第四章

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第四章

 浅い眠りが短く続いて、夢ばかりを見た。けれども、暗闇の中で目をさました時には夢の内容をさっぱり忘れている。寝台の上で落ち着かずに、ノエラはそっと身じろぎをした。  隠れ家として連れて来られた狭い住居に、寝台は一つしか無かった。いくら「王子」といえども、本当は「女性」のクレイと同衾する訳にはいかないと辞退したノエラの訴えはクレイに笑い飛ばされた。 「こんなせっぱ詰まった状況で、万が一にも間違いなんて起こす気になれませんからご安心ください」  ――前提として襲うのがクレイで、襲われるのがノエラらしかった。  普通は逆だろうと思うのだが、ノエラとクレイの間では常識は通じない。そもそも仮にも男であるノエラよりも、一応女性であるクレイの方が明らかに強い。色々な意味で。  粗方払ったと思った髪の毛が、服の隙間に入り込んでいたらしい。短いそれが背中に刺さってちくちくと痛む。ノエラは溜息を吐きながら寝返りを打った。 「眠れませんか」  出し抜けに訊かれて飛び上がる。  暗闇に目を凝らせば、クレイがノエラの方へ体を向けているのが、なんとなく分かった。 「ええ、いや、まぁ――」 「どっちです」  優柔不断な返事をするノエラに、クレイが笑った。  体はこれでもかというほど疲れているのに、頭が冴えてしまって眠れない。初めての長時間の乗馬に対して、体はあちこちが軋んでいる。  クレイはノエラほど疲れていないようにだった。それとも、疲れているのにそれを悟らせない術を持っているだけなのか、区別は付かなかった。ぐずぐずと眠りに落ちるのを躊躇しているノエラの気配を感じ取ってか、クレイが軽い口調で言う。 「眠れないのなら、おとぎ話でもしてあげましょうか」  からかうようなその声音に、ノエラは少し躊躇してから口を開いた。 「だったら、一つ教えて貰えませんか?」  ノエラの言葉は意外だったようで、クレイはしばし沈黙した。それから、少し笑みを含んだ声で訊く。 「なんです?」 「どうして、そんなラストラルタの国が憎いんです?」  ノエラのまっすぐな質問に、クレイが沈黙して――それから言う。 「寝物語に、重たい話題を選びますねぇ」  苦笑の滲んだ声。クレイが寝返りを打つ気配が暗闇の中からする。そのまま沈黙がしばらく続いた。答えが無い、というのが答えなのだろうとノエラが妙は話題を振ったことを謝るよりも先にクレイの声がした。 「――『魔石』がね」  ぽつり、とこぼすようにクレイが言う。 「『魔石』が、嫌いなんですよ」 「『魔石』――」  それは前にもクレイが言っていた台詞だ。 「私はね、『魔石』の生産を止めたいんです。王位に就きたかった何よりの理由はそれです」 「『魔石』の生産を?」  クレイの言葉に、ノエラは怪訝に聞き返す。  今、ラストラルタの国の根幹を支えているのは『魔石』だ。それを動力にした機械による大量の物資の生産や輸送。それによって他国を遙かに凌ぐ経済力を身につけている。  その『魔石』の生産を止めたいというのは、どういうことなのか――。何より。 「そんなことをして、大丈夫なんですか」 「大丈夫じゃないでしょうね」  至って軽い口調でクレイがノエラの言葉に同調する。 「『魔石』が無くなれば、国中で稼働している機械は止まる。機械が止まればラストラルタが売りにしている生産力も落ちる。生産力が落ちれば交易も滞る。機械で補っていた労力を人力で補わなければならなくなる。都会に流出していた農民たちは、再び地方へ帰るでしょう。――けれども今度、困窮するのは彼らを追い出した地主たち連中の方だ。労働力の奪い合いは必至ですね。そして条件の良い方へ人は流れていく。他国と経済力を競っている場合では無くなるでしょうね。アルバレンの国が狙っていたように、大陸の外への『魔石』の輸出なんて以ての外になる。王都は酷く寂れるでしょう。今の面影なんて無いぐらい」 「そこまで分かっているのに、どうして」 「そこまで分かっていても、『魔石』なんて作るべきではないと思うからです」 「――『魔石』の作り方を知っているんですか?」  諸外国が喉から手が出るほど欲しがる秘密。それを知っているのは、王位に就いた者だけの筈では無かっただろうか。  ノエラの問いに答えずに、クレイは再び黙り込む。  それから突然、話題を変えた。 「私の従者――ウォリングには何度か会っていますよね?」 「え? あ、はい」 「婚約者選びの夜に、ウォリングの隣に立っていた侍女を覚えていますか」 「ああ――はい」  従者然として各国の姫君たちを自ら出迎えていたのが王子その人だったという驚きで、諸々の記憶が吹っ飛んでいるが、背の高い従者の横に確かに侍女が立っていた記憶はあった。 「あれは、私の乳母です。二人とも私が生まれた時から良く仕えてくれている――そして二人は夫婦です」 「ああ――そうなんですか」  確かに、ノエラの乳母のフラウのように夫に先立たれたのでも無い限り、その夫が主人を同じくして働いているのは自然なことだった。  そこまで考えて、ノエラは微かに首を傾げる。  乳母。  乳母と、その夫。  そこには何かが欠けている。  ノエラが口を開くよりも先に、クレイが言った。 「二人には一人息子がいて、名前をイルマンドと言いました。彼は私の乳兄弟でした。私を男として育てるのに、男の乳兄弟の方が都合が良いだろうと――母上がわざわざ選んで探して来たんです」  普通、乳兄弟は赤ん坊と同じ性別の者があてがわれる。将来、その子どもが育った時に気心の知れた側仕えとして置くことが出来るからだ。もちろん、都合良く同じ性別の子を抱える母親がいなければ、時には異性の乳兄弟を抱えることが無くも無いが。そして、ノエラのように特殊な体質を抱えているので無い場合。 「信じられないかも知れませんが、私は幼い頃――とても引っ込み思案で泣き虫だったんですよ。人見知りも酷くて、母上が送り込んでくる家庭教師たちに怯えては、乳兄弟の影に隠れて泣いていました」 「あなたが?」 「そう、私が。見る影も無いでしょうけど。――時間の流れっていうのは残酷ですよね」  そこまでは言わないが、とノエラは無言に陥る。  けれども、それは確かに今の堂々と自信に満ち溢れたクレイの姿からは想像も出来ないことだった。 「私の出来があまり良く無いことに、母上はいつも怒り心頭でしたね。母上の怒りに私は萎縮して、さらに失敗を重ねる――そんなことの繰り返しでした。それでも十歳を超える頃には、それなりに――母上の及第点をもらえるぐらいの『王子』にはなっていました。ハインツ義兄上が、私をやたらと敵視するようになったのも思い出せばこの頃からです。でも、私は手近にあるお手本に倣っていただけでした」 「お手本?」 「男児として、どう振る舞うべきなのかのお手本。――私にとっては、イルマンドがそれでした。堂々としていて口が回って機転が利いて、物事から一歩も引かない」 「――」  それは、正にノエラの知るクレイ・ディードリックだった。  しかし、と思う。クレイが絶賛するぐらいのその男が、どうして今、クレイの傍らにいないのか。幼い頃から、それほどの高い評価を得ている男ならば――クレイが今行っている無謀にも思える国への反逆行為に携わっていないのは不自然だ。  ノエラが口を開くよりも先に、クレイが言った。 「十二歳の時に、イルマンドは風邪にかかって亡くなりました」 「――」  ノエラはなんと言葉を返せば良いのか分からずに、押し黙った。 「軽く咳をするようになって、その夜にひどい熱を出して――城の医者にかかりました。私に移すといけないから、医者の施療所に泊まるようにと指示が出たそうです。――そして、なぜか次の日の朝には死んでいた」  クレイが軽く息を吐く音が、暗闇の中に響いた。 「何が起こったのか――全く分かりませんでした。確かに、ただの風邪で死ぬことはある。しかし、イルマンドは十二歳にしては体が大きく頑健で――風邪で死ぬとはとても思えなかった。とは言え、死んでしまったことはどうあれ事実ですから――葬儀が行われました。ウォリングも、乳母のアルネットも――ひどく悲嘆にくれていて――交代で遺体の隣で弔いのための番をしました」  当時のことを思い出しているのか、クレイの声がどこか遠くなった。それからふと、現実に引き戻されたようにどこか自嘲を含んだ声が言う。 「どうしてあんなことに気付いたのか、私にもよく――分かりません。私が弔いの番をすると聞いて母上は良い顔をしませんでした。乳兄弟といえども、所詮はただの従者です。そんなものの為に、『王子』が死者の番をするというのは――あの人にとってはあり得ないことだった。ただ、そうした方が世間体には『慈悲深い王子』という印象を与えられるだろうという説得をしてようやく許可された短い時間でした。その時に――どうしてか、気付いてしまった――」  言葉が途切れて、長い沈黙が落ちた。  クレイが眠ってしまった訳ではない。ひしひしとした緊張感が隣から伝わってくるようで、ノエラは息を飲み込んだ。それから、慎重に続きを促すために尋ねた。 「何に――?」 「――イルマンドの体からは、中身が無くなっていた」 「中身?」  言っている意味が分からない。呆然と言葉を繰り返すノエラに、溜息を吐き出しながらクレイは言った。 「――イルマンドの体は、施療所から返却された時にはもう死装束になっていました。だから、棺にもそのまま横たえられていた。その服の下――体に、妙な凹みがあったんです」 「凹み」 「死装束をたくしあげると、胸の真ん中を切り開いて、針と糸で綴じた痕がありました」  大きく息を吐いてクレイは言った。 「イルマンドの体からは心臓が無くなっていた」  ノエラは狼狽えた声で言う。 「それは――医者には」 「言いましたよ、もちろん。しかし、医者はそんなことは知らない言い掛かりだと私の言葉を跳ね退けられました。ウォリングもアルネットも、イルマンドの体に見慣れない傷があることも、その体に妙な凹み――中身が抜き取られて出来た凹みがあることを確かめました。けれども、医者は父上――国王陛下ののお抱えで、つまらないことで医者の手を煩わせるなと叱責されただけで終わりました。母上は――そもそも、まともに私の言葉を聞いたことなどあの人は一度も無い。けれども、心臓は確かにどこかに消えていた。――それから私はウォリングとアルネットの手を借りて、イルマンドの心臓の行方を確かめるために奮闘しました。二年もかかりました。ちょうど体つきも、より女らしく変わってきた頃だったから毎日が試行錯誤の連続でしたよ。とにかく、細心の注意を払って――より『王子』らしくなれるように奮闘しながら、イルマンドの心臓の行方を確かめるのに二年かかりました」 「――どうなったんです?」  思わず問いかければ、クレイが言う。 「おかしいと思いませんか?」 「え?」 「王都に貧しい地方の労働者たちがどんどん流入して来ている。仕事を求めて、他の国から来る者たちだっている。それなのに、この王都には――人間の死体が一つも転がっていない」  ノエラは目を見開いた。  確かに、その通りだった。  灰色の高い建物に囲まれて、誰もが自分の向かう方向ばかりを目指して行き交う、石畳の道の上。足下を気にかける者は誰もいない。その足下でうずくまる者も、倒れている者も、ノエラは見たことが無かった。 「もちろん、労働者用の住宅は次々と建てられていっています。けれども、すべてがそれに追いつく訳ではない。路上で暮らしている人だって少なからずいるし、仕事にあぶれている人たちは必ずいる。この王都でだって、餓えて死ぬ人はいるはずだ。それなのに、死体が一つも無い。いっそ不自然だ」  そこで言葉を切ったクレイが続ける。 「私たちが調べあげたところ、死体は王が密かに作った一部隊が回収して歩いてることが分かりました。仕事にあぶれて、暮らす場所も無い人たちも、その部隊がとある施設に収容している。――ただし、そこに入って行く人はいても出てきた人は誰もいない」  それが単純な善意から来る行いということでは無い、ということだけは分かった。 「――『魔石』の原料は、人間の心臓です」  吐き捨てるようにクレイが言った。 「恐れ多くも国王陛下が、自ら国宝『天使の涙』を振るうと、人の体から取り出された心臓は『魔石』に変わる。そして、それらがこの国や他の国にある多数の機械の動力となっている。死体から取り出した心臓よりも、まだ寿命が十分にある生者から取り出されたものの方が品質が良い。――調べると、私の乳兄弟が死んだあの日、城の中で大きな『魔石』の取引がされていることが分かりました」  クレイの声が震えた。 「私の乳兄弟は――『魔石』の数が足りないから、ただ、それだけのために心臓をえぐり出されて殺されたんです。よりにもよって、私の、父親に」  ノエラは思わず体を起こした。暗闇の中、手探りでクレイの方に手を伸ばす。クレイの手の甲に、指先が触れる。一瞬、驚いたように跳ねたクレイの手が、まるで縋るようにノエラのそれを掴んだ。  クレイの低い声が暗闇に響く。 「この国は、おかしい」  クレイが言葉を続けた。 「本来ならば『姫』として育てられる筈だった私も、文字通りに人の命を使い捨てにしているこの国も。『魔石』で得をしているのは、限られた層です。王侯貴族に地主たち、特別に許可を貰った商人。その人たちの住処の明かりを煌々と照らすために、安い布地を大量に使うために、ただ少しだけ速く移動するためというだけに――人の命が必要ですか。――私が正しい、とは言いません。でも、この国がおかしい、とは言える。私の手で引導を渡してやりたいんです。それがせめて――私が出来ることだから。いや、私にしか出来ないことだから」  クレイの言葉が止まった。  痛いほどに握られていたノエラの手から、するりと温もりが離れていく。クレイにかける言葉が見あたらない。 「寝物語には――向かない話だったでしょう」  敢えて軽さを取り繕ったことが分かる口調で言って、寝台の上でクレイが背中を向ける。 「今度こそ、眠りましょう――明日からは忙しくなりますよ」  おやすみなさい、という声に答える言葉も持たないままノエラはじっと暗闇に目を凝らす。先ほどまで確かに重なっていた掌が、今はやけに寒々としていた。    ***** 「姫様!」 「姫!」  フラウとジェイドの顔を見て、ノエラは心の底から安堵した。二人の呼びかけは再会したことに対する喜びもあったが、ノエラの格好についての驚きもいくらか混じっているようだった。  クレイが衣装箪笥の中から変装のために取り出して来たのは茶髪の鬘で、襟足にかかるぐらの長さしか無い。その下にある筈の髪の長さも自然に分かろうというもので、こんな場面だというのに気恥ずかしい感じがしてノエラは曖昧な顔ではにかんだ。  少し大きめの綿のシャツも、ズボンも、どれも男物だ。靴も底の平らな歩きやすいものになっている。とは言え十八年もの長い間、慣れ親しんだ婦人服の締め付けが無いというのはなんだか心許ない違和感だった。  驚きやら喜びやらが入り交じるノエラたちの再会の横で、クレイと従者たち――乳母のアルネットも一緒だった――の再会は至って事務的で冷静だった。いずれ訪れる日だということで、三人の間では何度も確認や取り決めがなされていたのだろう。  クレイがノエラを連れて行動に移ったのは、朝が終わり昼に近い時間になてからのことだった。灰色の高層住宅の建物外を抜けて、大通りに出た時――通りはノエラが今まで見て来たのとは違う種類のざわめきに満ちていた。不安げな囁きがあちこちで交わされている。  その原因は早朝に厳めしく王城からの命令で立てられた看板と、恐らく夜半の内に王都のありとあらゆる場所でバラマかれたビラにあった。  王城からの看板には、クレイ・ディードリック王子が反逆の罪を犯して追われる身になったことが綴られている。一方で、王都中にバラマかれたビラは『魔石』の製造法について告発したクレイ・ディードリック王子からの告発文で、国王陛下の罪を激しく弾劾するものだった。  一体どちらを信じるべきなのか。  口角泡を飛ばした議論がありとあらゆる場所で行われている。  クレイの反逆が明らかになった時の対抗策は、早い段階で練られていたようで、クレイと離ればなれになりながら従者はその仕事を確実に遂行していたようだった。  王に対する反逆は罪だ。  しかし、その反逆に正当な理由があればどうなるか。  王子という高い位にいる人が、自らの地位も何もかもを擲って民の為に動いていると知って心を動かされない者はいないだろう。そして、ビラの中で暴露された「魔石」の作り方は――彼ら名も無い庶民を慄然とさせた。  大半の労働者がきつくて辛い仕事にしがみつくように生きている。ある日、突然姿を消したところで、耐えきれなくなって逃げ出したと思われるだけで誰も居場所を探すことなどしてくれない。代わりになる労働者は、地方から、諸外国からいくらでも流入して来ている。  このまま、ラストラルタに止まれば、いつか自分を命を落とすのではないか――。王侯貴族や金持ち連中のために、命まで奪われてしまうのではないだろうか。そんな不安が野火のように広がっている。  クレイ・ディードリックが一方的な悪者になることは避けられた。これからのクレイの行動が、何をするつもりにしろ目指すにしろ、やりやすくなったことだけは確実だった。  本当に、舌を巻くしかない。  再会したのは、いつか連れて行かれた仕立屋と似たような雰囲気の、裏路地にある雑貨屋の地下だった。本来ならば商品の在庫やら何やらを貯蔵しておくために使われるだろうそこは、手書きの王城の見取り図が机の上に広げられ、街の詳細な地図の要所に印が付けられていた。クレイ・ディードリック王子からの告発のビラが束になってあちこちに置かれ、手動の印刷機が存在を主張している。地下の隠れ家というに相応しい様相だった。  油で灯した明かりの下で、ノエラはティセルラントの国からの仕打ちと、送り込まれた使者の言い分をフラウとジェイドに洗いざらい伝えた。  城を逃げ出すくだりになって、落雷と共に天井が崩落し、馬に乗ったところで降り出した豪雨が追っ手を撒くのに一役買ったことを話せば、ジェイドが爆笑する。 「相変わらず絶好調じゃん、姫」 「姫じゃないって」 「姫様」 「姫じゃないって、フラウ」  ノエラ・ベルヴェデーレは死んだ。  ティセルラントの国がそう言っているのならば、ノエラはもう死んでいるのだろう。そもそも、ノエラが「姫」であったことなど一度も無かった。元を正せば性別は「男」で、ノエラという存在はティセルラントの国にとって幽霊のようなものだったのだろうなと思う。  ふと黙り込んだ三人に向かって、口を開いたのは自分の従者と何やら低い声で言葉を交わしていたクレイだった。 「三人分の旅券と、十分な路銀は用意してあります。旅券は偽造ですが、まぁ、見破られることは無いと思いますよ。この度は巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんでした。――ラストラルタの国は残念ながらこれから私が大混乱に突き落とす予定ですから、滞在することを進めません。ティセルラントの国には帰れないでしょうし、アルバレンの姫にされた仕打ちを忘れることが出来るのならば、あの一件には目を瞑ってアルバレンの国を目指すのが良いかも知れません。あの国は、ラストラルタと違って通商で利益を得ている。これから生産が混乱に陥ることが必至の国にいるよりも、まだ暮らしやすいでしょう」  テキパキと話を進めて、クレイが思い出したように言う。 「――それから、あなたがたの『姫』の髪を勝手に切ってしまってすみません」  簡素な動きやすい男物の服に極自然に身に付けたクレイを見つめて、ノエラは訊いた。 「あなたは、これからどうするんですか――『王子』?」  もはや、誰に何と呼びかけるのが正解なのか。ごちゃごちゃと混乱する頭で、結局いつも通りに呼びかけたその呼称に特に異議を唱えることもなくクレイは言った。 「蜂起の準備を整えます」  まるで何でもないことのようにクレイが言って、ノエラを見返した。 「四年かけて作り上げてきた組織です。何人か国王陛下の手に落ちていますが――致命傷ではない。計画自体はあって、後は機を熟すのを待つだけだった。もう少し平和な――例えば私が王位に座ることが確定するだとか、そういうことがあれば実行されないままでいたのですが――生憎、私は反逆者になってしまった。そうなれば、することは一つです」  どこまでも冷静で揺るがないクレイの顔を見つめながら、ノエラは昨夜のことを思い出した。  私にしか出来ないことだ、と語るその声を思い出して、ノエラは口を開きかけて閉じる。  なんと言葉をかければ良いのか、分からなかったからだ。 「――十分に気を付けて」  なんの為にもならない慰めの言葉を吐き出すだけの自分が、とても惨めに思えてくる。しかし、その言葉を受け取ったクレイは晴れやかに笑って答えた。 「お気遣いありがとうございます。けれども、あなたたちもこの国を出て行くまでは油断しない方が良い」  それから幾日かは、言われるがままに住居を転々としながら過ごした。  出国の手筈はクレイの方で整えてくれる、ということになったが万が一の時のために、いつでも出立できるようにと三人分の旅券と路銀は渡されていた。「姫」という肩書きが無いノエラに、フラウとジェイドを縛る権利は無い。どう考えても世間知らずで足手まといになる自分と、これから先の人生の袂を分かつことも提案したが、親子は殆ど同時にその提案を退けた。 「国が関係無いと言うのなら、あなたはただの私の育て子です。どうしてもあなたが私たちと共にいたくない、というのならば――別の道を行くことも止むを得ませんが?」  他ならぬ乳母からの言葉に、ノエラは首を振った。  ティセルラントの国いる、実の両親の顔なんて元から朧だ。ノエラの家族は、やはりフラウとジェイドだけである。共にいることを許してくれるのであればそれに越したことは無い。  行き先も、クレイに勧められるままにアルバレンの国に決めた。後は、出立するだけ――そしてノエラたちが出立した後にこそ、ラストラルタの国で蜂起が起こるのだろう。それぐらいは、ノエラにも分かった。 「明朝、出発をして貰えますか」  あてがわれていた高層住宅の狭い部屋に、目立たないよう外套で訪れたクレイが告げた。 「国境までは馬車でいけるように人を手配しています。この建物を出て、大通りまで出て貰えれば乗れるでしょう。騒動になる前に、王都を出て行って下さい」  お元気で、と淡々と告げるクレイになんだか堪らない気持ちになって、クレイは身を乗り出した。 「王子」  その呼びかけしか出来ない自分がもどかしい。  フラウとジェイドにも、クレイの性別については明かしていない。クレイ本人が「女」として扱われることを望んでいなかったし、何より勝手に話して良いことではないと思ったからだ。  同じような境遇で立場が全く違う。もしもノエラがクレイの立場に生まれていたら、十八年も生き延びることが出来ずに死んでいただろう。なのに、彼女は生き抜いてきた。  性別の壁を越えて、乳兄弟の死を背負い、国の秘密の暴くために。  ノエラが出来ることなど一つも無いし、浮かばない。 「どうしました、姫?」  揶揄するように、その呼称を使うクレイに――ノエラは口を開きかけて閉じる。ジェイドが居心地悪そうに咳払いをして、フラウが躊躇いがちに口を開いた。 「ウォリングさんとアルネットさんは――外でお待ちですか?」 「馬車の中にいますが」 「色々お世話になったので、私たちからお礼を言いたいと思います。馬車の方にお邪魔をしても?」 「ああ――はい、どうぞ」  クレイからの許可に、気を利かせて乳母と乳兄弟が立ち上がる。部屋から出て行った二人の背中を見送りながら、クレイは軽く眉を顰めて言った。 「あなた――そんな顔であんな風に呼んだら……誤解を招きますよ。色々」 「誤解?」 「私の服の下の事情、話して無いんでしょう? あの二人には」 「? はい」 「……いや、あなたが良いのなら良いですけどね」  よく分からないことを呟きながら、クレイはノエラに向き直る。 「それで? どうしました、そんな悲愴な顔をして」 「そんな顔をしてますか?」 「少なくとも、出立の喜びに満ち溢れている――という感じでは無いですね。乳母と乳兄弟も一緒にアルバレンまで行くんでしょう? ティセルラントとの忌々しい縁も切れたんです。その鬘は贈呈しますし――まぁ、隠し事の数が減ったんですから。喜んでも良いのでは?」 「それでも――あなたのことがある」 「私のこと? 私のことは私が責任を持ちますよ、ご心配なく」 「でも」  言い募るノエラの言葉を遮るようにして、クレイは片手を上げた。 「今回のことがあなたのせいで起きたと思うのなら、検討違いも良いところだ。今回のこれは起こるべくして起こったことです」 「いや、でも――」 「それに、もしも、あの場にあなたがいなかったら――どうなっていたと思います?」 「え?」 「国王陛下が私を反逆者だと断じたあの場にあなたがいなかったら。さすがの私もどうしようも無い。あの数の兵に一人では太刀打ちできない。無様に捕まっていたでしょうね。そして、芋蔓式に私の性別の秘密もバレていた。いい笑い物になったでしょうね、女だてらに男と偽り謀反をしかけようとした――なんて。蜂起に至ることも無かったでしょう」 「いや、それは――」  ノエラの手柄ではない、そう言おうとしたところでクレイが手を振った。 「私には都合よく落雷を起こして謁見の間の天井を落とすなんてことは出来ない。都合よく叩きつけるような豪雨を降らせて、おまけにあんな――道筋を示すことなんて出来ない。少しは素直に誇ったらどうです、私はあなたのお陰で少なくとも今ここにいる」  長くなる、と思ったのかクレイが空いている椅子に腰を降ろした。つられて、ノエラもその向かいに座る。机に肘を付いて手を組みながら、クレイが小首を傾げてノエラに言う。 「その過剰な悲観主義と自己卑下、なんとかした方が良いですよ。悪い輩につけ込まれますから」 「でも、私の髪の色と、体質のせいで――」 「――これは私見で恐縮なのですが、元婚約者殿」  改まった呼びかけをしながら、クレイが言う。 「千五百年前、あなたの国に降り立ったのも、あなたにその真紅の髪の加護を与えたのも――本当に疫病神なんでしょうかね?」  思いもかけない言葉に、ぽかんとしてノエラは聞き返した。 「え?」  *****  馬車はひっそりと動き始めた。王都を後にするために。  早朝だというのに、人通りが多い。何かが始まる、そんな予感を秘めた興奮が都中に溢れているようだった。 「姫」 「姫じゃない」  ジェイドからの呼びかけに、反射的にそれだけを返す。ノエラは今や、どこからどう見ても青年だ。真紅の髪を鬘の下に隠してしまっているが。 「じゃあ、ノエラ――大丈夫?」  「何が?」 「うーん……あれだよ、初恋は実らないって言うからさ。元気出せよ」 「……ジェイド、何言ってんの?」  ノエラが怪訝な視線を向けると、妙に労るような顔をした乳兄弟が励ますように肩を叩いた。解せない。フラウに助けを求めるように視線を向ければ、乳母はやんわりと視線を逸らした。  ――訳が分からない。  思いながらも考えるのは、昨日のクレイのことだった。向かいあった椅子の向こうで、彼女はノエラに向けてこう言った。 「ティセルラントの国に加護を与えているのは、あなたたちが千五百年もの間奉ってきたのは、本当に疫病神なんでしょうかね?」  クレイが何を言っているのか理解出来なかった。  誰もがそう言っているし、ノエラ自身が誰よりも体質として知っている。 「巻き込み型の不幸体質だ、とあなたは言っていましたけど――現に私は不幸になっていない。あなたの乳母と、乳兄弟も。これはどういうことなんでしょうか」  ノエラはクレイの言葉に眉を顰めた。  クレイの状況は、どう考えても幸せだとは言い難かった。そんなノエラの表情を読んでか、釘を刺すようにクレイは言った。 「私の置かれている状況は、私の人生の積み重ねの結果です。あなたが関与しようが無いことだ。だというのに、それまでもが、あなたの責任だと言うのは――それは傲慢ってものですよ」  諭すように言ってから、クレイは言葉を続けた。 「例えば、アルバレンのルネシア姫のように、ハインツ義兄上のように、分かりやすい不幸や破滅が、私の身にも降りかかってきたのならば――私もあなたを『疫病神の申し子』と呼んだでしょう。でも、実際のところは違う。あなたが振りまく不幸とやらは、不幸にする対象を選んでいる。他の例は知りませんが、私が見る限り――あなたの力によって不幸になる人たちは、あなたを不当に軽んじたり貶めたり傷つけたりしようとする者ばかりだ。今まではどうです? 違いますか?」  問いかけられて、ノエラは沈黙する。  確かに、それには覚えがあった。ノエラが生まれた直後に、色々な人の身に降りかかった災厄も、不吉な真紅の髪を持つ男児を殺してしまおうという企てがあったからだ。そして、いつか送り込まれてきた使用人たちは、離宮に閉じこめられたきりの姫に仕えることを明らかに厭っていた。 「『神は箴言を与え、悪魔は甘言を与える』」  クレイは呟くように言った。 「――歴史学者じゃない私の素人考えですが、千五百年前のティセルラントというのは――今のラストラルタのような国だったんじゃないでしょうかね。そして、伝説の王は現状を憂いていた。だからこそ、神の問いに頷いた。そして全てを無くすことを選んだ。時を同じくして、ラストラルタの国の始祖に舞い降りたと言われる天使は――ティセルラントの国を追われた『もの』だたんじゃないでしょうか」 「追われた『もの』?」 「際限なく人の欲望を叶え続ける――それを天使と呼びますかね? 普通、そういうものは――」  悪魔と呼ぶんじゃないですか、と言い残して席を立ったクレイ・ディードリックの後ろ姿がノエラの目には焼き付いている。天使がいたことなど無い、と呟いていたその言葉を思い出す。  それからずっとノエラの自問は続いている。  もしも、クレイの仮定が本当だとしたら――。  ノエラがラストラルタの国に送り込まれたのには、意味があるのではないだろうか。  クレイが「私にしか出来ないことがある」と語ったように、ノエラにも――何かあるのではないだろうか。  ノエラにしか、出来ないことが。  不意にたくさんの人の声が重なりあった、決起の叫びが空気を揺るがした。遠くから、あちこちに呼応する声が続いて渦のようになっている。馬が怯えたように嘶いて、それを宥める御者の声が外から響く。  蜂起が始まるのだろう。  先頭に立つのは『王子』だろう。  クレイ・ディードリック王子が。  王子が――。 「あ」  思わず馬車の中で立ち上がる。  ノエラにしか出来ないこと。それが稲妻のように頭の中で閃いた。ちょうど、怯えたように暴れる馬を落ち着けるために御者が馬車を路肩に停めたのと同時だった。 「行かないと」 「――? ノエラ?」 「どうしました?」  ジェイドとフラウからの怪訝な言葉に、ノエラは二人の顔に視線を落として言った。 「ごめん、私は――戻る。アルバレンには二人だけで行って」 「どういうこと?」 「私にしか出来ないことが、分かった――だから」  戻る、と馬車の扉に手を掛けて飛び降りようとするノエラをジェイドが慌てて引き留める。 「ちょっと待って。どういうこと? 何があったの?」 「あったんじゃなくて、分かっただけ。ごめん」 「全然、説明になってないから!」 「――落ち着きなさい」  二人を窘めるフラウの声が響いて、ノエラとジェイドの掛け合いは止まる。 「ノエラ様、戻るというのは――クレイ王子のところへですか?」  問われてノエラは頷いた。とにかく、早く行かなければという気持ちだけが先走っている。そんなノエラの腕を引き留めるように掴んだジェイドが、困ったように首を傾げた。 「では――私も一緒に行きましょう」 「母さん!?」  仰天した声を上げたのはジェイドで、ノエラもフラウの言葉に狼狽えて言う。 「そんなことまでしなくて良い! もう、私は姫じゃない! だから、そんなに仕えてくれなくても――」  ノエラの言葉を最後まで聞かずに、フラウは実の息子の方へ目を向ける。ジェイドは戸惑ったような顔をして母親からの視線を受けた。 「ジェイド、あなたは好きにしなさい」 「母さん!?」 「フラウ!?」  思いも寄らない言葉に、ノエラまでもが愕然として乳母の名前を呼んだ。泰然としているのはフラウだけで、それがますます混乱に拍車をかけた。  実の息子に別離の道を示しながら、単なる育て子のノエラと同じ道を行く、とそう乳母は言っている。訳が分からなかった。 「あなたも、もう十八歳ですから。自分で自分の人生を歩みたいという気持ちもあるでしょう。ノエラ様がするべきことを決めたように、あなたのするべきことはあなたが決めなさい」 「フラウ――?」  呆気に取られたジェイドに代わって、ノエラは恐る恐る乳母の名前を呼んだ。 「どうして、そんな――」 「あなたが私の恩人だからです」  微笑んだフラウが、御者台と繋がる呼び鈴の紐を鳴らした。訝しげな顔で荷台に回り込んだ御者は、王都へ戻るようにというフラウの指示を訊いてますます不可解な顔をした。 「しかし――俺は、あんたたちを国境まで送るようにと約束をしている」  困惑を露わにして言い募る実直そうな御者に、あくまで自分たちの都合であることと、それによって御者が責められることが無いということを請け負った。  渋々と納得した御者が戻り、やがて馬車がゆっくりと方向を変え始めた。  フラウが静かな口調で言う。 「そもそも、私があの国で姫の乳母を勤めるように命じられたのは――それしか他に生きる選択肢が無かったからです」  馬車は段々と騒乱の方へ近づいて行っている。何かが壊れる音や、怒鳴り声や罵声や悲鳴が外で渦巻いている。だというのに、馬車の中は驚くほどに静かだった。 「私の亡くなった夫は、城で財務を司る役人として働いていました。大臣は王の近親に当たる者で――その人は自分が管理を任された国のお金を、自分のお金も同然だと思うような浅はかさがありました。そして、夫はその罪を押しつけられたのです」  フラウが溜息を吐き出した。 「夫は自分の罪を否定したまま獄中で亡くなりました。国費の横領だなんて、私たちの倹しい暮らしぶりのどころを見てそう言っているのか。しかし、投獄された時点で夫は既に罪人でした。夫が潔白を唱えていたことなど、なんの意味も持たなかった。私はジェイドを産んだばかりで、途方に暮れました。――私は罪人の妻で、ジェイドは罪人の子どもだった。親族は容赦なく私たちから縁を切り、近所の人たちは言葉も交わさなくなり、家財のほとんどは没収されました。いくばくか残ったお金を持っていたのに、どの店もパンもミルクも売ってくれなくなりました。あれは事実上の死刑宣告でした。牢に入れられ無かっただけ。あのまま行けば、飢え死にするのも時間の問題だったでしょう――」  そこまで言ってフラウが溜息を吐いた。 「そんな時です。厳めしい役人がやって来て、私に生まれたばかりの国王夫妻の乳母になるように命じたのは。――断る、という選択肢は私にはありませんでした。だって、そうしなければジェイドと一緒に死ぬしか無かったのですから」  そこでフラウは言葉を切って、微笑した。 「そして、私が対面させられたのは真紅の髪の色をした健やかな赤ん坊でした。私は既に栄養状態が悪く、ロクに乳も出せない有様でしたから、食事が与えられて――恐れ多くも国王夫妻の子に接するために衣服は清潔なものが与えられました。あの時ありついた食事がどれほど有り難かったか。私の食事は、私だけではなくジェイドの為の食事でした。本当に――有り難かった。そして、あなたは私の乳を大人しく吸いました。他にも様々な――事情を抱えた乳母候補たちが連れて来られたようですが、あなたは他ならぬ私を乳母に選んでくれた。お陰で十八年も生き延びることが出来ました。あの時、死にかけて痩せこけていた赤ん坊は、あなたの乳兄弟として立派な青年になった。――とても幸せでした。とても。あなたのお陰で」 「フラウ――」 「だから、あなたがどう思おうと、あなたは私の――私たちの恩人なのです。あなたはあなたの乳母を命じられた私のことを不憫に思っていたようですが、それは違います。あなたの乳母を命じられたのは、あの時点での私にとっては掛け替えのない幸運だったのです。――私はあなたの恩に報いたい。だから最後まであなたに仕えます。それは私が決めたことです」  誰であっても覆させません、と言い切るフラウの声にノエラはしばらく口を開くことが出来なかった。  がたん、と馬車が停まり、御者が荷台の扉を勢いよく開く。色々な音と焦げたような臭い。ざわついた空気が荷台の中に飛び込んでくる。 「これ以上、先へ行くのは無理だ。酷い騒ぎだぞ、本当に国境まで行かなくて良いのか?」  心配するような御者の声に、フラウは穏やかに言った。 「分かりました。では、ここまでで結構です」  そう言ってフラウは平然と馬車から降りる。ノエラは途方に暮れてジェイドを見た。乳兄弟にして幼なじみの青年の目が一瞬だけ揺れる。それから、一つ息を吐くとノエラに向かって言う。 「行きたいのって、クレイ王子のところ?」 「そう、だけど」 「分かった」  フラウの後を追って荷台を降りたジェイドは、母親を捕まえて熱心な口調で何事か声をかける。それから、困惑した顔で御者台に座る御者の男に声をかける。しばらくのやり取りの後に、ジェイドが路銀の入った袋から何枚かの硬貨を取り出して、御者の掌に落とした。  馬車を牽いていた二頭の内、一頭を馬車から切り離して、その手綱を握りながらジェイドが言った。 「ノエラは俺が城まで送っていく。母さんは、今朝の隠れ家に戻って貰う。御者に送って貰うように頼んだから――」  行こう、と告げる乳兄弟の言葉にノエラは狼狽えて瞬きをした。 「ジェイド――」  そこから続くノエラの言葉を押しとどめるように、ジェイドが手を上げる。 「確かにノエラはもう姫じゃないけどさ、だからっていきなり俺たちと縁が切れると思ったら大間違いだよ。――大体、十八年一緒に育った兄弟をそんなに簡単に見捨てるようなことが出来る奴だと俺のことを思ってるなら、それはちょっと俺に対して失礼じゃない?」  早く行こう、と笑うジェイドの言葉にノエラはなんと言ったら良いのか分からないままに頷いた。それから一言だけを告げる。 「ありがとう」 「どうしたしまして」  早く行こう、と促すジェイドの言葉に、ノエラは馬車の荷台を飛び降りた。  ***** 「ジェイド」 「なに?」 「知ってた?」 「何が?」 「――お前の、父親のこと」 「全然」  乳兄弟の声は素っ気ないほど力が無かった。 「でも、なんとなくは知ってたよ」 「――」 「俺がどんどん父さんに似ていくのが、母さんつらかったみたいだ。俺やお前の前では、何も言わないようにしてたけど」 「――そっか」 「うん」  二人の会話はそれだけで、後はただ馬に乗って先を急いだ。  王城までの道はすぐに分かった。大勢の人がそこを目指し、あるいはそこから逃げるように背を向けていたからだ。何かの燃える匂いに、破壊音、土埃。怒号、悲鳴、混乱の叫び声。ありとあらゆるものが入り交じって混乱している。  馬は興奮しているのか、その騒動の中に怯みもせずに突っ込んでいく。 クレイより手綱さばきは劣るものの、ノエラを背中に乗せたまま馬を駆るジェイドの腕前は中々だった。ついこの間、ティセルラントの姫として馬車で辿った道を馬が疾走して行く。  開かれたままになった門扉。  それが見えたところで、ノエラは被っていたままになっていた鬘をむしり取って放り投げた。  真紅の髪が堂々、太陽の光に晒される。  騎乗して城を目指す二人連れ。そしてノエラの鮮やかな髪の色は、否が応でも人の目を引いた。驚いたようなどよめきや、恐れるような叫び声が上がるのが、風の音に紛れていく。  王城の中に、騎乗したままジェイドとノエラは突っ込んだ。  そこまで来て、ノエラは目の前の光景に違和感を覚える。  ――どうして、国王側からの反撃が無いのだろう。今までの道のりの中でも、兵の姿は見えなかった。何かの怒りに狩られたように、抑圧されたものを解き放つように、暴れる民衆の姿があっただけ。ぞくりと背筋に嫌なものが走る。  王城の中はがらんとしていて、廃墟のようになっている。ジェイドが迷ったように手綱を引いて、馬の歩みを止めさせた。嘶いた馬がその場で足踏みをする。 「どうする? 王のところ?」 「うん――」  肩越しに振り返るジェイドが、目を見開いてノエラの髪を見る。 「ノエラ――鬘は?」 「良いんだ」  もう、隠す必要は無いのだ。  それがノエラに出来ることなのだから。 「ふぅん」  ジェイドはどこか複雑そうな顔で頷く。 「お前のことは大事な乳兄弟で幼なじみだと思ってるけど、あの王子のどがそんなに良いのか落ち着いたら説明してくれない?」 「――いや、ジェイド。何言ってるの?」  今朝から初恋だのなんだの。そういう色めいた関係の相手はノエラにはいないし、ノエラがここにいるのはそういう意味では無い。そこまで考えて、ノエラはふと思い出したのはクレイのなんとも言えない顔つきと言葉だった。  私の服の下の事情を話しましたか、と訊ねるそれを唐突に思い出して、乳兄弟の言動と、乳母の生ぬるい視線の意味に気付く。 「あー……。待って、待って、そういう意味じゃなくて」 「お前が好きな人と幸せになるのが一番だよ」 「物わかりの良い顔やめて。色々と複雑で事情があるんだから。説明するから」 「うんうん、分かった。それより、どっちに行く?」  絶対に何も分かっていない。物わかりの良すぎる乳兄弟を持つのも問題だと思いながら、ノエラは辺りを見回して言った。 「――右」 「根拠は?」 「無いけど――」  そっちに行った方が良い気がする、と言うノエラの根拠の無い自信に笑ってジェイドは馬を走らせた。それからも、そんな風に適当なノエラの指示のままにジェイドは王城の中で馬を疾走させた。  走らせるほどに奇妙なことに気付く。  王城の中は蛻の空だった。  兵はおろか――使用人の一人も残っていない。蜂起の話が伝わっていたのだろうか。それにしても、こんな風にみすみす城を明け渡すように空にするというのはどういうことなのか。  考えている内にノエラの背筋を寒いものが走った。  クレイの声が頭の中に蘇る。  神は箴言を与え、悪魔は甘言を与える。  この国にあるのが天使の加護ではなく、悪魔の策略だというのなら――城に乗り込んだ筈のクレイはどうなったのだろうか。 「ウォリングさん!」  いくつか階を上がり、豪華な扉の前に立ち尽くす背の高い人影を見てジェイドが叫んだ。振り返ったウォリングが驚いたように目を見開く。  ジェイドの手を借りながら馬から降りて、ノエラは大股に近付く。 「クレイ王子は!?」  額に汗を滲ませた従者は、狼狽えたままに首を振った。 「陛下と――この中に」 「二人きりで?」  どうしてそんなことに、と目を見開くと歯を食いしばるようにしてウォリングが言った。 「私も一緒に入ろうとしたけれども――出来なかった。そして、なぜか扉が開かない……ッ」  扉には大きく傷が付いている。当たりには折れた剣や、壊れた家具などが散乱している。馬を適当な柱に繋いだジェイドが怪訝な顔で扉を見やる。 「鍵が掛かってる?」 「いや、そうではない――」  とにかく開かない、というウォリングの手は扉を殴ったのであろう血が滲んでいた。ジェイドが怪訝な顔をして扉のノブに手をかけて揺する。扉はぴくりとも動かない。終いには扉を蹴り飛ばして、ジェイドは息を切らして叫んだ。 「なんだよ、これ!?」  普通の扉の閉じ方ではない。ノエラはウォリングを見て訊ねた。 「他に、入り口は?」 「全て試したけれど、同じだ。――いや、それよりあなたはどうして? アルバレンの国に向かうように手筈を整えていたのに――」 「色々考えました」 「は?」 「私にしか出来ないことをしようと、そう思いました」 「――なにを?」  ウォリングが怪訝な顔をするのに答えないまま、ノエラはジェイドの傍らで扉に手を伸ばす。何気なく押した扉は――呆気ないほど簡単に開いた。 「え――?」  驚いたようなジェイドとウォリングの顔を横目にしながら、ノエラは扉の向こう側に倒れ込んだ。慌てて体を起こせば、扉は勝手に閉まっていた。長い廊下には静寂が横たわっている。ジェイドとウォリングを招き入れようと扉に手をかけたが、先ほどあっさりと開いた扉はどうにも動かない。  訳が分からない。  思いながら、ノエラは足を踏み出した。 「クレイ王子!」  呼びかけた声に、返事は無い。  どっと焦燥が押し寄せて来て、ノエラは走り出した。長い廊下の毛足の長い敷物が足音を吸い込んでいく。脇目も振らずに走っていると、やがてがらんと空間に出た。  その真ん中に、凝った装飾の椅子と――台座が置かれている。台座の上には、深い緑の――拳大ほどの宝石が恭しく飾られている。そして、その真正面に据えられていた椅子に、クレイが腰を降ろしていた。  悠然と泰然と。  ノエラは思わず、足を止めて椅子に座るその人を見つめた。  切りそろえた黒い髪。端正な顔立ち。優雅に着こなした王子の服装。それから落ち着いた、堂々と自信に満ちた物腰。姿形は間違いなくクレイだというのに――ノエラの体中に怖気が走った。  感情の篭もらない一瞥がノエラを捉えて、それからにこりと形ばかりの微笑が寄越される。 「これはこれは。ティセルラントのノエラ様。どうしてこちらに?」  蜂起をした指揮官とは思えぬほどの落ち着いた物腰と問いかけに、ノエラの怖気はますます酷くなる一方だった。よろめきながらノエラは足を引いて、声を振るわせながら問いかけた。 「――――あなた、誰ですか?」 「何を言っているんですか、我が元婚約者殿。クレイ・ディードリックに決まっているでしょう。わざわざ探しに来て下さったのですね、ありがとうございます。ですが、ご覧の通り――もう全て片づきましたので」 「片づいた?」  微笑を顔に張り付けたクレイの手が、椅子の背後を指し示す。  そこには倒れ伏した国王――ジレット・ディードリックの姿があった。虚ろに目を見開いて、ここでは無いどこかを凝視している。生前は猛禽の鳥を思わせたその顔は、年相応に弛んでいて威厳や知性を感じさせない。仰向けに倒れて、その胸には深々と剣が突き立てられている。広がった血が豪奢な王の衣服を汚し、床に血だまりを作っていた。  ノエラは目を見開いて固まった。  遺体を見たのは生まれて初めてのことで――そしてそれが他人の手によって殺された一国の王というのも衝撃的なことだった。 「これを以て王位は私のものです。色々とご心配をかけましたが、もう安心なすって下さい。これからは私が立派にこの国を導きますので」  丁寧に慇懃な言葉が口から流れ出る。その言葉を聞きながら、ノエラは再び体を震わせて言った。 「――あなた、誰です?」  もう一度の問いかけに、クレイの微笑が深まり――やがてゆっくりと大きく動いた唇が言う。 「まったく忌々しい真紅の髪だ」  ふっと笑うと王座から立ち上がったクレイが、優雅な足取りで部屋の中を歩き出す。 「思い出しますね、その髪の色。賢明なる親愛なるティセルラントの国王陛下――ノースラッド・ベルヴェデーレ。まるで生き写しだ。神聖なる神の使いめ――忌々しい」  謡うように語るその話の内容に、ノエラは眉を顰めた。  ノースラッド・ベルヴェデーレ。千五百年前の伝説で、疫病神から信仰の証に真紅の髪を与えられたティセルラントの国王。それとノエラが生き写しだという。この――クレイの姿を借りた、何かが。 「あなた、誰です?」  三度目の問いかけに、ようやく振り返ったクレイがあざ笑うような声で言った。 「本当は分かっているんじゃないですか?」 「――――」 「この頭の良いお嬢さんが一生懸命に考えたことは、大体当たっている。その通り――千五百年前に、ラストラルタの始祖に力を与えたのは決して天使では無い」  クレイの姿を借りたそれが、美しく微笑んだ。 「初めまして、神の使い。私は名も無き――しがない悪魔です」  どうぞよろしく、と大仰に頭を下げて礼をするクレイを見つめて、ノエラはただ立ち尽くした。  まるで体の動作を確かめているかのように、手を握ったり開いたり――腕を動かしたりしながらクレイの姿を借りた「それ」は広間の中を歩き回る。そして謡うように言った。 「千五百年前の失敗で私は悟ったんです。外から人間を操るだけでは不完全だ、と。神に付け入る隙を与えてしまった。私が作り上げた王国は、あっという間に忌々しい正義の手によって瓦解してしまったのです。だから、その反省を活かして私は人間に取り憑くことにしたんです。――この国の始祖になった男は最高でした。野望に満ち、私欲に溢れ、際限なく暴虐になれる。私は力を与えるという約束と引き換えに、人間の体を手に入れた訳です。お陰で、この千五百年は退屈しないで済んだ」  そう言いながら、クレイの体を借りた「それ」は椅子の後ろに転がるかつての王の死骸を爪先で蹴った。 「ただ、最近――私も飽きて来ましてね。『魔石』の生産も、ある程度限界が見えてきた。だったら、今度は国を救った英雄として――君臨してやった方が面白いのじゃないかと」  呟きながらクレイの体を借りた「それ」は、口元に妖艶な笑みを浮かべた。 「何より、私も『女』の体になったのは初めてだ」 「やめろ」  その体で何をするつもりなのか。聞かされなくても想像が出来て、感じたことの無い怒りを感じる。自分でもぞっとするほど低い声が出て、ノエラはそんな自分に驚いた。怒りの言葉が口から迸る。 「クレイ王子の体から出て行け」 「お断りしますよ、せっかく手に入れた体ですから」  両手を広げて、口元に笑みを湛えた「それ」が言う。 「どうしても欲しいというのなら、自力でなんとかしてご覧なさい。『神の申し子』さん――ああ、一番手っ取り早く私をこの体から追い出す方法なら教えてあげましょうか」  にこりと笑った「それ」が、横たわる王の体に突き刺さっていた剣を抜き取り、血にまみれた刃を振った。鮮血が飛び散る。 「この体を殺すことですよ」  そう言って、クレイの手で血に汚れた剣をノエラの方に投げ渡す。がらん、と音を立てる金属音にノエラは何が起こったのかを悟った。  腹の底に震えるほどの怒りを感じる。 「――そして、あなたは殺した相手に取り憑くんですね?」  問いかけというより、ほとんど断定に近いその言葉に、クレイの姿を借りた「それ」はにこやかに笑った。 「可哀想なクレイ・ディードリック『王子』」  謡うように告げながら、足下の国王陛下の死体を足蹴にして言う。 「民衆を先導して蜂起までしたというのに、実の父親の国王陛下の最後の良心を諦めることは出来なかった。言葉を尽くして、懸命に人としての道義を説いていました。けれども、すげなく拒絶をされて――やむなく父親を手に掛けた――涙ながらに絶望しながら」  陶酔したように語る「それ」の言葉に、ノエラは足下の剣を見つめたまま反論する。 「手に掛けさせた、の間違いでしょう」 「実際に行動すると決めたのは私じゃない。彼女だ」  それで、と両手を広げてクレイが言う。 「あなたは一体どうします?」  嫣然と微笑んで決断を迫ってくる。ノエラは棒立ちになったまま固まった。クレイ・ディードリックの体から「それ」を追い出す方法は分からない。クレイを手に掛けても、何の意味も無い。ただ「それ」は宿主を変えるだけだろう。今度は手をかけた相手――ノエラに。  ――それども、真紅の髪を持つクレイならば、「それ」の宿主にはならないのだろうか。  けれども、それでクレイが死んでしまっては意味が無い。  そんな結末は望んでいないのだ。 「――神の使いはお優しい」  くすくすと笑いながら亡き王の死体を跨いで、クレイ・ディードリックであってクレイ・ディードリックで無いものが近付いてくる。ノエラは思わず後退した。  不思議そうに小首を傾げて「それ」が訊く。 「ねぇ、そんなに私がやっているのは悪いことですか? 私はただ、人の望みを叶えて上げてきただけですよ。切っ掛けは確かに与えたかも知れない。けれども、最終的に選んだのは彼らだ。『魔石』の製造法についてだって、この国の上層部の多くの者たちは知っていた。けれども、彼らは口を噤んでいた。自分たちの快適な生活のために。――自分に害が及ばないのならば、自分が良ければ他人なんてどうでも良い。それが人という者の偽らざる本音なのではないですか?」 「やめろ」  嫌悪感と怒りで体が震える。  よりによって、とノエラは思う。その顔で、その声で、その体で。それを言うな、と思う。  私にしか出来ないことだ、と語っていた彼女。  凛としたその顔を思い出す。  その彼女のために、ノエラはここにこうして戻ってきた。だというのに、こんなのはあまりにも――。  考えに沈むよりも早く、ノエラの体は吹っ飛んで壁に打ち付けられた。  あまりの痛みに呻いて床に崩れ落ちるのと同時に、目が眩んだ。鳩尾の辺りが苦しい。クレイの体の爪先が見える。 「人って言うのは、本当に愚かだと思いませんか?」  声音も口調もそれほど変わりが無いというのに、ぞっとするほどの嫌悪感と違和感が拭えない。 「本当に奉り敬うべき神を疫病神と忌み嫌い、際限なく欲望を叶える存在を天使ともてはやす。――何事にも何の代償も無く叶えられる望みなんて無いというのに。代償の内容を知った途端に、喚き立てるのはいかがなものでしょう。私は私の決まりごとに従って、この世を面白おかしく生きているだけだというのに」  ねぇ、と言いながら屈み込んだクレイの髪を掴んで顔を引き上げる。  にこりと笑うその顔は、吐き気がするほどクレイ・ディードリックのものでノエラはそれに対する嫌悪感が拭えない。  ノエラは目の前の顔を睨みつけた。  本当に――忌々しい。  けれども、「それ」が言うことも一理ある。世の中には、何事も代償が必要だ。その悪い面を見ないまま、欲に溺れて流される人間がいることも、また確かなもので――。  そこまで考えて、ノエラはふと頭の中に疑問が過ぎる。  何の代償もなく叶えられる望みなんて無い。  人の世で面白おかしく過ごしたいという悪魔は――一体何を代償に、誰に差し出したのか。力を得る代わりに、人に取り憑けるようになったのならば。  何を――。  ノエラの視線が、クレイの姿をした「それ」を素通りして恭しく台座に置かれたそれにたどり着く。  「天使の涙」と讃えられる宝石。  加護の証に、ラストラルタの国の始祖に与えられたそれ。一振りすれば、人の心臓を「魔石」に変える不思議な力を持った――その石は。  反射的にノエラは自分の髪を掴むその手を振り払った。床に転がっていた剣を不慣れに持ち上げながら、駆け寄って台座の上に思い切り振りかぶる。途端に襟首を引かれるようにして、そのまま床に叩きつけられた。握っていた剣は取り上げられて、クレイの姿を借りた「それ」が獰猛に微笑んでいる。 「本当に――忌々しい赤い髪ですね、あなたは」  腕から逃れようともがくノエラの体を押さえつけながら、クレイの声で「それ」がいう。 「その通り、人間の世界にとどまるために差し出した代償は、私の心臓ですよ。一番の弱点を他ならぬ人間の手に預けることで、この世に留まり続けた。『魔石』の発想はあれから得たんですよ。私の心臓にも力が宿っているのなら、人の心臓でだってある程度同じことが出来るのではないかと思ってね」  ぺらぺらと話しながら、「それ」が剣を振り上げる。 「もう少しお喋りを楽しんでいたかったのですが、どうにも――その神々しい真紅の髪の毛を見ると私は虫酸が走るんです。ここらで終わりにしましょう」  この体は私が有益に楽しく使ってあげますよ、と勝ち誇って言いながら剣が振り下ろされるその様子を、ノエラは目をしっかりと開いたまま見つめていた。    轟音が耳をつんざいた。  断末魔の悲鳴が、どこか遠くから聞こえる。「疫病神の申し子」。軽んじ蔑ろに害をなそうとにした者には、どんな形であれ――必ず不幸が降り注ぐ。  目には目を、歯には歯を。  命を奪おうとするのならば、その命を。   緑色の美しい宝石は、欠片も残さずに粉々に飛び散って消えるのを見ながら――ノエラは意識を失った。  *****  激しく揺すぶられる感覚に、うっすらと目を開いた。  クレイ・ディードリックの顔が近くにあって、鋭い口調で詰問する。 「一体なにがあったんです? どうしてあなたがここに? アルバレンに行ったのでは無かったのですか」  厳しい口調でクレイが訊く。その声を聞きながら、ノエラは心の底から安堵した。クレイ・ディードリックが戻ってきた。彼女の体は、ちゃんと彼女の意志の下に動いている。心底、安堵したノエラの顔を見ながら苛立った声でクレイが言う。 「父上――国王陛下に手をかけてから、記憶が無い。気が付いたら剣を手にして、あなたの上に跨がっていた。私があなたを殺そうとしたんですか? 私が?」 「――あなたじゃない」 「それでも私の体がしたことです!」  胸ぐらを掴んで激昂したように怒鳴るクレイの顔に浮かんでいるのは、紛れもない焦燥だった。 「天井にどでかい穴が空いている上に、国宝までもが消えている。一体どうしたって言うんです? 私に何があったんですか? そして、あなたはどうしてここに?」  矢継ぎ早に繰り出される質問は、クレイの日頃の平静さからはかけ離れている。ノエラがここに足を踏み入れた時のような、不自然な静寂は消えていた。外からたくさんの人のざわめきがする。それから、扉が荒々しく開かれる音も。  胸ぐらを掴むクレイの手が震えているのに、ノエラは息を吐きながら言った。 「それはまた――今度話します。それより、私はあなたに言いたいことがあって」 「は?」 「だから、アルバレンに行くのを辞めたんです」 「何を――?」  困惑したような顔でノエラの胸ぐらから手を離して、クレイが額を押さえる。その手を今度はノエラの方から握り直した。怪訝な顔で見返す瞳に、ノエラは言った。 「考えました」 「――なにを?」 「私にしか出来ないことを」 「は――?」  クレイが呆気に取られたような顔で聞き返す。  それはそうだ。こんなところで、こんな状況で話すようなことでは無い。「魔石」の秘密は国中に知れ渡り、民衆は怒りで蜂起し、国王陛下は他ならぬ「王子」の手によって討たれた。それでも今、この場で話してしまわねばならないことだった。ノエラにはそれが必要だったし、クレイにも――今この瞬間しか無かった。 「あなたがあなたにしか出来ないことをしてきたように、私が私にしか出来ないことは何かを、考えてみました」 「はぁ――」  それで、と怪訝な声で先を促すクレイの声にノエラは言った。 「クレイ・ディードリックさん」  「王子」と呼びかけない、敢えて外した呼称にクレイが僅かに驚いたような顔をしながら返事をした。 「はい」 「私と結婚しましょう」 「――は?」  今度こそ、クレイが呆気に取られて目を見開いた。ノエラは早口で言葉を続けた。 「この国は今からゼロになる。千五百年前の伝説で、ティセルラントがそうだったように――ラストラルタの国も見る見る内に衰退していくでしょう。そんな国でも、国は国だ。束ねるべき人は必要だし、処理すべき案件も多数にある。そして、今回のことで先頭に立ったあなたが王になるのは自然のことだ」 「そう、でしょうね」 「そして、あなたは王になれる器も才覚もある」 「それは、どうも――」 「だからあなたは王になるべきだ。でも、男としてじゃない」 「は?」 「あなたは、この国の女王になるべきだ」  今度こそ、呆気に取られた顔でクレイが言葉を失った。 「十八年、姫として生きて来て私はとても息苦しかった。離宮の奥で、ほとんど誰とも接したことは無いというのに後ろめたかった。自分から吐いた嘘でも、背負わされた嘘でも無いというのに――あなたは私の比では無かったでしょう。だから、もう、隠すことは止めるべきだ」 「べき、と言ったところで――」  狼狽えたような声でクレイが言って、ノエラを見返す。 「それが出来ないのは明白でしょう。今、この時代に――誰が女王の下に就くことを選ぶんです? そもそも女王を戴く国など、今までも大陸に存在したことが無かった。そして私は性別を民に偽ってきた咎がある。それを詳らかにして、一体どうすると言うんです?」 「民のために国王を討った健気な姫です。それに、王子と偽ってあなたを育てたのは他ならぬ国王夫妻だ。あなたもまた被害者だ」 「それで同情を買おうって言うんですか。確かにそれは事実ですが、同情で忠誠は買えない。王になるには威光が足りない」 「だから、私と結婚しましょう」 「は――?」 「神からの加護を受けた私が、あなたを女王に選ぶんです」  城に入るまでの間に、ノエラは鬘をむしり取っている。騎乗した真紅の髪のノエラの姿を幾人もの民が見ているだろう。  そして、先ほどの王城への落雷。  国王の死。  国宝の消失。  それらの事実が広く知れ渡れば、誰もが思い出す筈だ。そして知らない者も耳にする筈だ。千五百年前の伝説を。国が終わる――いや、そして新たに何かが始まるのだ。この国は、今から大きく変わっていく。現状から脱却。その兆しを、誰もが実感している筈だ。  今ならば、疫病神でなく――神の威光が罷り通る。  ノエラは卑怯を承知で言う。 「私も隠し事をして生きるのは、もう懲り懲りです。アルバレンの国に逃れたところで、髪の色を隠して生きなければならないのは変わらない。それも一生。――そんな風に誰にも言えない秘密を抱えて生きていくのなら、神の加護を受けた者として、あなたの隣で堂々と生きていく方がよっぽど良い」 「――この、滅んだ国で? 何かも私が滅茶苦茶にした国で? あなた、少し落ち着いた方が良い。正気じゃない」 「地獄の果てまで付き合って欲しい、と最初に私に言ったのはあなたでしょう? ――行きましょう、地獄の果てまで」  付き合わせて下さい、ときっぱりと申し出る。  遠くからノエラとクレイを呼ぶ声がした。扉が開いてジェイドとウォリングが部屋の中に入れたのだろう。その足音がだんだんと近付いてくるのを聞いている内に、クレイの顔がくしゃりと歪んでそれから体を折り曲げるようにして笑った。 「――ははッ、あっはっはっはっはっは!」  ノエラの肩に両手が置かれる。  クレイがノエラの顔をのぞき込んで言った。 「なんてまぁ、現実的で打算的で夢物語な提案だ。本当に、あなたは私の予想の斜め上をいくことについては神懸かっていますね!」  笑うクレイの眦に、きらりと光るものがある。 「元は私がした提案です。言ったことへの責任は取らないといけませんね――そうですね、ノエラ・ベルヴェデーレさん?」 「ベルヴェデーレの姓は名乗れません。もう、今はただのノエラです――いや、男ですから――正確にはノエルです」 「ああ――そうですね。それなら、私もクレイ・ディードリックではありません。クレア・ディードリックです」  はじめまして、とお互いに名乗り合いながら一瞬の沈黙。次の瞬間に、クレイが思い切りノエラの体を抱き締めながら、そっと囁いた。 「――これからもどうぞよろしく頼みますよ、我が夫」  ノエラはその背中をぎこちなく抱き返して言った。 「こちらこそ――どうぞお願いします、我が妻」  やがて、王城に押し寄せた群衆は露台に立つ二人の姿を見ることになる。  一人は真紅の髪の青年で、もう一人は黒髪の――王子の服を着た凛々しい姫だった。 「――今日より、私がこの国を統べる!」  高らかに響き渡った宣言と共に、ラストラルタの国の新しい歴史が幕を開いた。
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