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第1章 諸法無我〜俺たちには実態がない 松下劉弦
第1話 探し物はなんですか
午前1時を過ぎたオフィスは、空気が冷たく感じられた。大窓からネオンの光が差し込む。隣接する雑居ビルに出店している飲み屋の下品なネオンだ。暗いオフィスの中では、赤や緑のネオンが眼球を刺激し煩わしい。
俺たちはこのオフィスの人間ではないので、堂々と灯りを点けるわけにはいかない。要は部外者の俺たちは、このオフィスに忍びこんだのだ。手元の小さい懐中電灯とネオンの光を頼りに、目的のものを探す。
「劉弦、見つかったか?」
一緒に忍び込んだ辻天馬が俺の名前を呼ぶ。誰もいないオフィスは静まり返っていて、声が響いて聞こえる。あれほど仕事中は名前を呼ぶな、と言っているのに、わからない奴だ。
「天馬、メモが汚すぎるから、わからん」
仕返しに名前で呼んでやった。
「お前、仕事中は名前で呼ぶなって、お前がいつも言うだろ!」
自分で気づいていない奴ほど、注意するのに面倒なものはない。俺は天馬を無視して、例のものを探した。
手元のメモは、うちの下働きが書いたものだ。そのメモはオフィスの間取りとオフィス什器の配置を書いてあるのだが、小さい子供の落書きより汚い。多分オフィスデスクだろうが、いくつもの四角が書かれている。その線も一片が直線ではなく、楕円形みたいなものもあって、それがこのオフィスの配置なのか判別つかない。大窓の方面に雑に丸が書かれているのが、今目の前にある観葉植物の植木鉢だと考えられる。他に『ソファ』と書かれてあるが、この部屋にソファらしきものは見つからない。
メモには『部長』と書かれたデスクらしい四角の横にも丸が付けられ、そこに赤印が付けられ『取手』と書かれている。しかし、このメモではその部長の机の横には観葉植物の鉢など置かれていない。この丸は、ゴミ箱のことだろうか。ゴミ箱は空っぽで、目的のものはない。『取手』と書かれているのも気になるところで、ゴミ箱に取手は付いてないので、益々意味がわからない。
「だから、まだ一休には早かったんだって」
天馬は懐中電灯でその汚いメモを照らし、鼻で笑った。『一休』とは、うちの下働きのことだ。正確には、数原利休だ。「利休なんて偉そうな名前付けやがって。お前は一休の方がいい」と天馬が揶揄ったのがきっかけで、そのままそう呼んでいる。身長も小さく、目がクリクリしているので、アニメの『一休さん』のキャラに似ているから、内心俺もそっちの方が合っていると思う。でも本人はそれを嫌がっている。
側にいる『辻天馬』も『数原利休』も、俺の名前『松下劉弦』も本名ではない。うちの和尚が付けた名前だ。偽名を使っているのも仕事のためだ。俺たちはこの仕事のために和尚の元に集まった。というよりも、和尚に拾われたと言った方が正確なのかもしれない。過去に傷を抱え、普通に社会復帰できなかった俺たちを和尚が迎え入れてくれたのだった。
「おい、こっちなんじゃねえのか」
天馬は通路を挟んだ向かい側で、もう1つの事務所の中を指差している。その部屋の通路側の窓のブラインドが半開きになっており、少し中を覗くことができた。雑なメモと見比べた。たしかに中にはソファもある。観葉植物の鉢だと思われたメモの丸の位置に、大きな壺が置いてあった。その壺には傘が数本立てかけられていた。でも、その部屋のドアには『PRESIDENT』と銘打たれたプレートが貼り付けられている。ここは社長室だ。今回のターゲットは広報部部長のはず。
「なあ、取手って傘の取手のことか」
俺たちは顔を見合わせ、社長室のドアを開けた。すると喧ましい防犯ブザーの音が鳴り響いた。
「あのバカ、ここの防犯は手薄だって言ってたじゃねえか」
天馬は急いで壺の傘に駆け寄る。一休は下調べで、通路にある防犯カメラはダミーだと言っていた。警備も24時間体制だが、1階の関係者出入口の警備室にはろくに警備巡回も行わない寝てるだけの警備員がいるだけだと言っていたのに。
「あった!」
天馬は壺の前でしゃがみ込み、直径1センチ程の小型カメラを摘み上げていた。目的のものを見つけたら、もうここには用はない。天馬に顎をしゃくって、逃げるよう促した。
「えー、なになに!誰、誰!ちょっと、ちょっと!どうしよう、どうしよう!」
通路の曲がり角の方から、バタバタした足音と悲鳴に近い情けない中年男の声が近づいてくる。警備員のオッさんだ。天馬は舌打ちをして、小型カメラをブルゾンのポケットに仕舞った。口に咥えるタイプの簡易マスクをして、俺に目配せしてきた。俺も簡易マスクを咥えて、通路の角へ駆け寄る。ワークパンツの膝ポケットからスプレー缶を出して構えた。
喚きながら走ってくる警備員のオッさんが、丁度角を曲がろうとしたところ、顔に目掛けてスプレーを噴射した。
オッさんはスプレーから噴射された粒子を吸い込み、瞬時におとなしくなり、体がフニャフニャになり、背中から倒れた。その拍子に、ゴンッと、頭を打ち付けた。
「大丈夫か?死んでねえよな」
俺はオッさんの後頭部を覗いたが血は出ていないようだ。打ち付けたであろう部分を触ってみたが、頭蓋骨にも異常はなさそうだ。胸に耳を当てると心臓は動いている。
「多分、死んでない」
俺は医者ではないのでわからないが、とりあえず今のところ死んではないので急ぐことにする。俺はオッさんの両脇を後ろから抱え、社長室まで運ぶことにした。
「何やってんだ!お前も、足を持て」
天馬がオロオロしながら、オッさんの足を持ち上げた。オッさんを社長室のドアを付近に寝かせた。もしオッさんが無事に目覚めたら、誤って社長室のドアを開けてしまい、防犯ブザーの音で驚いて気を失ったということにはならないか、という安易な発想だ。それが得策かはわからないが、とにかくこの場から離れなければならない。もう1度心臓の音を確かめて、俺たちはその場を後にした。
1階の警備室の前を通ると、中を覗いた天馬が俺を呼び止める。
「おい!あのガキ、通路の防犯カメラはダミーだって言ったじゃねえか!」
天馬が指さす方向には、警備室にはモニターがあり、社長室の前で失神しているオッさんの姿が映っている。画質は悪いので、俺たちが映っていたとしても判別は難しいだろうが、できるなら証拠として残したくはない。録画消した方がいいんじゃねえか、と天馬が言うが、あの映像を消しても消したという証拠も残ってしまうし、それに機械音痴な俺はどうすることもできない。それに防犯ブザーが鳴れば、警備会社の方にも非常通報がいき、応援が駆けつけてくるだろう。
それよりも、ここから退散することの方を優先だ。出入口の外の様子を伺う。防犯ブザーの音は外にまでは聞こえなかった。人が外にいないことを確認し、俺たちは外に出た。2軒隣のビルからバーテンダーの格好をした男が出てきたので、俺たちは咄嗟に肩を組んで酔っ払いのフリをしてやり過ごした。
バーテンダーの姿が見えなくなり、俺たちは逃走用の車を停めてあるコインパーキングまで走った。
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