第一章

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第一章

 立派に整備された石畳の街道を、一台の馬車がゆっくりと走っている。長旅の移動に使われることが多い箱型の馬車は、質素ではあるが頑丈に出来ていた。がたがたと揺れる馬車を操る馭者台に腰を座っているのは、まだ二十歳になるかならないかの青年だ。日除けの帽子の下からこぼれるのは、眩いばかりの金髪で、ぱっちりとした目がいきいきと輝いている。御者台の上で、すれ違う旅人や馬上の人たちに会釈をする姿も明るく弾むようで、見る者の心を和ませるような雰囲気を持っていた。  しばらくすると、荷台から馭者台に繋げられた呼び鈴が軽やかな音を立てる。青年は危なげなく馬を宥めて街道の脇にと馬車を停止させた。そのままひょいと台を降りて、荷台の扉を開く。 「どうかした?」  馬車の中は厚手の布で外からの視線を遮っているため薄暗い。何度か瞬きをすれば、青年の目はようやくとその薄暗がりに慣れてくる。  荷台の椅子に腰を降ろして苦笑しているのは、青年の母親だった。ジェイドの父親譲りの金髪とは違う栗色の髪を束ねて巻いている。柔和そうな垂れ目が印象的な人だった。地味な色合いの婦人服の横に、旅用の外套が丁寧に折り畳まれて置かれている。 「姫様の発作です」 「ああ、そう……」  いつものことなので青年は動じることなく、荷台の中に視線を巡らせた。  それほど広くは無い荷台の床。そこに布の塊が一つ出来上がっている。外套に付いている頭巾まですっぽりと被って蹲ったそれが、青年と母親が長年使えている主その人だった。 「おい、姫ぇー。大丈夫ぅー?」  間延びした声で問いかければ、布の塊がごそりと動く。恨みがましい視線が布の隙間から覗くが、生まれてから殆ど一緒に育った仲の相手からのその視線に、青年は慣れきっていた。動じることなく言葉を続ける。 「今回はどうしたの。空が落ちてこないか不安なの? 月の満ち欠けが自分のせいじゃないか心配してるの? 太陽が東から昇って西から落ちるののが申し訳ないの?」 「ジェイド……」  掠れた中音域の声が青年の名前を呼んだ。  布の塊がもぞもぞと動く。ぐずっと鼻を啜った頬を涙でびしょ濡れにしたまま、情けない口調で言った。 「もう無理」 「なにが?」 「死ぬのは嫌だけど、生きてるのが辛い……」  いっそ一思いに殺してくれ、と言いながらしくしくと泣き出した乳兄弟――兼幼なじみを、ジェイドは呆れた顔で見やる。  他人が聞けばぎょっとするような弱音の吐露も、この乳兄弟の側にいれば五分も経たない内に聞き飽きる。ジェイドは至って軽い声音で言う。 「姫さぁ。とりあえず、その続き王城に着いてからにしない? 俺、いい加減にちゃんとした寝台で眠りたいんだけど」 「そうか、ジェイドが寝不足なのも、フラウが困ってるのも、全部私のせいか……。ああああああ……ごめんなさい、生まれてすみません。産んでくれとは頼んでないけど、生まれて来ちゃってごめんなさい!」 「どんな謝罪、それ?」  呟きながら首筋を掻いて、ジェイドは母親の方に視線を向ける。乳母として布の塊と化した幼なじみに仕えてきた母親のフラウは、苦笑を深めながら謝罪の嵐を宥めるように口を開いた。 「姫様、落ち着いて下さい。ラストラルタの末王子様ともあろう御方が、わざわざティセルラントの姫など貰い受けたりはしませんから」  ジェイドがその言葉を引き継いだ。 「そもそも、呼ばれてる花嫁候補は姫だけじゃないんだからさぁ。いつもみたいに地味に目立たないように陰気で卑屈にしてたら、相手も興味無くすって。それで、用事が済んだらさっさと国に帰れば良いんだし」 「もう帰りたい……離宮の地下室で膝を抱えながら壁の染みだけ見つめていたい……」 「姫様、茸が生えそうなので、あれだけは止して下さい」  仮にも「姫」と呼ばれる者の行動として決して褒められたものではないそれを咎めて、フラウは溜息を吐いて言った。 「ジェイド、城まであとどれぐらいですか?」 「もう三刻もあれば着くらしいけど」 「城が見えてきたら、馬車を一度停めて下さい。姫様の顔が色々と大変なことになっているので、王城に行くのはそれを直してからにしましょう」 「まぁ、確かに。姫の顔、ぐっちゃぐちゃだもんなぁ」 「一目と見られぬ不器量ですから、御前に上がれませんって言おう。そうしよう」 「そこまで不器量なら見てみたいって召し出されるんじゃないの、それ」 「姫様。こういうことに小細工を弄すると、却って墓穴を掘りますよ」 「だってええええええ」 「それじゃ、今度馬車を停めるのは王城が見えてきた時ね」  「姫」の泣き言を聞き流すことにして、ジェイドはそれだけ言い置くと、荷台の扉を閉めて馭者台に飛び乗った。 「もうやだ、帰るぅうううううう………ッ」  荷台から上がる情けない悲鳴は聞こえなかったことにして、ジェイドは馬の轡を取り上げて、馬車を一路ラストラルタの王城へと出発させた。  *****  生まれてきたのが間違いだった、とノエラ・ベルヴェデーレは良く言われる。  そして、この十八年間ずっとそういう扱いを――乳母のフラウと、乳兄弟のジェイドを以外から――受けてきた。  しかしどうなのだろう、とノエラは思う。  ノエラ自身が「産んでくれ」と頼んで、わざわざこの世に生まれて来た訳ではない。産んだのは母親だし、子どもが出来る過程には父親だって当然関与している。  出来上がったものが思っていたものと違うからと言って、それを詰ってあたかも己に咎が無いかのように振る舞うのは話が違うのではないか。どうあれ責任は作り手にあるのではないか。  ある時、何気なくそんなことを呟いたノエラに向かって、幼なじみの乳兄弟は呆れた顔で言ったものだ。 「姫、自分で思ってるよりも、ずっと図太いし逞しいよ」――と。  そんな自分の図太い神経も、ここらでいよいよ焼き切れそうだとノエラは遠い眼をしながら思う。  馬車は遂にラストラルタの王都に着いた。もはや涙も枯れ果てた。あるのは途方も無い疲労感と、これから先への絶望感だけである。  ノエラに施した化粧の出来映えに満足したらしいフラウは、分厚い布を少しだけ押し上げて、窓から見える風景を興味深そうに見つめている。  ノエラが生まれて育ったティセルラントの国は、なだからな丘陵に農地が続く田舎だ。  対して、ラストラルタの国は機械都市である。  背の高い建物が密集して立ち並び、幅の広い石畳の通りが長く続いている。馬車の他に、機械仕掛けの車も走っているようだった。その合間を、様々な格好の人たちが縫うようにして歩いていく。その流れを眺めているだけで、ノエラは気持ちが悪くなってくる。  ノエラが普段接するのは、乳母のフラウと、乳兄弟の二人だけだ。それなのに、いきなりこんな人の多いところに放り込まれたら途方に暮れるしか無い。  窓から視線を反らして、ノエラは深く溜息を吐いた。  ジェイドはよく、こんな状況で危なげなく馬を操れているものである。ノエラには絶対に無理な芸当だ。馭者台に上った時点で恐慌を来すだろう。人には向き不向きがある。とは言え、何がノエラに向いているのか分からないのだけれど。  そんなことを考えている内に、馬車が停まった。馬の嘶きと人の話声がする。馭者台から降りたジェイドが扉を開けた。  いよいよ、破滅の始まりか。  青い顔で死刑宣告を待つノエラに、ジェイドは予想もしない言葉を投げた。 「今日、王城に入るのは無理かも。この列、ずっと続いているんだってさ」 「列?」  首を傾げるフラウに、ジェイドが手を差し伸べた。危なげなく荷台を降りたフラウが、呆気に取られたような顔をして前方を眺める。  さすがにノエラも気になってきた。首を突き出すようにして馬車の前方を眺めて、絶句する。  王都の中央に構えられた城は、一段高いところから王都全体を睥睨している。そこに続くのは、石造りの立派な通路が一つだけ。緩やかな螺旋状になって続くその通路は、色とりどりの煌びやかな馬車でぎっしりと埋め尽くされている。 「なにこれ」  現実の物とは思えない光景に、呆気に取られてノエラが呟くと、フラウは感心したように言った。 「ラストラルタの末王子ともなると、結婚相手に事欠かないのでしょうねぇ」  これだけの人数がいるのならば、自分一人ぐらいが城に出向かなくても気付かれないのでは無いだろうか。希望的観測をノエラが口にするよりも再に、馬に乗った整った身なりの男たちの一団が近付いてきた。  一団の中で、恐らく隊長なのだろう男が横柄に言う。 「あいにく、しばらくは招待状のある者しか城に入れない」  言外に場違いだから消え失せろ、と言われている。荷台の中に体を引っ込めたノエラは、諸手を挙げて城に背中を向けたかった。しかし、優秀な乳母と、気の回る乳兄弟が、ノエラの小さな希望を簡単に打ち砕く。  ジェイドが歯切れの良い口調で言った。 「私たちは、ティセルラントの国の者です」  フラウがジェイドの言葉を引き継いで言う。 「お呼びがありまして、姫様を連れて参りました。こちらは招待状と、ティセルラントの国王陛下の添え状です」  お改め下さい、と慇懃に封書を差し出された男たちは明らかに戸惑っているようだった。ノエラは、そっと外を窺い見る。  男たちは馬から降りて手紙を受け取った。一人が分厚い帳面のようなものを開いて懸命に頁をたぐっている。  やがて招待状の検分と確認作業が終わり、隊長格の男は少しだけ改まった声で言う。 「確認をしました。順に城の中へ案内をしています。順番が来るまでお待ち下さい」 「順番はいつ来るんでしょうか」  ジェイドが軽い調子で問いかける。  隊長格の男は鼻を鳴らして言った。 「さぁ。なにしろ皆様、供を大勢連れて来ていらっしゃるものですから。馬車の中身を検分するのに時間がかかっております。少なくとも、深夜には城の中に入れるでしょう」 「ははぁ、なるほど。多い方ではどれぐらい?」 「アルバレンの姫は、馬車を二十も連れていらっしゃいました。それに護衛も付いて、実に見事な行列でしたよ。――失礼ながら、こちらのお供は?」  後半いささか意地の悪い口調で男が問いかける。あからさまに他人を軽んじた、嫌な態度だ。  フラウがうっすらと侮蔑の微笑を浮かべる横で、ジェイドはけろりとした顔で言う。 「もちろん、俺たち二人だけです。馬車も一つだけ。検分にお時間やお手間を取らせることはしません」  ジェイドの物言いに、隊長格の男はあからさまな嘲笑を浮かべた。 「さすが疫病神に愛された国の方々は違う」  他国の方にも見習ってもらいたいものですなぁ、と大声で言うのに追従するように、一団が小さな笑い声をあげる。  ――あんまり、そういうこと言わないと良いと思うんだけどなぁ。  自分のような人間の前では、特に。  思ったところで警告を口にしてやるほど、ノエラは人間が出来ていない。というか、フラウとジェイド以外の人間とまともに口を利いた記憶が久しくない。そもそも、他人の前でまともな発話が出来るかどうかも怪しいところだ。どっちにしろ、男たちに警告を与えてやるのは難しそうだと判断して、ノエラは膝を抱える。  ――離宮の地下室に籠もりたい。  そんなことをぼんやりと考えていると、ようやくこちらを嘲笑するのに満足したらしい隊長格の男が、他の面々に合図を送る。 「では、どうぞ、楽しいご滞在を」  微塵も心の籠もっていない別れの言葉に、ジェイドはへらりと笑って手を振り、フラウは返された封書を丁寧に懐にしまい込みながら言った。 「あなたがたこそ、神のご加護がありますように」  優しい顔で告げる乳母の目には、本気の哀れみが湛えられている。  それに気付かぬまま馬に乗ろうとした隊長格の男の足下。  足をかけた鐙が、ぶつりと音を立てて切れた。 「なに――ッ?」  態勢を崩した男の体が大きく傾いて、それでも地面に放り出されないように馬の手綱を掴む。無理な方角に手綱を引かれた馬が、驚いた嘶きを上げて前脚を上げて、その勢いのまま他の馬にぶつかった。  何頭かの馬が走り出す。  隊長格の男は、愛馬に引きずられて悲鳴を上げている。  俄に騒然とした光景を見やりながら、ジェイドが感心したように呟いた。 「いやー、姫。今日も絶好調だね」  フラウが息子の言葉を窘めるようにしながら言った。 「あちらが先に無礼をしたのですから、姫様はお気になさらず」  その言葉にちっとも慰められずに、ノエラは鼻を啜った。疫病神に愛された国で、ノエラは更にこう呼ばれている。  「疫病神の申し子」、と。  伝説は千五百年前に遡る。  その頃、ノエラの故郷であるティセルラントの国は大陸のすべてを治める大国だった。富はティセルラントの中央に集中し、王家は繁栄を極めていたと言う。それに翳りが差したのは、とある王の時代のこと。ある夜、その王の枕辺に神が立ってこう尋ねた。 「そなたに真の信仰はあるか」  ある、と王が答えると、神は頷いて光と共に消え去った。ただ、現れた証とでも言うように、王の髪を真紅に染めて。  そして、そこからティセルラントの国の没落は始まった。  まず、王妃が病に倒れる。  国の中央を占める重鎮たちが、怪我や病気といった不幸に見舞われる。  極めつけのように、大陸のあちこちが落雷に襲われ、そこから火が燃え広がり、主要な都はほとんど焼け落ちた。今はラストラルタと呼ばれる国の始祖が力を付け、多くの国を統べるようになったのもこの頃のことと言われている。  真紅の髪の王は、生き残った臣下と、民たちと共に、枕辺に現れた神をまつる廟を建てた。そして当初よりもずっと小さくなった領土の中で、慎ましく暮らすようになる。そしてそれがノエラの故国だ。  千五百年前の面影など全く無い。なんとなく不吉な土地だということで、どこの国から侵略されることもなく生き延びている。  疫病神を奉る、不憫な国。  そんな来歴だから、なんとなく他国から軽んじられて馬鹿にされている。  ようやく城に入る順番が回ってきて、検分された時もそれは露骨だった。そもそも、ノエラたちの一行は一国の姫が他国に乗り入れるにしてはあまりにも質素だった。質素、というか見窄らしいというか。  まず、不審な顔をされる。  フラウが穏やかに名乗ると、相手は納得したような顔をして、憐憫のような嘲笑のような表情を浮かべて見せる。それが波紋のように広がっていく。その繰り返しだ。  案内を命じられた侍女は、あからさまに眠そうな表情を隠さなかった。  それでも、さすがラストラルタの国とでもいうべきか――通された部屋は必要以上に広く豪奢だった。家具も洗練されたものばかりで、何より真夜中だというのに明るい。煌々とした灯りが惜しげもなく使われている。  部屋のあれこれを横柄な態度の侍女に案内されるフラウを見ながら、ノエラは絶望で目眩がした。  遂に、ここまで来てしまった。  そんな思いが胸中に渦巻いている。 「他に御用はありますか」  無愛想に訊ねる侍女の言葉に、フラウはにこりと笑って言う。 「いいえ。今日のところは結構です。遅くにありがとうございました」 「では、失礼いたします」  頭だけは慇懃に下げて、ノエラの方へは一瞥もくれないまま、侍女はさっさと部屋から退出する。閉じた扉の音に、ノエラは崩れるように床に座り込んだ。 「どうしよう、フラウ……。来ちゃったよ、ラストラルタだよ。どうするの? どうしたら良いの?」  虚ろな声を上げるノエラに、フラウは動じることもなく言った。 「とりあえず、今日はお湯に浸かって眠りましょう。浴槽が各部屋に備えられているそうです。幸いでしたね、姫様。さすが『魔石』の算出国です」  髪の色を落としてしまいましょうね、とフラウは告げて手際よく荷を解き始めた。  ジェイドは、男の使用人が使う棟をあてがわれている。ノエラとフラウが案内されたのは、基本的に日中しか会うことは出来ないらしい。ジェイド自身は人懐こい、世渡り上手な若者なので、なんてことなくラストラルタでの生活を謳歌するに違いない。そう考えると、いつも故郷の離宮に閉じ込められるようにして過ごしている乳兄弟の身の上が不憫に思えてくる。  フラウにしたってそうだ。ジェイドを産んで間もなく夫を亡くしたフラウは、生活に困っていたらしい。それに付け込まれる形で、ノエラの乳母なんて役割を押しつけられたのだ。それから十八年間、ずっと献身的に仕えてくれている。  けれども、不憫だ。  ノエラの乳母でなければ、再婚の口だってあっただろうに。あんな離宮で、まるで咎人のごとく押し込められて――。 「姫様? また何か良からぬことを考えていませんか? ご用意をしたので、早くお湯に浸かって下さいな」 「ううううう、ごめん、フラウ……。私と関わったばかりに、こんな苦労と不幸の詰め合わせのような人生を送らせてしまって……」 「姫様のその被嗜虐的な思考回路だけは扱いかねます。良いから早くお湯を使って下さい。朝には髪を染め直しますので」  謝罪はいつものように聞き流されて、ノエラは浴室に押し込まれた。  煌々とした明かりに、思わず身が竦む。  それでも服を脱いで、洗い場に腰を下ろして、用意されていた湯を頭から被った。  茶色に濁った水が広がって、やがて排水溝に落ちていく。何度か繰り返せば、湯は透明になって――ノエラの髪の色は本来のそれに戻った。    真紅の髪。  疫病神に信仰を誓った、千五百年前の王のような真っ赤な髪。  贅沢に浴室の壁の一面を占める鏡に己の姿を映しながら、ノエラはげっそりとした顔で呟いた。 「馬鹿じゃないのか……」  「天使に祝福された国」に「疫病神の申し子」を送り込むだなんてまったく正気の沙汰じゃない。溜息は浴室の壁に反響しながら消えて行って、ノエラは天井を見上げた。  *****  三ヶ月前のことである。  ラストラルタの王が大陸中の国々へ向けて出した手紙に、各国の王は目の色を変えた。  ――末王子の結婚相手を探す宴に、貴国の姫を招待させていたいだきたい、と。  大陸全土。未婚で年頃の王女を抱える国には余すことなく届けられたらしい手紙は、当然のようにノエラの故郷であるティセルラントの国にも届けられた。そして、それは大きな波乱を呼んだ。  波乱、というならばノエラが産まれた十八年前から始まっていたとも言える。普段は考えないように離宮に押し込んでいたその問題が、手紙という形で表に立って来た。ただ、それだけのことである。  国王夫妻の待望の第一子。  月満ちて産まれた我が子の髪の色を見た王妃は卒倒し、王は震え慄いた。  真紅の髪。  それは伝説では聞き慣れていたが、誰もが目にしたこのと無い髪の色だった。  不吉だ。  限られた上層部の意見でも、それは満場一致の見解だった。では、その不吉な子どもをどうするべきかというところで意見は割れた。  殺してしまえ、という意見もあり、実際にとある医師は乳飲み子のノエラに手をかけようとしたらしい。しかし、その直後に心臓発作を起こして倒れた。  乳を与えなければ餓死するだろう、という意見も出た。しかし、それを決めて実行に移そうとすると、王妃の胸が尋常ではない痛みを訴えるようになった。痛みは赤ん坊に乳をやっている間だけは、その痛みが和らぐ。それも、他ならぬ我が子に乳をやらないと効力が無い。  遂に大臣の一人が意を決して、乳飲み子に剣を振り上げると――王城に雷が落ちて、建物を破壊した。  あまりのことに、誰もが口を利けなかったと言う。殺すな、と誰か人ならざる者から命じられているような――そんな不気味さを誰もが覚えた。  王は仕方なく赤ん坊を育てることに決めて、披露目の式を待ちわびる民には、こんな風に発表をした。 「産まれた子は酷く病弱のため、大事を取って離宮で育てる。体が健康になるまで披露目の式は延期する」  国民たちは病弱な王女に同情を寄せ、国王夫妻の不幸を嘆いたという。真相を知らないままに。幸いなことに、ノエラの後に産まれた弟は至って健全な普通の男の子で――国民は世継ぎの誕生をはしゃいで言祝いだ。  そのまま、ノエラは乳母と乳兄弟の二人に囲まれながら、ひっそりと忘れ去られたように離宮で生活をして来たのだ。ラストラルタからの手紙が届く、その日までは。  王に向けた親書の内容はこうだった。  ――貴国の第一王女は、我が国の末王子と同じ年頃で、まだ独身だったと思う。一度、顔合わせを願いたい。  国の上層部に激震が走った。  小国というものは、普通は国際社会の荒波の中で強かな外交戦術を身に付けていく。そうでなければ、どんな理由を付けられて大国に領土丸ごとを飲み込まれるか分かったものではないからだ。しかし、ティセルラントの国にはそう言った外交上の知識や技量が決定的に欠けていた。それらの能力を必要とする事態に、何百年も直面したことが無かったからだ。領土に加えたところで、誰も得をしない。毒にも薬にもならない小国。疫病神を奉っていること以外はぱっとしない農耕の国。  内外共にそんな認識であったから、大国――それもラストラルタの国王からの親書というものに、王も大臣も狼狽えた。  狼狽えて、ロクに判断も下せないまま――ノエラはこうしてラストラルタの国に送り出されることになったのである。  三ヶ月もあったというのに。  国の主要人物たちが、顔を突き合わせて毎日のように会議を繰り広げたというのに。  ――馬鹿なんじゃなかろうか。  朝早くから起き出して、フラウと一緒に丹念に草の煮汁で染めた茶色の髪を一房つまみ上げながらノエラは呆れてそんなことを考える。  早い話がラストラルタという国の名前に、誰も彼もがしりごみをして、まともな判断力を無くしてしまったのだ。披露目の式も済ませていない、国民からも忘れ去られた「姫」の名前が、まさかその国の王からの親書に名前を連ねる日が来るなんて、予想もしていなかったが故に、余計に判断が狂ったのだろう。  馬鹿じゃなかろうか。  国内の適当な貴族の子息と婚約をしていることにして、ラストラルタの末王子の嫁選びが終わると同時に破談にすれば良いものを。  あるいは、体が弱くいつ命が儚くなるかも知れず、とてもでは無いが国の外に送り出すことなど出来ない。ご容赦願いたい、とか適当な理由をつけて断れば良いものを。  最初から蔑まされ軽んじられている国なのだ。姫など送り出さなくても、困ることはあるまい。それだと言うのに、妙なところで馬鹿正直な国の在り方に、ノエラは国の終焉を見た気になって溜息を吐き出す。 「さぁさぁ、姫様。そんな暗い顔をしている場合ではありませんよ。もうすぐお時間になりますから、ご準備なすって下さい」 「大広間に並べられて、売場に並べられた家畜みたいに王子に品評されるんだ……。嫌だ、行きたくない……。どうせ私がいてもいなくても、向こうは気にしないよ……お腹が痛いから欠席すると伝えよう、そうしよう」 「下手に休むと悪目立ちしますよ」  本当に調子が悪くてもそれを押して誰もが大広間に向かっているというのに、敢えて抜け出すのはよろしくない。そう説かれてしまえばその通りで、ノエラは渋々と腰をあげた。  流行遅れの、礼儀だけは最低限に守った婦人服。ひらひらの裾を持ち上げながら、ノエラはしずしずと廊下を歩く。  同じように各国の姫が集まり宿泊している宮の廊下は、感情的で甲高い声に埋め尽くされていた。いよいよ末王子と謁見という段になって、到着している姫君たちに通達された「王子に会うための条件」が波紋を呼んでいるのだ。  ――私の婚約者になりたければ、従者を連れずに「一人で」大広間まで来ること。  ノエラにしてみればなんてことの無い条件だが、筋金入りの姫君たちにとっては前代未聞の大問題だったらしい。  そもそも、高貴な家に産まれた女性は、自分の身の回りのことを何一つしないように躾られる。服を脱ぐことも、髪の毛を梳くことも、すべてお付きの従者が取りはからって行う。親族の男性以外とは直接に会話を交わすことも希だし、返事が必要な場合は、やはり従者が返事を考えて答えるようになっている。  従者なしでは、姫というのは生活できないし、存在しえないものなのだ。  それなのに、王子は従者を連れずに大広間に来いという条件を出している。混乱が起こったのは必然だった。  何人かは無礼が過ぎる、と抗議の声を上げたが「条件に納得がいかないようでしたらお帰りください」というけんもほろろな回答に、渋々引き下がったのだと言う。  各国の姫たちは、それぞれの国の思惑などを背負って送り込まれている。お帰りください、と言われて帰ったとあらば、国の方で肩身の狭い思いをすることになるのだろう。  こぞって一人になった時の対処法を姫君に伝授する教室が開催されているようだが、その成果のほどははかばかしく無いようだった。  ――性格が悪いなぁ。  王子の出した条件に、ノエラはそんなことを思う。  各国の姫たちがそうやって一人で生きていけないように育てられているのは、王侯貴族として生まれ育ったものならば、誰もが知っているところである。爵位を持たない一部の金持ち連中に至っては、そういう王侯貴族に習って娘に一切身の回りをさせないことが一種の社会的名声と捉えられている節がある。  それなのに、敢えて「一人で来い」なんて条件を出すとは――。  ひょっとしたら、王子は結婚の話に乗り気では無いのでは無かろうか。だったら、こんな大袈裟な婚約者探しなど最初からしないでくれれば良いものを。  思いながら、ノエラはいつの間にか自分が人気の無い回廊を歩いていることに気が付いた。良くは知らないが、こう言った催しの時は、会場に近付くごとに人が増えていくのが普通なのではないだろうか。もてなしの為の準備や警備だとかで、ざわめきと混乱が起こることは必定で、ノエラはその隅に隠れてこの事態をやり過ごそうと考えていたのに――なぜか辺りは閑散としている。  さすが「魔石」の産出国であるラストラルタは、照明の灯りの他に、品の良い置き時計もあちこちに設置しているので時間の間違いでは無いことは確認出来た。  これは一体どういうことか。  思いながら指定された大広間と思しきところに立ち尽くしていると、暇そうな顔で立っている従者服の青年が眉を上げた。  年齢はノエラと同じぐらいだろう。すらりとして無駄な肉が付いていない。真っ黒な髪の毛と、整っているのにどこか皮肉げな顔つきが印象的だった。 「おや」  不躾なぐらいに視線を注がれるのに、ノエラはたじろいだ。たじろぎながら、それでもここに来た目的ぐらいは最低限果たそうと問いかける。 「――大広間は、こちらですか?」 「そうですが」  答える青年は、まじまじとノエラを見やる。射抜くような鋭い視線にたじろぎながら、ノエラが視線を揺らがせると、感心しているのか呆れているのかよく分からない口調で言う。 「本当にお一人でいらっしゃったのですね、珍しい。いや、素晴らしい。お名前をお伺いできますか?」 「ティセルラントの――ノエラ・ベルヴェデーレです」  視線を合わせないように、ぼそぼそと答える。  手元の帳面をめくりながら、青年は頷いて扉の内側を示した。 「時間通り、そして一番乗りですね。おめでとうございます」 「は?」  煌びやかな大広間。凝った装飾があちこちに施されて眩しいぐらいにの、壮麗で雄大なそこには――誰もいなかった。本当にただの大広間だ。 「え」 「他の姫君たちは支度に時間がかかっているようです。何人かは従者を連れていらっしゃったので、丁重にお引き取りをお願いしたところです」  正真正銘、あなたが一番の到着です。  にこりと微笑みながらの賞賛に、ざぁっとノエラの顔から血の気が引いていく。ノエラが最も望んでいない事態。つまるところ悪目立ち。 「え――っと、また部屋に戻って頃合いを見て」  来ます、と言い掛けたところで廊下から甲高い声が聞こえた。苛立ちを隠し切れていない、感情的な声音。従者の青年が廊下に立って、穏やかな声音で言う。 「どうされましたか」  視線だけを向ければ、そこにはつり上がった目の侍女が立っていた。どこかの国の従者の一人なのだろう。ノエラよりも上等そうな衣装に身を包んでいるが、未婚の姫が着るものとは意匠が明らかに異なっている。  棘のある声が異議を唱えた。 「どうされましたか、ではありません。従者も無しに姫様に謁見しようなどというのは、殿方としてあまりにも無礼な要求では無いですか。可哀想に、姫様は気を病みすぎて寝台から立ち上がれません。どうぞ、クレイ王子にお考えを改めるように申し上げて下さい」 「どうあれ考えは変わりません。姫君には、くれぐれもお大事にとお伝え下さい」  しれっとした顔で放たれた言葉に、怒りを爆発させた声が言う。 「私が仕えているのはアルバレンの姫なのですよ!」  全く心動かされた様子も無く、従者服の青年は怒鳴り声に答える。 「それが何か? 姫君たちに出した条件は、どれも同じです。それに条件を守ってお出でになっている姫君もいらっしゃいます。今更、そちらだけを特別扱いするわけにはいかないでしょう」 「なんですって」  つりあげた目が、大広間の中に――つまり間抜けに立ち尽くすノエラに向けられる。  怒りが再び爆発した。 「あれが、姫ですって? どこかの使用人が紛れ込んだのではありませんか、あんな――見窄らしい。そして、こんなところに堂々一人でなんて――はしたない」 「ティセルラントの国の姫君ですよ」 「ティセルラント?」  呟く侍女の顔に、軽蔑が浮かんだ。 「従者を付けたくても付けられないだけではありませんか。疫病神の庇護国が。アルバレンの姫と比べものになりません」 「その通り」  にこりと笑った青年が、滑らかな口調で告げた。 「少なくとも、あちらの姫君は出された条件に何一つ異論を挟みませんでした。従者が高圧的に条件を変更しろと罵ってくることもなく、きちんと時間通りにお一人でお出でになった。――ところで、あなたは何をしに、この国に姫をお連れになったのですか?」  青年の容赦無い言葉に、アルバレンの国の侍女が燃えたぎるような目でノエラを睨んだ。  やめてくれ。  仰る通り、従者を付ける余裕も無い甲斐性なしの小国だ。だから、そんなノエラが余計なことをしたばかりにという顔をするのは止めて貰いたい。――そもそも、そういうことをすると「本人」のためにならない。  憤然とした顔で、侍女が踵を返す。そして、そのまま――思い切り、勢いよく前のめりに倒れた。  見事な倒れっぷりだった。  ばったり、とひらひらとした婦人服の裾が扇型に広がっている。  ――あああああ、ごめんなさいすいませんごめんなさい。  ノエラは内心で謝罪を繰り返しながら視線を逸らした。なまじ罪悪感があるだけに見ていられない。  しばらく、何が起こったのか誰も理解できないような沈黙が流れる。 「ぶっ」  見事すぎる転び方に、吹き出したのは従者の青年だった。  呆然としたつり目の侍女は、やがて自分の身に何が起こったのかを理解したかのように見る見ると顔を赤らめていく。 「手を貸しましょうか、アルバレンの侍女様」 「結構です! 間に合っております!」  そのまま涙目になって従者の青年ごしにいるノエラを睨みつけると、憤然と立ち上がり裾を荒々しく裁きながら駆けだしていった。肩を揺らしてそれを見送っていた青年は、やがて言う。 「――他の国の方々が来るには、まだ時間がかかりそうですね。どうやら皆さん、アルバレンの国の姫君の動向を伺っていたようでしたから」 「えっ」  そうなのか。  当然のように姫たちの輪から外れているノエラには思いも寄らない発想だった。目から鱗の気分で青年の言葉を聞いていると、青年は辛辣な調子で呟いた。 「ロクに考えもしないまま、諾々と高位の者が決めたことに従うとは悪しき習慣です。――まぁ、そういう意味では貴方も同様に愚かですが。いくらそうしろと言われたからって、馬鹿正直に一人でノコノコとやって来るとは」 「は?」 「いえ、こちらの話」  にこりと微笑む青年の笑顔には、胡散臭さが滴っている。さり気なく馬鹿にされなかっただろうか、自分は。  そして、どうやら婚約者候補の姫君たちの間では、アルバレンの姫君を頂点とした階級が確立されているらしかった。どう考えても、その階級の最低辺にいるノエラが結果的に誰よりも王子が出した条件を飲んでいる。まずい。まずいなんてものではない。やばい。危機だ。  ざぁっと血の気を引かせたまま、ノエラは視線をうろつかせながら青年に言う。 「あ、の――気分が優れなくなったので――部屋に帰ろうかと」 「それは大変だ。気分が優れないのなら医者を呼びましょう。大切な婚約者候補に、何かあっては事です。外交問題になりかねない」 「いえいえいえいえいえ。結構です、大丈夫です。お手を煩わせるほどのこともありません。所詮はティセルラントの小国ですから。捨て置いて下さい」  医師など呼ばれて、染めた髪を見破られては――たまった物ではない。  ぶんぶんと首を振ると、青年は胡散臭い笑顔のままに言う。 「では、椅子にお座りになりますか」  どうあれ、帰る――という選択肢は与えられないらしい。ノエラはよろめきながら椅子に殆ど倒れ込むように腰を下ろした。  もう嫌だ、泣きたい。  しかし泣いたら化粧が崩れる。フラウが数刻かけて作った傑作品だ、崩すわけにはいかない。  どんよりとした顔で大広間の隅に腰掛けていると、ちらほらと大広間の入り口に人影が見えるようになって来た。ほっとするのも束の間、従者服に身を包んだ青年は容赦がない。 「失礼、そちらの方はお付きの方とお見受けしますが?」  慇懃無礼に数多くの姫君たちを追い返していく。いくらラストラルタの国で働いているとはいえ――そして恐らく王子の側近だろうとは言え、あんな対応で大丈夫かと思うほどに容赦がない。何人かの姫が怒りの声を上げ、泣き崩れ、懇願の声を上げているというのに一切揺るがない。 「条件が飲めないということであれば、お帰り下さいと申し上げました」  そう言って入り口を頑と譲らない。  時間だけが経過して行くというのに、大広間にいる人数は一向に増えない。ノエラの背中を嫌な汗ばかりが垂れていく。背中が冷や汗に濡れている。  ようやく条件を満たした姫たちが――それでも一度ならずは追い返されている――大広間の中にぽつぽつと姿を現し始めたのは、定刻をだいぶ過ぎてからのことだった。  それぞれが身分ある姫だというのに、まるで迷子の子どものような頼りなげな顔をしている。ノエラはなるべく目立たないように、息を殺して壁と同化した。  ――王子は一体いつになったら来るのだろう。  ラストラルタの末王子。これだけのことをやらかしておいて、いざ本人がその場をすっぽかしたと知れたら、いくらラストラルタの国だってタダでは済まないだろう。  ノエラの疑問を代弁するように、強い声がそう言った。 「――クレイ様はどこにいらっしゃるの?」  今、大広間に到着したばかりなのだろう。艶やかな栗色の髪を結い上げた美しい顔の少女が、唇を戦慄かせながら入り口に立つ従者の青年を睨みつけている。 「アルバレンの国のルネシア様、何度も言いましたが私は『お一人』でいらっしゃるようにお願いをしましたが?」  入り口のところに視線を向ければ、しばらく前にすげなく青年に追い返された侍女が眉をつり上げながらことの成り行きを見守っている。屈辱に顔を歪めなて、侍女に支えられるようにして立ちながらアルバレンの姫は言った。 「私がお前のようなものと直接に口を利くなど、あり得ないことです。こんな屈辱を黙って受けるつもりは毛頭ありません。正式に抗議させていただきます」  大広間に緊張した空気が流れた。  アルバレンの国は、ラストラルタに及ばないものの国力で言うのなら第二位の大国だ。大陸の向こうの国々と交易し、贅を凝らした品や珍品などを大陸の上流階級に売り捌くことで財を為している。ラストラルタが生産する「魔石」の販売も、アルバレンと手を組めばより効率的に行えることだろう。今回の末王子の婚約者探しにアルバレンの国の姫が参加すると聞いた時、ラストラルタの末王子の結婚相手はアルバレンの姫に決まりだろうと思っていた。  しかし、どうだろう。  恐らく姫は本気で屈辱を感じていて、怒りに震えている。  そんな姫を見る従者の青年は、どこか面白がるような微かに哀れみを込めた口調で言った。 「なるほど、『私のようなもの』とは口を利きたくないと仰る。アルバレンの姫の意向はよく分かりました。――では、どうぞお帰り下さい」  そう言って大広間の中ではなく、廊下を示した。  アルバレンの姫の顔がみるみると強ばる。こんなぞんざいな扱いを受けたことは無いのだろう。それに何か口を開こうとするよりも早く――ばんっ、と音がして大広間の奥の扉が開いた。  いよいよ王子の登場か、と視線が一気にそちらに流れる。  しかし、大勢の予想を裏切ってそこに立っていたのは背の高い従者服の中年男性と、地味な侍女服を着た中年女性だけだった。  大広間に居並ぶ姫たちになど目もくれず、その視線は真っ直ぐと入り口に立つ従者服の青年に向けられた。 「お戯れはそろそろ終わりになされてはいかがですか、王子」  しん、と沈黙が落ちた。  王子?  どこの誰が王子?  大広間の入り口で、姫の選別をしていた従者の青年が振り返ってにこやかに笑う。  誰よりも先に事態を察したのは、さすがというかアルバレンの侍女だった。ざぁっと顔を青ざめさせて、姫の手を取る。そしてそっとアルバレンの姫に耳打ちをした。途端に、こぼれんばかりに目を見開いた姫が呟いた。 「クレイ王子――?」  その言葉に、にこりと青年は笑って言った。  「ええ、目の前におりました。ルネシア姫」  そのまま振り返りもせずに、従者服の青年は大広間の中を行く。さぁっと人垣が割れた。居並ぶ姫たちの顔色は一様に悪い。それはそうだろう。彼女らは一度は王子の意に背き、大広間から他ならぬ王子によって追い返されている。覚えがめでたい、と思う者がいる筈など無かった。  ノエラはよろけて壁に背中を付いた。  最早、冷や汗どころの話では無い。  やばい。  とんでもなくやばい。  それは分かるが、どうすればこの事態を打破できるか分からない。だって、誰が想像するのだ? ラストラルタの末王子ともあろう人が、従者に扮して自ら案内役を勝手出るなど。  ――ああ、どうしよう。フラウ、ジェイド。今すぐ、どうにかして国に帰ろう。  そんなことを考えるノエラの内心になどお構い無く、朗々とした声で王子が言う。 「さて、皆様。今宵はお集まりいただきありがとうございました。私が婚約者の女性に求めるものはただ一つ、忠誠です。仮にも私の婚約者候補になろうという皆様です。どれぐらい私の意を汲んで行動して下さるか、それを見極めるためにこのような趣向を取らせていただきました。残念ながら――ほとんどの方は私の意を汲んで下さらないということはハッキリと理解できました」  どこかの姫が扇を落とした。  どこかの姫が顔を青ざめさせている。  どこかの姫がよろけて、他の姫にぶつかった。  ノエラは失神しそうになった。  ――やめてくれ、勘弁してくれ。  叫びだしたい衝動に狩られるが、喉の奥に言葉が張り付いてしまったようで出て来ない。王子は真っ直ぐと、ノエラめがけて歩いて来る。 「私の意を正しく汲んで行動してくれたのは、あなただけです。ティセルラントの国のノエラ姫」 「ひ――ッ」  手を取られて微笑みかけられて、喉から悲鳴が迸りそうになるのを辛うじて堪えた。王子――クレイ・ディードリックが美しく笑う。その目には、拒絶を許さないような凄みと圧があった。 「あなたこそ私の婚約者に相応しい。今日から、あなたは私の婚約者だ。よろしいですね?」 「ひ――」 「お返事を、姫」  衆人環境。  証人は各国の姫君たち。  名指しの指名。  手を握る王子。  疫病神の名を背負う小国の姫に、ここで王子を袖にする権利など――ある筈が無い。死刑宣告書に署名する罪人の気分で、ノエラは裏返った細い声で告げる。 「は――――はぃ」  手の甲に恭しく口づけされるのに、ノエラは今度こそ失神したくなった。  *****  ティセルラントの国に疫病神が降臨したのと同じく――千五百年ほど前のこと。  とある国に、名も無い青年がいた。ある日、彼の前に天使が舞い降りて言う。 「お前は力が欲しいか」  欲しい、と答えた青年の掌に宝石を一つ落として天使は去った。  時を同じくしてティセルラントの大国は崩壊し、青年はその混乱の中でみるみると力を付けてのし上がり、とある地方を己の傘下に置くようになった。青年は死に、宝石は彼の子孫の手に渡る。代替わりをする度に、その国は強力に強大になっていき――やがて大陸において並ぶものが無いほどの大国になった。  それが今日のラストラルタである。  千五百年前から伝わる宝石は「天使の涙」という名をつけられ、玉座と共に代々伝えられている。疫病神に魅入られたと揶揄されるティセルラントの国と違い、「天使に祝福された国」として名を馳せている。  特に最近では、不思議な動力「魔石」の算出国にして、それに付随する機械の生産で他国の追随を許さない。  そんな国の末王子の婚約者が、ティセルラント国のノエラ・ベルヴェデーレ。 「もう無理だ、殺される、暗殺される……! ティセルラントの国が滅亡する……!」  身も世も無く泣き崩れるノエラの言葉を、今回ばかりはフラウも否定しなかった。供された菓子を口の中いっぱいに頬張りながら、ジェイドが取りなすように言う。 「大丈夫じゃない? 婚約者になっただけ、なんだから。いくら王子が選んだって言ったからって、ラストラルタの国の陛下が反対すればそれで終わりでしょ」 「確かにそうですね」 「絶対に!? 絶対に陛下が反対してくれる保証がある!?」 「うーん」 「どうでしょうねぇ」  ほら見ろ、と言いながらノエラは両手に顔を埋めた。  大体、あの王子はなんだか普通じゃない。従者に変装していたこともそうだが、何よりあの条件。そして婚約者に求めるものが「忠誠」だなんて――まるでこれから敵陣に攻め込む武将のような言い分だ。あの笑っていない目が怖い。怖すぎる。  念入りに染めた茶色の髪が頬にかかった。国に帰るまでの辛抱だ、と言い聞かせながら続けてきた手間のかかる習慣から解放される見込みは当分無かった。  髪の色については絶対に誰にも知られるな、というのがノエラが国を出される時に下された厳命である。隠さなければならないことは――他にも色々とあるのだが、それはまず他国に知られるわけにはいかない第一の事柄だった。  疫病神を奉る国に生まれた、かつて疫病神に魅入られた王と同じ髪の色をした姫。  不吉がすぎる。  そんな者が存在していることを知られれば民が不安に陥るし、そんな存在を他国の王子の結婚相手にしようとした、などと知れては――そちらの国も不幸になれ、と正面から喧嘩を売っているようなものである。 「だから影武者でも立てれば良かったのにぃいいいいいい!」  叫んだところで、何もかもが遅い。  フラウが落ち着きましょう、と言いながらお茶を淹れに立ち上がる。ジェイドが言った。 「つーかさ、今回のは馬鹿正直に時間を守って一人で大広間に出向いた姫原因じゃん」 「だってそうしろって招待状に書いてあったんだから、守るでしょう、普通!! 私が悪いのか、これ!?」 「招待状の条件を守らないのが普通だったみたいだねぇ、普通の姫の間では」 「そんな常識知るかぁああああああああ!」  外交策も知らないのか、と文句を言った故国に謝罪をしたいとノエラは切実に思う。人を呪わば穴二つ。そして、今回のことに関してはノエラの方が確実に事態を悪化させている。 「それにしても、ラストラルタの末王子は変わった方のようですね」  ノエラとジェイドのやり取りに、フラウがおっとりと割って入った。 「もしも姫様がいらっしゃらなかったら、どうなさるつもりだったのでしょう。今回のお見合いはこの大陸中からかき集めた各国の姫君たちと開かれたものです。誰も相手を選ばなかった、というのは通らないと思いますが」  ノエラはそれに沈黙した。  大広間の集まりで、ノエラは最悪の宣告からずっと王子に手を取られていたのだが、大広間から各国の姫たちを送り出す王子は実に如才の無い口調で話て微笑んでいた。  同じ年、と聞いていたがとても十八歳と思えないほど目の圧力が強い。  服従させることに慣れている者のそれだ。そして頭も回るのだろう。  あの王子ならば、身分を明かした上でしゃあしゃあと「今度こそ皆さんが私の意を正しく介してくれることを祈ります」などと嘯いて改めた見合いの場ぐらい設定してみせそうだ。恐ろしい。  婚約者候補から婚約者へと格上げになったノエラは、居室を移された。  前に与えられた部屋も十分に立派だというのに、それ以上に立派に広い部屋でノエラの顔色は悪くなる一方だった。お見合いの手順としては、これから何度が付き添い人をつけた逢瀬を行い、王子の方から陛下を通した正式な申し出がティセルラントの国に向けて出されて了承の返事が来れば婚約が成立する。そして、その返事が来るまでノエラは故国へ帰れない。 「無理無理無理無理無理」  知らせを受けたティセルラントの国の反応が、想像するだけ怖すぎる。  あの疫病神、と罵る声が聞こえてきそうだ。そして、何より。  扉を叩く音に、ノエラは慌てて姿勢を正した。ジェイドが腰掛けていた椅子から立ち上がり、従者然として背後に控える。フラウが落ち着いた素振りで扉を開いた。 「何か?」 「お手紙が届いています」  そう言って差し出された手紙を、ノエラは今すぐ焼き払ってしまいたいと思う。にこりと笑ってそれを受け取ったフラウが、振り返って低い机の上にそれを置いた 「あああああああ……」  ノエラが頭を抱えた。ジェイドが身を乗り出して、差出人の名前を読んで言った。 「まーた、アルバレンの姫君か」 「そうですね」 「もう断るネタが尽きたんだけど……!?」  事実上、婚約者が確定した今、各国の姫たちは続々と帰り支度を始めている。だと言うのに、体調が優れないなどと色々な言い分を連ねてぐずぐずと滞在を延ばしているのがアルバレンの国のルネシア姫だ。  そして、ノエラにしょっちゅうお茶会への誘いをかけてくる。 「婚約を祝いたいって絶対に嘘でしょ、これ……!?」  あれだけの面前で、公然と王子の意向に逆らったのだ。結果として、誰よりも王子に従順だったノエラの引き立て役にされてしまった。恭しく手を取るクレイ王子の背後で、蒼白な顔でこちらを睨みつけていた目をノエラは忘れていない。あの大国の姫が、あんな扱いをそのまま捨て置いて国に帰れるとはとても思えない。 「しかし、これだけ誘われたのに断り続けるのも礼儀に欠けます。――こちらの縁組みが破談になってティセルラントに帰った時に、妙な言いがかりを付けられないとも限りませんし」 「お茶会って何するわけ……!? 絶対にロクなことにならないよ……!?」 「だろうねぇ」  ノエラの呟きを否定しない幼なじみは、肩を竦めるようにして言った。 「でも、しょうがないじゃん。諦めて行って来いって、姫。どうなっても姫は無事に終わるんだから」 「アルバレンの姫に何かあった時の責任なんて取れないんだけど!?」 「一国の姫ともあろう方が、それほど軽率な真似はしないと思いますよ」  明後日の午後で了解の返事を出しましょう、と告げるフラウの決断の声にノエラは頭をかきむしるようにして叫んだ。 「あああああああ、もう、どいつもこいつもぉおおおおお!」  人生ってままならない。  うら若き姫とは思えない悲鳴を上げながら、ノエラは己の不運を呪った。 「やっとお会い出来て嬉しいですわ、ノエラ姫」  やっと、のところに不必要に力が籠もっている。ノエラは曖昧な顔で笑った。ルネシア姫の横に控えているのは、大広間で堂々と王子に抗議をした挙げ句に「姫とは思えない」とノエラを罵倒し、その挙げ句に派手に廊下ですっ転んでいたあの侍女だった。  ルネシア姫の腹心なのだろう。身のこなしも、ふと見れば貴族のような優雅さがある。ただ、ノエラに注がれる視線はどこまでも刺々しいが。  本来ならば同じ年頃の侍女を同席させるのが筋なのだろうが、ノエラが連れている女性の供はフラウだけだ。乳母を同席しても良いか、というノエラの申し出は慇懃に断られた。 「随行の方が少なく大変にご不便なご様子ですから、お茶の間の供はこちらでご用意いたしましょう」  親切を装った、いかにも裏のある物言い。  招かれた部屋まで付き添ってくれたフラウは、ノエラの背中を励ますように撫でて退散してしまった。アルバレンの姫の言う通り、ノエラの随行は一国の姫のものとしてはあまりにも少なく貧弱だ。裕福な商人の娘の方が、よっぽど人を揃えることが出来るだろう。ドレスもフラウがどこかから手に入れて、何度も手直しをした貧弱なものだから色褪せて流行からずれている。  しかし、そもそもノエラは不用意に人を傍に置くことが出来ないのだ。  なぜなら――。 「きゃあッ」  悲鳴と共に侍女の一人が茶器を取り落とす。  ぴくり、とルネシア姫の眉が上がる。隣に控える侍女の顔が、無表情になっていく。茶器を落とした侍女は、可哀想なぐらいに震えながら頭を下げて退出した。  それから何度か同じようなことが続いて、代わる代わるに侍女が入れ替わる。姫の表情がどんどん引きつっていく。後ろに控える侍女も同様だった。お茶が出せないのならば、その間に――と差し出された菓子はなぜか皿から滑り落ちて床に転がった。  ルネシア姫の顔が紅潮している。  普段の彼女の周囲では有り得ないような失態が続いているのだろう。  ――仕方がない。  それがノエラが髪の色と同じく、ノエラが王城の離宮に押し込められている原因の「体質」である。  それにしても、フラウの予想は大幅に外れてどうやらこの大国の姫は良からぬことを仕掛けてくるつもり満々だったらしい。そんなことをせずともクレイ王子の婚約者の座など、ノエラは喜んで明け渡したいぐらいなのに――なんて世の中は儘ならない。 「侍女たちの不手際、心からお詫びしますわ」  後ろに控えた侍女に耳打ちをされて、頬を紅潮させたままにルネシア姫が言う。 「場所を変えませんこと? 庭に見事な池がありますの。それは見事なものでしてよ」 「池」  思わずルネシア姫の言葉を繰り返しながら、ノエラは思う。  ――やめた方が良い。絶対にロクなことにならない。  そう思いながらもノエラは口を噤んだ。どうせ言ったところで聞き入れては貰えないだろう。ノエラの体質については、なんとなく説明をすることが難しい。そして説明をして納得されても、そんなノエラをラストラルタの国に婚約者候補――今や婚約者――として送り込むのはどういう了見だと非難され兼ねない。ああ、本当に。どうしてこうも世の中は儘ならない。  どうにもノエラのことになると、ティセルラントの国の上層部の面々は思考停止になる節がある。  人智を越えている。手に負えない。だから目の触れないところに置いて、出来れば考えたくない。  そんな扱いをしたところで、ノエラの存在そのものが消えて無くなる訳でもあるまいに――。  そして、結果が現状だ。  本当にもう、どうしようも無い。  ぼんやりと故国の現状を憂うノエラの耳に、甲高い声が響いた。 「聞いているの、あなた?」 「は」  苛立った瞳で睨みつけられるのに、ノエラの意識は現実世界に戻った。半ば逃避していたのかも知れない。 「断りなさい、と言っているの」 「はぁ――」 「クレイ王子の婚約者を断りなさい、と言っているの」 「は」  無理を仰る、と呟きかけてノエラは口を噤んだ。対峙する姫の瞳の焦点がぼやけている。これは危ない、と思わずノエラは相手から距離を取るように足を引く。背後には池があった。 「あなたみたいな小国の姫が、クレイ王子の隣に相応しいと本気で思っているの?」  ――いえ、全く。 「毛色の変わった姫を面白がっているだけよ。どうせ最後には惨めに捨てられるわ。そうなる前に、あなたから断った方が傷も浅くて済むのではなくて?」  ノエラは力なくへらりと笑う。  既に致命傷を負っているノエラに、そんな事を言われても。  そして、婚約者候補として送り出された姫が――せっかく婚約者の座を射止めたというのに断ることなど出来る筈も無い。断るぐらいならばどうしてわざわざラストラルタの国にやって来たのか、ということになるし、そもそも断って平気なほどの国力はティセルラントに無い。  ――無茶を仰る。  それが許されるのならば、ノエラはとっくにやってのけて、国に帰って離宮に引きこもっている。出来ないから、フラウやジェイドを相手に悲観的な将来を喋りながらここに滞在しているのだ。 「どうして、私じゃなく、あなたみたいな者が――? おかしいでしょう。変でしょう。相応しいのは私の筈でしょう?」 「姫様」  だんだん目つきの怪しくなっていくルネシア姫の後ろに付き従っていた侍女が、柔らかく言って肘を引いた。 「これ以上、姫様がお話をする必要はございません」  後は私にお任せ下さい、とするりと前に出てくるのにノエラは嫌な予感を覚えた。ノエラの背後には池があり、この面々以外に人気は無い。  何をされるのかも、何をするつもりなのかもなんとなく分かった。  ぐんぐんと近寄ってくる侍女の迫力に押されるように、ノエラは思わず足を引く。既に池のぎりぎりの縁に立っている。  ――やめた方が良いと思うんだけど。  忠告の言葉が形を作るよりも先に、ノエラにまっすぐと近寄ってきた侍女が――がくり、と姿勢を崩した。  侍女が驚いたように目を見開く。そのまま倒れ込んでくる相手を、思わずノエラはひらりと避けた。 「あ――」 「え?」 「な」  ばっしゃん、と派手な水しぶきを上げて侍女が池に落下する。  ――あーあ。  可哀想に、と思わなくも無いが自業自得だとも思ってしまう。池はどうやら底が浅かったらしく、侍女が呆然と手をついている。そのまま、今度は目をつり上げてノエラを睨むと引き込むように手を伸ばしかけて、そのまま何かに突っかかったように池の中につんのめる。  飛沫が上がった。  あーあ。  ノエラが同情したようにそれを見下ろしていると、どん、と背中に衝撃を感じた。体勢を崩してへたり込む。けれども、池に落ちるほどのものではない。見上げると、蒼白の顔のルネシア姫がノエラを見下ろしていた。 「なんなの? あなた? どうして、私の邪魔ばかりするの? どうして、こんなに――何もかも駄目にするのよ!」  わなわなと震えるルネシア姫の嘆きに、ノエラはかける言葉が見あたらない。  何より、それこそがノエラに付けられたあだ名の由来だ――「疫病神の申し子」。  ノエラの周りでは、何もかもが上手く行かなくなる。  過去に何度か、フラウとジェイド以外の使用人を気まぐれの慈悲のように与えられることがあったのだが、どれもが三日と持たずにノエラの元を去っていた。ある者は泥沼の恋愛模様のせいで恋人に刺され、ある者はノエラの使用人を引き受けた途端に家が全焼し全財産を失った。ラストラルタの国に着いた日に、声をかけてきた役人が無惨に落馬して大混乱に陥ったのも、確証は無いが恐らくノエラのせいだろう。  不運体質。  それとも、不幸ばらまき体質とでも言うべきか。  今のところ、この体質から逃れているのはフラウとジェイドの二人だけで――だから今回の旅路の供も二人だけしかいないのだ。  なんで、どうして、と言われても――この体質に誰よりも辟易しているのはノエラ自身だ。だから、そんな風に泣きそうな顔で詰られたって――困る。 「クレイ王子の婚約者を辞退してちょうだい、さもないと――」 「さもないと、どうなるんでしょうか」    ルネシア姫のヒステリックな要求の隙間に、朗々とした声が入り込む。  凍り付いたように、庭の空気が、止まった。  ルネシア姫の背後――すらりとした人影が近付いてくる。  ――ああ、これは。  私のせいか? 私のせいなのか?  自問自答を繰り返すノエラの前で、ルネシア姫の顔からは可哀想なぐらいに血の気が引いている。侍女が池から這いずるように上がって、みっともない身なりを最低限に整えて礼の形を取った。さすが、腐ってもアルバレンの国の姫の侍女というところか。 「最近の淑女の作法には、随分と変更があったようですね」  どこか面白がるような声がそう言う。  今日の王子は従者用の服ではなく、きちんと正装をしている。背筋の伸びたクレイ王子が部屋の中に足を踏み入れた。にっこりと微笑んで告げる。 「ルネシア姫、私の婚約者にどのような用事で?」 「――」  言葉も無く絶句するルネシア姫は、先ほどノエラを突き飛ばした状態のまま硬直している。さすがの侍女も対応出来無いらしく、無様に倒れ込んだままだ。戦慄く唇でルネシア姫が言う。 「その方が――とても、無礼なことを、私に」 「そうですか? ノエラ姫は一言も口を開いていなかったように思えますが? あなたの侍女がノエラ姫を突き飛ばそうとして無様に池に落ちたのと、あなたがノエラ姫を突き飛ばして私との婚約を辞退するよう脅しつけていたのは見ましたが」  ――どこから見ていたんだ、王子。  ノエラの内心の呟きは当然ながら王子の耳には届かない。  クレイ王子の弾劾は続く。 「あなたの国からも散々に帰国を促されているのでしょう。私の婚約者――行く行くは妻になり、あわよくば『魔石』の輸出入に関わって一儲けしようとしていたアルバレンの国の企みは失敗した訳です。大陸の外の国とも通じているだけあって、あそこの国は引き際が良い。だというのに、あなたの有様と来たら――。余計な意地を張っていないでお帰りなさい」 「わたし、わたしは――」 「どうあれ、私はあなたを選ばないと言っているんです」 「王子、聞いて下さい、私はあなたのことが」 「私はあなたに興味がありません」  爽やかな笑顔のままに引導を渡すクレイに、ルネシア姫の顔から血の気が引いた。池の水を滴らせた侍女が硬い表情のまま最低限の礼を果たして、そんな姫の手を引いて慌てたように立ち去っていく。  ノエラはこんな場面に立ち会うことになってしまった自分の運の悪さを内心で呪う。へたり込んだままのノエラにようやく顔を向けて、クレイ王子がにこりと微笑んだ。 「大丈夫ですか、我が姫?」  部屋までお送りしましょう、と言いながら手を差し伸べる。その仕草はどこまでも優雅で上品なのに――優しさが無い。温度が感じられない。 「いや」  結構です、という言葉が喉元で閊える。    この王子、怖い。  本能的な恐怖の方が先走って、思わず仰け反るようにその手を避ける。 ――あ。  そこでようやく、ノエラは自分がどこにいたのかを思い出した。池のぎりぎりの縁。 「げ」  呟いたのと同時に、ノエラはそのまま背面から池に落下した。   視界が歪んだのは、水のせいだ。思った通り浅い池だったので、すぐに体が底に付く。きらきらとした水面をどこか他人ごとに眺めながら、口の中に入り込んできた水を思い切り吐き出して慌てて体を起こした。  がはッ、と淑女らしく無い勢いで咳き込んでノエラは思わず肩で息をする。先ほどのルネシア姫の目論見は思わぬ形で果たされた。どちらかというとノエラの自滅だが。  そこで、ふと顔を上げるとクレイ王子が目を見開いてノエラを凝視している。  池に自分から落ちる姫は、さぞかし珍しいものだろう――と思ったところで、ざぁとノエラの顔から血の気が引く。  髪から落ちる滴は、茶色に汚れている。  染料が、落ちた。  つまり、今は。 「――っ、王子、これは」  見た通りだ。  不吉の象徴の真紅の髪。  それを持ったノエラを、騙し討ちのような形で婚約者にされて――激怒しない方がおかしい。  私のせいで、ティセルラントの国が、滅びる。  最悪の結末に目を見開いたまま硬直するノエラを見つめて硬直していたクレイ王子は、やがて小さく肩を揺らした。 「――――っ、くくくく」 「……王子?」 「くッ、はっははははは! なるほど!」  クレイ王子が腹を抱えるようにして笑い出した。  無様に池に落ちたまま、ノエラは呆然と目の前の光景に見入る。  なんだ、これ。 「あッ、ははははははは! なるほど、なるほど、なるほど! さすがはティセルラント、疫病神とは言え『神』に魅入られたことはある! 真紅の髪! 素晴らしい、正に神からの恩寵そのもの! 道理で十八歳になるまで浮いた噂の一つも無く、ティセルラントの国に仕舞い込まれていた訳だ!」 「は……?」  この王子、実は気でも狂っているのだろうか。  先ほどまでの、仮面のように張り付けた笑みではなく満面の笑顔だ。  ノエラの髪の色を忌むでも恐れるでも無く、これはどちらかというと。  ――喜んでいる。 「それに先ほどのアルバレンの姫の醜態。なるほど、あの時、無様に侍女が転んだのもあなたの仕業ですね。道理で私が都合良くも決定的な瞬間を見ることが出来たわけだ。疫病神、というのはそういう由来ですか」 「ち、が――」  弁明しようとするノエラの両手をクレイ王子が掴んだ。そのまま池から引き上げるようにして、立たせるとノエラの顔の間近で、にこやかに微笑んだ。口元は笑っているのに、射抜くようなその眼差しが相変わらず笑っていない。というか、妙にギラギラしている。  ひぃ――ッ。  仮にも婚約者に対してではない悲鳴を内心であげるノエラに構わず、クレイ王子は熱心な口調で告げた。 「本当だったら適当なところで婚約破棄をしてあげようと思っていました。私も結婚する訳にはいかない『事情』があるので。けれども、その髪の色と今の一部始終を見て決めました。あなたが私のところに来たのは、神の采配に違いない。――地獄の果てまで付き合ってもらいますよ、我が姫。我が婚約者殿」 「は――!?」  甘ったるい声音で告げられた内容は、戦慄するほど物騒だ。  ぽたぽたと頭から水滴を垂らす惨めなノエラを見つめて、王子は凄みのある顔で微笑んだ。 「あなたは私の幸運の女神かも知れない」  ――意味が、分からない。  けれども、何かとんでもないことに自分が巻き込まれた、ということだけは分かった。
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