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「おめでとうございます」
ランチで麻婆豆腐を食べていたら気持ち悪くなって、驚いた友人に病院に連れて行かれ、通された病室で先生にそう言われた。
「ご懐妊です」
事態が飲み込めない私に、先生が会心の一撃を決めた。
「おめでとう!」
「体調は大丈夫?」
「男の子?女の子?」
うちの両親と彼氏の両親が代わる代わる聞いてくる。でも顔は嬉しそうだ。
「いやー、順番としては間違っていますが・・・」
「いやいや!結果的にダブルでおめでたいですし、良い事かと」
「そうよ、お父さん!」
父親達がビールを片手に談笑している。それを母親達が宥めている。
母に電話で伝えて1週間後に開催されたこの両家顔合わせ。主役の筈なのに、なんとなく置いていかれているような感覚。
「リコ、体調悪くなったら言えよ?」
ぼんやりしている私に小声でそう言う彼氏のショウゴくん。
「大丈夫だよ。ありがと」
私は笑って返すと、ショウゴくんも笑った。
私は来月で25歳になる。大学時代の友人達と誕生日パーティーをする約束もしていた。それについては、また連絡しないとな。
会社員になってまだ3年ほど。少しずつ仕事に慣れてきたところだったのに。
(まぁ、エッチの時ゴムしないでしちゃった事もあったし・・・お酒入るとどうも盛り上がっちゃって・・・)
なんて自己嫌悪をしていて、改めて気付かされる。
自分がまだ、何の覚悟も出来ていない事に。
「こことかどうかな?」
ショウゴくんが間取り画像を見せてくる。
「んー、あんまり駅から遠いと通勤大変じゃない?」
2人で住む家を探している。
いつかはこんな日が来る事を期待していたけど、予定より随分早くて困惑の方が強い。
「そう言えば今日検診だっけ?」
「うん。そろそろ用意するよ」
「やっぱり一緒に行こうか?」
「大丈夫だよー。心配しすぎ笑」
そう言うと、ショウゴくんは私のお腹に手を当てる。
「頑張ってこいよー」
私のお腹を優しく撫でると、ニッと笑った。
胸がきゅっとなった。
「リラックスして下さいねー」
看護師さんにそう言われながら仰向けになって天井を見る。お腹が少し冷たい。
「ほら、手が見えた」
モニターを見ると黒い影が真ん中あたりに写っている。どれが頭でどれが手か、よく分からない。
私の中の新しい命は、着実に育っている。
「何か気になる事とか無いですか?」
先生から聞かれて、少し考えたが「大丈夫です」と返した。
「今日の検診は以上です」
「ありがとうございました」
私は鞄を持って椅子から立ち上がろうとした時、先生が「あの」と呼び止められた。
「何か不安な事とか気になる事があったら、何でも言ってね」
そう言って微笑む先生に、私は口から何かが零れ落ちそうなったけど、また「大丈夫です」と言って微笑み返す。
「ヤグチさん、体調大丈夫?」
「無理せず何でも言ってね!」
職場は驚くほど妊娠を好意的に受け取ってくれて、事あるごとに気にかけてくれる。
「ありがとうございます。一応、10ヶ月目までは働かせて頂こうと思ってます」
そう言って上司や先輩に頭を下げる。
10ヶ月。いざ言葉にするとタイムリミットはすぐのように思える。
その頃には私は、世間で言う『母親』になる。
「いやーまさかリコが妊娠するとは」
「マナちゃんめちゃくちゃ慌ててたよね」
同僚で友人のマナちゃん。『麻婆豆腐事件』の立役者。あの日病院に連れて行ってくれた娘だ。
「本当にびっくりしたんだもん。リコが『麻婆豆腐が食べたい』って言うから行ったのに。いきなり吐き出すんだもん」
「その節は大変ごめんなさい」
「でもハッピーな結果だったから許す」
2人で笑いながら蕎麦を啜る。
「結婚式はどうするの?出産前?後?」
「うーん・・・まだ決めてない」
「いいなー新妻。ラブラブでさー」
「それはまぁ」
「そしてお腹には愛の結晶が!」
箸が止まる。今、私が食べている蕎麦はお腹の中の命も一緒に食べている。
「頑張ってね、ママ!」
そう言って笑うマナちゃんに、何も言わず笑って返した。
「ねぇ、お母さん・・・『母親』ってどうやってなるのかな」
「えぇ?どうしたの急に」
「いや、なんとなく・・・」
庭で洗濯をしているお母さんに投げ掛ける。お母さんは笑いながら振り返る。
「あんたはもう『母親』よ」
「妊娠したから?」
そう詰め寄る私にお母さんは呆れたように言う。
「妊娠して出産したら、自然と母親としての自覚が出てくるわよ」
そう言いながらリビングを通り過ぎて行くお母さんを目で追うが、見えなくなってから行き場を無くして、自分の少し膨らんだお腹に視線を落とす。
定期検診でモニターを見ると、また黒い影が大きくなっていた。
「順調ですね」
先生がモニターを見ながら言う。先生が指を差す。
「男の子ですね。ほらこれ」
小さく丸っこい影。どうやら男性器らしい。
「あと少しですね。お腹苦しくなってきた?」
「重たくなってきたと思う・・・」
仰向けになりながら自分のお腹を見る。ぽっこりとした山がそびえ立っている。
「経過は順調ですね。何か気になる事とかある?」
服を整えながら考える。
「先生は、お子さんいますか?」
「私?いますよー。3人」
「え、すごい!大変ですよね」
「もう上の子は高校生で、下も来年中学生ですから、ほとんど手は掛からないかな」
そう言って先生は笑う。ベテランの母親の余裕というものか。
「すごいですね・・・。あの、いつ頃『母親』としての自覚って生まれましたか?」
私の質問に先生は「うーん・・・」と唸りながら考えてくれた。
「いつの間にか、覚悟が決まったって感じかな」
そう答える先生は、穏やかな顔をしていた。
検診から帰る途中、ショウゴくんから連絡が来た。
「リコ検診どうだった?」
「順調だってさ」
「そっかー。あ、これから買い物行ってくるけど、何か欲しいものある?」
「え、そうなの?私も一緒に行くよ」
「いいよいいよ。リコは帰って休んでなって。もうリコだけの身体じゃないんだから」
風が吹いて、携帯を当てる耳元を風の音が通り抜ける。
少しの間、時が止まった気がした。
「ごめん、ショウゴくん」
「ん?」
「私、子ども生めないかも」
「え?」と言うショウゴくんの電話を切り、駅まで走る。そして、帰る方向と反対側の電車に飛び乗った。
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