて言ったの?」  私は驚いて同じことを聞き返していた。慎太郎は仏頂面で 「だから転勤だよ。新潟だって。」 「新潟なんて…。でも転勤が今までなかったのが不思議だったのよね。本当ならもっと若い時に地方を回って、今ごろ東京に呼び戻されるというパターンだから。」 「それはさくらが生まれたからでしょ。ある程度大きくなったから動きが取れると思われたんじゃない?」  慎太郎は何かに苛立っていた。それも仕方ないことだ。だって私たちは東京以外を知らないから。私だって受け入れられない。慎太郎の心の中は手に取るようにわかる。転勤を肯定する言葉など出て来る筈もない。視線をさくらに移したまま、 「ある程度なんて言っても。まだ小さいことには変わりないのに。」 「………」  私はさくらをしっかりと抱きしめた。慎太郎の視線が私たち二人に注がれているのを感じ、顔をあげ慎太郎の表情を探った。少しの沈黙の後とりなすように声を出した。 「三人で行こう。三人でなら楽しくやっていけると思うの。私も東京を離れるのは不安なの。でも、東京以外を知るためのいい経験になると思うの。これからはいろんな所に行ってみようよ」  慎太郎は私からさくらを取り上げると、ギューと抱きしめた。 「さくらを置いてなんかいけないよ。オレも家のことやさくらの世話を手伝うようにする。新潟に行くのもいいかも。これまでの生活になかったものがあるかも」 「そうね」 「大丈夫。うまくやっていける」そう自分に言い聞かせた。  東京生まれの東京育ちの私たちにとって、新潟は馴染みのない土地であった。さくらはやっと一歳になったばかりで、まだまだ手がかかる。実家がある東京から離れて、見知らぬ土地において三人で生活することに不安はあった。それでも、私はさくらを連れて新潟へ行く決断をした。私と慎太郎はもう恋愛という対象ではなかったが、さくらを通しての家族愛は継続していたい。これを維持しなければならない。慎太郎はさくらにとっては最高の父親であった。高い収入で満たされた生活を保障し、高い教養で様々な知識を与え、さくらを立派な人間へ導くために必要な存在でなければならなかった。世間からうらやましがられる家族でなければならなかった。もしかしたら、慎太郎しか頼りがいないという状況で私たちの関係になんらかの変化があるかもしれないという期待もあったのかもしれない。  当時、新潟には私の兄夫婦が住んでいた。私の実家は千代田区に本社を構える、日本最大の醤油メーカー、明治醤油であったが、兄はそこの関東甲信越支社長を務めており、新潟に会社所有の自宅を持っていた。その兄が中国支社をつくるために、北京へ赴任することが決まった。タイミングよく、兄の豪邸を留守番がわりに使えることになったことも、私が新潟へ行くことを後押しした。私はこの家を以前から気に入っていたのだ。広々した敷地に建つ洒落た一軒家であり、庭は瑞々しい芝生に覆われ、リビングも広く、リビングの正面にある大きな両開きのフレンチドアから庭のパティオを見渡すことができた。緑に囲まれたパティオには木製のガーデンテーブルが並べられていた。この広い庭でさくらをおもいっきり遊ばせてやりたい。さくらはまだ小さい。東京でお稽古事をさせるよりも、田舎でのびのびと育てることの方がいいだろう。もちろんお受験はしなければならない。だが、まだ先でいい。あと数年でどうせ東京へ戻ることになるのだから。  新潟にきてわずか一年であったが、翌年の平成十六年四月 再び慎太郎が秋田の民間会社へ出向することが決まったのである。私たちは新潟の兄の家に留守番代わりに住ませてもらっており、快適な生活をおくっていた。出向の期間が二年以内と比較的短いこともあり、話し合いの結果、私とさくらは新潟に残ることにし、慎太郎だけが秋田市内に単身赴任をすることになった。当面の間、慎太郎は金曜日の夜に新潟に帰宅して、日曜日の夕方に秋田に帰るというような生活が続いていた。仕事が忙しく帰ってくることができない時もあったが、いつも必ず電話をしてくれた。それなりにうまくいっているように思っていた。時々、私がさくらを連れて秋田へ行くことがあった。幼い子どもを連れていこことは、大変であったが、会いに行くことは新鮮であり、楽しかった。       平成十七年一月。 忘れもしない。ここからすべてが始まった………。  私はいつものように、さくらを連れて秋田へ行った。基本的に真冬の秋田は雪が多い日がほとんどだった。しかし、近年は暖冬の影響で市内も多分にもれず雪が少ない。スキー場に至っては雪不足が悩みどころとなっているほどだ。国道のアスファルトは乾いていることが多く、東京の人間の私でさえも運転は心配なくできていた。  私とさくらが秋田へ行く時は、平日の昼間であることが多かった。当然、慎太郎は仕事で不在であったが、渡されていた合鍵でアパートの中に入り慎太郎の帰りを待っていた。アパート部屋はいつも散らかっており、トイレやお風呂に至っては、足を踏み入れることも悍ましと感じる程であった。こんなところでよく生活していると思うが、単身で頑張っていると思いから、アパートに来た時は、甲斐甲斐しく家事をこなし、夕食の支度をして待っているというのがいつものパターンであった。どこから、何をしたらよいものかと数分悩んだが、床に散らかったものを片付け、掃除機をかけることから始めてみた。そばで遊んでいたさくらが、床に置かれたものを拾ったりしたり見様見真似でお手伝いをしてくれた。わたしは、それを微笑ましくみつめていた。慎太郎が帰宅するのが待ち遠しかった。 「ママ。はい」  なにやら雑誌を手渡ししてきた。 「ありがとう。さくらが手伝ってくれるから助かっちゃう。早く終わらせてお散歩いこうね」  と雑誌を受け取りながら答えた。何気なく、雑誌に目を落とすと女性ファッション雑誌であった。何でこんな雑誌が置いてあるのか不思議に思いながら雑誌をパラパラと捲った。一通り中を確認すると何か満足した気分になり、再び仕事にとりかかった。前回、私とさくらが来た時に忘れていったものだと思い込み、全く気に留めなかった。さくらは、お手伝いすることを褒められて機嫌が良くなったようで、何をするにしても「さくらがやる」と言って部屋の中を忙しく歩き回っていた。さくらが次々いろいろなものを拾って手伝いしてくるので、私も急かされるように、部屋の片づけに没頭した。床の片づけ、掃除機かけ、洗濯物の取り込みと整理整頓など黙々とこなしていった。時間はあっという間に過ぎていった。やってもきりがないからこの辺で止めようかなと思いながら洗濯物を片付けていた時、見覚えのないパジャマのズボンを見つけた。腑に落ちない思いでそれを手に取った。大きさや柄などしっかりと確認してみたが、どうみても女ものであることに間違えようがなかった。そして私のものではない。「慎太郎に女がいる」私は自分の中にただならぬ負の感情が芽生えるのを感じた。自分自身にさえ嫌悪を覚えるほどに。私は背中から力が抜けたようにしばらくその場を動くことができなかった。  なんとか気持ちを落ち着け、さくらと散歩しながら近所のスーパーへ買い物に行った。さくらは見慣れぬ風景に目を奪われていつもよりはしゃいでいた。私は、先ほどの記憶の残骸が頭から離れず、無言で買い物してまわった。何かをしていないとやりきれず、スーパーの同じ売り場を行ったり来たりし、次々と商品を買い物かごに放り込んだ。ひたすら体を動かすことで乗り越えようと必死であった。スーパーのビニール袋を抱えて外に出ると、黄昏が迫っていてあたりは薄暗かった。秋田の冬は想像以上に寒かった。思わず身震いし、コートのボタンを上まで留め、マフラーも巻き直した。でも何故か身震いは収まらなかった。  十九時を過ぎたころ、慎太郎が帰宅した。 「ただいま」  アパートの薄い壁から隣室まで聞こえそうな大きな声が玄関から響いた。 「おかえり」  やや、杓子定規な物言いかと思ったが、私は声を絞り出した。慎太郎に聞いたいことは山ほどある。それをすべて言ってもいいものか私は悩んでいた。私は育ちのよさ故に、人前では決して波風を立てない。わきまえた人だと自分では思う。狭いアパートでさくらが傍にいることもあり、超然とした態度でいなければと自分にもそう言い聞かせた。慎太郎が機嫌よく、リビングに入ってきた。さくらはTVに夢中である。 「さくら。ただいま。よく来たな。飯食べたか?」 「うん」  さくらは無邪気に答えた。私は、 「さくらが部屋の片づけを手伝ってくれたの。すーごく散らかっていて大変だった。もぉうエクソシスト状態よ」  と困った顔を見せながら言うと、 「だって、毎日忙しいんだ。掃除なんてする暇なんてないよ」  言葉は乱暴だが、機嫌が良さそうだ。私は、これならば話ができるかなと思った。慎太郎は服を脱ぎ捨てて風呂場へ行った。その姿を見つめながら、忙しいのは事実であろうと思いながら、脱いだ衣類を拾い洗濯機へ押し込んだ。脱いだ服を見るとどうしても、先ほどの女もののパジャマのズボンを思い出した。震えはじめる体を鎮めながら、この後の展開を想像した。希望的なものになるか絶望的なものになるかは自分次第であろう。浮気はしているようだが、慎太郎の今の様子からすると本当に浮気の域を超えないものなのかもしれない。きっと慎太郎は私に許しを請うだろう。しかし、本当に離婚を迫ってきたりはしないだろうか?もしそうなったとしても絶対に離婚なんてするものか。自信半分意地半分で自分でもどうしたいのかわからない。砂場の山がさらさら崩れるように、私の心もさらさらと崩れはじめた。どうしたらよいのだろう?私はなんなのだろう?何を守りたいのだろう?何が欲しいのだろう私?本当に何もわからない。 「着替えもってきて」  とお風呂場からの声で現実に引き戻された。私は急いで、Tシャツとトランクスを準備した。慎太郎は家では、いつもこのスタイルだ。慎太郎は出された着替えに着替えると、冷蔵庫の扉を開けてビールを取り出して、リビングに現れた。髪にタオルを巻いて、引かない汗をぬぐいながら、ビールのプルタブを押し開ける。プシュッという音とともに勢いよくビールを喉に流し込む。白いタオルを肩にかけている仕草は立派な中年オヤジだと思う。それでも、言い寄ってくる女がいるのかと釈然としない思いで慎太郎を見つめていた。 「はあ、疲れた。さくらは飯食べたの」  さっきも同じこと聞いたじゃないかと、ほんの些細なことだが私を苛立たせた。急いで取り繕った笑顔を張り付けて、 「うん。さくらは待てなさそうだから先に食べさせた」  話したいことは沢山あるはずだが、言葉が続かない。仕方なく、テーブル越しにその表情を眺めていた。 「私もビールもらうね」  TVに夢中になって、こちらをみない慎太郎を無視して、ひとりビールを煽った。慎太郎は自分の話ばかり投げてくるが、私には全然興味のない内容であった。どう頑張っても、久しぶりの家族の食卓をなごやかにするという気分にはなれなかった。そのうちに、さくらが眠くなりぐずりはじめたので、添い寝するため、逃げるようにその場から離れて隣の和室へ行った。慎太郎は、そんな私の言動には全く関心がないようで、無神経にTVを見て、ビールを飲み続けている。表立って喧嘩腰になってはいけないと、私は、悶々と行き場のない気持ちを必死に抑えた。さくらが寝息をたて眠ったこと確認すると、落ち着かない顔でリビングに戻り、慎太郎の隣に腰を下ろした。気持ちを落ち着かせるために、ビールをグイと一気に飲み干した。飲まないとやっていられないわよ。狭い部屋の中では、TVとビールのアルミ缶の音だけが響いていた。私は慎太郎と膝を交えて話をしようと腹をくくった。そしてとうとう、話を切り出した。私は怒りを抑えて、 「部屋を片付けた時、これを見つけたんだけど。これ誰の?」  慎太郎の目の前で、例のパジャマをひらひらさせた。慎太郎は表情を変えずに無言で顔を向けた。私はチャンスとばかりに、畳み込むように続けた。 「これ私のものではないし。どうみても女ものでしょ。これ何?」 「この前、沙也加が忘れていったものでないの?」  と慎太郎はとぼけた。決して、自分の連れ込んだ女のものであるとは認めなかった。苦しまぎれに 「それオレのだよ。穿こうと思って買ったけど。サイズが合わなかった」  と耳を疑うこと言い放った。私はその言葉に眩暈を覚えるとともに怒りが頂点に達した。 「そう。わかった。それなら穿けるなら穿いてみて」  と鼻息を荒くした。慎太郎はどうみてもサイズの小さいそのパジャマを穿きだした。本気で女もののパジャマのズボンを穿こうとする姿を、私は冷静に見つめた。バカな男だ。心の底からそう思った。確かに穿いて穿けなくはないだろう。でも、あんたぁ、そんなことして恥ずかしくないの。私は心の中で叫んだ。何が何でも、自分のものと言い張る慎太郎にとても腹が立った。超然とした態度で接しようと思っていたが、もう限界だった。目を鬼のように鋭くし、私は次から次へと追及の言葉をつないだ。 「この雑誌だって、私のものでないし。誰が来ているの?ありえないでしょ」  慎太郎は一瞬だけ眉をひそめたが、その表情から心の動揺はうかがえなかった。 「友達が来たんだよ。なんでもないから。もうここには来ないから大丈夫だよ」  と言葉を返した。口元に笑みさえ浮かべている。何をしゃあしゃあと言っているの。口が達者な男に言いくるめられてたまるか。 「そんな話なんて信用できないよ。友達がなんで男の部屋でパジャマに着替えたり、服脱いだりするのよ」  私は慎太郎の言葉を鼻であしらって言い返した。本当に冗談じゃない。慎太郎は何も答えない。座っていた座布団から腰を浮かせ、ビールを一口飲んだ。唇にできた僅かな隙間が動揺を物語っていた。視線を彷徨わせて、私を見ようともしない。慎太郎はいつもこうだ。心にシャッターを下ろしてしまうと何も喋ってはくれないのだ。男は黙ってサッポロビールというやつか。あんたぁの背中なんて見たって私には全然わからない。話してくれないと何もわからないよ。これでは話などできるはずない。普段は長広舌をふるうくせに、都合の悪い事は一切押し黙る。どうしたらいいのだろうか?私は膝に視線を滑らせ、持てる理性を総動員して冷静を装った。慎太郎の話を信用した訳ではなかったが、お互いに黙り込んでしまったので、この話は終了となった。自分でもどうしたらよいかわからなかった。   ―あの時にもっと話ができていれば…。これが後悔するということなのか。  ―何故、私は慎太郎と向き合うことから逃げたのだろうか。  ―分別のあるいい妻になんてならなくても良かった。  今さらながら後悔した。  ―あの時に胸にたまっていたわだかまりを吐き出してしまえたらよかった。そうしていたらもっと違う展開を見せていたかもしれないのに。  その後、大きな問題ごとはなく月日は流れていった。いや、そう思っていたのは自分だけだ。事件は着実に起こっていたのだ。  慎太郎からの電話の頻度は確実に減っていった。週末に家に帰ってくることも少なくなった。忙しいことを理由にされたら何も言い返せない。仕事が激務であることは把握していたし、遠路遥々帰ってくるよりも、週末を寝て過ごせば、体が楽なのは明らかであるから。それに、毎月の生活費は十分に貰っていたために、私はこの生活に特段不満はなかった。むしろ亭主元気で留守がいいという言葉を実感して快適だとさえ感じていた。  平成十七年四月。  慎太郎の単身赴任は二年目となった。雪国の薄暗い新潟にも明るい春がやってきた。うららかな春の日差しが、私を日々やさしい気持ちにしていた。私は、このゴールデンウィークを、慎太郎のいる秋田で過ごすことを計画していた。久しぶりに慎太郎とゆっくり話がしたいと思い、夕食を早めに済ませて、お風呂に入り、寝る支度が整えた後、慎太郎で電話した。慎太郎は帰りが遅い。一人で簡単な夕食も用意しないといけないために、遅い時間でないとゆっくりと話しできないのだ。この時間なら、もう帰ってきているだろう。そう考えて、私は電話を手にした。私は相手の都合をちゃんと考えられる人間なのだ。慎太郎は電話にすぐ出た。私は首尾よく事が進んでいることに安堵した。 「GWは仕事なの?さくらを連れて遊びに行こうと思うの」  慎太郎は相変わらず無機質な声で 「オレどうせ仕事でいないよ。オレの休みの時においでよ」 「休みっていつ?」 「ううん。まとまった休みって直前でないとわからないよ。夏休みだったら確実に五日はもらえるから、夏休みにみんなでオレの実家に帰省しようぜ」  私は、慎太郎のそっけない態度に腹が立ったが、親子三人の時間を作らなければという使命感に燃えていた。ただそれだけだった気がする。自分では意識はしていないが慎太郎のことはとっくに見切っていたのかもしれない。家族はこうでなければならないという世間体だけが、意識のどこかに燻っていたような気がする。良き妻でなければいけないし、いい家庭でなければいけないのだ。だから今のこの状態を守らなければならなかったのである。 「でもこどもの日だし、私たち特別どこかに行きたいわけではないよ。夜くらいご飯を一緒に食べられればいいのだけど」  と食いついた。しかし、慎太郎は話に全く乗ってこない。それどころか、私たちが秋田に行くことを頑なに拒否していた。  何かがおかしい。いろいろな思考が頭中を走り回る。思い起こせば、一月くらいから電話は確実に少なくなっていた。そして私ははたと思い出した。あれはいつの日だっただろうか。慎太郎がへべれけに酔っぱらって夜中に電話をかけてきたことがあったのだ。私はいつもさくらの隣に寝ているのだが、電話の着信音でさくらが目覚めることがあるために、夜中の電話ははっきり言って迷惑なものなにものでもないと思っていた。まして、酔っ払いの戯言など夜中になど聞いてはいられない。私はたいして話を聞いてはいなかったが、あの時、慎太郎はたしかにこう言っていた。「亜希子が妊娠しちゃってね。ええと。亜希子って友達ね。なぁんてね。ウソだけどね。沙也加さ、びっくりした?沙也加ってさ、オレのこと全然興味ないよね」呂律が回っておらず、かなり酔っ払いであったため、私は「うん。うん」と聞き流していたが、慎太郎は女の妊娠を確かにほのめかした。それが事実かどうかはわからないが、かなり怪しいのは確かである。しかし、本当に女が妊娠したのなら、妻に喜んで電話で喋る男がどこにいるのだろうか?私は自答した。妊娠は事実でないとしても、やはり女の存在は認めなければならないだろう。よし。秋田へ行こう。いって今度こそ、胸の奥のわだかまりを吐き出そう。私はそう決心したのだった。  思い立ったら、後は前進あるのみ。私は昔から行動力があるほうだ。明日一番で秋田に行くことに備えて、さくらを早く寝かせることにした。何をするのも手につかないのもあった。こんな日は寝るのが一番だ。しかし、その日の夜はほとんど眠ることができなかった。いつもなら布団に入るとすぐに寝るさくらも同じでようで、なかなか寝ない。何冊も絵本を読まされたが、私の気を紛らわすのには丁度良かった。本当にさくらがいて良かった。この子はいてくれるから余計な事をあまり考えないですむのだ。  どのくらい時間がたったのだろうか。カーテンの隙間から空が白みつつあるのを確認すると私はいてもたってもいられなくなり、布団から飛び起きた。クローゼットの奥からキャリーバッグを取り出し、手当たり次第詰め込んだ。衣類の皺も、着替えの数や種類などそんなものはどうでもいい。要るもの要らないものなど考えず、とにかく押し込んだ。楽しい旅行なら持参する荷物を厳選するところだが、そんなことにかまっている余裕はない。一分一秒でも早く、私は旅立たなければならないのだ。私が騒がしく荷造りする音に気付いたのか、さくらがいつもより早く目を覚ました。 「さくら、おはよ。今日はねパパのところに行くよ」  さくらはまだ眠そうだ。 「えぇー。さくらまだねんねしたい」  と唇を尖らせた。私はやさしく、 「まだ寝ていてもいいのよ。朝ごはんを食べてそれからだから」  さくらはお気に入りの赤い毛布と戯れながら、 「うん。これも持って行くでしょ?」  と赤い毛布を握りしめた。 「わかった。わかった」  私は、さくらがいつも通りに元気であることに安心して、再び荷造りを始めた。自分の荷物は少ないが、さくらの荷物も用意するとなると、これが予想に反して多くなるものだ。毎回のことであるが、海外旅行にでも行けそうなくらいな荷物量である。車で行ける距離であったことをラッキーに思う。そうでなかったら小さい子どもをつれて出かけるなんて無理だ。  荷物を赤いプジョーに積み込んで、さくらをチャイルドシートに座らせる。いざ出発。と自分にハッパをかけプジョーのエンジンを始動させる。プジョーのエンジン音とともに自分の心のエネルギーの音もみなぎってくるのが聞こえるようだ。快適な走りの中で、自分の頭の中の乱雑なものが徐々に整理されてくる。私の心も落ち着いてきた。ふと、慎太郎には黙っていたことを思い出す。突然、私たち二人がアパートにいたら驚くだろうか?怒ったりはしないだろう。今まで慎太郎が怒ったりしたことはない。迷惑に感じるだろうか?いやそれもないだろう。家事をやる人がいれば助かるはず。私は何一つ間違っていない。でもまさか女と鉢合わせになったりはしないだろうか?いや、女だって、昼間は仕事をしているはずだ。アパートに居るわけはない。だけど、何かしらの女の痕跡はあるはずだ。それを探してみるのも悪くない。色々なことが不確かなままの状態で堂々巡りである。しかし、これだけははっきりとしている。私は妻だ。死が二人を別つ前まで夫婦なのである。何に誰に遠慮がいるものか。慎太郎のアパートへ行くことは妻として当然の権利である。  秋田市内のある慎太郎のアパートは築二十年の古い木造二階建ての造りで、古いが日当たりは良く、明るい印象はあった。部屋は一ⅮKであるためかなり狭いのが難点であった。しかし、一人暮らしには困ることはない大きさであった。アパートに隣接した駐車場にプジョーを止め、外に出た。雲ひとつない快晴だった。気持ちが高揚してきた。頭上に広がる空に向かって大きく体を伸ばしながら、空の青さに目を奪われた。心地よい春の風を顔に受けた。観光にきたわけではないのよ。と口の中で小さく毒づいた。アパートが視界に入ってくると現実に引き戻された。醒めた気持ちで人の気配がなく静まり返ったアパートを眺める。中に誰かがいる気配はない。やはり仕事であろう。とりあえず、さくらをプジョーから降ろして、自分のハンドバックのみを持ってアパートへ向かいぐんぐんと歩き出した。さくらと二人で「疲れたね。」と声をあげながら、手をつないで、アパートの外周廊下をぐんぐんと歩いた。何度も来たことがあったはずだが、歩く先を見るともなしに見て歩いた。私たちの足音だけが響いていた。慎太郎の部屋の前で、ハンドバックから合鍵を取り出す。ここまではいつもの訪室となんら変わりない。それなのになぜか胸騒ぎがした。何かが変だ………。鍵穴に鍵を差し込むとガチャッと音が響いた。静けさの中でドアノブをそろりそろり開け玄関に足を踏み入れた。部屋中が暗闇に包み込まれていた。薄暗い部屋の奥の方から顔に埃臭い冷たい空気を受けた。いつもと何か違う………。その時、視界に飛び込んできた光景に目を見張り、声も失った。  物がない。  整理整頓されているとか、片付いているというのでなく、そこには何もなかった。アパートの部屋は『もぬけの殻』だった。私は背中から汗がにじみ出るのを感じた。  なんとも信じられないことだが、慎太郎は私に黙って引っ越ししていたのだ。私は体の横で拳を握りしめた。間違いなく女だ。確信した。でも慎太郎はどこに行ってしまったの?私は急いでスマホを取り出し、震える指を抑えながら、慎太郎に電話した。電話はでない。何故だ?職場に電話しようと思ったが、家庭内の問題事を晒すような真似をしたら慎太郎の立場が悪くなる。職場に電話するのは最後の手段でいいだろう。私はどうしたらいいの?さくらは何も言わない。だが、何かを悟ったのだろう。いつものような、「お腹がすいた」、「抱っこしてよ」などと愚図ったりしない。心細げな眼差しをして、空っぽの部屋と私との間に視線を投げている。そんなさくらの顔をみて、胸が締め付けられた。私が取り乱してはさくらが不安になる。落ち着かなければ。声を裏返して 「さくら、パパ引っ越ししていたみたい。ママ新しいアパート聞くのを忘れていた。バカだね」 「今日はどっかに泊まって帰ろうよ。前に行った温泉でもいいし。そのうちパパから電話くるから」  私は明るく振る舞った。溢れでるありとあらゆる感情を飲み込んだ。さくらは温泉という言葉に反応してはしゃいでいた。今はさくらのことを考えよう。とりあえず、今日の泊まるところを確保しなければならない。慎太郎のアパートの近くには、温泉旅館があったことを思い出した。ここは以前三人で泊ったこともあった。躍起になって温泉旅館に電話すると、空室がありすんなりと予約することができた。泊まる場所を確保したら、安堵して少し気持ちが楽になった。気を取り直して、さくらと旅館へ向かった。温泉に泊まることになったことで、さくらは車の中で、一人でお喋りしてはしゃいでいた。私はそんなさくらの声は耳に入らず、腹の中でダークな感情を腐らせていた。心の奥底からのこみ上げてくる思いに心が占領されていた。このままで済むと思うなよ。女の名前は亜希子だったかしら。絶対あの女だ。眉間にしわを寄せたまま、無言でプジョーを走らせた。春の心地よい季節であった。こんなことではなく、予定されていた家族旅行だったらどんなに良かったことか。そんなことを考えているうちに、あっという間に旅館に着いた。平日であったがそれなりに混雑していた。こういう気分の時だからかえって良かったのかもしれない。これが、人もおらずガラガラだったのなら、いっそう惨めな気分になっていただろう。チェッインの時間よりだいぶ早かったが、小さい子どもがいて大変でしょうという旅館の人の配慮で早めに部屋に入ることができた。人の温かさが妙に身に染みた。  純和風の温泉旅館であったため、部屋は十畳の和室であった。決して広くない大きさの部屋であったが、さくらと二人には広すぎるように感じた。思い起こすと、私とさくらが二人だけで宿泊するということは初めてであったかもしれない。いつもは実家の母親が一緒だったし、だいたいは慎太郎が一緒であったから。何故だろうか?慎太郎のことが頭から離れなかった。さくらと部屋で休んでいても何もする気にはなれなかったが、さくらに気付かれないように明るく振る舞った。二人で温泉に入り、美味しい夕食に舌鼓をうち、表面上はそれなりに楽しんだ。しかし、片時もスマホを手放すことは出来なかった。今できる最大の保険のような気がしていた。あまりにも落ち着かなかったため、スマホの検索アプリで亜希子と入力してみたが、ババーの名前しか出てこなかった。これには思わず笑ってしまう自分がいた。亜希子は若いのか、ババーなのか、どんな女なのであろうか。なんてどうでもいいことばかりを考えていた。しかし、意外とこれで気分が紛れた。気付くと、さくらは布団に戯れながら眠りにつくところであった。そんなさくらの様子を眺めながら、なんとしてでも慎太郎に連絡を取らなければならないと心に誓った。必ず着信に気付いたら、折り返して連絡してくれるはずだとすがる思いでいた。今まで、電話を無視されたことはない。そもそも私たちが、秋田に来ていることは知らないはずだから、自分の行動を警戒するはずはない。  さくらが寝静まると、急に寂しくなり涙がでてきた。枕に額を押し当てて泣いた。泣くのなんて何年振りだろう。なんでこんなに涙がでるのだろう。何に対してだろう。眠れない。こんな状態で眠れるはずがない。明日になっても連絡がなかったら、そしたらどうしたらいいのだろう。ずっと連絡が来ないということもあるのだろうか。取り留めのないことを考えているうちに、いつの間にか少し眠りについていたことに気付いた。顔に髪の毛と涙と鼻水が張り付いていた。張り付いた髪の毛を無造作に触れ、また、同じことばかり考えていた。いつのまにかゴミ箱がティッシュであふれるほど鼻をかんでいた。布団の中で、重く感じる体の向きを変えようと寝返りをうった時、スマホの着信に気が付いた。墨で固めたような暗闇の中で、スマホの明かりだけが怪しく揺らめいていた。私の胸の鼓動が激しくなった。布団から飛びでて、畳の上を這うように、スマホに近寄る。すぐさま着信の相手を確認する。「慎太郎だ。やっときた」思わず声がでた。祈るように目を瞑り、息を吐き出して呼吸を整えた。そして覚悟を決めた。私は、すぐさまスマホを手に取った。 「もしもし」  平常心を装った。 「あ。オレ。何度も電話あったけど、何か急ぎの用でもあった?」  と何変わらぬ様子で話しする。 「今日はもう家にいるの?特に用事はなかったのだけど。ずっと電話もできていないし、会うこともできていないし。近いうちに行こうかなと思って。忙しいと思うけど。私たちは慎太郎のアパートで留守番しているし、夜だけ会えればいいから」 私がもうすでに秋田にいるということは、しばらく黙っていようと思った。この人どうするつもりでいるのだろう。見ものだ。よし、このまま三文芝居に付き合わせよう。慎太郎は何も知らずに 「今日は家だよ。たまたま早く仕事が終わって帰れたからね。だいたいは夜遅くまでで大変なのだけど。会うのは夏休みでダメなの?夏休みはいつもオレの実家に行っていたし。今年も一緒に行けばいいでしょ?」 と白々し言ってのけた。私はせせら笑いたい気持ちを抑えて、堪えて三文芝居を続けた。 「夏休みに実家に行くのもいいけど、その前に秋田に行きたいのだけど。夏休みになってもアパートに行ってはいけないの?」 一瞬間があいたが、 「秋田に来てもつまんないでしょ。何もないところだし」  と切り返す。私は 「私が行くのを嫌がっているよう感じるけど。何かまずいの?また女ものが部屋にあるとか?この前のことで懲りただろうからそんなことはないと思うけど」  とわざと冗談のように言った。 「そんなことないよ」  と返してくる。電話の声からは慌てた様子は感じられなかった。私はだんだん腹が立ってきた。よし、言ってしまおう。スマホを握る手に力が入る。 「私ね。今秋田にいるのね。アパートに行ったら引っ越ししたようだけど、今どこにいるの?」 「亜希子と一緒なんでしょ?」 「ずっと黙っているつもりだったの?」 「どうするつもりだったの?」  と畳み込むように叫んだ。もう抑えることなんてできない。慎太郎はたじろいだような声で、 「ごめん。引っ越ししたことを黙っていて。ちょっと急だったから。」私は意地悪に「急なことって、亜希子の妊娠のこと?」  というと、慎太郎は意外にも呑気に 「よくわかったね。沙也加って感いいね」  とあっさりと認めた。 「だいぶ前に自分が言ったんだよ」  と言いながら、私は急に焦りだしてきた。妊娠の週数を数えるために、頭の中では数字の逆算が始まった。そしてある事実に辿り着いた。だいぶ前ということは妊娠してからもだいぶ経つということでないのか?私は恐る恐る 「もしかして産むつもりなの?」 「まさか結婚すると思っているの?」 「一緒に住んでいるならそうだよね?でも、私たちはどうするつもりだったの?離婚しないと結婚できないじゃない?」  慎太郎はポツリと 「沙也加はすぐ離婚してくれると思った」と言う。 「はあー?」  私は心底たまげた。そんなバカなことがあるものか。夫が不倫して、その不倫相手が妊娠したら、妻が潔く身を引くなんて普通ないだろう。いやぁ、ないない、絶対ない。この男の優秀な頭脳の中を覗いてみたいものだ、マジでそう思った。私はこんな男のどこが良くて結婚したのだろう。まあそんなことは後でもいい。今は戦わなければいけない。ここで引っ込んだら女が廃るというものだ。 「今、どこに住んでいるの?住所教えて?」  慎太郎は不思議そうに 「なんで?言ってわかるの?」 「わからなくてもいい。私は知る権利があるのです」  と力強く言い放った。慎太郎は簡単に新しい住所を喋り始めた。これを私が知ったらどうなるかなんて考えないのだろうか。頭はいいはずなのに、この人は馬鹿なのだ。世間を全く知らないのだ。私は、言われた住所を急いで書きなぐった。そして 「電話で話すのもなんだから明日じっくりと話ししようよ。電話で終わりなん てできないことだからね」  と声を荒げて言うと。慎太郎は 「もちろんだよ」  とわかっているのかどうかもよくわからない返事をした。 「今日は遅いし、明日になったら待ち合わせ場所と時間を決めよう」 と早く電話を切りたそうに話した。私は言いたいことは沢山あったため、電話は切りたくなかったが、一方的に話を切られたために、従わなければならなかった。  電話を切ってからもしばらく眠れなかった。暗闇に沈んだ壁ばかりを見つめて夜をすごした。居ても立っても居られず、明日になったら起こりうるあらゆる事態を想像した。慎太郎はいったいどこで待ち合わせするつもりなのだろう。カフェのようなところでじっくり話などできるのだろうか。いやできない。私、自分を抑える自信はない。亜希子がいたらどうする?幸せそうな二人をみたら、私はきっと何かをしでかしてしまう。そんなみっともない真似ができるか。でもなりふり構ってなどいられないのでないか。私は、さくらのためにも戦わなければならないのだ。私はスマホと一緒に握りしめていた、先ほどの住所をメモした紙に視線を送った。はたとある考えが頭に浮かんだ。そうだ、住所を知っているのだから、内緒で行けばいいじゃないの。ここまで来たのだからどこでも行ってやるわよ。慎太郎と女がどんなところに住んでいるのか見たい気もするし。突然押しかけて、玄関のインターフォーンをピンポーンしたらさぞかし驚くであろう。そう考えると少し元気がでてきた。手を揉みながらあたりを見渡すと、さくらはぐっすり寝ていた。さくらが起きたら、少し早めに朝ごはんを食べさせよう。計画はそれからでいい。いつの間にか緩んでしまう口元を何度も正した。  翌朝、予定通りに朝早めに、チェックアウトを済ませると、急いでプジョーに乗り込んだ。慎太郎から教えられた住所からはその場所は全く見当がつかないが、先ほど旅館のフロントで、この近くにある交番を聞くことができたため、交番で詳しい道順を聞くことにした。旅館から交番までは、ほんの数分であった。早朝であったため、秋田県警手形交番は静まりかえっていた。引き戸を開けるとすぐに事務カウンターが置いてあり、そこの上に呼び出し電話がおいてあった。私が呼び出し電話の受話器をとると、警察官がちょうど奥の方からでてきた。出てきた警察官は一人だけであったが、私が話を始めると奥からつぎつぎとでてきた。私は不審がられないように、 「夫がこのあたりのアパートで単身赴任しているのです。秋田に初めてきたので、右も左もわからなくて。この住所までの行き方を教えていただけないでしょうか」  としおらしく尋ねた。若い警察官は、笑顔で 「ここのあたりは新しいアパートが多くて、非常にわかりづらいのですよね。住宅地図にもまだのっていないし。この先の別の交番があるのですが、そこなら担当地域なのでこのアパートまでの行き方を教えられると思います」  ととても丁寧に対応してくれた。私も丁寧にお礼をいうと、すぐに車に戻って、次なる土崎交番へ急いだ。慎太郎が女と新築のアパートで暮らしているらしいと想像すると気持ちがざわついた。すっかり新婚気分なんじゃないの。ありえないでしょ。だって、私がいるのだから。あまりのことに衝撃を受け、もはや運転に集中できる状態ではなかった。気が付くと、私はすぐ目先の赤信号を無視して交差点にはいってしまっていた。「あ、しまった」と叫んだが、ブレーキは間に合うはずもない。しかし、幸いなことに朝早かったために、交通量がすくなく、たまたま交差点に車が入ってこなかったため、難を逃れた。危ないところだった。ここで私が交通事故で死んだら、慎太郎の思うツボだ。再婚への障害があっさりと消え失せるから。そんなことはさせない。私は努めて冷静さを取り戻そうとしていると、さくらは 「ママどうしたの?」  と所在なげな顔で尋ねてきた。 「大丈夫。ごめんね」  注意力が散漫していたことにとてもショックを感じるとともにこの子をしっかりと守らなければと心に誓った。「がんばれ私。しっかり私。負けるな私」自分にそう言い聞かせた。   なんとか、次の土崎交番に到着した。私はことの次第を手短に伝えた。対応してくれたのは若い警察官であった。目的のアパートは最近できたものであるため、やはり住宅地図にはのっていなかった。若い警察官は、 「このあたりは詳しいので地図をかきますよ」  といって簡単な地図を描いてくれた。彼の話によると、アパートまでは土崎交番からはさほど遠くない様子であった。もう少しで到着できることに少し安堵した。時計をみると、旅館を出てからそれ程時間は経過していなかったが、私はひどく疲れていた。もう半日くらい車の運転をしているかのように感じた。今回も丁寧にお礼をするとともに、急いで車を走らせた。あと少し。待っていろよ。  なんとか無事に目的のアパートを辿りついた。気持ちを落ち着かせるために、すぐ近くの道路わきに車を止めた。ふうと息を吐き、目を凝らして車のフロントガラス越しにアパートの様子を伺った。慎太郎の車が部屋の前の駐車場にとまってあるのが見えた。ここで間違えない。ここからは歩いて行くことにしよう。この車でうろついていたら、私が来たとわかってしまい、居留守を使われる可能性があるそれでは元もこうもない。玄関のインターフォーンをピンポーンしてそれでも出てこなければ、ドアを鳴らしまくってやろう。絶対逃がさない。私は覚悟を決めた。 「さくら。着いたよ」  と言うと、さくらは 「さくら。行かない。ここで待っている」  と弱弱しく声を出した。両親のただならぬ気配を感じ取ったのだろうか?そんなさくらの様子に私は涙がでてくるのを必死でこらえた。泣いてはいけない。涙をさくらに見せてはいけない。自分を奮い立たせた。 「大丈夫だよ。パパのところに行くだけだよ」  それでもさくらは、「行く」とは言わない。 「それじゃ、ママだけ行ってくるね。パパ呼んですぐ戻ってくるから」  さくらのことが気がかりではあったが、仕方がない。さくらを一人で車の中に待たせることにした。  ここまで来たら行動あるのみだ。慎太郎と女のいるアパートまでずんずんと足を鳴らして歩いた。裏切りへ対する怒り、今後の不安、さくらを不安がらせたこと、女へ対する興味や情念、いろいろな感情が錯綜した。ただただ頭が混乱していた。やっとのことで玄関前に立った。体が震えて膝がガクガクしてきた。足にしっかり力を込めて体を支えた。渾身の勇気を振り絞って玄関のインターフォーンを押した。ピンポーン。音が鳴り響いているのを聞きながら身震いがした。それでも全身を耳にして中の様子に伺った。階段を下りる音やスリッパの音など人の気配は感じるがなかなか返事ない。「やっぱり。」私は唇の隙間から思わずつぶやいた。すぐさまスマホを取り出し、慎太郎に電話をかけた。意外にもワンコールで電話にでた。なんだ、来たことはわかっていたんじゃないか。 「もしもし。慎太郎でしょ。いることはわかっているの。玄関開けてくれない?」 「えぇー。もう来たの」  とさすがに驚いているようだ。 「当たり前でしょ。今日話し合うことになっていたんだから。時間は有効に使わないとね」  しばらく電話の向こうでは沈黙が続いていたが、 「わかった」と言う声と同時に、玄関のドアが開いた。ガチャッという鍵の開錠の音を聞くなり、私は乱暴に玄関のドアを開けた。玄関ホールには部屋着姿の慎太郎が呆然と立っていた。その後ろに顔を向けると、慎太郎のすぐ後ろに女が立っていた。これが亜希子か?慌てるわけでもなく、動揺して泣き出すわけでなく、もちろん詫びるつもりも毛頭ないのであろう。修羅場に慣れた様子で堂々とした佇まいであった。敵ながらあっぱれだ。なんて感心している場合でない。 「ちょっといい?」  人差し指を外に向けると、わたしは、慎太郎を外に連れ出した。二人きりになるやいなや、私はあふれ出るまとまりのない言葉を羅列した。もう止められなかった。 「こんなところで何しているの?」 「なんで?私、何がいけなかったの?」 「さくらはどうするの?親のいない子どもにするわけ?自分は立派な親から愛情をいっぱいもらって育ててもらったんでしょ?」 「同じことを子どもにやってあげるんだと思っていた。若気の至りなんていう年ではないよね。もう中年だよ。今からリセットしても、いい人生なんて送れないよ」  心よりも分別に従った方が傷つかないのだからと私は祈る気持ちで慎太郎を見つめた。慎太郎はただ黙って話を聞いているだけであった。なんだか無性に腹が立つ。なんでこんなにも、冷静でいられるのだろうか。この人も本当はどうしたらいいのかがわからないのではないか。男子一生の不覚だと思っているのだろうか。だが、ここで情にほだされてはいけない。私は続けた。 「あの女が亜希子でしょ。妊娠しているんでしょ」 「結婚するの?」  慎太郎は「うん」と首を傾けた。私は身を乗り出して 「おかしいでしょ。離婚しないと結婚できないよ。私がすぐ離婚に応じると思ったの?冗談じゃないわ。さくらまだ小さいのに。お金だってこれからが大変なんだから」  慎太郎は私へ向かって目を見据えていたが、やがて視線を外して声を押し出した。 「お金は一生懸命に働いてなんとかするつもりだ」 「職場にも、妻と離婚して亜希子を結婚すると伝えた」  この自分本位の言葉が私の神経を逆なでした。 「だから、何で私との話し合いが一番最後なの?知らないところで、離婚が決められていて、上司にも報告して、引っ越しまでして。有り得ない話なのですが?」 「あんな女の何処がいいの?ほんとに慎太郎の子どもなの?他にも男がいそうじゃない?」 「本当に亜希子のことが好きなの?」  ついに一番恐れていたことを尋ねてみた。私のこの気持ちは亜希子への嫉妬なのだろうか。それとも何かしらの損得や思惑が絡んでいるものなのだろうか。自分でもわからなかった。慎太郎は取調室で取調べを受けている容疑者のように、 「好きではないかもしれない。誰の子どもかと言われたら、自分じゃない気もしないでもないけど、男は分からないからね。本当は違う気がするんだけど」  と自白した。いや他人事のように呟いたのだ。私は言葉を失い、醒めた気持ちで見上げた。なんかいいカモにされているんじゃないのか?慎太郎は亜希子を好きとか愛しているということでなく、妊娠を仄めかせられて焦ってしまっただけなのではないかと疑念が沸いてきた。真面目で遊んでいない男にありがちなんだよね。性行為が愛になっているのだ。ある意味純真なのかもしれないが、私はドン引きした。輪郭のはっきりしない何かが萎えた。私も、もう何だかよくわからなくなってきた。慎太郎の頭の中を覗けるものなら覗いてみたいものだ。おそらく、本気で亜希子を愛しているわけでもなさそうだし、私と離婚したいなわけではなさそうだ。そう、慎太郎は『ご乱心』してしまっただけなのだと考えることとした。私は母なる寛容な態度で接する覚悟をきめ、 「さくらが車で待っているし、とりあえず車で話をしようか」  と気を取り直してやさしく声で声をかけた。慎太郎は何も言わない。二人で黙って駐車場まで歩いた。車にもどるとさくらは何かに怯えていた。慎太郎を見ても見知らぬ誰かをみているようだ。 「さくらパパを呼んできたよ」  さくらから返事はない。慎太郎は 「子どもをこんなことに巻き込んで何を考えているんだよ」  と唇を突き出した。私は寛容な態度で接するという先ほど覚悟など、何処かに棚上げした。 「誰のせいだと思っているの?最初は喧嘩をするために来たんじゃないよ。内緒できたのは悪かったのかもしれないけど、ただ驚かせようと思っただけだったのに。なのに、勝手に女といなくなったんでしょ。私たちは何も悪くないはず。子どもを巻き込みたくないのなら、離婚なんて無理じゃない。お父さんいなくなったなんて言えるはずないでしょ」 「路上駐車はよくないよ。どこかへ移動しないと」  慎太郎は、急いでこの場を離れたそうであった。それはそうだろう。私と亜希子が直接対決するのを避けたいはずだから。私も、慎太郎とさえ話できれば構わなかったため、すぐに車のエンジンをかけ、車を走らせた。慎太郎は助手席に乗り込むと、ミラー越しにアパートの様子を見ていた。亜希子に見られたくなかったのであろう。車の中では一切会話はなかった。行先を確認するための業務連絡だけだった。 「さくら何処行きたい?」  と後部座席に向かって声をかけると。 「公園いきたい」  と返ってきた。慎太郎は 「この先に公園があったと思う。駐車場もあったと思うからそこに行こうか」 と呟いた。行きたい所があったわけでもないため、言われるがまま車を走らせた。  公園には誰もいなかった。滑り台とブランコとベンチだけが置いてある小さな公園だった。車のチャイルドシートからさくらを降ろすと、さくらはブランコに向かって小走りしていった。その様子を遠い目で眺めていた。こんな公園なんか、恐らく普段から子どもなんて遊んでいないに違いない。こんな所に住む人の気が知れない。まともな人間なんて住むところでない。 「あの女こういう辺鄙なところが好きなの?まあね。堂々と暮らせる間柄ではないから仕方ないのかもしれないけど。人目を避けて生活するにはいいかもね」  私はわざと意地悪に言った。 「なんで引っ越ししたの?ここは職場からも遠いと思うけど」 慎太郎は相変わらず他人事のような口調で 「引っ越しなんてしたくなかったのだけど、彼女がストーカーに付きまとわれて困っていたから、助けてあげようかなと思って。契約書にハンコ押しただけだからどんなところかわからなかった。アパートを二軒も契約しているのはもったいないから、自分もここに引っ越ししてきただけだよ」  私は予想外のことに声がうわずっていくのがわかった。 「じゃあ、また別のところを探して引っ越ししたら?結婚の予定のない男女が一緒にいるなんておかしいでしょ」  しゃべればしゃべるほど自分の声がうわずって、こめかみまで疼いていく気がした。「だいたいストーカーって何?恐らく元彼でしょ?お腹の子どもだって、元彼の子どもかもしれないでしょ?なんかおかしいよね?きっと自分たちでアパートを契約できないから利用されていただけじゃない?」 「本当に妊娠させたと心あたりあるの?絶対違うよ。もしかしたら誰の子どもかなんてもうわからないのかもしれないでしょ?」 「よく話したの?」  慎太郎は首をすくめて 「忙しくて。実は一緒にいてもたいして話はしていない。元のアパートから引っ越ししてくる時も一人だったし。荷造りを手伝ってもらったわけでもなかったし。夜だけ同居している、そんな感じかな」  私は慎太郎を一瞥すると、 「私は絶対離婚なんてしないから。離婚がない限り結婚することはできない。そのことちゃんと話してあげたら。なんなら私が話をつけるし。私、今回のことは最初から最後までよくわからないけど、絶対おかしいと思う。慎太郎はあの女と離れた方がいいよ。おそらく、裏で変な男が関わっているかもしれないし。ここで仕事ができなくなるかもよ」  と少し大げさに言ってみた。慎太郎は 「まさか。そんな悪い人でないと思うけど」  私はキッパリとした口調で 「男にストーカーされるのって普通に生きている人には有り得ない話だよ。きっとそういう女なんだよ」 「子どもはオレじゃないのかな?どうしたらいいんだろう?」  困惑した表情で下を向いていた。そんな慎太郎とは対照的に私の胆は据わっていた。男は馬鹿だ。色仕掛けですっかり騙されてしまう。その点、女はスーパーリアリストよ。自分の気持ちに折り合いをつけて、損得勘定はいつでもできるんだから。この男にははっきり言って幻滅させられた。だけど、さくらのためにまだ働いてもらわなければならない。そう、まだ使えるんだから使わない手はない。あの女の恰好の獲物にされるわけにはいかない。私は意気揚々に 「亜希子と話させてくれない?」  慎太郎は驚いていたが 「わかった。沙也加に子どものことも本当のことを聞いてもらった方がいいのかも。オレ一人ではうまく話しできそうもない」  私は仏頂面で口を噤んだ。もう何も話したくなかった。  私はまた、慎太郎と亜希子が住むアパートの玄関の前に立っていた。さっきは膝が震えてどうにもならなかったが、今は葉っぱを散らすほどの春風に身を震わせていた。ここまできてひるんではいけない。負けるものか。亜希子への対抗意識丸出しの視線で慎太郎を見た。慎太郎は自分の気持ちを押し隠しているようだ。この人は本当にわからない。もはや理解不能である。こんな状態で当事者が雁首並べて何か有効な話ができるのだろうか?私は「大丈夫?しっかりしてね?」と目で頷きかけた。  大丈夫だと思っていたが、アパートの部屋に入ると心がかき乱れてくるのを感じた。心の中を悟られないように、部屋から窓の外のへ向かって顔を向けた。部屋の中はニトリで売っているような安っぽい家具ばかりであった。パイプ製のダイニングテーブルセットに、中途半端感の半端ない二人掛けの布製ソファー、ペラペラのピンク色のカーテン、やたらとラメが入ており、キラキラ金メッキ塗りの置物、スリッパもまたキラキラした素材で趣味が悪い。そして着ていたTシャツもヒョウ柄であった。なにもかも悪趣味で、本当に期待を裏切らない人であった。私は思わず口元が緩んだ。余裕の表情を取り繕って、亜希子の前に立った。 「妊娠されているんですね?ほんとうは誰の子ですか?」  疑惑の視線を亜希子に投げつけた。亜希子はふてぶてしい態度で 「彼の子です」  と慎太郎に目を向けた。慎太郎も頷いて亜希子を見ていた。さっきまでは、本当は誰の子かわからないなんて言っていたのに。慎太郎は本当に理解不能だ。私はできるだけ慎太郎をみないように 「あなたのしていたことは不倫ですよ?わかっていました?」  亜希子は私を睨み返すように 「私は奥さんとは離婚したと聞いていました。まだ籍入っているのですか?」  と返した。私はキッパリとした本妻然りの口調で 「当然でしょ。私は誰かさんと違って愛人ではありませんから」 「一生愛人でもいいの?愛人を生業として生活している人もいるので、悪いとは言わないけど。どうせ捨てられるわけでしょ?ああ、違うね、他に男がいるから慎太郎が愛人なのかしら。お金をとれるから利用しているのね?」 「本当に産む気なの?だって慎太郎には私たちがいるし、私たちは絶対に離婚なんてしないから。一生結婚もできないで日陰の身でもいいなら、どうぞ?」 「職場にもう報告されているようですが、結婚がなくなって残念でしたね。結婚予定でこのアパートを契約したのかもしれないけど、ここは当然解約させてもらいます。数か月の間、楽しい夢を見たと思ってくださいね。でもね、夢は結局のところ夢でしかないのです。覚めてしまうのです。覚めたと自覚してくださいね。なんなら私がお手伝いしますけど。これから慎太郎の職場にも行く予定です。上司にあって二人でもう一度やり直すことになったと話す予定です。男の色恋沙汰は仕事に影響するものではありませんけど、女は違いますよね。こんな田舎で私生児を産んで、男に捨てられたら噂になりますよね。将来、子どもになんて言うのですか?慎太郎に騙されたとでも?自分が母親を騙した男との間にできた子どもだと知ったらどう思うのでしょう?子どもは傷つきますよね。私なら恥ずかしくて耐えられない。だってみんなに祝福されて結婚したいし、祝福されて子どもを産みたい。まあ、あなたみたいな男をとっかえひっかえしている人にとっては慣れたものなんなのでしょうけど」 「私たちはいずれ東京に戻ります。あなたとのことなんてすぐ忘れてしまいます」 「秋田はあまりにも何もなくて、女と遊ぶくらいしかできなかったのでしょうけど」  私は意地悪に慎太郎を見た。亜希子は慎太郎の腕にもたれかかり、とろんとした目つきで慎太郎を見上げた。 「結婚していても長く別居していると離婚が認められることがあると、家庭裁判所で言われたし。この前二人で相談に行ったんです」 「妻なんていったって形だけでしょ。なんにもしてないじゃない。私たちは結婚するんです。彼のお父さんにも認めてもらったし」  慎太郎は無関心を装っていた。ふん。見ざる言わざる聞かざるか。まるで他人事でないか?誰のせいだと思っているのだろうか?何でこんな酷いことが起きてしまったんだろう。喉に苦いものがつまったような感覚が離れなく、私は息をすることさえ辛くなった。私は下を向いて泣きたくなるのを堪えて、声を絞り出した。 「お義父さんが二人の結婚を認めた?嘘つかないで」 「なんならお義父さんに確認するから」  私はすぐさま、膝の上に抱えていたバックの中からスマホを探しだした。指先に込められた力が私の怒りや屈辱などすべての感情を表すかのようだった。爪の色が変色するくらいの力をぶつけて東京のお義父さんに電話した。電話はつながらなかった。私はたじろいだ。お義父さんは本当に再婚を認めたのではないか?だから私の電話に出たくないのではという疑念が生まれた。私は首を振って、疑念を拭い去った。今度はお義母さんに電話した。私は祈るように電話の呼出音を聞いていた。何回かの呼出音の後、 「もしもし。沙也加ちゃん?こんにちは。お昼に珍しいね。何かあったの?」  お義母さんのいつも通りの声に安心した。 「今時間大丈夫ですか?」 「私、今秋田に来ているんです」 お義母さんは、 「そうなの?何かあったの?」  と電話での様子からは変わったことは全く感じられない。お義父さんが再婚を認めたというのはやはり嘘ではないか?と一瞬安心した。私は少し明るい声で 「昨日、さくらと二人で秋田の慎太郎さんのアパートに来てみたんですけど、私に黙って引っ越ししてしまったんですよね。いなくなっていたんです。私、引っ越しのこと全然聞いていなかったんですが、お義母さんは知っていたのですか?」 「ええー?引っ越ししたの?全然知らないわ。前のアパートにもういないの?何か急な事情があったのかしら?」  電話の向こうで誰かとゴソゴソと会話しているのが聞こえてきた。どうやらお義父さんのようだ。 「もしもし。お義母さん。お義父さんは最近秋田に行ったと聞いているですが、お義父さんも知らないのですか?」  電話の向こうの声が大きくなってきた。お義父さんは電話には出たくないようであった。どこ家も面倒な部分は女の仕事なのであろう。それでも数秒間の押し問答の末に、お義父さんが電話にでた。 「沙也加ちゃん。この前、慎太郎に会った時、今のアパート不便だから引っ越しするだのしないだの言ってはいたのだけど、やっぱり引っ越ししたんだね。その時にね。住所を聞いておけばよかったんだけど、住所は聞いていなかったからわからないね」    なんだ、お義父さんは引っ越ししたことは知っていたのか?本当にそれだけであろうか?なんだか腑に落ちない。 「お義父さん。もしかして、慎太郎さんが再婚すること知っていたの?相手の女性がお義父さんから認められたと言っていたのだけれど?」私は恐る恐る聞いてみた。 「認めるとか認めないとかそういうのではないよ。慎太郎のところに遊びにいったら、女の人がいたというだけで」  としどろもどろに答えていた。なんということだ。私は言葉を失った。背中から汗がにじみ出るのを感じた。泣きたいくらい絶望した。この日ここで聞いたことを私は一生忘れないであろう。私って誰?何?紹介したてどういうこと?離婚もしていないのに親に再婚の報告をしたということ?だって、お義父さんはついこの前、さくらに会いに東京から新潟にやってきたばかりではないか。その時、すでに慎太郎の再婚の事実を知っていたの?みんなで私を騙していたの? 「知らないのは私だけだったのですか?」  私は怒りに任せて電話を切った。何が真実なのだろうかがわからなかった。スマホを握りしめて一歩も動けなかった。 力なく二人に視線を投げると、亜希子は私が東京の義父母と電話していることに全く関心がない様子で、慎太郎といちゃついていた。慎太郎に肩を抱かれ、その腕に支えられるようにして眉をㇵの字に引き上げ、完璧な上目遣いで慎太郎を見つめていた。恋に恋する女子高生、はたまた夢みる夢子と言ったところなのか、思わず顔を覆いたくなるようないちゃつきぶりであった。私はその様子を見ていた。ずっと見ていた。私の視線に気が付くと、亜希子は首をかしげてこっちを見返した。  あまりにも馬鹿々々しい光景を目にして、私は完全に醒めていた。いやドン引きしたのであった。衝撃的な現実を前にして、悲しいとか辛いとかそんな感情は通り超してしまった。亜希子は慎太郎に向かい唇を突き出すように 「ねえ。話はまだあるの?帰ってもらえないの?」 私は目を剥いた。 「帰るってどういうこと?誰に言っているの?ここは慎太郎が契約者でしょ。あなたがいなくなればいいでしょ。住むとこが決まるまでは、慰謝料替わりにここにおいてあげるけど、このアパートは今日中に解約させてもらいます。慎太郎には別の所にすぐに移ってもらいますから」  亜希子は胸の大きく開いたTシャツから胸を寄せるように、慎太郎の腕にもたれかかって、慎太郎の胸に顔をうずめていた。私に見せつけるように、わざとやっているのであろう。三十歳手前ならいい大人である。それなのに、やることが幼く、浅はかで、知性のなさを感じた。昭和感と場末感が入り混じるこの女をどう形容すればよいのだろう。私は蝋人形のような冷たい表情で亜希子を観察していた。  亜希子は私を小馬鹿にしきった態度をとっていた。若いころから荒んだ生活をしているせいか、年のわりに生き擦れているのだろう。もしかしたら、そういうところに男は危険な匂いたつような色気を感じるのか。亜希子はその色気を持て余すかのようにだれとでも関係をもっていたのだろう。すべてにおいて女であることを主張し、体を露出させた服を好んでいた。食事を奢らせ、プレゼントしてもらうことなどあたり前と思っていた。惚れっぽく、物を与えられれば、物を与えた人を好きになるという頭の悪い女であった。常に男たちの注目を浴びないと気が済まなく、体を与えればなんでも手に入れることができるというような、若さを消耗するだけの女でもあった。慎太郎を手に入れたと勘違いし、無駄に勝ち誇る。  慎太郎が浮気をしたという事実でさえ受け入れがたいのに、よりによってこんな女と同じ土俵に上げられたことが酷く屈辱的であった。他人と張り合うには張り合うだけのレベルになければならないだろう。 居たたまれなくなり、私は慎太郎と亜希子の間に割り込んだ。 「いつまでくっついているのかずっと見ていようと思ったけど、もう限界なのね。会社や不動産会社に行ったりしたりと今日中にすることがいっぱいあるので。慎太郎は早くここ出る用意してね。あと、冷蔵庫や洗濯機などほとんどの家電はうちのものですから、慎太郎が引っ越したら自分で買って準備してくださいね。妊婦さんなのに大変ね。せっかく新築物件に入居できたのにね。新婚ごっこが終わってしまうわね。あら、ごめんなさいね。結婚することできないから新婚ではないわね。愛人生活か」  亜希子は私を完全に無視して、 「赤ちゃんどうするの?」  と慎太郎に訴えていたが、私も負け時にその言葉を遮るように慎太郎の腕を引っ張って、簡単な荷造りを急がせた。 「父親になってくれる男を探せばいいことでしょう?もういるのかもしれないけど。あなたならその体使ってできるでしょう?使えるものはなんでも使わなくちゃね」  と一瞥してアパートを出た。  私たちは、秋田市内のビジネスホテルに滞在することになった。すぐに次のアパートを探さねばならないが、アパートがみつかるまでは拠点となる場所が必要だった。もう二度と亜希子と同居させるわけにはいかなかった。  薄暗い部屋のベッドにドサリと腰を下ろした。ベッドのスプリングが軋む音が響いた。やがて音が途絶えた。静寂に耐えられず目の前の壁に吊り下げてあった鏡を覗いた。鏡に映る自分の姿に驚いた。けだるい間接照明に照らされた自分の顔はとても虚ろで淀んだまなざしに見えた。自分ではないような枯れた女がそこにいたのだ。表情には言葉以上の心が表れていた。強い自分を取り戻さねばならなかった。早く何か行動を起こさないといけない。不安を打ち消すかのように首を横に振った   ホテルの部屋で昼食をとりながらとりとめもない会話をしていた。だが、言葉は自然にはでてこない。空回りばかりだ。何度も沈黙が繰り返され、ギクシャクしたままだった。その度に内臓が雑巾のように絞られていく気がした。悪夢のような現実から逃げ出せなかった。もう元には戻れないだろう。そう予感した。  「ねえ。なんであんな女と付き合いだしたの?」 「…。」 「もっと他にいるでしょう?いくら寂しいと言ったって。誰とでも寝る女でしょ?ああいうタイプ好きだったんだ?」  慎太郎は視線を合わせないが、ポツリと独り言のように喋りだした。 「好きかどうかはわからない。子どもができたって言うし。オレから産むなとは言えないよね」 「親父は始末して別れろと言ったんだけど。信じないかもしれないけど、別に親父に紹介したわけでない。本当に突然やってきて鉢合わせになっただけで」 「とにかくすぐにでも引っ越ししないとね」  チラリと見ると、慎太郎は話かける的なオーラを醸し出していたため、それ以上話かけることはしなかった。  慎太郎は次のアパートを探して、早急に引っ越しすることに反対はしなかった。素直に私の言うことに従っていた。実際にそうするであろう。それは自分の非を認めて改心したからではない。慎太郎は、これまでの人生を一度だって自発的に歩いてはいなかったから。慎太郎は真面目な男であった。幼いころから勉強ばかりさせられ、それ以外のことは全く経験してこなかったと言ってもいいくらいだ。汚い事、酷い事、傷つけられることは周囲の大人が慎重に排したため、きれいな道しか歩いてこなかったのだ。そう、世間から守られた少年だった。その代償は大きく、何も自分で選ぶことは許されなかった。それでも、そのことに不満や疑問を持ったことはなかった。親や周囲の大人の言う通りに進んで結果的にいつも勝ち組になることができたからだ。恐らくこれからも変わることはないであろう。  しかし、慎太郎が私の言う通りに亜希子から離れたとしても私たちの関係はもう元通りにはならないであろう。さくらがいるからそれなりに家族として機能するかもしれないが、私たち二人の関係は完全に破綻した。  翌日、私は亜希子のアパートの前に立っていた。もちろん亜希子は今朝いない。仕事にでかけて不在であるのを見計らってきたから当然である。昨日、運よくウィークリーマンションを契約したため、すぐに引っ越しすることが可能になったからである。再びここにくるとは夢にも思わなかった。ギラギラとした太陽が新緑の葉っぱと反射してやたらと眩しい。憎々し気に目を細めてアパートを見上げた。本当になんてことをしでかしてくれたのだろう。こんな気持ちいのいい日に他人の部屋の引っ越しなんて。無性に腹が立つ。あの時はこの建物をじっくり見る余裕などなかったが、こうやってみるとあの女に住ませるのはもったいない位の物件ではないか。流行のメゾネットタイプの二階建ての居室で、ダブルのオートロック、やや奥行きがある三和土を通り抜けると一階は一LKだ。対面キッチンにパントリーまであった。キッチンの奥へずんずん行く。その先にあった流し場のシンクの隅にゴミがたまった三角コーナー、炊飯器に入れっぱなしの白米、油汚れにまみれた食器類がそのままになっていた。あちこちに油汚れがこびりついていてベトベトする。亜希子のだらしなさを改めて垣間見た。床も妙にじっとりしており、よくみると髪の毛や綿埃が目立っていた。私はあわててスリッパをはいた。スリッパもまた妙な湿気があった。 「もうなんなの。この不潔さ。まだ住んで数か月でしょ」  慎太郎にわざと聞こえるように言った。 「これでも料理は上手かったよ」  と投げやりな言い方だった。聞こえなかったふりをしてずんずん二階に向かった。狭いリビング階段を上ると階段ホールを挟んで左右に洋間が二つあった。東向きの部屋には広めのベランダがあった。ここは亜希子部屋らしい。部屋の真ん中に天蓋付きの巨大なベッドがあり、その周りにはホームセンターで売っているような三段ボックスにこちゃこちゃした小物が雑に置いてあった。クローゼットには、ペラペラキラキラとしか形容できない安っぽい衣類が収納されていた。ベッドの天蓋のところにはこれまた安っぽい『つっぱり棒』がほどこされてあり、洗濯物を干すスペースを作っていた模様だ。ベッドの天蓋の『つっぱり棒』を見上げると、商売女が穿くような赤いパンテイーやセクシーコスチュームとでも言うのだろうか?色とりどりのスケスケ下着が干してあった。思わず目を覆いたくなる気持ちを抑えて、視線を奥にむけた。奥の西側の部屋のドアを開けると、カーテンの隙間からわずかな光が漏れ出る程度の薄暗い部屋があった。ここが慎太郎の部屋なのだろうか?部屋に入ろうとすると 「そこは亜希子の妹が使っている部屋だから。オレの物はないよ」  と理路整然と語った。 「はあぁ?なんで妹がここに住んでいるの?慎太郎はどこで生活していたの?本当にここで生活していたんだよね?まさか亜希子の親も住んでいるの?」  返事はない。 「亜希子の親にも婚約者として会っていたわけだ。」私は慎太郎の顔を覗き込んで「亜希子の親とも会っていたの?」  とさらに興奮した声で言った。慎太郎は 「うん」  と頷いた。その瞬間全身の力が抜け、床に座りこんだ。うわずりそうになる声を飲み込み、必死に顔を上げて慎太郎を見上げた。今まで気が付かなかったが、慎太郎の左手には指輪がキラキラと光っていた。私はすかさず 「それ何?」  畳み込むように言葉を繋いだ。 「私には指輪なんてくれなかったよね」  結婚の時、なぜ指輪をもらわなかったのだろうか?今となっては思い出せない。はっきりしているのは愛人の亜希子に結婚指輪があって、正式な妻である私には結婚指輪がないということだ。 「沙也加が欲しいなら指輪くらい買ってあげるよ」 「そういう意味で言ったんじゃないわ。なんでこんなひどいことができるの?妻には指輪すらくれなかったのに。私…。今はこんなだけど、昔は粗末にされなければならない理由なんてなかった」 「だって要らないって言ったじゃないか」  慎太郎は少し苛立ったように言葉を投げてきた。もしかしたら、結婚した当初は「指輪など要らない。」と言ったのかもしれない。でも、自分の夫が愛人に結婚指輪を送って、二人にその指輪を見せつけられるのってどうなのよ。なんかわけわからなくないか。愛人をつくる男なんて世の中ごまんといると思う。でも私くらい酷い扱いを受けてはいないだろう。  愛人をつくり、孕ませて結婚を仄めかすということはよくあることなのだろう。妻に黙って引っ越しすること、何事もなかったかのように愛人と生活すること、双方の親を引き合わせ用意周到に再婚することを企てること、本妻との離婚問題をこっそり家庭裁判所に相談に行くこと。このくらいのことは実際によくある話なのだろう。世間的に面白くも何ともない話なのかもしれない。しかし、我が身に起こると思わなかった。  慎太郎は完璧主義者で順風満帆な人生を歩んできた。完璧主義者の人生初の過ちが亜希子との再婚計画だったのだろう。完璧主義者の欠点は一つ躓くと簡単にリカバリーができなくなることだが、慎太郎も御多分に漏れずそうなのだろう。どうあがいてもこの計画はうまくいくことはない。だって、すべては私の心次第なのであるから。法律婚の妻をなめてもらっちゃ困るのである。私は意地でも離婚などしない。  私が別れないと意地を張るように、あの二人も別れないと意地を張ることもあるだろう。そうなったら私は本当の意味で形だけの夫婦になるのだろうか? 『妻なんて言ったって形だけでしょ。なんにもしてないじゃない。…形だけで何もしていない………』  あの時の亜希子の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。亜希子には形がなくても実態が伴う何かがあるという自信があるのだろうか?それは今の私にはないものであろう。  夫婦とはこんなにあっけないものだろうか。所詮他人なのであるから当然なのであろう。しかし、私と慎太郎がともに生きてきた今までの時間はなんだったのだろうかと思う。形のあるものだと思っていたことは、実はそうではなかったようだ。  私たちの今までの時間はシンデレラのガラスの靴のようである。それは完成された『幸』せの象徴であり、その時はピカピカに輝いてうっとりといつまでも眺めていられるが、危うくてあっけなく壊れてしまうもの。後に残るのは『幸せ』に対するに飢えと苦しみだ。『幸せ』以上の『幸せ』を求め続けるが、完成された『幸せ』は現実には存在せず、『不幸せ』の存在を認めざる得なくなる。 「最低な男だ」と小声で言った。 「自分が眠れないくらい辛い思いをしていた時、亜希子と結婚するなんて甘ったるいことを考えていたなんて」  最後にもう一度慎太郎を見つめた。視線が交差し、カーテンの隙間から漏れ出る光と重なって見えなくなった。初めて真正面から見た気がした。自分の目が微かに潤んできた。私は黙って荷造りを始めた。手当たり次第なんでも詰め込んだ。あの女には何一つ渡さない。私以上に幸せになることなんて許さない。引っ越しすることですべてが解決すると信じたかった。引っ越しすることが一番の解決策だと思っていたが、これが終わったら今度はどうしようか。もう打つ手はないのだろうか。  私は自分ではすべてのことを『選べる人間』だと思っていた。しかし、『選択』というものは選択するほどその余地がなくなるものである。そして最後には『選択』というものできなくなる。当然のことだが、『選択』できなければ後は『選択されること』を待つだけとなる。私はもう『選択されること』を待つしかできなくなくなっていたのだ。この瞬間、私は『選択されること』の残酷さを理解した。慎太郎は私を『選択』しなかった。私は『選ばれない人間』だったのだ。これはまごうことなく真実だった。  無性に東京に帰りたい。いや、帰りたいのではなく、戻れるのなら幸せだと思っていた元の生活に戻りたいのだ。自分の心のダムはもう決壊してしまいそうだ。自分を崩壊させてはいけない。取り乱してはいけない。自分に残された自尊心を荷造りの荷物とともにかき集めた。手あたり次第に手を動かしていた時、ベッドの下に書類のようなものを発見した。手を伸ばして書類を引き寄せ、潤んでいた目を走らせた。それは記入済みの離婚届けだった。何度も確認するかのように、そっと紙をなぞるとざらとした埃の感触を指先に感じた。堪えていた涙が頬に伝い指先に落ちた。離婚届けには次々と小さな染みができた。 訴えてやる。  私は負けてはいけないから。そう。戦わずして負けいけないのだ。
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