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第二章
クレイ・ディードリックは、ラストラルタの国の末王子だ。
ラストラルタの国で、王位を継げるのは男児に限られる。妾腹であっても権利は同じで――事実、クレイの上には異母兄が複数いる。
その中で、クレイ王子は王妃が産んだ唯一の男児である。
ガタガタと震えるノエラの横で、手を引くクレイの顔はどこまでも爽やかだ。顔に笑顔を張り付けているような、そんな胡散臭さが絶好調に漂っている。
――やばい、無理。卒倒する。
煌びやかな大広間には、ずらりと人が並んでいた。
ノエラが着ているのはクレイから贈られた礼装用の婦人服だ。手触りの良い生地に、凝った刺繍があしらわれ、レースがふんだんに使われている。
「仕立て屋を呼んでは間に合わないので、ひとまず既製の物を贈らせていただきます」
そんな言葉と共に贈られたそれは、既製品と言ってもノエラが普段身にまとっている服よりも明らかに金がかかっている。
どうしようも無いほど、財力と価値観に差を感じる。
そんな連中がずらりと並んだ広間に引っ張り出されて、ノエラは息が止まりそうだった。
――どうしてこうなった。
今日もノエラは染料で髪を染めている。その下にある真紅の髪を、隣でにこやかに微笑む王子に確かに見られたというのに。
アルバレンの姫が引き払い自国に帰った次の日。婚約者として正式に王や王妃に引き合わせたい、という知らせが手元に届いてノエラは失神しそうになった。
「姫、何やったの?」
「私は何もやってない!」
送り出すジェイドは露骨に不審な顔をしていて、さすがのフラウも表情を曇らせていた。
クレイ王子に髪の色がバレた、ということは二人に包み隠さずに話している。けれども、それを見て抱腹絶倒した王子が、改めて婚約を申し込んできたその経緯は――上手く説明出来なかった。
どう言ったら良いのか、ノエラにも良く分からなかった。
ただの王子と思えないほどの、何かを感じた。
そして、その相手はノエラの手を握りにこやかに微笑んでいる。地獄だ。結婚が人生の墓場だというなら、婚約はさしずめ葬式だ。
ずらずらと居並ぶ人たちからの容赦無い視線に晒されながら、ノエラは断頭台に上がる気持ちで立派な王座の前に引き出された。
数段、高い位置にある二つ並んだ椅子。
黒い髪をした鋭い目の壮年の男性と、クレイに良く似た面差しのどこか神経質な顔の女性が座っている。
国王夫妻だ。
「ティセルラントの国の姫か」
ラストラルタの国王――ジレット・ディードリックはノエラを上から下まで眺めて、一言を寄越した。
「お前の好きにしろ」
「ええ、ありがとうございます。父上」
にこやかに頷きながら、クレイの視線は王座に腰を掛ける女性の方に向けられる。
「母上も、よろしいんですね?」
含みのある口調に、ノエラは思わず瞬きをした。クレイが国王である父親の許可よりも、王妃の母親を承諾の方を重要に捉えているような気がしたからだ。クレイと違い、笑みの一つも浮かべない王妃は顎を引くようにして言った。
「あなたが決めて、陛下が承知なさったことです」
「私が婚約して結婚して良い、とそう仰っているんですね?」
「そうです」
「――そうですか」
王妃からの言葉を受けて、クレイは恭しく頭を下げた。ノエラも慌ててそれに倣いならが胸の中に微かな違和感を覚える。
今、王子は失望しなかっただろうか。
婚約を許した王妃に対して。
結局、ノエラは一言も口を開かないまま御前から連れ出された。クレイは考え込むように黙り込んだままだ。不用意に話しかけることも出来ずに、ただ腕を引かれたまま廊下を歩いていると、背後から馴れ馴れしく横柄な男の声が飛んで来た。
「これはこれは。クレイじゃないか」
大仰にそう言う相手を見て、クレイはどこか上の空だった表情を一変させて小馬鹿にしたような笑みを浮かべて目を眇める。
「――これはこれはハインツ義兄様ではありませんか。私に何か用事でも?」
クレイの問いかけを無視した男は、不躾な視線をノエラに向ける。ここまで露骨な値踏みの視線を向けられることも、そうあるまい。小国とは言え、姫ということになっているノエラであれば余計にだ。
お返し、という訳でも無いが控えめにノエラも男を観察することにした。義兄、と呼ばれた割に、ハインツという男には黒い髪以外は取り立ててクレイに似たところは見られない。クレイはどこか線が細く優美な印象を与えるが、ハインツは骨太で粗野な雰囲気を醸し出している。やがてクレイの兄は鼻を鳴らして言う。
「器量はそこそこだな。しかし、アルバレンの姫を追い返してまで婚約者にしようとするほどのものか?」
それから下卑た顔付きで言う。
「――それとも、別のところの具合がイイのか?」
クレイが露骨に冷ややかな空気をまとう。横で凍てつく寒風が吹き荒れているようで、思わずノエラは身を竦ませた。しかし、義兄である筈のハインツはそれに気付いた様子も無くにやにやとした笑みを浮かべたままだ。
剛胆なのか、驚くほど鈍いだけなのか。どちらかと言えば後者だろうな、と思うノエラの空いている手を、ハインツが不躾に握る。
婚約者のいる淑女に対してするには、あまりにも非礼で非常識な振る舞いにノエラは呆気に取られた。そんなノエラの顔の間近で、歯を剥くようにして笑いながらクレイの義兄が言う。
「ティセルラントの姫君。我が義弟は真面目で融通が利かないので退屈でしょう。どうせなら俺と『仲良く』しようじゃありませんか。義弟よりも『楽しませて』あげられると思いますが」
「はぁ……?」
クレイと同じ血が流れているとは思えない。含みを持たせた誘い文句が信じられないぐらい下品で卑しくて、思わずノエラは瞬きする。
「義兄上」
苦り切った口調でクレイが言う。
「まだ正式に婚約をした訳ではありません。あくまでティセルラントの姫君ということをお忘れですか」
「あんな小国がラストラルタの国の意向に逆らえると思うのか。もう、この女はラストラルタの物だろう」
「――仮にそうであったとしても、私の婚約者という事実には代わりはありませんが?」
「なぁに、少し借りるだけだ。――ねぇ、姫君?」
少なくとも本人は魅力的だと思っているのであろう流し目を送られて、ノエラの腕には怖気が走る。無骨な指が撫で回すように掌を握っているのも不愉快だ。とにかく手を引っ込めようとたところで。
バチッ、と派手な音がした。
「ひッ」
悲鳴と共にノエラの手を握っていたハインツの掌が離れていく。
クレイが怪訝な顔をしてノエラを見た。ノエラも訳が分からずに瞬きをした。義兄も不可解な顔をして己の掌を眺めている。
今のは一体なんだろう。
不可思議な顔で自分の掌を眺めていたハインツが、取り繕うように余裕の笑みを顔に浮かべて再び手を伸びてくる。
今度はその手がノエラに触れるよりも先に、大きな音がした。
――バチンッ。
何かを弾くような鋭い音。ノエラは目を見開いた。ハインツがよろめいて手を押さえる。それから、苛立たしげに叫んだ。
「――おいっ、クレイ! なんだ、この女!」
手を押さえるハインツの掌が、まるで火傷でもしたかのように真っ赤に腫れがあがっているのに気が付いてノエラは瞬きをする。一体なにが起こっているのか。
「クレイ!」
喚く義兄の声に、ノエラの傍らに立つクレイが目を細めた。そして冷然と言う。
「なんです、義兄上?」
「なんなんだ、この女は! 俺の手に何をしたんだ!?」
「義兄上が先ほどから散々に無礼を働いている『この女』は私の婚約者で――彼女は何もしていないように見えましたが?」
「なら、この俺の手はなんだ! どうしてくれる!」
わめきながら突き出された掌は、真っ赤になっていて血が滲んでいる。見るからに痛そうで、ノエラは思わず青ざめて視線を逸らした。それに眉一つ動かすことなくクレイが言う。
「私が見たままを申し上げるのでしたら、ハインツ義兄上は馴れ馴れしくも人の婚約者の掌を掴んだ挙げ句、そのせいで怪我をしたと難癖を付けているようにしか見えませんが」
それから鼻で笑ったクレイが言う。
「私には義兄上がどうしてそのような怪我を負ったのか、考えも付きません。そもそも、あなたが勝手に負った怪我のことなど私の知ったことではない」
「なんだと――ッ」
「そもそも、それがこちらの仕業と言うのなら、どうやって私の婚約者がその怪我を負わせたと言うのですか? 説明していただけませんか?」
「そんなこと、俺が知るかッ」
とにかくお前のせいだと喚き立てるハインツの振る舞いをしらけた顔で見つめながら、クレイが言葉を続ける。
「私の婚約者がその怪我を負わせたというのならば、義兄上と同じく彼女の手をずっと握っている私はどうして怪我の一つも無いのでしょうね?」
クレイがわざとらしく自分の両手をかざして見せる。ハインツが唸るようにして言う。
「そんなこと、俺が知るかッ。どうせ、お前が何かを企んだんだろ――この腹黒め!」
「そういう義兄上は、相変わらず短絡的なお考えをお持ちのようで吐き気がします。――どうしても納得されないと言うのであれば、父上に裁定して貰いましょうか。まだ、謁見は続いているようですが?」
どうします、とにこりと笑うクレイの提案に、ハインツがぎりぎりと歯を食いしばるようにしてそれから吐き捨てるように言った。
「疫病神の国から来た不吉な女を婚約者に迎えるなんて、お前の女の趣味は最低だな。この女がラストラルタに不幸をもたらしたらどうするつもりだ?」
――仰る通り。
内心でハインツに賛同するノエラの傍らで、クレイが冷笑する。
「多少曰く付きの姫を迎えたところで、それぐらいで揺らぐような国なのですか? ラストラルタは?」
その言葉に含みを覚えて、ノエラは横目にクレイを伺う。冷たい雰囲気をいっそうに濃くした末王子は容赦の無い舌鋒で言葉を続ける。
「それから、女性の趣味に関しては義兄上に口を挟まれたくありませんね――ああ、それから。身分を振りかざして、誰彼かまわずに関係を強要すして歩くのは止めてください。恥の上塗りになるだけですよ」
「お前ッ」
ハインツは最早怒りを隠そうともしない。ぶるぶると震えながら、暗い色を宿した瞳でクレイを睨みつけている。
「お前さえいなけりゃ」
呪詛のように吐き捨てたハインツは、踵を返して憤然と歩いていく。
ぼんやりとそれを眺めていると、不意にノエラの掌をクレイが握った。
「ひぁッ!?」
素っ頓狂な声を上げるノエラに構うことなく、しげしげと重ねた掌を見つめるクレイが怪訝な声で言う。
「さっきのはあなたの仕業ですか?」
「え?」
「ハインツ義兄上の掌ですよ」
「いや――分かりません」
「へぇ?」
表情を消したクレイが、すっと目を細める。そうすると、本来の冷徹さが顔を出すようでノエラは理由も無いのに逃げ出したくなる。
「すみません、ごめんなさい、わかりませんッ! あんなの初めてですッ」
「まぁ――私としては良い気味なので、もしもあなたがやったのならもっとやれと言ってあげたいぐらいなんですが」
そうですか、と言いながらクレイはノエラから重ねていた掌を外した。心底ほっとするノエラに向かって、クレイは淡々と告げる。
「見ての通り、ハインツ義兄上は王族と思えないぐらいに粗野で考えが足りない――簡単に言うなら馬鹿です」
簡単に言い過ぎではないだろうか。思いながら口を挟めずにいるノエラに構うことなくクレイは言葉を続ける。
「母上の身分があまり高くなく――それでも私が生まれるまでは末王子ということもあったので、周りにちやほやされていたようですが、私が生まれて風向きが変わったようでしてね。それから目の敵にされています。厄介なことに己を磨いて問題を克服するのではなく、相手を蹴落として問題を解決しようとする思考回路の持ち主でして。おまけに執念深い。あなたも重々、気を付けて下さい」
「気を付けろと言われても――」
どうやって気を付ければ良いのか、検討も付かない。とりあえず、ノエラは気になっていたことを尋ねた。
「その――醜聞というのは?」
「ああ」
感慨も無さそうにクレイはさらりと告げる。
「昔から義兄上はいかがわしいところに入り浸っていましてね。ある日、どういう経過でか有り金全部を巻き上げられて身ぐるみを剥がれた挙げ句に売春宿の一室に閉じこめられていたんですよ」
「えっ」
「そして義兄上はどういう訳かそれを私の仕業と思っている」
それだけのことです、と告げるクレイの声には相変わらず温度が感じられなかった。
*****
思っていたような反発も否定もなく、ノエラとクレイの婚約はほとんど確定したと言って良い。とは言え、ノエラの周囲に常にいるのは相変わらず乳母のフラウと乳兄弟のジェイドだけだ。
「その体質がバレない方が私としては都合が良いので」
そんな言葉と共に、クレイが裏で色々と手を回してくれたらしい。それから例の義兄のことを気にしているらしく、ノエラが住まう宮の外側には多めの警備兵をあてがってくれた。お陰でティセルラントの姫は末王子からの寵愛が著しい、などいうとんでもない噂が城内に蔓延しているらしいが、ノエラにそれを否定して歩く体力などある筈も無い。
「まずい……」
「まずいですね……」
「こりゃあ、参った」
普段は楽天的なジェイドでさえ険しい顔をしているのだから、ノエラの精神も追い詰められようと言うものだ。今すぐにどこかの湖にでも身を投げてしまいたい。しかし、外側危険な物が入って来れないようにと配置された警備兵たちが、内側からも容易には出ていけない、ということで――。つまるところ軟禁状態にあった。
「やっぱり私のせいでティセルラントの国が滅ぶんじゃないのかなぁ……!?」
頭を抱えるノエラに、フラウもジェイドも言葉を返さなかった。
いよいよ事態が笑えない方向に転がってきたせいだろう。
不吉の象徴の真紅の髪。
巻き込み型の不幸体質。
ノエラの秘密は、その二つだけでは――無いのだ。
バレたら間違いなく大問題になる。責任の所在を求められた時に、悲しいことにノエラの故国であるティセルラントは対応する力が無い。
「――ひとまず、今日のクレイ王子からのお誘いの支度をしましょう」
フラウが建設的な提案を口にする。現実逃避と言えなくも無いが。
婚約者として義務感からだろうが、クレイから今日の午後に一緒に出掛けようという断ることの出来ないお誘いがかけられている。
ノエラは正直、それを考えただけで気分が悪い。救いと言えば、未婚の男女が二人で出掛けるのは推奨されておらずお目付役が必ず付き添うことになっていることか。
ノエラは勿論、フラウに付き添いを頼んでいる。
髪を入念に染め上げて、フラウから化粧を施された。一応、外出用となっている婦人服はくたびれた貧弱なもので身につけると気分が晴れるどころか気が滅入る。準備の段階でげっそりと疲れ果てたノエラの前に現れたクレイは、相変わらず隙が無く颯爽としていた。
「では、行きましょうか」
手を取って当たり前のように馬車へ導かれる。
クレイの方の従者は、婚約者選びの日に大広間で見かけた背の高い中年男性だった。実直そうな顔で、すらりと伸びた背筋をしている。年齢はフラウと同じか、少し上ぐらいだろう。
用意されていた馬車が、ラストラルタ自慢の「魔石」で動く機械仕掛けのそれで無いことがノエラにとっては意外だった。そんなノエラの心を読んだように、クレイはさらりと言った。
「嫌いなんですよね、『魔石』」
「え?」
聞き返したところで返事は無い。そのまま馬車に乗りながら、ノエラは頭の上に疑問符を浮かべる。
ラストラルタは大陸――いや、世界きっての機械国家だ。最初は小さなねじ巻き式の機械から始まったその産業は、いつからかラストラルタの国に欠かせないものになっている。そして不思議な動力である「魔石」の登場で、ラストラルタの国力は盤石になった。
「魔石」。
いびつな拳大ぐらいの大きさのその石は、それ一つで真夜中の王城を明るく照らすことから、複雑で大きな機械を動かすことをも可能にするらしい。その製法を握っているのは王族――正確には国王陛下だけだと言われている。各国の王族が目の色を変えて末王子との結婚に、姫君たちを送り込んできたのも、その製法の一端でも知ることが出来ないかと望んだからだ。
王が許す「魔石」の販売数よりも、圧倒的「魔石」を求める人々の方が多く、巷では関連した詐欺や模造品の販売などが横行しているらしい。
ラストラルタの国の絶対的な財源で、力の象徴だ。
それを嫌い、というのはどういうことか。
馬車の中には仕切りがあり、従者席と厳密に分けられている。密閉空間に、王子と二人。ただでさえ、クレイには底の知れないところがあるというのに――。
いや、しかし。
「あの、王子」
「名前で結構ですよ、我が婚約者様」
そういうクレイこそ、ノエラの名前を呼んだことなど無いのでは無かろうか。それについては深く掘り下げないことにして、ノエラは言った。
「本当に私と結婚するおつもりですか……?」
「ええ。でないと、わざわざ国王夫妻に面通しなどさせませんよ」
「でも、ですね」
ぐずぐずと言葉を選ぶノエラの様子に目を細めながらクレイは言う。
「髪の色と体質について懸念しているのでしたら、気にしなくて結構ですよ。むしろ、それがあるから私はあなたと結婚しようと思ったんですから」
それはアルバレンの姫とのいざこざで、髪の色がばれた時にも口にしていた台詞だ。意味を問うように目を向ければ、クレイが最早見慣れた完璧な作り笑いを浮かべて言う。
「こちらの話」
「はぁ……?」
「ところで、あなたの乳兄弟とあなたは――恋人ですか」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げるノエラに、クレイが驚いたように眉を上げた。
「違うんですか」
「当たり前でしょう――なんだって私が、ジェイドと」
「同じ離宮に年頃の男女が暮らしていればそう思うのが自然なのでは? 乳兄弟で血は繋がっていないのだし、身分差がある方が却ってそういう恋愛は盛り上がると聞きますから」
「違います」
ぶんぶん、と首を振ってからハッとする。ここで肯定しておけば、不貞を理由に婚約を破棄して貰えるのではないか、と。そんな一連のノエラの心の動きを表情から読みとっているらしいクレイが、どこか呆れたような口調で言う。
「あなた、よく今まで生きて来れましたね」
「え?」
「ダダ漏れですよ、考えていることが。――自分の評判を貶めて婚約を破棄しようと考えるのは止めませんけど、その場合はあなたの相手になった方が処罰されると思った方が良いですよ。身分の低い男が、高貴な女を無理矢理に物にしたっていう筋書きが出来上がるに決まっています。その場合、あなたの乳兄弟は首が飛ぶ」
ノエラは表情を蒼白にさせた。
そんなノエラの様子を眺めて、首を傾けながらクレイが言う。
「別に私としては、あなたとあの乳兄弟が恋人同士だって何の不都合も無いのですが。というか、その方がありがたいぐらいだったのですが――まぁ良いですよ。私にバレるのは全く構いませんので、あなたはどうぞ好きに恋愛をしていただければ」
なんなら相手を見繕いましょうか、という提案にノエラは凄い勢いで首を振った。そもそも、そういう問題では無いのだ。
そんなことを言っている内に、馬車はどんどんと進んでいく。
ごみごみとした大きな通りから、細い路地に入った途端に視界が暗くなる。石造りの森に迷い込んだようだ。しげしげと興味深げに窓の外を眺めるノエラに、クレイが淡々と言う。
「これらの建物のほとんどが住居ですよ」
「住居?」
「ご存知の通り、『魔石』で動く機械は二十四時間休みなく稼働させることが出来る。しかし、機械では手が回らない煩雑な作業や細かい修復は人間の手でやる訳です。そうなると、労働者が必要になる――地方の農場にも大型の機械が導入されて『魔石』を購入できる地主たちは、最低限人手を手元に残してそれ以外は解雇しましたから。地方で仕事にあぶれた人たちがどんどん王都に流入して来ている。それにつけ込んで、住宅の値が上がっている。『魔石』を手に入れることが出来る富裕層はずっと裕福なのに、労働者は暮らしていくのが精一杯のままだ」
ノエラは瞬きをした。随分と、国のあり方について辛辣な意見だと思う。
「最悪なのは労働力にいくらでも換えがいる、と金持ち連中が理解していることです。条件が悪くても、あぶれたら食っていけないから多くの人が必死にその仕事にしがみつく。――道を踏み外した人間の数はかなりいる。そして、結局つまらない罪状で牢獄に収監される。最低の負の連鎖です」
「――それが『魔石』のせいだと?」
「そういう見方もある、というだけの話です」
クレイは肩を竦めるようにして言って、それきりお喋りを止めた。
馬車が停まったのは、薄暗い路地の店で看板は出ている物のひっそりと静まりかえっている。
ここは一体どういう店なのだろうか。
ノエラが疑問に思っていると、クレイの従者がするりと馬車を降りて、閉じた木の扉を叩く。
些かやつれた顔の壮年の男性が出て来て、恭しく頭を下げた。
建物の外観は見窄らしいと言って良いほどなのに、部屋の中の内装は立派で驚くほどのものだった。及び腰のノエラの手をしっかりと握って引き留めて、クレイはあの作り物みたいに完璧な笑顔を閃かせている。
「この間の注文は出来ていますか?」
「ええ、もちろん」
壮年の男がはっきりとした声で言う。軽く頷いたクレイが、ノエラを示した。
「こちらは私の婚約者で、ティセルラントの姫君です」
「お目にかかれて光栄です」
慇懃に頭を下げる男に、ノエラは口ごもりながら挨拶を口にした。男の首にかかっているのは布製の巻き尺で、部屋の中を埋めているのはいくつもの色とりどりの布地だった。
――ここは、仕立屋だ。
よりにも、よって。
呻き声を上げそうになるのを無理矢理堪えて、ノエラは逃げ道を探すように視線を激しくうろつかせる。そんなノエラの動揺を見通したように、クレイは言う。
「手袋やいくつかの婦人用の小物があったでしょう。今日はそれを見せて上げてください」
「採寸はなさらない?」
「今日のところは」
その言葉に一気に力が抜ける。仕立屋もノエラの言葉に反論しなかった。いかにも座り心地の良さそうな椅子を示して、奥の部屋へと消えていく。
「私は頼んでいた物を確認して来ます」
何度もこの部屋に足を運んでいるのだろう。クレイは従者を付けることなく、店の奥へと入って行く。背の高い従者は入り口に控えるように立ったままだ。仕立屋の主人だけが戻ってきて、テーブルの上にいくつかの箱を並べて置いた。
どれも手の込んだ細工に凝った一級品なのが分かる。しかし、この手のものに関してノエラは全く判断能力に欠けている。ノエラは縋るようにフラウを見た。苦笑した乳母が進み出て、仕立屋の店主に言う。
「王子が戻ってくるまで、ゆっくりと見させていただきます」
店主は何も言わずに奥へ引っ込んだ。そしてノエラは品物を選ぶことよりも、もっと厄介な問題に思い当たった。
「――お金が無い」
「そうですね」
主従は揃って真顔になった。
やり取りを見かねたように、それまで無言を貫いていたクレイの従者が咳払いをして言った。
「代金はクレイ様が支払います」
「ひッ」
「それはそれは」
怯えた声を上げるノエラと、苦笑を深める乳母に対して、従者が瞬きをする。普通の姫ならば両手を叩いて「ありがとうございます」と告げて、好きな物を選びとるのだろうが――理由も無しに相手から何かを受け取る、ということにノエラは慣れていない。こんな高価のものについては余計に、だ。
「――クレイ王子に選んでいただきましょう」
フラウの下した結論に、ノエラは首を縦に振る。そもそも、この店のどこにも値札が無いというのが怖い。生まれは王族かも知れないが、ノエラは姫とも言えない姫なのである。
選ぶことすら放棄したノエラと、それを勧める乳母という組み合わせに、クレイの従者からは怪訝な視線が注いでいたがやがて肩を竦めるようにして沈黙した。
仕立屋と話をしながら戻ってきたクレイは、室内の空気に軽く眉を上げた。
「どうかしましたか?」
問われてノエラが率直な気持ちを告げると、クレイは些か呆れた顔をしながら小物類に向き直った。それから一つを取り上げて言う。
「これはいかがです? よく映えますよ」
選ばれたのは紫色の布を複雑に組み合わせて作られた髪飾りだった。豪奢な花の形をしていて、ところどころに宝石らしい光ものが埋め込まれている。
映える、と言っているのがノエラの地毛――真紅の色――についてなのだろう。まさか、そんなことを言われるとは思いも寄らないことでノエラは少しだけ狼狽する。返事をしないノエラに、クレイが怪訝な目を向けた。
「気に入りませんか?」
「え、いえ――」
ありがとうございます、と大人しく言えば仕立屋がそれを丁寧に箱にしまいフラウに手渡した。再び馬車に乗り込んだところで、ふと思い付いたようにクレイが言う。
「せっかく外出したのですし、王都の中を少し巡りますか」
「え、いや」
「せっかく選んだ婚約者と親しく無い、と思われるのも面倒ですから」
「ああ――」
なるほど、と納得をしたところでクレイは車内を区切る壁に作られた小窓を開いた。クレイが小声で何事か言葉を交わす様子を、ノエラはぼんやりと見やる。それから、ふと思い付いたことを言った。
「王子のお付きの方たちも――随分少ないのですね?」
「女性に比べれば、男性の方が付き人は少ないものですよ。――それに、私もあまり大勢の人間に囲まれるのを好みません」
「そうですか」
「ティセルラントの国では違うのですか」
「さぁ――?」
ノエラにはさほど年齢の違わない弟がいるが、全くと言って良いほど接点が無い。顔を合わせたのは、ノエラがいよいよラストラルタの国に送り出されることになり、国王夫妻に謁見するように命じられたその席でだった。初めて見た弟は、突然現れた「姉」という存在に対して明らかに困惑しているようだった。髪の色は、ありふれた茶色で――ノエラはそれがどれほど羨ましかったか。
ノエラの拙い説明で境遇を察知しているのだろうクレイは、それ以上は何も聞かずに馬車を走らせた。
かつて有名な将軍が戦の凱旋式を果たした広場。
ラストラルタの国の知識の宝庫である図書館。
始祖を讃えるための巨大な彫像。
どこを見ても煙っぽい灰色がかった空気が満ちていて、人で溢れている。ぶつかったり、小突きあったり、怒鳴り声や小競り合いが人ごみの中からひっきりなしに聞こえてくる。
――忙しないところだ。
田舎者の感覚で、そんなことを思う。ノエラが普段見ているものは、森とか野生の動物である。人が多い。物も多い。それらがあまりにも目まぐるしく移動して、目的地に向かって脇目も振らずに歩いていく。その様子に頭がくらくらする。
「王子」
「なんですか、我が姫」
「――色々と考えたのですが……」
「あなたが? 何を?」
「婚約、について……」
「へぇ?」
クレイが軽く眉を上げる。
「あのですね、ご存知の通り――私はこの髪の色でして」
「ええ、そうですね」
「それから、その――体質が」
「なかなか興味深いですね」
「あの――私がこちらの国に嫁ぐと、この体質とかのせいでこちらの国が――その」
「滅びるかも、と?」
言葉を濁すノエラの言葉を引き継いで、クレイが笑う。
「あなた一人ぐらいの体質で滅びるような国だったら、滅びた方が為になるんじゃないですかね」
「は?」
「言ったでしょう、地獄の果てまで付き合って貰うって」
そう言って微笑むクレイの顔には、ぞっとするほどの凄みがある。思わずノエラは身を引いた。この王子のこういうところがノエラには恐ろしい。そんなノエラの内心に気付いているのか、綺麗に笑ったクレイが言う。
「私の前に現れてしまったのが運の尽きと思って――どうぞ諦めて下さい。幸せにするとは死んでも保証できませんが、私なりに大切にはさせていただきますよ」
「いや――そもそも」
誰であろうと、王子と結婚することなど出来ないのだが。
思って開きかけた口は、まともな言葉を紡ぐことなく消える。
いつの間にか馬車は王城へと向かっていた。乗り入れた王城は物々しい雰囲気が漂っていて、怒号が飛び交っている。クレイが平静な顔で言う。
「――どうやら何かあったようですね」
呟いたクレイが、小窓を開けて従者に声をかける。聞き取れない声でやり取りをした後に、馬車は停まった。
「今、何が起こったのかを確認させに行っています」
確認が出来たら部屋までお送りしましょう、と告げるクレイの声は落ち着き払っている。ノエラは狼狽えて言った。
「ジェイドは――」
「騒ぎが起こったのは、あなたが泊まっているところとは別の方向のようですが――。あれはどちらかというと……」
目を細めたクレイが何かを言い終えるよりも先に、馬車の扉が開いた。クレイの背の高い従者が立っていて、淡々と報告する。
「『魔石』の保管庫に襲撃があったそうです。賊は逃げたそうですが、負傷者が多数出たようで――城内はかなり混乱しています」
ノエラは目を見開いた。王城に賊が入ったなんて、そんな物騒な話――聞いたことが無い。何より、ここはラストラルタだ。大陸随一の機械国家で、そんなことがあり得るのだろうか。
『魔石』の保管庫というのがどこにあるのかは知らないが、それでもノエラのような部外者が寝泊まりするところに、国の重要な機密など置かないだろうということは予測が付く。乳兄弟の無事に確信したところで、隣から声が聞こえた。
「へぇ――」
そうですか、と呟くクレイの声には相変わらず感情が籠もっていなかった。
*****
「いっそ、この混乱を機に城を出て行けば……」
「あのさぁ、姫。その場合、今回の襲撃事件の黒幕って姫になるんじゃないの?」
「その可能性はありますね。事件が起こった直後に姿を消した他国の姫など、疑ってくれと言っているようなものです」
「あああああああ……」
深刻な顔で切り出した提案は、乳兄弟と乳母によってばっさりと切り捨てられる。『魔石』の保管庫が襲撃された件で、ノエラの宮に配置されていた警備兵も、大多数が削減されて必要最低限になっていた。物理的に逃げ出すのならば今しか無い。しかし、今逃げ出すとオマケというには大きすぎる疑惑が付属してくる。
八方塞がりに頭を抱えた。
ジェイドが首を傾げて言う。
「それにしても王子、何考えてるんだろうね?」
率直なジェイドの言葉に、ノエラも同意するように頷いた。
なんだか、そう――クレイの今までの言動を総合すると、まるでノエラのために国が滅んでも構わないとでも言うようなのだ。
この国の末王子である人が。
「分かんない……というか、あの人――怖いんだけど」
どこまでも優雅に微笑んでいるのに、その目が笑っていない。何を考えているのかさっぱり分からない。というか、底が知れない。
「あちらが何を考えているのか分からない限り、動きようもありませんね」
そもそも、ノエラの髪の色が知られている時点で状況は圧倒的に不利なのだ。善意で黙っていてくれているのか、企みがあって腹の中に収めているだけなのか。クレイの場合は間違いなく後者な気がする。
ジェイドがあっけらかんとした口調で言った。
「案外、なんとかなるような気もするけど」
乳兄弟の声に、ノエラは溜息を吐き出しながら言う。
「なんでジェイドはそんなに楽観的なの?」
「姫を見てたら悲観的に生きても仕方がないなって思うからだよ」
「この状況で楽観的になれる要素が見あたらない……」
フラウが二人のやり取りに苦笑しながら言った。
「とにかく、今日のところは休みましょう」
寝台に移っても、ノエラはなかなか寝付けなかった。先の見通しが全く立たない、というのはこれほど不安なのかと思い知らされた気分だ。ティセルラントの離宮で生活していた時は、昨日も今日も明日も同じようなもので、ただ一日が当たり前のように過ぎていったというのに――ラストラルタに来てから全くそれが通じない。
しかし、どうしたってノエラは結婚する訳にはいかないのだ。
――ティセルラントの国に、もうノエラがラストラルタの末王子の婚約者に選ばれた知らせは届いているはずだ。それなのに、どうしてあちらは何も言って来ないのだろうか。大っぴらにノエラを嫁に出せない、と言うわけにはいかないのは分かっている。しかし、このままこの話が進むとどう考えてもティセルラントの国にとって良いことにはならない。
嫌な予感がした。
招待状が届いた時と同じく、議論が混迷を深め紛糾し時間切れになる結末が。
ノエラのことはある程度仕方がない。しかし、フラウとジェイドは無関係だ。ノエラの髪の色を厭うどころか受け入れてくれ、おまけに不幸体質に巻き込まれない。たまたま、希有な体質だからと言って、最期まで共にさせるのはあまりにも忍びない。
最悪――何もかもをクレイに打ち明けて、二人を見逃してくれるように頼むしか無いだろうか。
クレイの、笑っていない鋭い目を思い出す。
何を考えているのだろう。そもそも、クレイ自身も婚約に乗り気で無いことは――あんな無茶な条件を各国の姫君たち相手に出すぐらいなのだから分かっている。
そんなことを考えながら眠ったせいか、ノエラはひどい悪夢を見た。
いつの間にかノエラは檻の中に入れられていて、首切り台へ運ばれていた。体中が縛られていて動けない。処刑台の横には、クレイ王子が腹の底を見せない笑顔で笑っている。
あまりの息苦しさに目を開いて――ノエラは気付いた。
寝室に、誰かがいる。
自分のものではない息づかいが、やけに大きく聞こえる。反射的に寝台から飛び起きて、ノエラは寝間着の前をかき合わせた。
「フラウ?」
まるで犬みたいな呼吸音は、どう考えても物静かな乳母のそれでは無い。一度寝たら滅多に起きることの無い乳兄弟の名前をノエラは念のために口にする。
「ジェイド?」
呼び終えた途端に、ぞっとすることに気が付いてノエラは表情を凍らせた。乳母でも乳兄弟でも無い他人が――深夜の寝室に入り込んでいる。
慌てて寝台の枕元にある手燭を掲げた。動力が『魔石』のそれは、簡単に部屋の中を照らす代物だ。真っ暗闇の中で突然に付いた明かりにノエラの目が眩んだ。そして、人影が寝台のすぐ間近に立っているのに、思わずノエラは息を呑んだ。突き出すようにして掲げた手燭の明かりの中。人影の輪郭が浮かび上がる。
立っていたのは――クレイの義兄・ハインツだった。
「は――?」
どうやって、ここに。
いや、どうしてここに。
そんな疑問が頭の中を渦巻いたのも一瞬。クレイの声が蘇る。
あなたも重々、気を付けて下さい。
我が身の行く末が心配のあまり、国王夫妻に謁見した後の些細ないざこざは完全にノエラの頭から吹っ飛んでいた。それにしたって、まさか王族の一人ともあろうものが、義弟の婚約者に堂々夜這いをかけてくる等とは思わないでは無いか。
「これはこれはティセルラントの姫君。お休みのとこを起こしてしまい申し訳ございません」
大仰に笑うハンイツの顔は赤味を帯びている。微かにアルコールの刺激臭が漂ってくる。酒を飲んだ上の乱行にしても、あまりにも度を越えている。嫌な予感しかしない。眠る時に念のために付けている夜帽子を押さえながら、ノエラは上擦った声で問いかけを発した。
「何のご用事でしょうか――?」
その言葉に、本人は魅力的だと思っているのだろう流し目が飛んできた。
「男が女のところに忍んでくるなど、一つに決まっているでしょう」
知るか、馬鹿。
この場の暴言はどう考えても自分の為にならないのは明白で、ノエラはその言葉を飲み込んで代わりに常識を口にした。
「私の婚約者はクレイ王子の筈ですが――」
その名前を出した途端に、ハインツの顔色が変わった。
「クレイ――」
ほとんど吐き捨てるようにその名前を言って、ぎらぎらとした野獣じみた目をハインツがノエラに向ける。
「我が義弟ながら、どうしてあんなに俺を馬鹿に出来るのか――王妃の腹から生まれただけで、俺の持っている者を全て取り上げやがって」
例えそれが本当のことであったとして、ノエラには関係の無いことである。義兄弟喧嘩は余所でやって貰いたい。切実に。
「俺が何をやっても、あいつは、あのお綺麗な面でこっちを軽蔑したようにみるだけだ。さすがに、今回は違うだろう? 何せ、あいつが直々に選んだ婚約者殿だ。どうせお堅いあいつのことだから、婚前交渉なんて以ての外だろ――。あの綺麗な顔がどんな風になるのか、楽しみだな」
――本当にゲス野郎。
クレイと半分でも同じ血が流れているのか不思議に思うほどの短絡的な思考回路だった。ノエラは小国とはいえども他国の姫だ。そして、故国から正式な返答が来ていない限りは――あくまでラストラルタの客分なのだ。
それが滞在中にラストラルタの国の王子の一人から乱暴を受けたとあれば、どうあれ批判は免れないだろう。そして、その時に罰されるのは間違いなく目の前の男なのである。クレイから聞いた限りの醜聞と合わせても、王の息子という地位が有利に働くとは思えない。
義弟憎しで、よっぽど目が眩んでいるのか――それともそこまで考えていないだけなのか。
考えていないのだろうな、と思ってノエラはひとまずハインツと距離を置くために寝台から飛び降りた。
こんなに堂々と客用の宮に忍び込んでくるということは、警備兵は買収でもされたのだろうか。叫び声を上げたところで助けに来るのは、フラウとジェイドだけだろう。あの二人を危険な目に遭わせることなどノエラが許さない。
「さすがティセルラントの田舎姫――野暮ったい寝間着ですなぁ」
小馬鹿にしたような口調でそう言われる。夜帽子に加えて、頭から被って足下までを覆う寝間着はしっかりとした綿で出来ている。余計なお世話だ。丈夫な上に、体の線がすっぽりと隠れる。ノエラにとっては、この寝間着が最高で最適なのである。――とは言え、そんなことを説明するつもりは全く無いのだけれど。
「見ての通り、田舎者の小娘なので――ハインツ王子のお気には召さないかと」
心からの辞退の言葉は、どうやら曲解して伝わったらしい。
ハインツが顔をどす黒く変色させて言う。
「お前も俺を馬鹿にするのか――ッ」
轟くような怒鳴り声だった。基本的に引きこもって暮らしているノエラは、この手の生々しい感情とは無縁だ。ノエラ自身、そこまで強い憎しみとは無縁で今まで生きてきた。
初めて触れる怒りの感情は、強烈であまりにも醜悪だった。
「どいつもこいつも――クレイ、クレイ、クレイ! たかが王妃の腹から生まれたぐらいでッ」
喚き散らしたまま、強引に距離を詰めてくるハインツから後ずさろうとしたところで背中が壁にぶつかった。
追いつめた鼠をいたぶるような猫の顔で、ハインツはわざとらしいほどゆっくりと近寄ってくる。手持ちの武器は何も無い。せめてもの抵抗に、ノエラはハインツの顔面めがけて手燭を投げつけた。
ハインツの顔の横を素通りした手燭が、床の上を転がった。その瞬間に明かりが消えて、部屋の中が暗くなる。荒い息づかいが一気に近くなる。
「楽しませてやるよ、お姫様」
誰が。
思っている内に、強く引き寄せられて寝間着の布地が避ける。無骨で乱暴な指が、ノエラの体に触れるよりも――先に。
――バチバチバチッ。
今まで聞いたことも無いような、もの凄い音と閃光が目を眩ませる。
乱暴にノエラの体を引き寄せた強い力が突然、消失する。何かが叩きつけられるような音と共に、焦げたような臭いが漂ってくる。よろけて前のめりに床に転がりながら、ノエラは何が起こったのか分からずに暗闇の中で瞬きをした。
ハインツの物らしい呻き声が聞こえてくる。
何がどうなっているのか理解出来ない。下手に動いて、ハインツに触れてしまうのも嫌だ。そのままの態勢でいて、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
ぱっと、部屋の明かりがついて眩しさに細める。
「おや、これはこれは――」
形ばかりは驚きを作る声が聞こえてきて、寝室の入り口に目を向ける。そこには、きちんと王子の服を着込んだクレイが立っていた。
明かりにようやくノエラの目が慣れてくる。ハインツは壁に凭れるように崩れて倒れていた。その肌が先日の時のように、火傷をしたように赤く爛れている。
「念のために聞きますが、我が姫」
どこまでも冷静な口調を崩さないまま、クレイが言った。
「同意ではありませんよね?」
ノエラは目一杯に首を縦に振る。その様子に頷きながら、ぴくりとも動かない義兄を軽蔑した目で見やってクレイが溜息を吐いた。
「我が義兄ながら、ここまで短絡だと怒りを通り越して呆れが湧きますね――」
クレイの表情はどこまでも冷めていて、これがハインツを怒りに駆り立てる原因なのだろうな、とノエラはぼんやりと考えている。
クレイは溜息を吐きながら部屋の中に足を踏み入れた。
「昼間の騒ぎのせいで、こちらの警備が薄くなるのに思い至った時から嫌な予感はしていたんです。とは言え、国の重要な資源物資が盗まれた夜に――まさか仮にも王子たる者が義弟の婚約者を寝取るために動くなんて思わないではないですか。結果として動いている訳ですが――全く情けない」
そう言いながら寝台の上の掛け布を一枚取り上げて、ノエラの近くに膝を付く。無惨に裂けた寝間着の布地を見て、ノエラは慌ててその部分を取り繕うように掌で押さえた。クレイが労るように掛け布を肩にかける。
「あんなのでも、仮にも身内が大変な無礼をして申し訳ありませんでした。怪我は無いですか?」
意外なほど優しい口調にノエラは面食らいながら首を振った。
「えっと、大丈夫ですので――お構いなく」
「そうですか。――ところで、あれはあなたの仕業ということでよろしいですか?」
あれ、と言って示されたのはまだ気を失ったままのハインツだ。
それについては何が起こったのかノエラは説明出来ない。ただ、聞いたことも無いような大きな音と共に閃光が迸ったのだけは見えた。
「――たぶん?」
不幸体質といえども、ここまで直接的に他人に害を為すようなことが今まであったかと言われると心当たりが無い。いや、それこそ生まれた直後に――ノエラの存在を命ごと抹消しようという取り組みが為されてそれが悉く費えたのは知っているが。やはり、これはノエラの体質によって引き起こされたものなのか。
しかし、厄介なことにノエラにはその力をコントロール出来る術は無い。
途方に暮れたような返答に、クレイが小さく笑った。
「なんです?」
「いや、こんなことを言うと不謹慎なのでしょうが――あなたが私の婚約者で良かった」
「は?」
「普通の姫君なら、ハインツ義兄上の前で悲鳴も抵抗も出来ずに思うがままにされてしまうところでした。――婚約者があなただったのが不幸中の幸いです」
あなたには不運でしょうが、と付け足しながらクレイはノエラの横から立ち上がる。いつの間にか寝室の入り口には、昼間の買い物にも動向したクレイの背の高い従者が立っていた。
「ウォリング」
従者に呼びかけながら、クレイは顎でしゃくるようにしてハインツ――義理の兄を示す。
「起こしてあげてください」
ウォリング、と呼ばれた従者は部屋の主であるノエラの方に軽い一礼を寄越すと部屋の中に足を踏み入れた。懐から何かの小瓶を取り出して、それをハインツの鼻先に近付ける。
ぴくりとも動かなかったハインツが、苦しげに顔を歪ませて、しばらく
すると咳き込みながら目を開いた。
「なんだ――ッ、これは――ッ」
「お気づきになられましたか、ハインツ義兄上」
親しみの篭もらない冷え冷えとした声に、顔を上げたハインツが表情を歪める。それから、物凄い勢いでがなり立て始めた。
「なんだ、その女はッ! 見てみろ、この火傷を――その女、人間じゃないぞ!」
「あなたの怪我なんてどうでも良いんですよ、義兄上」
喚き立てるハインツの声を煩わしそうに遮ってクレイが言う。
「問題なのは、あなたがこんな夜中に私の婚約者の寝室に忍び込んで何をしようとしていたか、ということです。――ちなみに、あなたが金と出世で買収した警備兵はこちらで確保してあります」
「なんだと――」
「浅はかだ」
嘆息と共に、クレイは哀れむような視線をハインツに向けた。
「つくづくあなたという人には落胆させられますね、義兄上。がっかりだ。どうしてそんなに愚かなままでいられるのか分からない。私を妬んでいる暇があるなら、もっと他にするべきことはいくらでもあるでしょうに。いや――愚かなままでいられるあなたが、いっそのこと羨ましい」
最後の言葉は殆ど独白のようだった。その意味が分からずに、ノエラは思わずクレイを見た。
羨ましい?
愚かさに落胆をするのは分かるが、その愚かさを――愚かなままでいられる状況を羨む理由が分からない。
ラストラルタの国の王妃の唯一の息子。
生まれついて成功が約束されたような位置にいるというのに。どうして、そんなことが言えるのか。
けれども、ノエラの口からその疑問がこぼれることは無かった。
クレイは義兄に見切りを付けたようで無造作に片手を振った。ウォリングと呼ばれた背の高い従者が手際よくハインツの体を縛り上げる。何事か喚く口に猿轡を噛ませ、くぐもった声だけを上げる物体に成り下がったハインツの体を引きずるように持ち上げる。
「後はこちらで処理いたしますので」
丁寧に告げた従者は軽く頭を下げると、ハインツの体を引きずりながらノエラの部屋を出て行った。
「――さて」
くるりと踵を返したクレイがノエラの前に膝を付いた。
「乳母の方を呼んできましょう。なんでしたら、あなたの乳兄弟も」
「あ――はい」
「重ねてお詫びを言います。大変申し訳ありませんでした」
「あ、いいえ――」
殊勝な顔で謝るクレイというのも、なかなか恐ろしいものがある。先ほどまで義兄に対して容赦なく対峙してた様子を見たから余計に。勢いよく頭を振ったせいで、被っていた拍子に夜帽子がずれた。
髪の毛がこぼれて落ちる。
真紅の髪が、一房。
クレイはノエラの髪の色など、とっくに知っている。けれども、反射的にそれを隠そうと手が動いたのは長年の習慣から。隠さなければならない、という義務感に駆られてのことだった。
けれども、両手で夜帽子を押さえたのは失策だ。胸の前で合わせていた掛け布が床の上にはらりと落ちる。
あ――。
ざぁ、とノエラの顔から血の気が引く。どちらを隠せば良いのか、咄嗟に判断が追いつかない。中途半端なところで止まった掌にクレイが呆れたような顔をして言う。
「髪の色なんて私はもう知っているのだから、隠しても無意味でしょう。それよりもっと隠すべき場所があるでしょうに」
説教じみた口調で言いながら、床に落ちた掛け布を取り上げて、ノエラの肩にかけようとしたクレイの視線が――そのままノエラの胸元で止まる。
「――?」
「――」
クレイの瞳が軽く眇められる。ノエラは声も出せないまま、唇だけを開閉させた。どっと背中から冷や汗が吹き出す。
こればかりはどうしても言い訳が立たない。クレイの視線は、無惨に裂かれた寝間着の奥。
まっ平らなノエラの胸部に注がれている。
しばらくの沈黙の後に、クレイが真顔で呟いた。
「――貧乳とか、そういう問題じゃないですよね?」
クレイの口から飛び出したのは、王子にあんまりにも似つかわしくない単語で、ノエラは思わず頭を抱えたくなる。そんなノエラの葛藤を気にした様子も無く、片手を伸ばしたクレイは――躊躇無くノエラの股間に触れた。
「あああああああああああああああああッ!?」
ふに、と軽くそこを揉まれる感触と――それによって最後の秘密がバレたことを確信したノエラは恐慌しながら叫ぶ。それにしたっていくら確かめるのに最適な方法とは言え、そこに躊躇い無く触れてくる王子がいるだなんて誰が思おうか。
さすがに驚いたらしく、一瞬固まったように目を見開いたクレイはやがてぽつりと呟いた。その声音もどこかぎこちない。
「――――これは、これは?」
「すいません、これには深いようで浅い事情があるんです。どうかどうかどうかフラウとジェイドは見逃してやって下さい。お願いします、すみません」
体を引いてクレイと距離を引いて、ノエラはその場にがばりと土下座する。
床に頭を擦り付けるような姿勢を取ったままのノエラに、クレイは考えを整理するようにたっぷりと間を空けながら言葉を紡いだ。
「――我が姫」
「はいぃぃぃぃッ」
「つまり、あなたは?」
「先ほど確認した通りですッ」
「――男?」
「大変申し訳ございませんでしたッ!!」
でも私は最初から婚約なんて無理だと申していましたッ、とやや八つ当たりのような気持ちで叫びながらノエラはクレイからの糾弾の嵐に備えて頭を下げたまま目を瞑る。
そのままの姿勢で、どれだけの時間が経過したか――。
「――クレイ王子?」
「ふッ」
恐る恐る、反応を窺うように顔を上げた先でノエラが見たのは――口元に手を当てて小刻みに笑うクレイの姿だった。
「王子?」
衝撃が大きすぎて、頭がおかしくなったのだろうか。
相当に失礼なことを考えながら呼びかけたノエラに、クレイが堰を切ったように笑い出した。
「くくくくくッ、はッ――――あっはっはっはっはッ!」
抱腹絶倒。
終いには目尻に涙まで溜めている笑い転げる王子の様子に、ノエラはひたすらに呆気に取られた。
「なぁるほど? だから、あんなに私との婚約を断りたがっていたんですね? 髪の色と、体質なんかじゃなくて。原因は――もっと根本的な性別で」
「はぁ、まぁ――」
「そりゃそうですね、王子の婚約者の姫なんですから――あはははははッ、なるほど――あ、息苦しい――無理無理無理! ――凄いですねぇ、あなた! こんなに愉快な方向で私の予想を越えて来た人は初めてだ! 全く、希有と言って良いですよ! あはははははッ」
「王子――?」
笑い転げるクレイ・ディードリック王子。
これはこれで恐ろしいとしか言いようがない。ようやく笑いの発作を収めたらしく肩で息をしながら床に手を付いたクレイが、ノエラのことを真っ直ぐと見つめながら言う。
「あなたは本当に、私の幸運の女神かも知れない」
「――はぁ?」
「あぁ、駄目ですね――面白すぎる――あっはっはっはっはッ」
フラウとジェイドが騒ぎを聞きつけてノエラの寝室に馳せ参じるその時まで、しばらくクレイの笑いの発作が収まることは無かった。
*****
ティセルラントの国は、大陸の多くの国と同じく王族の直系の男児が王位を継ぐ。それも長子相続が絶対で、系図が辿れる限りそれが途切れたことは無かった。そして、ノエラが生まれるその日までそれが問題になったことなど無かった。
真紅の髪を持った男児。
それは否応無く、ティセルラントの国の伝説を彷彿とさせるもので――ノエラに王座を継がせることなどとんでもないことだった。頭を悩ませた国の上層部が苦肉の策として考えたのが生まれた赤子は「女児」だった、とすること。
どうにもティセルラントという国は、引っ込みの付かない嘘を吐いて自滅する傾向にあると思う。
ノエラが生まれてしばらく、ノエラの兄弟――「次男」が生まれたせいで、余計にノエラの存在は秘密にされ遠ざけられるようになった。
けれども、見えないところに置いただけで問題は何一つ解決していないのだ。ただ結論を先延ばしにして来ただけ。――そしてそのツケのように舞い込んできたのだが、今回のラストラルタの末王子の婚約者探しだった。
どっどっどっ、と嫌な音を立てて心臓が鳴っている。
今日一日、ノエラはいつも以上に上の空でフラウとジェイドは気遣わしげな視線を向けてきた。しかし、その原因については結局説明することが出来なかった。
昨夜、ノエラの身に何が起こったのかをフラウもジェイドも大凡のところを知っている。散々に笑い転げていたのが嘘のように真顔になったクレイが、殊勝に詫びを入れながら説明をしたからだ。
その際も、クレイはノエラの性別について一言も触れなかった。
裂かれた寝間着に仰天したフラウとジェイドに大丈夫だったかと聞かれたが、とにかくノエラは頷くことしか出来なかった。去り際に、ノエラにしか聞こえないようにクレイが囁いたからだ。
「あなたの『服の下』の事情については、改めて話し合いましょう」
その声がずっと頭の中を渦巻いている。
ハインツ自身は、王城のどこかで謹慎させられているらしい。処遇がどうなるのかを決めるのは、父親である国王だということだったが、それはノエラにとってはどうでも良いことだった。
問題なのは――クレイだ。
何を思ってノエラの性別について黙っているのだろう。
馬鹿にされた、と逆上するのならばともかく――。あんな風に愉快だと笑われることなど、何も無いと思うのだが。
秘密を握った者が選ぶ常套手段は脅迫だろうが、ラストラルタの末王子であるクレイがノエラからゆすり取られるものなど無いに等しい。そもそも、ノエラには差し出される物が無い。待っているのは破滅ばかりだ。クレイがノエラと一緒に秘密を共有したところで、何の得にもならないのだ。
――それなのに、敢えて口を噤んでいるクレイの気が知れない。
一日は焦れったいほどゆっくりと流れていった。
クレイが言う「話し合いの場」はいつ持たれるのか。それともやっぱりあれは方便で、警備兵がなだれ込んできて「大嘘吐き」と罵られながら牢に閉じこめられるのではないか。ラストラルタをコケにした代償に故国に宣戦布告の使者が送られているのではないか。そんな不安にばかり襲われて、ノエラが食事はおろか息も出来ない有様でいる内に――日は沈みあたりはとっぷりと暗くなった。
「姫、大丈夫?」
「――――だいじょうぶ」
「姫様。昨日のこともありますから、今日は私とジェイドの部屋で眠りましょうか。それか私たちがこちらで眠りましょうか」
「――だいじょうぶ」
片言で返事をしながら、無事だった寝間着に袖を通したノエラがぎこちなく首を縦に振る。
生まれてこの方ほとんどの時間を共有して来た二人に、下手な嘘は通じない。だからノエラは敢えて何も言わないことを選んだ。いくら男とは言え、寝室に押し入るようにして襲われたのが昨日の今日だから二人とも普段より挙動が怪しいノエラについて、なんと声をかけるべきか考えあぐねているのも幸いした。
気遣わしげな視線と共に、寝室の扉が閉じる。
ノエラには不釣り合いな豪華な丁度で整えられた部屋。「魔石」をふんだんに使った照明器具のお陰で、昼間のように煌々と明るい中で、ノエラは寝台の端に腰掛けたまま身動ぎもしなかった。
その姿勢のままで――どれぐらいの時間が経ったのか。
「――すみません、遅くなりました」
「ッ」
寝室の扉が開いて、クレイがするりと部屋の中に足を踏み入れる。従者も付けていない一人きりの姿を見て、ノエラはぎこちなく瞬きをする。
「クレイ王子」
「あなた、眠っていませんね? あんなことがあったのだか昨日は仕方がないにして――今日ぐらいきちんと休んでいれば良かったのに」
「王子」
流れるように言葉を紡ぐクレイの声を、息絶え絶えに遮ってノエラは言う。
「私のことは――好きにして下さい」
「――ほぉ?」
申し出に対して、クレイが興味深そうに声を上げる。ノエラは一息に思いの丈を吐き出した。
「その代わり、私の乳母と乳兄弟は見逃して下さい。この髪と体質のお陰で離宮に軟禁されて過ごして来た私の唯一の家族なんです。あの二人には返しきれないほどの恩がある。結果的にクレイ王子を騙すことになってしまったのは申し訳なく、弁解の余地もありません。ただ誓って、悪気はありませんでした。私も、そして私の国も。アルバレンの姫も言っていたように、まさかラストラルタの末王子であるあなたが――こんな小国の、疫病神の加護を受けた国の姫なんかを選ぶとは思いも寄らなかったんです」
お願いします、とノエラはそのまま頭を下げた。
しばらくの沈黙の後に、クレイが言った。
「なるほど」
それからおかしそうに笑い出す。
「――あなたから見ると、そうなんでしょうね」
「え?」
聞き返すと、クレイが楽しげに言葉を続けた。
「好きにして下さい、とはご立派なことだ。身を呈して臣下を庇う主とは、感動して涙が出て来ます。――本当に私の好きにして良いと?」
「――え?」
何をさせようというつもりなのだろう。
訝しげに眉を寄せるノエラに向かって、妖しい顔で笑ったクレイが見せつけるように上着の釦を外す。
「では、抵抗しないで私のされるがままになっていて下さい」
「あ、の――? クレイ王子?」
「好きにして良いんでしょう?」
ふふふ、と笑うクレイの顔は逆らいがたい迫力に満ちている。思わせぶりに顎をなぞる指先――やはりクレイが触れても何も起こらない――の意図をようやく悟ってノエラは混乱した声を上げる。
「え?」
「はい?」
ノエラの声に答えるクレイの声は、怖いぐらいに優しかった。
「あの、王子?」
「なんでしょうか、我が姫?」
「わ、私は――姫ですが男で」
「そうですね、知っていますよ。昨日、直接触って確かめたんですから」
言いながらノエラが自然にクレイの肩を押した。勢いに押されて、ノエラは寝台の上に仰向けに倒れる。煌々とした明かりに照らされた天井が見えた。
そして流れるような仕草でクレイがノエラの跨がる。
「え?」
「はい?」
「――え、あ、え? 王子?」
「なんですか、我が姫」
「私は――男ですが」
「知ってますよ。――先ほども確認しましたね、それは」
「ですから――え?」
「はい?」
「え――」
見せつけるように上着を脱ぎ捨てたクレイが、ノエラの上で嫣然と笑う。
ノエラの顔からざああああと血の気が引いた。十八年間、ほとんど他人と接することなく育てられてきたが、フラウはなるべく外界の情報を実の息子と育て子であるノエラに施すことを忘れなかった。
だから、そういうことが世の中にあるのは勿論知っている。
知っているが、まさか――自分がその当事者になろうとは――。
「クレイ様? 王子? ちょっと、あの、それは、さすがに」
「どうしたんですか? 好きにして良いと言ったのはあなたですよ? もう前言撤回ですか?」
「いや、そういう訳ではなくて――え、本当に?」
「何が?」
するりと、上着の下から除いた衣服の釦をクレイが外していく。
ぞっとするほど妖艶な様子に、ノエラは硬直した。しかし、それなら、クレイが結婚するつもりが無いと言ったことも――ノエラが相手なら都合が良いと言ったのも良く分かることで。
ええええええ、マジか。マジなのか。
ぐるぐると考えながらも、結局ノエラは声を詰まらせながら返事をする。
「わ、かりました」
「へぇ?」
「好きにして下さい」
がんばります、と覚悟を決めてノエラは体にぐっと力を入れて目を閉じる。先に「好きにして良い」と条件を出したのはノエラの方だ。ティセルラントの外交下手の血は、間違いなくノエラにも受け継がれているようだった。だから、仕方がない。
「――潔いことで」
褒めているのか馬鹿にしているのか。判然としない口調でクレイが呟く。ノエラは身を固くしたまま、そこから先――何が起こるのかを待った。
しゅる、と脱いだ服を投げ捨てる音が鼓膜にやけに大きく聞こえる。それに思わず体を震わせると、堪えきれないとでも言いたげな笑い声が落ちてくる。
「くッ――あっはっはっは。はははは! 本当に、あなたって人は愉快で困るな!」
目を開けてごらんなさい、と笑みを含んだ声が促すのにノエラはそろそろと瞼を持ち上げた。昼間のように明るい寝室の中。
ノエラの上に跨がるクレイは、半裸になっている。知性のある上品な顔立ちは、今は悪戯げな笑みを浮かべていた。艶やかな黒い髪。凛と伸びた背筋。服を脱ぎ捨てたというのに、肌は見えない。ぐるぐると巻き付けられた晒に覆われているからだ。
――怪我でもしているのだろうか。
思いながらまじまじとクレイの体を見上げて。
「え?」
ノエラは間の抜けた声を上げた。
昨日、ノエラが不可抗力で晒すことになったのと同じ――胸元。
そこには王子であるのなら――男であるのならば本来はある筈の無い、なだらかな膨らみがあった。
「――――は?」
意味が、分からない。
目の前にいるのはラストラルタの国の末王子のクレイだ。それなのに、どうして一体こんなことが――。
ぐるぐると考え込むノエラの顔を見つめて、クレイは思わずと言ったように噴き出した。それから片目を瞑って言う。
「私はあなたに無いものを持っていて、あなたは私に無いものを持っている」
言葉の意味が理解できず、ぽかんとクレイを凝視したまま固まるノエラに、ついにクレイが声を上げて笑い出した。その顔には、いつもノエラが感じる胡散臭さは欠片も見あたらない。
心の底から楽しそうな、満面の笑み。
やがて笑いの発作が収まると、軽く目を眇めるようにしてクレイ・ディードリックが挑むように告げた。
「――さぁ、腹を割った話し合いましょうか。我が姫、我が婚約者殿。ノエラ・ベルヴェデーレ?」
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