第三章

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第三章

 ラストラルタの国に、長子相続の決まりは無い。  王の直系の子である男児ならば、誰もが平等に継承権を持つことが出きる。  ――男児、ならば。  ラストラルタの末王子――クレイ・ディードリックが実は女であると言われて信じる者が一体どれぐらい存在するというのだろうか。  目の前の光景が信じられず呆然としたままクレイを見上げるノエラに、その体に跨がったままのクレイがくすりと笑う。 「――私も触ったんですから、あなたも触りますか?」 「へ――?」  どこを、と聞き返そうとして思い出したのは、昨日の夜にクレイが触れたノエラの体の部位だった。顔を青ざめさせながら、ノエラは必死に首を横に振る。 「結構です、大丈夫です、間に合ってます――!」 「そこまで拒絶されると、なんだか腹が立ちますね」  真顔で呟いたクレイが、ノエラの体の上から退いた。そのまま脱ぎ捨てた服を羽織るクレイの様子を、ノエラは間抜けな顔で見守った。  クレイ・ディードリックが女。  ノエラ・ベルヴェデーレ自身が男、ということだけでも悪夢のようなのに――これは一体どういうことだろう。それとも、実はノエラはクレイを待っている間に眠りこけていてこれは単なる夢なのだろうか。そうだったとしたら、相当な悪夢だが――。 「我が姫? 大丈夫ですか」 「あんまり……」  正直に告げると、クレイがおかしそうに笑う。心の底から楽しそうに、だ。どうしてそんなに楽しそうにすることが出来るのだろう、とノエラは不思議に思いながらようやく寝台から体を起こした。 「お互い妙な人生を歩まされいますね」  すっかりと衣服を整えたクレイが言いながら、間抜けに寝台に腰を降ろしたままのノエラの横に座る。その様子を見つめながら、ノエラは困惑して言った。 「どうして――?」 「なにが?」 「どうして、あなたは王子として――?」  ラストラルタの国は後継に困っていない。だというのに、わざわざクレイを「王子」として育てるだなんて訳が分からなかった。そして、「末王子」の婚約者探しをあんなに大々的に各国に知らしめて行っている。正気の沙汰とは思えない。  クレイが哀れむような微笑を浮かべて言った。 「私の母上――王妃のくだらない見栄ですよ」 「え?」 「昨日のハインツ義兄上しかり、私には複数の義兄上がいます。王の息子であれば、誰もが王座に座る権利を持つ。それなのに、王と王妃の間には私の他に三人の娘がいますが――男児は一人も産まれていなかった。それが母上には悔しくて仕方が無かったらしい。どうしても、あの人は自分が産んだ子どもを王位に付けたかった。――そして産まれたのが私です」 「いや、でも」 「どうしても、自分が産んだ子どもに王になって欲しいあまりに『女児』を『男児』と偽って届けたんですよ、あの人は」  肩を竦めるクレイの表情は憂いに満ちている。 「そんなことが――」  あるのか、と尋ね返そうとしてノエラは口を噤んだ。あまりにも愚問だったからだ。実際にあったのだ。だから、こうしてクレイはノエラと並んで寝台の上に腰を降ろしている。 「でも、どうして婚約者探しなんてしたんです――?」  あんなに大々的に各国の姫君たちを呼びつけて。結婚なんて出来る筈も無いのに。  そして、クレイがアルバレンの姫君に目にも――普通の姫君らしい姫君たちに目もくれなかった理由がようやく分かる。 「国王になろうとする者は血筋の確かな姫を嫁に迎えることが必要とされますから。それだけのことです」 「いや、でも」  そもそも、どうして王妃はそんなことを許したのか。  何より先日、引き合わされた国王夫妻は末王子の婚約者について全く動揺した様子を見せなかった。あの時、クレイから感じた落胆に今更ながら納得がいった。  女である自身が、女の婚約者を迎え入れることについて、本当に反対をしないのかという最終確認だったのだろう。  反対の言葉一つも無く受け入れた王妃の態度を思い出して、ノエラは首を傾げる。それから困惑のままに尋ねた。 「――どうするつもりだったんです、王妃は?」  もしも、ノエラ以外の婚約者をクレイが選んでいた場合、遅かれ早かれ性別に関する嘘はバレていた筈だ。その場合、長年に渡り国王や国民を欺いた罪を王妃自身が問われていただろうに。  ノエラの疑問に対して、クレイは淡々と言った。 「どうするつもりもありませんよ、あの人は。そもそも問題を問題として認識していないのですから」 「え?」 「自分が産んだ優秀な『王子』が王位を得ることにしか興味が無い」 「いや、だから」  そもそも、クレイは女なのだから王位に就くことは出来ない。  根本的な問題点を指摘しようと口を開きかけたノエラは、やがて沈黙した。  そんなことをクレイ自身が分かっていない筈が無いのだ。  諦めたように肩を竦めてクレイは言う。 「私の母は王位に取り憑かれているんですよ、ノエラ姫」  姫、と呼びかけてからクレイは微かに口を歪めて笑った。 「私はあなたのことをなんて呼べば良いんでしょうね、我が婚約者殿? 本当ならば王子にして、ティセルラントの国の次期後継者だった筈のあなたを」  クレイの皮肉っぽい微笑を、ノエラは沈黙して眺める。 「あなたの国の人たちが、あなたの髪の色と体質に恐れおののいて、女児としてあなたを育てて王位継承権を取り上げたのと、私の立場は真逆だ。私の母はこの国の大貴族の娘で、幼い頃から王妃の地位が約束されていた。母はずっとこう言い聞かされて育ったらしい。『お前はいずれこの国の王の母になる』。何度も何度も何度も何度も。そして、幼い頃から刷り込まれたその言葉を自分が実現出来ないという現実が耐え難かった――そして私を男児と育てることでその目的を達そうとした。今では、こう思っている。『十八年前に私が産んだのは男児だった。クレイは元から男だった』と」 「は――」 「――十八年も王子として育てられてきた私も、後には引けないところにいる。そして私は、王位に就きたい。王位について、この国でやりたいことがある。結果として母上の願いを叶えてやることになってしまうのが癪ですが――それも仕方がない。だから、ノエラ・ベルヴェデーレ」  鋭い視線がノエラを見据えた。 「私と共犯者になってくれませんか」 「は?」 「あなたは私にとって理想的だ。あなた以外の婚約者も結婚相手も考えられない」  アルバレンの姫に詰め寄らた挙げ句に髪の色がバレたあの日と同じような熱心さで語られる言葉に、ノエラはぽかんとした。 「そんなことを言われても――」 「もちろん、タダでとは言いません。きちんとお礼はします。全てが終わった時には新しい身分と、一生暮らしていけるだけのお金も渡しましょう。もちろん、あなたの乳母と乳兄弟の分も」  いかがですか、と笑いかけられてノエラは即答出来ない。 「王子――」  女であるクレイを王子と呼び、男であるノエラが姫と呼ばれる。互いになんてあべこべな状況に置かれているのか。困惑をしながらノエラは言う。 「私の体質を知っているんでしょう?」 「もちろん。お陰で甘ったれのハインツ義兄上は、国王の候補者から脱落した。――まぁ、最初からそれほど高い順位にはいなかったのですけどね。あの性格と知性からしたら当然ですけど」 「そうではなくて」  ノエラに近づくものは必ず不幸に襲われる。不運に人生が狂う。思惑は上手く行かない。産まれた時に殺すなと言うように起こった数々の出来事が無ければ、とっくに亡き者にされていた命だ。とにかく、そんな不吉なノエラの横で。 「――あなたの望みというのが、私のせいで叶わなくなるのかも知れない、とは考えないのですか」  「疫病神の申し子」というあだ名は、伊達では無いのだ。どうしてそうなるのかは分からない。けれども、そうなってしまう。乳母と乳兄弟がどうしてノエラのその体質から無事でいられてるのかは分からない。けれども、とにかくノエラはそういう人間なのだ。  国を送り出す時に憎々しげに言われた声を思い出す。  十八年前に産まれて来なければ、こんな面倒など無かったものを――。  ノエラのその懸念をクレイは軽く笑い飛ばした。 「そもそも、人生の望みが叶う人間なんてこの世界にどれぐらいいると思います? 私の母上が良い例だ。王妃にはなれたけれど、国を継ぐ王子を産むことが出来なかった。あの人の望みが叶っているのは、歪んだ頭の中だけの話で、現実には何一つ叶っていない。そうでしょう?」 「それとこれとは話が別です」  みすみす不幸になろうとする相手を止めるぐらいの良識を、ノエラは持ち合わせている。なので必死になって言葉を重ねた。 「私のこれは、あなたが思うように制御できるものじゃないんです。ハインツ王子に襲われた時のあれは、あの火傷は――あんなことは初めてだったし、同じ状況になった時に同じことが出来るとは思えない。けれども、不用意に人前に出た時に何か他に――もっと説明のつかない大事が起こらないとも限らない」  産まれた直後に、城に雷が落ちてそのせいで天井が崩落したのだ。  結婚などという大事に挑む時には、どんな不幸が起こることやら。  そんなノエラの言葉に耳を傾けていたクレイは、にこりと笑う。 「私とあなたの今の状況以上に、にっちもさっちも行かない不幸な状況ってあるんですかね?」  その問いかけに、ノエラは答えることは出来なかった。 「私もあなたも今更、嘘を撤回するのは遅すぎる。今回の婚約者選びで、ティセルラントの国の中であなたへの関心は高まっているでしょうね。帰ったところでロクなことにならない。私だってそうだ。あなたみたいに物わかりの良い――同じ穴の狢のような婚約者を得られることは二度と無いでしょう。アルバレンの姫のような婚約者をあてがわれてご覧なさい。私の秘密はすぐにバレて、あっという間に身の破滅だ」  まぁ、それはそれで構わないんですけどね――と呟きながらクレイは言葉を続ける。 「私の場合は最悪、母上の妄執に付き合わされた被害者で済む。どこか遠くの城と領地を与えられて、そこに押し込められて終わりでしょう。――ただ、あなたの場合はそうもいかないでしょう?」 「どうして……」 「髪の色のせいです」  訊いたノエラに、クレイは即答した。 「あなたのその真紅の髪は――千五百年前の伝説に、あまりにも似通っている。話が広まれば、あっという間に国民は恐慌するでしょうね。周辺国にも不安は伝播するでしょう。下手をすればあなたを引き金に、ティセルラントの国の歴史が終わりますよ」  ノエラは否定出来ずに黙り込んだ。それはノエラも考えていたことだ。離宮に押し込めていた秘密を、こんなに目立つ形で白昼の元にさらした上層部に呆れしか抱かない。それから口を利いたことも無い弟のことを考える。  ノエラとそれほど年齢の変わらないあの弟が、離宮に押し込められていたのが姉ではなく実は「兄」で――本来の王位継承権がその手に無いと知ったら。  小国であれども、国は国だ。  ティセルラントの国は、間違いない荒れる。 「――脅してます?」  考えをめぐらせながら、ノエラは弱々しい口調でクレイに聞き返した。  例の胡散臭い笑顔を浮かべながら、クレイが首を振った。 「まさか。ただの可能性の指摘です」  ノエラは無言でクレイを見つめた。 「――王位に就いて、あなたは何がしいたいんですか? 王子」  このまま、ラストラルタの国に留まってクレイの婚約者――やがて伴侶になる。それは確かに、お互いの秘密をさらけ出した今となっては最高の選択のように見えた。  ノエラは姫だが男で、クレイは女だが王子なのだ。これほど秘密を共有しあえる相手は無い。共犯者、という言葉がこれほど相応しい相手もいないだろう。  しかし、と思う。  すべてが終わった後には、他の身分まで与えてくれるというクレイの言葉はあまりにも気前が良すぎる。今のところ、ノエラにはクレイが差し出す共犯関係の利点しか見えない。  まだクレイが口にしていない、後のノエラの不利益になるような事柄が隠されているような気がしてならない。 「あなたは――どうしてそこまでして王位に就きたいんです?」  クレイの唇が綺麗な弧を描いた。 「やりたいことがあるんです。他にも色々と方法はありますが――王になるのが一番、私の願いを叶えるのに手っ取り早い」 「手っ取り早い?」  王位が目的ではなく、手段なのか。  驚きながら目を見開くノエラに、秘密めいたい顔つきでクレイがそっと囁いた。 「――私はね、王になった暁にはこのラストラルタの国を、滅ぼしてやりたいんですよ」  頭の中に飛び込んできた言葉の意味が理解出来ずに、ノエラは怪訝な顔をして聞き返す。 「は?」  滅ぼす、と言ったのか。  このラストラルタの大国を。大陸一と呼ばれる、機械国家を。「魔石」の唯一の算出国を。  しかし、なぜ。  ノエラの顔を見つめるクレイは、理由を告げることなく言葉を続けた。 「あなたの真紅の髪は、私にとっては魅力的だ。千五百年前、大陸を征していたティセルラントの国を崩壊させたと名高き疫病神からの加護が欲しい」  恭しく手を握ってそう言われる。  どこまでも王子としての態度が板に付いているクレイの仕草に狼狽えながら、ノエラはかろうじて声を出した。 「どうして――」  わざわざ疫病神からの加護を受けずとも、この国は――。 「天使の加護があるのに――」  ノエラの言葉に、クレイは顔を歪めるようにして吐き捨てた。 「――この国に、天使がいたことなんてありませんよ。我が婚約者殿」  ***** 「姫様、もう一度言っていただけますか?」  フラウが穏やかに、しかし明らかに困惑した顔で言った。その横で、ジェイドも怪訝な顔をしている。 「姫、どっかに頭ぶつけた?」  真顔での問いかけには答えないまま、ノエラは同じ言葉を丁寧に繰り返した。 「クレイ王子と、結婚することにした」  親子がそっと視線を見交わす。ノエラが風邪でも引いて熱に浮かされているのではないかと疑っている顔だ、これは。生まれてからずっと側にいる二人なので、それぐらいのことはノエラにだって読み取れる。そして、それは向こうにしたって同じことで――これから先をどうやって二人を説得するべきなのか、ノエラは考えながら口を噤む。  クレイとの深夜の話し合いは、もう三日前の話だ。  その間に散々悩んで考えた末に、ノエラが出した結論がこれだった。  たぶん、人生における結論を自分で出したのは――ノエラが生まれて初めてのことになるのではなかろうか。  十八年間も生きてきたというのに、なんとも情けないことだ。  そして、更にノエラは生まれて初めて他人を説得しようと試みている。  思い出すのは故国の離宮の地下室だ。ノエラは幼い頃から、ああいう暗い静かなところで身を潜めるようにしているのだが好きだった。男なのに姫として育てられたせいだ、と言うより元からノエラはそういう気質なのだ。だというのに、どうしてか今やこんなところにいるのだから――人生というのは本当にままならない。  ラストラルタの国に来てからノエラの人生は物凄い勢いで変化をして来たが、これは中でも最大級の変化では無かろうか。それも自分から決断を下した中で最大の。 「なんだって王子と結婚する方向になっちゃったの?」  ジェイドが怪訝な顔で言って首を傾げる。 「姫、王子になんて言われたの? この三日ぐらい、ずっと考え込んでたのそれでしょ。明らかに挙動不審だったし。髪の色か体質の件で脅された?」 「脅されてはいない」  ――と、思う。  物事を自分の思う方向に進めようと言う意志はあったが、クレイ自身の秘密も暴露するあたり――交渉については最低限に誠実だったと思う。  ノエラの否定に対して、ジェイドが露骨に疑わしい顔をする。乳兄弟の視線から逃れるように顔を逸らすと、フラウの真っ直ぐな視線と目が合った。じっとノエラを見つめていた乳母は、やがてふっと口元に笑みを浮かべる。 「姫様が決めたというのなら、私たちもなるべく協力をしましょう」  その言葉に、ノエラはごくりと唾を飲み込んだ。 「いや」 「はい?」 「ん?」  ノエラの否定の言葉に、今度こそ乳母と乳兄弟が顔色を変える。 「大丈夫。これからは――一人で、なんとかするから」 「姫様?」 「姫?」  何を言っている、と問いかける二人の視線を受けながらノエラは強ばった声で言う。 「二人には、このまま――暇を取って貰う。今までありがとう」  部屋の中に息苦しいぐらいの沈黙が降りた。  沈黙に耐えきれなくなって、ノエラは口を開く。 「ティセルラントの国に帰るのはさすがに難しいだろうから、ラストラルタの国か――それか別の国で二人で生きていくのに十分な手立てはクレイ王子に用意して貰っている。今まで、本当にありがとう」 「姫、何言ってんの?」  ジェイドの率直な問いかけに、ノエラは答えられないまま沈黙した。  フラウはそんなノエラをじっと見つめて、それからゆっくりと口を開く。「姫様。つまり、私とジェイドはクビ――お払い箱ということですか? もう用は無いからさっさと目の前から消えろと、そう仰る?」 「違う、そんなこと言っていない!」 「言っているのと同じだと思いますが」  ぴしゃりとしたフラウの物言いに、思わずノエラの背筋が伸びる。昔から、この状態のフラウにノエラが逆らえたことなど無い。それでも、今は逆らわないといけない。 「十八年も付き合わせて、これ以上――巻き込めない。私はクレイ王子と結婚することになる。今までよりも大変な苦労をさせるのは目に見えてる。だから――」 「巻き込まれたなどと思ったことはございませんよ、私は」  フラウがノエラの否定の言葉をぴしゃりと遮った。 「乳母としてあなたを育ててきたのは私です。あなたの境遇を不憫に思ったことはあれども、私やジェイドについては――あなたの乳母になり乳兄弟になったことはこの上無いほどの幸運だったのです。そのあなたが、みすみす一人で危険なことに首を突っ込もうとしているのを黙って見送ると思いますか?」 「そうだよ、姫。そもそも、王子と結婚って言ってもさ。どうするつもりなの? クレイ王子は姫のこと、どこまで知ってんの?」  身内の無遠慮さで、容赦なく立ち入った質問をする二人に、ノエラはあからさまにたじろいだ。  クレイには既に、結婚する――地獄の果てまで付き合う共犯関係を承諾したことを伝えている。しかし、それに乳母と乳兄弟を関わらせたくないという旨だけはハッキリ伝えていた。  全てがどういう形にして終わるにしろ、ノエラには真紅の髪という厄介な問題が付きまとう。新しい身分を手に入れて、姫という立場から解放されたところで、嘘に嘘を重ねて生きるということに代わりは無いのだ。それはノエラが生まれた時から望む望まざるに関わらず背負い込んだ業のようなもので仕方がないと分かり切っている。けれど、それに、乳母と乳兄弟をいつまでも付き合わせることだけが――どうしようもなく忍びなかった。  昨日の真夜中、再び行われた婚約者との深夜の密会。  ノエラの言い分に耳を傾けたクレイは、その言葉にあっさりと頷いた。  ――結婚よりも先に、乳母と乳兄弟を先にどこかに逃がしてくれ。  そんな条件付けも快諾して、必要な身分証や金の手配の一切を請け負うと約束してくれた。しかし、同時にクレイはノエラに向けてこうも言った。 「あなたの髪の色も、体質も、性別も――なにもかもを承知の上で十八年もの間を共に過ごした二人が、そう簡単にあなたから離れることに同意するとは思えませんが。せいぜい説得を頑張って下さい」  その言葉は、これでもかというほど的中した。  ノエラの提案に対して、二人とも頑と首を縦に振らない。それどころか、どうしてそんな提案をしてくるのかという追求ばかりが厳しい。  クレイの性別も生い立ちも――それから王位に就きたいというその野望も、勝手に話すのは躊躇われてノエラはまともな理由を掲げることも出来ない。話し合いはひたすらに平行線を辿った。 「頼むから――二人とも、私のお願いを聞いて欲しい。昔から我が儘なんて言ったことなんて殆ど無いんだから、これぐらい聞いてくれたって良くない?」  殆ど懇願に近い調子で言うノエラの言葉に、フラウが言った。 「滅多に我が儘を言ったことも無い姫様が、私たちを遠ざけてクレイ王子と結婚して何をしようとしているのか洗いざらい吐いてくれるのなら――考えるぐらいはしましょう」 「聞いても叶えてはくれないの?」 「事の次第によります」 「ジェイド……」  頑ななフラウの様子に、ノエラは縋るようにジェイドを見た。  ジェイドは肩を竦める。 「俺も母さんと同じで、姫から離れるつもりは無いよ」 「だって、お前――このまま私と一緒にいたんじゃ恋愛も結婚も出来ないよ? ただでさえ、貴重な十代を私と一緒に離宮に押し込められて浪費したのに」 「論点がズレて無い? 母さんも俺も知りたいのは、俺たちと離れて姫がどうやって生きて行くのかだよ。俺たちの身の安全について散々に心配してるくせに、そういう本人はどうするつもりなのさ。姫?」  問いかけられてもノエラは答えることが出来ない。  ただ、茨の道を進もうとしていることだけは分かる。  秘密を抱えた――王子の彼女。他の義兄弟を押しのけて、王位に就きたいと願うのは、この国に君臨したいからではなく、この国を滅ぼしたいからだという不可解なもので――それにこの二人を付き合わせることなど出来なかった。  では、ノエラはどうしてクレイの提案に乗ろうとしているのかというと、もちろん保身の意味もあるのだが自分の現状に対して足掻いている彼女に――惹かれるものがあったからだ。  ただ諾々と流されるように引きこもって生きてきたノエラとは全く正反対の生き方。  ノエラには真似しようとしても出来ない。  もちろん、彼女の偽りの地位が「王子」だったということも大きいだろう。しかし、それでいても彼女はその地位を存分に利用して上手く立ち回っていた。  あれで彼女が男であれば、どれだけラストラルタの国の為になっただろうか。そして、そんな優秀な彼女がどうしてラストラルタの国を滅ぼしてやりたいなんて物騒な望みを口にしているのか。  生まれて初めて委ねられた人生の決断で、ノエラはクレイの手を取ることに決めた。どちらにしてもロクな目に合わないのならば、せめて自分が選んだ破滅の方がマシだとそう思ったからだ。  しかし、それはとても一口で説明出来ることでは無い。  何度目かの不毛なやり取りを再開させようとしたところで、ノエラは口を噤んだ。扉を叩く音がしたからだ。礼儀正しい形式ばったノックの音。  フラウが呼吸を整えるように息をしてから、立ち上がって扉を開く。  そこには見慣れない侍女が立っていて、恭しく頭を下げながら言った。 「ジレット陛下がお呼びです。午後に謁見の間に来るように、と。迎えにクレイ王子が来ますので、それまでにお支度を下さいますようお願いします」 「――え?」  口頭で申し渡されたそれはあまりにも予想外の言葉で、ノエラは思わず間抜けな声を上げた。 「迎えに来ましたよ、我が姫」  颯爽と姿を現したクレイに、フラウとジェイドが露骨に不審な視線を向ける。びしばしとそれを感じているだろうに、クレイはどこ吹く風でにこやかに微笑んでいるだけだ。やっぱり、クレイの肝の据わり方は異常だとノエラは思う。  国王陛下の御前に出るために、フラウが精一杯に整えてくれた身なりでノエラは差し出されたクレイの手を取った。  丹念に染めた髪。  施された化粧。  体の凹凸を作るために、婦人服の下に忍ばせた布の詰め物。  毎回のことながら不自然で、ノエラはその事実を目の当たりにさせられて疲弊する。  本来ならばノエラが着ているような服を身につけている筈のクレイが、誰よりも優美に王子の服を着こなしていることも――不自然だ。あべこべだ。 「今日のこれは――一体どんな御用で?」  呼び出しに来た侍女は、理由も告げずに慇懃に頭だけを下げて帰ってしまった。そもそも、女の身支度というものには酷く時間がかかる。ジェイドの手も借りて用意をしている内に、あっという間にクレイが来る時間を迎えてしまったのだ。 「私も詳細は知らされていませんが、ハインツ義兄上の処遇が決まったのでしょう。主要な王族は殆ど呼ばれているようです」 「ああ――そうですか」  その男に殆ど言いがかりに近い理由で襲われたのが遠い昔のことに思える。ノエラの気のない相槌を受けながら、クレイはノエラの手を引きながら笑った。 「その様子だと、やっぱり乳母と乳兄弟の説得の結果は芳しくないんでしょう」 「――まぁ、はい」 「でしょうね」  予想通りだと言わんばかりに笑うクレイに、ノエラは恨めしげな視線を向ける。クレイはそんな視線に悪戯げな笑みを浮かべた。 「長年、家族のように仕えてきた相手が、私みたいな相手と結婚するなんて言い出したら誰でも心配しますよ。おまけに理由も言えないとなったら――私なら間違いなく脅迫を疑いますね」 「――正にそれを疑われています」 「そうですか」  せいぜい頑張って下さい、と告げるクレイはどこまでも楽しげだ。自分が恐喝者なんて不名誉な物に見られているのも気にしていないらしい。ノエラが詳細を話せないのは、クレイの「秘密」のせいだ。話してしまえば否応なく巻き込むことになるのだが――その事情を話さなければクレイとの結婚について納得をして貰えない。  二律背反に頭痛がして仕方がない。  難しい顔をして黙り込んだノエラに、クレイは淡々と告げる。 「私は最初から、あなたと乳母と乳兄弟を引き離せるなんて思っていませんでしたから。私が最初に提示した条件は、全て事が終わった時に、三人揃って自由になると言うものだったでしょう。条件を変更したい、と言ったのはあなたなんですから、その努力は自分でなすって下さい」  正論だった。  そして、自分の見込みの甘さを容赦なく指摘されて耳が痛い。甘さ、と言うより甘えか。  そんなことを考えている内に、クレイに導かれるままにノエラは王の御前に立っていた。  ずらりと居並ぶ人々の顔と名前は相変わらず一致しない。ただ、高所に並んで座る二人が国王夫妻なのだということは分かる。必要最低限の礼を果たした途端に、国王――ジレット・ディードリックが朗々とした声で言う。 「ハインツは留学をさせることにした。大陸の端にあるフォンターナで、神事と戒律について学ぶことになる」  神事と戒律。  酒で顔を赤らめながら義弟の婚約者の寝室に忍び込んだ男には、最も似つかわしくない場所だ。  クレイは慇懃に、無関心なことが丸わかりの口調で王の言葉に頷いた。 「分かりました。陛下が決められたことです、私に異存はありません」  被害者はノエラだが、口を挟む余地も無い。  そしてハインツの処遇について嘆いたり、意義を申し立てる者は誰もいないようだった。  奇妙な沈黙が大広間の中に満ちる。ノエラはなぜか項がちくちくと刺すように痛むのに悪寒を覚えた。クレイとノエラが王の前に呼び出されたのは、これだけの話をするためだったのだろうか。  なんだか酷く――嫌な予感がする。  猛禽の鳥を思わせる鋭い目をした王は、一つ呼吸を置いてから何気ない口調で言葉を続けた。 「ところで、お前の婚約について――ティセルラントの国から異議が上がっている。今日その使者が着いた」 「異議?」  クレイが怪訝に聞き返す。ノエラは微かに眉を顰めた。  クレイとノエラの婚約に異議を申し立てるのは構わない。それどころか、やっとかという気がしないでも無いが――何を理由にして婚約を断るつもりなのだろう。それをノエラに知らせもしないままに、国王と直接にやり取りをするだなんて、証言に食い違いが出たらどうするつもりなのか。  そんなノエラの疑念に対して、王の許しを得て進み出たティセルラントの国からの使者は――恭しく膝を折ってそれから言った。 「恐れながら申し上げます。我が国の姫君、ノエラ・ベルヴェデーレ様はラストラルタの国へ向かう途中に賊に襲われて、幼い頃から付き従っていた乳母や乳兄弟ともども命を落とされました」  ノエラは呆然としながら使者の言葉を聞き返した。 「――は?」 「国境の近くで身元不明の遺体が三体発見され、その身元確認がされたのはつい先日のことです。国葬も、もう済んでいます。身元の確認に時間がかかったのは、ノエラ様の身ぐるみが無惨にも剥がされ、姫としての証を何も身につけておられなかったからです」  滔々と言葉を紡いでいたティセルラントの使者は、やがて刺すような視線をノエラに向けた。 「そこにいるのは我が国の姫を騙る不届き者です。恐らく、本物のノエラ・ベルヴェデーレ様の殺害にも関与しているものと思われます。どうぞ、あの犯罪者の身柄を一味もろとも我が国に引き渡していただきたい。それがティセルラントの国からの切なる願いです」  ざわりと大広間の空気がどよめく。ひそひそと交わされる小声の会話。ノエラへ向けられる、汚らわしいものでも見るような非難の視線。それから、クレイへは騙されていたことへの同情を含んだ声が相次ぐ。 「なん――」  ノエラは言葉を失った。  あまりのことに頭が付いていかない。  ノエラは生まれてからずっと、ノエラ・ベルヴェデーレだ。それは誰よりも自分が知っている。それだというのに、どうしてこんな糾弾をされないといけないのか――。  そこまで考えて、故国のティセルラントはノエラが思ったよりも強かで外交戦術に秀でていることを思い知らされる。  書類の上で、ティセルラントがラストラルタへ送り込んだのは「姫」であるノエラ・ベルヴェデーレだ。ところが実際に、ノエラは「男」である。そして、それを知っているのはティセルラントの国の――上層部の一握りだ。  このまま話が進んでいけば、ノエラの性別は遅かれ早かれ発覚する。ならば、どうするべきか――話し合いの結果がこれなのだろう。  最初からティセルラントが男の「姫」を送り込んだのではなく、偽物が姫に成り代わったせいで「男」になったと主張した方が、ラストラルタの国に対しても面目が立つ。そして、これを機会に長年ずっと離宮に押し込んでいた問題を片づけてしまうつもりなのだろう。  ノエラ・ベルヴェデーレは――真紅の髪を持つ不吉な男児ではなく、病弱故にほとんど表舞台に出ることもないまま命を散らした薄幸な女になるのだ。  ここまで事態が進んでしまえば、それが確かに一番の解決の道だった。 「――なるほど」  ノエラの隣に立っているクレイが、ぞっとするほど落ち着いた声音で呟いた。 「反吐が出る話ですね」  ノエラはクレイに視線を転じた。ノエラがティセルラントの姫ではない、ということになれば持ちかけられていた共犯関係も何もかもが意味を持たない。むしろ、これから捕まって――恐らくロクに尋問もされないまま――死刑場に向かうノエラがクレイの秘密を握っているのはむしろ不都合だろう。  不届きな賊として、ここで手討ちにされても文句は言えない。  血の気の引いた顔をするノエラの手を相変わらず握ったまま、クレイはティセルラントからの使者に向かって微笑と共に言う。 「ここにいる私の婚約者は、偽物だとあなたは仰る?」 「はい、その通りです」  自信満々に答える使者に、では、とクレイはどこまでも穏やかに言葉を続ける。 「そういうあなたがティセルラントの正式な使者である、という証拠は?」 「――は?」  そんなことを聞かれるとは思いも寄らない、という顔で使者はまじまじと怪訝な顔でクレイを見やる。それから他ならぬ自分が疑われているという屈辱に、頬を紅潮させながら声高に主張した。 「ティセルラントの国王陛下からの直筆の紹介状がございます」 「我が婚約者も同じものを持って城にやって来ましたよ。私の婚約者になるために」 「そこにいる者が持っているのは、亡き姫から奪い取った紹介状で――」 「そう言うあなたは?」 「は?」 「国境近くの人目に付かない森や山は、人を襲うのには最適でしょうね。例えば、恐れ多くもティセルラントの国王陛下からの紹介状と親書を持った使者であっても」 「どうして、私がそのようなことを――」  あらぬ疑いをかけられて、ティセルラントの国からの使者は上擦った声でクレイに言う。 「ご存知の通り、ラストラルタは大国です。その分、敵も多い――今の国のあり方そのものに不満を持って抵抗しようとする危険な有志組織もある。先日も、そんな賊に『魔石』の貯蔵庫が襲われたばかりです。あなたも、そんな組織の一味かも知れない」  ざわり、と大広間の空気が揺れた。  王は顔色一つ変えずにクレイの言葉に耳を傾けているが、その横の王妃は怯えたように近くに侍女を呼んでひそひそと言葉を交わしている。 「あなたの言葉を信じて、現在『ティセルラントの姫』として預かっているこの方を引き渡して誘拐でもされた場合、ティセルラントとラストラルタの国の間に亀裂は避けられないでしょう。何より、そんな風に間抜けに騙されたラストラルタの国の権威は地に落ちる。それこそが狙いなのかも知れない」  空気の流れが変わった。ノエラに対して向けられていた疑惑の視線が和らぎ、ティセルラントの国からの使者には刺すような疑惑の視線が注がれている。 「――さて。本当の罪人は誰でしょう?」  にこりと笑ったクレイの言葉に、大広間には混乱のざわめきが広がっていった。  ノエラ自身も驚いて目を見開いたまま固まった。  罪を犯していないことを証明せよ、なんて悪魔の証明を本当に無実の使者に対して突き立てる容赦の無さ。  白いものをあっという間に灰色にしてしまう手際の良さ。それから説得力を持って場を掌握できる力強さは、天性の資質なのだろう。  どうしてクレイは女に生まれてしまったのか。そして、ノエラはどうして男に生まれてしまったのか。  二人の性別が異なっていたら、全く違う人生を歩んでいただろうにと思わずにいられない。 「さし当たって、そちらの使者の身柄も、こちらの姫の身柄も我が国で預かりましょう。こちらか使者を出して、どちらの言い分が本当なのか確かめようではありませんか? それが一番、確実なことです」 「私は本物ですッ」  今や青ざめた顔で主張をするティセルラントの使者の言葉など、誰も聞いていない。興奮したような囁きと、疑惑に対しての見解があちこちで交わされている。  それを止めたのは、王のたった一言だった。 「クレイ」  威厳のある低い声が響きわたって、ぴたりとざわめきが止む。  王座に座るジレット・ディードリックは目を細めて我が子を見つめている。 「お前は本当に頭が切れて、機転が利く」  王座の隣で、王妃が誇らしげに顔を輝かせた。「息子」が王に認められたのが誇らしいのだろう。しかし、当のクレイは顔色一つ変えないままに慇懃に頭を下げて礼を言っただけだった。 「ありがとうございます、父上――いえ、国王陛下」  そのまま睨み合うようにして対峙する親子の間に会話は無い。  人が大勢いるというのに、耳が痛くなるような沈黙が広がっている。  それを破ったのも、やはり国王だった。 「だからこそ、お前には非常に残念だ」  全く感情を乗せない声でそう言い放った国王の言葉の意味が、ノエラには分からなかった。いや、集まった誰もが意味を把握出来なかっただろう。ただ、クレイだけが軽く目を眇めている。  王は言葉を続けた。 「『魔石』の保管庫に賊を手引きしたのは――お前だな」  他ならぬ国王からの告発。  金切り声を上げたのは王妃だった。 「あなた!」  国王陛下に――己の夫に椅子の上から手を伸ばして取り縋る王妃は、明らかに動揺している。 「何を言うんです、一体? あなたと私の――わたくしの息子に、なんてことを」  王妃の声に答えずに、王は冷たい一瞥をくれて、その手を払いのけた。椅子の上で崩れるようになった王妃が、今度は縋るように「息子」を見る。 「クレイ――陛下に何か言ってちょうだい。あなたが、わたくしの自慢の息子が、そんなことを」 「母上」  聞くに耐えない、と言いたげに表情を歪めたクレイは突き放すように吐き捨てた。 「いい加減に、現実を見て下さい」  うんざりとした声音には隠しようも無いほどの嫌悪が滲んでいた。  クレイの視線は母親から離れて、国王にのみ注がれる。 「愚問でしょうが、そのような告発をなさるからには証拠はお持ちですね? 国王陛下」 「お前が懇意にしている仕立屋がいたな」  何気ない調子で言葉を続ける国王の言葉に、ノエラが思い出したのは先日連れて行かれた裏通りにある地味な店だった。 「あの店の主人には逃げられたが、出入りの者を捕まえている。その内の一人が面白いぐらいにぺらぺらと吐いたぞ」 「吐いた? 吐かせたの間違いでしょう、国王陛下。彼らは平凡な労働者なんですよ。拷問に耐えるような訓練なんて受けていない」 「彼らが拷問を受けざるを得ない方向に仕向けたのはお前だ」 「無辜の民を許すのではなく拷問にかける王に言われたところで。何より、彼らが拷問を受ける覚悟で結束したのはこの国のせいですよ。それをお忘れなく」  一歩も引かずに弁舌を振るうクレイを王座から見下ろして、ジレット・ディードリックは溜息を吐いた。 「――本当に、残念だ。クレイ」  最後通牒のように呼びかけて、王が掌を打ち鳴らす。途端に、どこに控えていたのか多くの兵が雪崩を打って広間の中に押し入ってきた。  誰かが悲鳴を上げている。取り分け大きな悲鳴を上げたのは王妃だった。半狂乱で喚くその体を、侍女が必死に取り押さえている。  ノエラはクレイを見た。  その横顔には、何の感情も浮かんでいない。  反射的に手を伸ばして、ノエラはその手を握り締めた。  轟音が耳をつんざいたのは、その直後だった。  辺りには、もうもうと煙が立ちこめている。ふと見上げた天井には、信じられないぐらい大きな穴がぽっかりと開いて、灰色の空が直に見える。  これは――。 「――これは、あなたの仕業?」  いつの間にかノエラの手を握り返したクレイが言うのに、ノエラは分からないまま首を振った。ちょうどノエラとクレイを取り囲むように瓦礫が落ちて、取り押さえようと動く兵たちの動きを阻んでいる。そして、広間に居合わせた人たちが当然の轟音と共に落ちてきた天井に混乱しきった悲鳴を上げて逃げ惑っている。  ノエラはちらりと、高い位置に据えられた王座を振り返る。王妃は椅子の上に崩れるように倒れて意識を失っていた。その隣――腰を降ろした王は、これだけの騒ぎに対して眉一つ動かさない。超然としているというより、人間離れしているその様子に、ノエラはなんだかぞっとする。  クレイがノエラの手を強く引く。 「こっちへ――」  踵の高い慣れない靴にまごつきながら、先を走るクレイの背中をノエラは無言でひたすらに追いかけて走った。履き慣れない靴を脱ぎ捨ててしまいたい衝動に狩られる。どうして女性というのは、こんなに不便な靴を履くことを強いられているのか。化粧も服の裾も、この非常時にはひたすら邪魔になるべきだ。 「――ウォリング!」  転がるように飛び出した廊下は、人でごった返えしている。完全に混乱の極みだった。王の命を受けて、クレイを国賊として捕らえよという命を受けている兵たちは、幸いなことに瓦礫に阻まれてまだ謁見の間の中にいる。  主要な王族が集っていた謁見の間の天井の崩落。前代未聞の自体に、誰もが戸惑っているらしかった。とにかく人が押し合いへし合いをしている。その中で、背の高いクレイの従者の姿は一際目立っていた。 「王子――なにが? 謁見の間に落雷があったと」 「国王陛下は全てご存知だ」  事情と問い糺そうとする従者の言葉を遮って、クレイは端的に告げる。従者は軽く目を見開いて、それから表情を引き締めると人垣をかき分けてクレイとノエラを先導する。  厩舎の近くに来たところで、背後から悲鳴と怒号が響いた。瓦礫の山を乗り越えてきたらしい、忠実な王の兵の一団が使用人たちを押しのけて、クレイとノエラめがけて走り寄ってくる。  空は今にも雨が降りそうな灰色をしていた。  従者のウォリングが鋭い声で言った。 「王子、お早く」  呼ばれたクレイが眉を顰める。それからウォリングの服の裾を引いて、何事かを小さく囁いた。軽く眉を上げたウォリングが、それでも頷いて素早く離れていく。  厩舎の近くに控えていた番人が、突然の王子の登場に驚いたようにクレイを見ている。クレイが見せかけではない威厳に満ちた声で命じた。 「私の馬をすぐに!」  ただならぬ自体を感じてか、それともクレイの剣幕に負けたのか番人たちが慌ただしく動き始めた。クレイがノエラを振り返って言う。 「馬には乗れますか、我が姫?」 「乗ったことがありません」  正直に答えれば、こんな場面だというのにクレイが笑った。 「なら、しがみついていて下さい」  引き出されてきた馬は、周囲の慌ただしい雰囲気を感じ取ってか、かなり興奮したように嘶いている。番人たちが手を焼いているそれを制して馬に近寄った。主人の手に落ち着いたのか、首を垂らした馬の鐙にクレイはひらりと飛び乗った。そしてノエラに手を差し伸べながら言う。 「姫に手を貸して下さい!」  命令一下、ノエラの体はなんとか馬の上に押し上げられた。整えられた婦人服はしわくちゃで、汗で化粧が剥げている。少なくとも、有事の時にこんなひらひらの衣装は役に立たない。 「足を閉じて、なるべく私にしがみついていて下さい」  クレイからの助言に従いながら、その腹に遠慮なくノエラは手を回す。  傍から見れば、凛々しい王子にしがみつくか弱い姫と言ったところか。実際は真逆なのだが。――全くなんてあべこべだ。王子と姫の世間一般での役回りについて、こんんな場面だというのに考えさせられてしまう。  クレイが馬腹を蹴るよりも早く、馬の行く手を阻むように兵の一団が立ちはだかった。クレイが行儀悪く舌打ちをしながら馬の手綱を握り直す。  物々しい兵の登場に、厩舎の番が目を丸くしている。謁見の間の騒ぎが届いていないのだろう。戸惑ったように、こちらを窺うように見つめる幾つもの視線があった。 「王子の行く手を阻もうとは、何を考えているんです?」  ぴしゃりと容赦の無い口調でクレイが言うのに、兵の隊長格らしい男が怒鳴った。 「クレイ・ディードリック! 反逆の疑いで、あなたを捕らえるように命が出ている!」  どよめきが起こった。謁見の間にいたのは、身分の高い王族たちばかりだ。当然のことながら、あの一連の告発劇の話は、こんなところまで届いていない。何より、落雷と共に崩落した天井によって城内は混乱を極めている。  凛々しい声でクレイが隊長格に怒鳴り返す。 「私が反逆者だと? ――この痴れ者めッ!」  ――いけしゃあしゃあと良く言えたものだ。馬の手綱を握りなおしながら、兵たちを馬上から睨みつけるクレイの胆力にノエラはひたすら感心するしか無い。 「私は国王と王妃の間に生まれた、この国の末王子のクレイ・ディードリックです。そして、後ろにいるのは私の婚約者にしてティセルラントの姫であるノエラ・ベルヴェデーレ嬢だ。それに何の言いがかりですか!」 「その姫は偽物だ! 王子共々、捕らえて牢に入れるように命令が出ている!」  クレイの言葉に、兵が負けじと怒鳴り返す。どよめきが増した。周囲にいるのは、突然始まったこの糾弾劇の意味を理解しかねている使用人ばかりだ。馬上でクレイが顔を巡らせて、それらの人たちに叫んだ。 「諸君! 恐れ多くも国王夫妻がいらした謁見の間の天井が、何者かの仕業で崩落した! 私はその賊を追うべく、馬を駆ろうとしているのに、こうして行く手を阻まれている! ――彼らも、国王に仇なした者たちの一派だ!」  自信満々に指を突きつけて、馬上のクレイは兵たちを糾弾する。 「国に仇なす反逆者め!」  大きなどよめきと共に、こちらを取り囲んでいた空気が一変する。  本当に大した機転と――度胸だ。ノエラは内心で舌を巻く。先ほどの謁見の間での一件は、まだ使用人たちに知れ渡っていない。天井の崩落、という目に見えて分かる事故の方が耳目を引いているだろう。  そして、王子として顔と名前が知れているクレイと、兵の中で位が高かろうと所詮は一兵卒の言では――どちらを人が信じるかということは考えるまでも無く。  空気ががらりと変わった。  城の中に現れた無法者への恐怖と、警戒の声を上げる人たちの混乱が一気広がっていく。武装をした兵には叶わない使用人たちが、手当たり次第に手元のにある物を兵たちに投げつけ始めた。  様々な物が宙を飛び交う。  手桶。馬具。小石。飼い葉。野菜。馬糞。  怒号が響く中で、クレイが手綱を返す。騒ぎに駆けつけてきた人の波と、妨害されながらも尚、行く手を阻まんとする職務熱心な兵のせいで進むべき道は見あたらない。 「王子――」  クレイが歯噛みをしているのが分かる。  ノエラは必死に馬の上にしがみつきながら、人垣に目を凝らす。その時、ぽつ、と雨粒が落ちてきたのを感じた。思わずノエラは空を見上げる。  途端に、目を開けていることも辛いぐらい大粒の雨が――物凄い勢いで降り注いできた。ぎゃっ、と誰かが悲鳴をあげる。それぐらい雨の礫は大きくて、勢いよく容赦がなかった。けれども、その雨は――馬上のノエラとクレイを避けるように降っていた。  さすがのクレイも呆気に取られたように馬上で固まっている。ノエラは必死になってその名前を呼んだ。 「クレイ王子ッ」  顔や頭を咄嗟に覆って屈み込む人垣がいつの間にか自然に割れて、一筋の道が出来ている。そして、奇妙なことに――そこにだけは雨が降っていなかった。 「――――ははッ」  ようやく気を取り直したように乾いた笑い声を上げたクレイが、思わずと言ったように叫ぶ。 「あなたを手放したティセルラントの国は大馬鹿ですよ。――最高だ、我が姫!」  高らかに笑いながら、クレイが馬腹を蹴った。  途端に嘶きを上げる馬の声を聞きながら、ノエラは必死にその腹に回した手にしがみつきながらラストラルタの王城を後にした。  *****  王城を抜けると、外は嘘のように晴れていた。ざわめきが遠くなり、風を切る音に耳が塞がれる。どれぐらい馬でラストラルタの王都を走ったのか、ノエラには良く分からなかった。灰色の高層の住居群が立ち並び、誰もが忙しなく、自分の目指す方向しか見ていない石畳の街中で馬に乗った二人連れは意外なぐらい耳目を引かなかった。  馬からようやく降りた時は、既に日はかなり傾いていて、ノエラは疲労困憊していた。内股が痛くて、腰が痛くて堪らない。全身が震えて、ぼろぼろのノエラに苦笑しながらクレイはその手を引いた。  クレイが乗り付けたのは貸し馬車業の厩舎で、その場を取り仕切っている男と何事か言葉を交わした末に、目立たない頭から被る形にの外套を二つ手に入れていた。ノエラよりよっぽど世慣れた風情だ。クレイが乗ってきた馬は、どうやらこの厩舎の馬になることが決まったらしい。別れがたそうに鳴く馬の声にクレイが微かに表情を歪めたのを、クレイは見逃さなかった。 「馬を乗りこなせるようになってからは、ずっとあの馬に乗っていました。――仕方がない。良い馬なのは明白ですから、酷い扱いはされないでしょう」  他の馬に比べて、という言葉が隠れて見える。  よたよたとクレイの後ろに続きながら、ノエラは手渡された外套を頭から被る。いつの間にか煙るような霧雨が降ってじっとりと体を濡らしている。  複雑に道を折れ曲がり、怪しげな通路を渡り、階段を上り下りしてたどり着いたのは狭く小さな――最低限の物しか置かれていない部屋だった。当然のように「魔石」で動くような機械製品は置かれていない。注いだ油に火を入れて灯した明かりで照らし出された部屋は、じめじめとしていて窓は無かった。椅子が二脚。寝台が一つ。衣装箪笥が一つ。食べ物の貯蔵庫らしい木箱の中をのぞき込んで、クレイが萎びた林檎とカチカチになったチーズ、それから干した肉を取り出した。瓶詰めにされているのは、質の悪い麦酒でそれを二本手際よく並べて置いた。  くたくたの体を引きずりながら、ノエラは申し訳ない思いでクレイを見やる。王城からの脱出や逃走も含めて、何もかもクレイに頼りすぎだ。 「ここは――」 「私が関わっている反逆者たちのささやかな隠れ家です」  さらりと告げたクレイが、椅子を引いてノエラに座るように促した。二人で向かい合うようにして椅子に腰を降ろしたところで、どっと力が抜ける。それからノエラは譫言のように呟いた。 「フラウとジェイドは――」 「ウォリングに頼んでいます。心配いりません、明日には落ち合えるでしょう」  たちどころに答えたクレイが、さすがに疲れたように椅子の背に凭れて天井を見上げた。 「いやはや、参りましたね」  机に上半身をがっくりと預けながら、ノエラはクレイを見上げた。 「――本気で、この国を滅ぼしてやろうと思ってたんですね」  思わず口を衝いて出た台詞に、クレイが顔をノエラの方に向けて不敵に笑った。 「当然。……しかし、さすが国王陛下だ。私より一枚上を行ってやがる。巻き添えを喰らわせて悪かったですね」 「巻き添え?」  クレイの言葉にノエラは怪訝な顔で言う。 「巻き添えを喰らったのは、そちらでは?」 「は?」 「今回のこれは、私のせいで――」 「何を言ってるんです? 元はと言えば、私があなたを巻き込んだんですよ」  ノエラは困惑してクレイを見た。  クレイが呆れたような顔をして眉を上げている。 「私があなたを婚約者にしたからこんなに目に合ったんです。あなたが私に何かした訳じゃない。むしろ、あなたは私を罵るべきだ。なんてことに巻き込んでくれたんだ、この野郎ってね。――ああ、私は『野郎』じゃないか」  自嘲するように笑って、溜息を吐き出すクレイの様子にノエラは瞬きをした。そのノエラの顔がよっぽど間抜けだったのか、クレイが言う。 「なんですか、その顔」 「いや――」  どう考えても、今回のことは――ノエラの不運体質が招いたことでは無いだろうか。  「魔石」を盗んだことがバレたのも、それが元で国王から糾弾され、王子から一転して国賊として追われることになったのも。  ノエラの主張に対して、クレイは鼻で笑った。 「馬鹿らしい。私は自分のやったことの責任ぐらい自分で取りますよ」 「いや、でも」 「仮にあなたのせいだったとしても、既に忠告は貰っていました。それでも、私の婚約者としてあなたを留め置いたのは、やっぱり私の責任だ」  しかし、と言い募ろうとするノエラの言葉を手をかざしてクレイは制した。 「この話、いつまで続けても平行線ですよ。時間の無駄だ。――兎に角、今は腹ごしらえをして休みましょう。後は明日に」  強引に会話を終わらせるクレイの言葉はもっともで、ノエラも言葉を引っ込めて頷いた。向かい合ったまま、机の上に並べられた簡素な食事を詰め込むようにして口に入れて、生ぬるい麦酒を飲み干す。  干し肉にかじり付いているノエラに、出し抜けにクレイが言った。 「その髪、どうします?」 「え?」  フラウに染め上げられて結い上げられた長い髪は、解れて、染めた色が剥がれ落ちて――真紅がまだらに除いている。きっと酷い有様になっているだろう。ノエラは意味が分からずに聞き返した。 「どうする、とは」 「いっそ切りますか」 「え?」 「その方が、変装が楽になる。鬘なら、そこの衣装箪笥の中にありますから――短く切ってしまえば髪の色も簡単に隠せるようになりますし。男と女の二人連れより、男二人連れの方が人目を惹かない」 「――切る?」  クレイからの提案にぽかんとして、ノエラは今更ながらの事実に気付いた。  ティセルラントの国のノエラ・ベルヴェデーレが『死んだ』今――ノエラは女性でいる必要はこれっぽっちも無いのだ。  歩きにくいだけの踵の高い靴も、動きせを制限する婦人服も、長く伸ばすことが殆ど義務のように言われている長い髪も、入念に施される時間ばかりがかかる化粧も――どれもこれも不要になるのだ。  ここにいるのは、ノエラ・ベルヴェデーレではなくて――ただのノエラなのだから。 「――――」 「ノエラ姫?」 「いや、ちょっと、吃驚して」  怪訝に呼びかけられて、ノエラは頭を振った。  今のノエラは――何者でも無いのだ。考えれば考えるほどに、じわじわと歓喜のような感情があふれ出してくる。  ティセルラントの離宮に押し込められることも無い。性別を偽って、それに妙な罪悪感を抱えながら生きていく必要も無い。髪の色と、それにまつわる不幸体質が消えた訳ではない。けれども、枷が一つ外れたような、そんな清々しさを感じる。 「――はははッ」  切っても、良いのか。  提案されるまで、そんな選択肢のことなどまるで頭に浮かばなかったノエラは思わず笑う。向かい側で、そんなノエラを見つめていたクレイは何でもないような口調で言った。 「食事が終わったら、切ってあげましょうか。その髪」 「あ、はい。お願いします」  素直に散髪を頼むノエラに、クレイは軽く苦笑する。ノエラは首を傾げて訊いた。 「何か?」 「いや――不用心だと思って」 「何がですか?」 「首元に刃物を持った人間を立たせる許可を、そんなに簡単に与えて良いんですか」 「ああ――」  そういう考え方もあるのか、というのと同時に――クレイはずっとそんなことを考えながら生きて来ざるを得ないところにいたのだろうなと思う。 「私のことを殺して何か、今のあなたの得になることってありますか」  訊ねたところで、クレイが軽く眉を上げた。それから言う。 「――特にないですね」  ある、と言われても困ったのだが。  曖昧な笑みを浮かべるノエラに向かって、クレイはチーズの欠片を口の中に放り込みながら言う。 「私が今あなたを殺したとろこで、利点はせいぜい足手まといが減る、ぐらいですか。こんなところで人殺しなんてする方がよっぽど不利益だ。遺骸と一晩一緒に眠るなんて、まぁ、出来なくもありませんが可能ならば御免蒙りたい。大体、あなただったら、下手に自分で殺そうなんてするより、そこらの雑踏の放り出して勝手に迷子になって貰った方がよっぽど簡単に片付きそうだ。――そういう訳で、安心して首を預けて下さい」  わざとらしい物騒な物言いに、ノエラは苦笑しながら頷いた。  簡素な食事――というより腹ごしらえはあっという間に終わり、クレイはどこからかよく切れそうな小刀を取り出した。  促されるままにノエラが髪を解くと、一日中頭の上で結われていた長い髪の毛がだらりと散らばるように垂れる。  衣装箪笥を漁って幅の広い布を取り出したクレイは、床にそれを敷くと椅子をその上に移動させて言う。 「どうぞ、座って下さい」  言われるがままに腰を降ろしたノエラの背後に回り、クレイが言った。 「では」 「はい」  髪を持ち上げる感触。  らしくないほど、躊躇った声でクレイが言う。 「――本当に切りますよ?」 「ええ、どうぞ」  告げたところで、クレイが動く気配は無い。 「――あの?」 「後悔しないで下さいね?」 「はい?」 「髪の毛はすぐに伸びません。『姫』に戻れなくなりますよ」  クレイなりの気遣いを感じながら、ノエラは格別な思い入れも無く言った。 「もう、ノエラ・ベルヴェデーレは死んだらしいので」  それであれば不要なものである。  きっぱりとしたノエラのその声に、ようやく納得したらしく口を閉じたクレイが小刀を振るった。  ざくり、と何かを切る重たい音がする。  やがて、ざくざくと小気味良く背後からあがる音と共に、だんだん頭が軽くなっていく。ばさ、ばさ、と床に敷いた布の上に何かが落ちる音。  その沈黙の中で、ノエラは何気なく背後のクレイに問いかける。 「王子は――」 「はい?」 「どうするつもりです?」 「さて。明日、ウォリングたちと合流してからこれからの計画は決めますが――」 「いえ、そうではなく――」  もちろん、それも大切なことではあるのだが――。 「『姫』には戻らないのですか」  ノエラの問いかけに、クレイが手を止めた。それから、どこか面白がるような口調で告げる。 「私が『姫』に戻る? その言い方は、なんだかしっくり来ませんね。私が『姫』だったことなんて、生まれて一度も無いんですから」 「ずっと、そのまま?」  男性として生涯を送るつもりなのか、というノエラの意図を正しく読みとったらしく淡々とした声でクレイが言った。 「――そうなるでしょうね。今更、『姫』に戻ったところで失うものが多すぎる」 「失うもの」  鸚鵡返しに呟いたノエラに、クレイが歌うように言う。 「動きやすい服装。歩きやすい靴。意見を言う権利。世界を己で動かす力。有象無象の人々を束ねる肩書き」  ノエラは虚を突かれたような気持ちで訊き返す。 「――あなたが姫になっただけで、それらは消えますか」 「消えますね。こんなことを言ってはなんですが、私が反逆組織の指揮を取れたのは偏に私が『王子』だからだ。『姫』であったなら――反逆の象徴には慣れたかも知れませんが、肝心のところには関わらせて貰えなかったでしょうね。いや、そもそも私が姫として育てられていたら反逆すらしようとしなかったかも知れない。アルバレンの姫のように他国の有力な子息と結婚することしか考えない女になっていたかも知れない。あるいは、母のように己が産んだ子に王位を継がせることにだけ腐心するようになっていたかも知れない。男として育てられた私からしてみると、『姫』という人たちに与えられている世界は――あんまり狭すぎる」  ノエラが思い出したのは、十八年間ほとんどを過ごしてきた故国の離宮の地下室だった。  クレイが手を器用に動かしながら言う。椅子の下では、ノエラと十八年の歳月を共にした長い髪の毛がとぐろを巻いている。 「男として十八年間、生きて来て思いますが――女ではあまりにもこの世界は不利だ。――あなただって、女として十八年間生きて来て感じるところはあるんじゃないですか? だから、髪を切ることに躊躇が無いんでしょう。違いますか?」  先ほどの逃亡劇の間に、何一つまともな手助けが出来なかった己の身を振り返ってノエラは無言になる。人の手を借りなければ――ノエラはまともに馬にすら乗れないのだ。なぜなら、姫は馬になど乗らないから。乗る必要が無いから。 「――もちろん、『姫』に戻りたいというより、女だとぶちまけたい気持ちなることはありますよ。別に、私は男になりたい訳では無いですし。自分から吐いた嘘ではありませんが、殆ど嘘を吐いているようなものですし。――でも、それをしたところで何もならない。私は優雅なお茶会よりも知的な議論の方が好きですし、光るだけの宝飾よりも使い勝手の良い武具の方が好きです。すべての姫や女性に、私のようになれとは言いません。ただ、私にはどう考えても――『姫』としての生き方より『王子』としての今の生き方の方が性に合うんです。女だからという理由でそれらを取り上げられて、豪華な部屋を与えられてそこで日がな一日、髪の手入れや化粧をして過ごせと言われたらきっと頭がおかしくなる」  だから『姫』にはなりません、と何でもないことのように告げてクレイがノエラの首筋を丁寧に払う。  項のあたりがやけに涼しい。初めての感覚だと思いながら、ノエラは思わず首を左右に振った。その動作すら軽い。驚きの世界だ。  クレイが微かに笑った。 「我ながら、なかなかの出来映えだと思いますよ。――お似合いです」  衣装箪笥の横。  壁にかけられたくすんだ鏡を示されて、ノエラは恐る恐るそこをのぞき込んだ。  そこには、こざっぱりとした短い髪をした「青年」が、怪訝な顔で立っている。着ているのが婦人服のせいで、余計にそれがちぐはぐに感じる。染料がところどころ剥げた髪の色も、なんだか斑で汚らしくて――それがなんだか今までのノエラの十八年間の人生を象徴するようで――滑稽だった。  先ほどまでノエラが座っていた椅子を片付け、切り落とした髪の毛ごと床に敷いていた布を畳みながら、クレイが衣装箪笥を示す。 「何か適当に着替えた方が良いですよ。その髪に、その格好だと、目立って仕方がないですからね。男物なら不自由しないぐらいの備えはあるはずです。――そして着替えたら明日に備えて一眠りしましょうか、ノエラ王子」  悪戯げに付け加えられた最後の言葉に反応できず、ノエラはしばらく棒立ちになって聞き返す。  王子。  それは、ノエラに与えられることなく、素通りした筈の呼称で――。 「え?」  そんなノエラを見やって、クレイは酷く楽しげに笑った。
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