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グサッ グサッ グサッ グサッ
いつの間にか、静まり返った室内に重苦しい音が響いていた。
無機質なその音は、何の感情も宿さずに、ただ規則的に鳴り続ける。
その音は、しばらく続いた後……なんの前触れもなく止まった。
「まだ、足りない」
そう呟いた少女はナイフを対象から抜くと、滴る血液を二の腕で拭う。周りに広がる赤い血だまりをじっと眺めながら、そっと指を浸し、そしてそっと口に含む。
(あぁ、苦い)
今まで何年も生きて来て、初めてこの味を知った。
ひとえに、甘くはないその味を、指を通して知る度に生命の息吹を感じた。
つけては、舐めて、舌と絡めていく。
少しづつ、舌の裏に蓄積されていった。錆の残骸を残らず吸い尽くして、いつしか口の中が錆びの垢で埋め尽くされたときだった。
「あぁ、死んだのか」
特に何も考えずとも、そんな言葉がぽろっ、と零れた。
そのときの私は、動揺どころか、悲しみの感情すら一切感じていなかった。
ただの好奇心の対象物が壊れただけ。
ネジを巻いて、動いていたおもちゃが、いつのまにか壊れていたという感覚に等しかった。私は、そっとナイフについた血液をハンカチで拭う。
小さい頃、母親に買ってもらったそのハンカチは、すぐに朱色に染まった。
薄くなって布滲んだそれは、なんだか生臭くてくらくらした。
そっと、鼻に持っていき匂いを嗅いでみる。
すっと、入り口から入った匂いは、ふわっと奥で広がり異様な様相を醸し出す。
私は途中で耐えきれなくなり、そっとハンカチを置いた。
(さすがに、無理だった)
いくらかつて愛していた人とはいえ、無理なものは無理だったらしい。
私は、仕方がなくその行為を諦め、その場で立ち上がる。
「もう少しで、完成」
そして、重い手足を引きずってその家をでた。
*
私には、夢があった。
それは、また家族三人で仲良く暮らすこと。
だけど、その夢は生涯叶うことはなかった。
その夢を見始めのは、小学校も高学年に差し掛かった頃だった。
少し前に両親が離婚し、一人っ子だった私は母親に引き取られた。
母親の稼ぎだけを頼って生きることになった為、生活は一変。
今まで仕事をしたことがなかった彼女が、生活費の為にとパートを始めた。
最初はそれでよかったのだが、次第に生活費が足りないことに気が付き、彼女は夜の仕事も始めることになった。
お陰で二人で話す時間は減ったが、休みの日は必ず二人でご飯を食べていたし、自分の為に稼いでくれているのだから……と思っていたから特になんとも思っていなかった。
むしろ、感謝していたくらいで、この頃から親がいないときは、自分で料理したりして過ごしていたように思う。
この当時は、まだよかった。
問題は、母親がとある男を作ってからだったと思う。
それは、私が中学に上がったばかりの頃だった。
「彼氏ができたの」
四月のある日、ようやく慣れ始めた学校から帰ると、玄関に知らない人の靴があった。
私がどうしたの?と母に尋ねると、嬉々としてそんな声がしたのを覚えている。
当時丁度思春期に突入したばかりの私は、知らない人の存在が嫌だった。
家の中に、異物が入ってくるという感覚がどうしても耐え難かったのだ。
「そう、よかったじゃん」
でも、母の嬉しそうな表情を見ているとそういうしかなかった。
母は、私の答えに満足したのか、嬉しそうに男の元へと駆けていった。
そのとき、自分の知らない母を見たような気がして、二の腕に鳥肌がたってゾクゾクした感覚が体中に走ったのを、今でも覚えている。
私がその時見たのは、父の前で見せる笑みでもなく、私を見守る柔和な母の顔でもなかった。少女のようなあどけない笑顔は、今まで私が見たことのない、母の女の顔だった。私は耐え難い感情に襲われながら、二人を見ないようにして自室に戻った。
思えば、この後から生活が著しく変わっていったように思う。
あれだけ家事をやってくれていた母が、家事をまったくやらなくなった。
朝起きると、テーブルの上にコンビニ弁当の残骸と、ビールの空き缶が決まって転がっていて、毎朝それを片付けるのが私の日課になった。
毎朝ビニール袋に、母が散らかしたゴミを捨てる度、私は何をしているんだろうという気持ちになり酷く空虚な気持ちになった。
いつも私が起きる時間まで起きていた母の姿はなく、リビングから見える母の寝室からは、仕事着のままであろう母の足がだらしなく覗いていた。
この頃から、めっきり二人の会話はなくなった。
会話するときと言えば、たまに母が早く帰ってくるタイミングくらいだった。
けれど、そのときは決まってあの男も一緒だった。
母は、濃い化粧に派手な色のスーツを着ていた。
「あぁ、いたの」
そして、母は私の存在なんてまるでどうでもいいような言い方をした。
「汚い家だけど、ゆっくりしてってね」
そして、男には、かつて私に向けていたような柔らかい笑顔でそう言った。
そうして、私には振り向きもせず自分の部屋に入っていく。
無言で去っていく姿に、私はとうとう耐えられなくなった。
「お母さん!!」
私は、咄嗟にそう言ってしまった。
彼女は、私の声が聞こえたのか足を止める。
「何?」
でも、振り返った母は、酷く冷たい顔をしていた。
声はいつも聞いていたよりずっと低く、まるで別人のようだった。
私には、興味なんてないみたいに、無表情を貫いている。
「……」
その顔を見て、私は何も言えなくなってしまった。
そのまま、無言のまま暫く見つめあう。
暫くして、母は痺れを切らしたのか言ってきた。
「用は、ないの?」
すごく棘のある言い方だった。
私は、もう何も言えなかった。
静かに頷くと、大きなため息が聞こえる。
「はぁ、じゃあもういいよね。私、今忙しいの」
そう言って、踵を返して言ってしまった。
私はというと、その場を動けないでいた。
彼女の表情から、酷く悲しいをいう感情を味わっていたから。
そしてもう彼女は、私の元には戻ってこないだろう。
そう、悟ったからだった。
*
それから、私は数年間我慢に我慢を重ねて過ごし。
高校を卒業する、というタイミングで家を出た。
大学は東京の中でも、都心の大学に進学することが決まっていたので、自宅からかなり離れた場所にボロボロのアパートを借りて一人で住み始めた。
そこでの暮らしは快適で、今までの暮らしを忘れてしまう程だった。
大学では、仲のいい友達もそこそこできて、充実した生活を過ごしていた。
最初の方こそ、母親のことを思いだし、昔の楽しかった頃と比べては憂鬱な気分になっていたけれど、次第に時が経つにつれてそんなことは思いださなくなっていった。
楽しい思い出を積み重ねていく日々。
毎日を当たり前のように楽しく過ごし、気が付けば大学も残りわずかになっていた。
卒論で忙しくして、毎日図書館や本屋で文献を漁る日々。
そんなときだった。
私が、あの本と出会ったのは……
*
それは、8月の中頃のことだった。
世間では、お盆という連休の時期も終わり、段々と風も涼しくなってきた頃だった。
相変わらず扇風機は回っていたし、蝉の鳴き声は煩かったけれど、暑かった時期に比べて店内の客足は明らかに少なくなっていた。
その日も私は、卒論の為、資料に使う本を探していた。
ただ、その日は何故かいつもなら解放されていない二階が解放されている日だった。
いつも階段前にかかっているチェーンが、今日は外されている。
”一般開放日”
そう記されていた為、妙に気になった。
何故なら、この本屋に通い始めてから、二階に足を運んだことはまだ一回もなかったからだった。他の人たちは、そんなことに興味を示す様子もなく、ただ店内を物色している様子だったが、私はすごく気になってしまった。
(よし、入ってみよう)
私は、思い立ったが早いか、階段に足を掛けた。
よく見知った店内とは違い、階段も壁も木材で出来ていたのは気になったが、
とにかく急な階段をゆっくりとのぼっていった。
その階段は、やたらキシキシと音がして、木の匂いがした。
そこだけ、まるで異次元のように感じられてわくわくした。
階段をのぼり終わると、畳と本棚のみで作られた空間が広がっていた。
「うわぁ……」
一言では表せない、壮観だった。
壁一面に本が並べてあり、その数は一階と比べても圧倒的だった。
真ん中には木の机が置いてあり、その上にも本が何冊かおいてある。
私は、そのうちの一冊を手に取った。
その本は、なにやら古めかしい文字で書いてある。
義談奇怪?なんて書いてあるのだろう?
正直タイトルの意味はさっぱりわからなかったが、興味本位で中を数ページペラペラとめくってみる。中には、妖怪だの、幽霊だのなんだか禍々しいものが沢山書いてあり、私はそっとその本を閉じそうになった。
(あれ……?)
そんなとき、あるページに目が留まる。
それは、私にとってとても興味深い話だった。
気が付けば、私はそのページを読み漁っていた。
その特集は、私が今までに思いつかなかったような斬新なアイデアが沢山あってわくわくしてしまった。
そして、私はその本をその日家に持ち帰った。
*
それから暫くは、その本にかじりつくようにして見ていたのだが、卒論が追い付かなくなりめっきりその本を見ることはなくなった。
それからしばらくして、私は大学を卒業。
それ以来、仕事が忙しくなったのもあり、その本の存在を忘れて過ごしていた。
毎日が同じことの繰り返しで過ぎていく。
そして、完全にその存在を忘れたころだった。
長らく放置されていた自宅から、呼び出しという名の手紙が届いたのだ。
*
久しぶりに訪れた我が家。
外に置いてあったプランターは朽ち果て、窓には蔦が絡まっていた。
トタンの屋根は、錆びて剥がれ落ち、外壁のペンキはとっくに剥がれ落ちてボロボロになってしまっていた。とてもじゃないけど、人が住んでいるとは思えない様相のその家の玄関をおそるおそる進む。油断していたら、何かでてきそうだ。
玄関ポーチから伸びる、砥石で出来た道を踏み外さないように歩く。
ヒールを履いていたから、途中、なんども足首を捻りそうになり、その度に持ち前のバランス感覚で耐え、先へと進んでいく。
そうして、ようやく家の前に着くとチャイムを押した。
押しボタンのそれは、キシキシと鳴ってあまりに心地が悪かったし、とても現役で使われているようには見えなかった。
ピーンポーン
一度、ボタンを押し込んでみる。
久々の我が家に、最近はなんとも思っていなかった私だったが、チャイムを鳴らしてから時間が経つにつれ、これからあの人にあうのかという実感に胸が押し潰されそうになる。どく、どくと脈を打つ音があまりに煩い。
あまりに時間がたっても、出てこないので恐る恐る呼びかけてみた。
「お母さん、いる?」
勇気をだして、少しおおきめの声でいう。
そこからしばらく待ってみたが、母親はでてこなかった。
(どうしたものか……)
しばらく考えた挙句、聞こえていなかったのかもしれないと思い、何度かインターホンを押してみる。だが、結果は同じだった。
仕方がないが、私は諦めて帰ることにした。
足元に置いていた重ためのバックを持ち上げると、立ち上がり歩き出す。
玄関先を過ぎて、砥石を過ぎ、玄関ポーチの小さな城門の前まで来た。
私は、そのとき後ろからの気配に気づいていた。
「なに、どうしたの?」
少しぶっきらぼうに言うと、少し後ろで空気が揺れる音がする。
それが今は無性に腹立たしくて、錆びた門を爪でガリガリと削る。
僅かに残っていた赤い錆が、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
後ろにいた母は、綻びを直そうと必死らしかった。
「ごめんなさい」
「今更、呼び出しといてさ……居留守なんてね」
私とは思えない声が腹の底から出て、心底驚いていた。
武者震いのように高鳴る鼓動と、震える皮膚。それとは裏腹に、淡々と感情が乗らない声がする。まるで私自身と、身体と声が分離してしまったような感覚に陥る。
だけど、そのときはそれをやめようなんて思えなかった。
本当は、居留守さえしなければ、話し合ってもいいと思ってた。
だけど、そうされたとき、彼女は変わらないんだと思った。
あのときのまま、心も体も止まっている____________________
「ほんと、勝手だよ」
長年溜め込んでいた感情が、ぽとりと音をたてて剥がれた。
その瞬間、全てのときが止まる。この空間だけが、世界から切り取られているみたいだった。重苦しい雰囲気に耐えられなくなった私は、外へ出ようとする。
「もう、要らないでしょ?」
「もう何もないんだよ、私達には」
この家も、この家で過ごした思い出も。
この家に絡まっていた蔦みたいに、些細な綻びから枯れてしまった。
そして、それは戻ることなんてない。
それは、この家の敷地に入ったときから感じていた。
まるで生活感のない家、おそらくもう誰も暮らしていないのだろう。
外観だけ形を保っていても、人が居なければもう家でもなんでもない。
それは、私達にも言えることではないだろうか?
私は、背中に気配をひしひしと感じながらも、門に手を掛けた。
もう、私がこの家に戻ることはないだろう。
私は、あの頃と同じ少女ではないのだから。
もう1人の人格を持った、立派な大人なのだから。
「さようなら」
そう呟いて、出ようとした。
そのとき、後ろから手首を掴まれた。
それは、どこから湧いてくるんだとばかりの強い力で。
「ほんとうに、ごめんなさい」
「あのときの私は、どうかしていたの」
「だから、やり直しましょう?」
「きっと、昔みたいに仲良しに戻れるわよ」
黙って聞いていれば、都合のいいことばかりだ。
私の気持ちなんて一切考えていない。
彼氏を作り、私の生活を脅かしたあの頃と何もかわっていなかった。
「無理だから」
彼女を見た瞬間、思い切り睨みつけてやろうと思っていた。
掴まれた手を振り解いて、今更思い通りになんてさせねぇよと吐き捨ててやろうと思っていた。だけど、そうはいかなかった。
「は……?」
体を大きく捻った瞬間、目に飛び込んできた光景に思わず目を奪われる。
それは、私が彼女に魅せられた……とかではなくむしろその逆だった。
彼女は昔と変わらず、夜の女が来ていそうな派手な服を着ていながら、中身だけが歳をとっていたからだった。髪は解れ、顔は黒くくすんでいる。
そして、そんなやつれた風貌にも関わらず、相変わらずその瞳は変わっていない。
その挑戦的な瞳に、やけにイライラさせられている自分がいた。
「やり直したいの」
「本当に、悪かったと思ってる」
言葉は、反省の音韻を含んでいる。
でも、言葉の端々が女の顔をチラチラと見せてくる。
許せるわけがない。元よりそんな気なんてさらさらなかったんだけれど。
「それで、どうするつもり」
なにをいわれたところで、惑わされない。
そう、硬く心に誓うけれど、目の前の女にかき乱されそうになる。
今は憎き相手とはいえ、元は母親だ。
幼い頃は、本当に優しい理想の母親だった。
結局そうなのだ。私は、あの頃の夢を今でも見続けている。
父親がいて、優しい母がいる一家団欒の景色を見つめている。
叶わない、なんてわかりきったことだ。
だけど、心と体の調子が一致しない、なんてよくあることではないか。
私は、下を向いた。
このままでは、折角の決断が鈍ってしまいそうだったから。
この人に別れを告げる、その前に大変なことになってしまいそうだったから。
彼女は何か言いたそうに、こちらを見ている。
「なに?」
聞きたいのに、聞きたくない。
けれど、聞かないわけにはいかなかった。
結局、私は未だに彼女の顔が見れないままそれを聞いた。
「一緒に暮らしたい……またあなたと」
「きっと、楽しいから……ね?」
暫しの沈黙、そしてため息。
私は、もうなにも言えなかった。
よくもまあ、そんなことが言えたなと思った。
呆れという感情とともに、何か別の感情が湧いてきているのを感じていた。
今まで抑えてきた、劇薬に等しい感情。
「本気?」
私は、上がってくる感情を抑えようとした。
今ならまだ間に合う。
頼むから、これ以上感情をかき乱さないで________________
「そうよ、また暮らせたら楽しいと思わない?」
そんな願いも虚しく、母親は笑ってそう答えた。
*
あの日、見た雑誌にはこんなことが書いてあった。
”理想の人物の作り方”
あまりにも現実味はなく、薄気味悪い記事だった。
記事の見出しの文字も読者の想像を掻き立てようとしているのが見え見えで、
私はそれをチープな嘘くさいオカルト記事だと思った。
だけど、私は何故かその記事に興味を持った。
その記事は、記事とは名ばかりでただの小説だったが、とても面白いものだった。
特に興味をそそったのが蝋人形の話で、自分と同じく大切な人に裏切られた主人公が、彼女を使い蝋人形を作るという話だった。
彼女を殺し、蝋人形を作る最中、色んな思いをその人物にぶつけていく様には心を震えさせられたものだ。同時に深くその世界観にハマり、共感し、いつしか自分もこういうことがしたい、と思うようになっていた。
しかし、大学卒業や、就職活動の多忙も重なったことで、そんなことは思わなくなり。
そして、自らもこんな犯罪まがいの行為にセーブをかけるようになった。
そんな中で、いきなりこんなことになったのだ。
「はぁ、我慢してたんだけどな……」
久々に会った母親があんなにクズだとは思わなかった。
もしかしたら、元々クズだったのかもしれないけれど。
床に溜まった赤い液体をかき回しながら、呟く。
その液体は、赤く澄んでいて、やっと何かから解放されたような気がしていた。
そして、その後、鞄の中から花束を持ってくる。
せめてもの供養に、と、昔母が好きだった花を周囲に散らした。
母の近くを彩る、無数の赤い薔薇はあの頃の母みたいであたたかい。
私は、台所に寄りかかる母に寄り添った。
先程着せ替えた服は、どれも昔母が着ていた服で、どことなくほっとする。
私は、この瞬間をずっと待っていたんだ……と思った。
「完成、ね……」
私はおそらく、とんでもないことをしてしまったんだろう。
法の下では許されず、死んでからも許されないこと。
だけど、心の底から晴れやかな気持ちになった。
もうどうやっても取り戻せない時間を、こうして手に入れたのだから。
「ありがとう、そしてごめんね」
綺麗な薔薇に彩られた彼女は、今までで一番美しかった。
そして、私もその横で死ぬ。
穢してしまって、ごめんなさい。
心の中でそう呟きながら、引き金をひいた。
頭に押し付けた銃口は、打った反動で頭から離れたが、弾は真っ直ぐ飛んでいく。
そして、次の瞬間、私は母に凭れかかって命を落とした。
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