第一章 飛べない鳥たちは籠の中でさえずる ~プロローグ~

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第一章 飛べない鳥たちは籠の中でさえずる ~プロローグ~

    一  外はまるで煙のようなもくもくとした雨が降り続いている。  枕崎りんは定時に仕事を終え、車で二十分ほどかかる自宅へとたどり着いた。この家の主は同居中の祖母・鈴谷ハナだ。人里離れた山奥に位置しているため、道中で野生動物に遭遇することも多い。今日は誰にも会わなかったな、と考えていたとき、門の前に見知らぬ車が停められているのが見えた。りんが現在の白い軽自動車を購入する際にリストアップした一台と同じ、赤いコンパクトカーだった。  家の敷地にある屋根つきのカーポートが愛車の寝床だ。りんはそこでステレオを停止してエンジンを切り、ドアの外へ出た。見上げると空一面にうろこ雲が散りばめられている。それは群青色から橙色の見事なグラデーションに染まっており、明日も晴れることを予感させた。  やっと一日の仕事から解放されるこの瞬間、りんは必ず明日を生きるための言葉を思い浮かべるようにしていた。それは日課というより、自分自身を奮い立たせるためのおまじないのようなものだった。  来客が誰なのかはわからないが、このまま外に立っているわけにもいかない。りんはカーポートから移動して、家の玄関に手をかけた。鍵はかかっておらず、重厚な引き戸はすんなりと開いてしまう。りんよりもひと回り大きなサイズの革靴がぽつりと置かれていた。それはぴかぴかに磨きあげられ、輝いて見える。 「ただいま」  築三十年になる木造家屋は、何度かリフォームされているものの、基本的な間取りは変わっていない。一階には和室が二部屋とリビング、キッチンがあり、二階は四部屋とも和室になっていた。りんとハナはそれぞれ一階の和室で寝起きをしているため、二階はほとんど使用されていなかった。 「ハナさん?」  ハナに向かって呼びかけるものの返事はない。靴を脱いでいると、 「お願いします」  リビングのほうから男性の声が聞こえた。年齢はりんよりもかなり上だ。よほど深刻な願い事があるのだろう、切羽詰まった緊張感がこめられている。りんが何気なくリビングを見やると、ドアが開かれたままだ。  そこにいたのはいわゆる『土下座』をしている黒いスーツ姿の男性だった。頭を床につけ、両手をその横に置いている。ハナが立ち上がっているため、その対比があまりにも不自然だ。脳の情報処理が追いつかない、という事態があるとしたら、それは今だろう。ゆっくりと薬を飲みこむように事実を認識する。りんが『土下座』をする男性を見たのは二度目だった。  以前目にしたその光景が眼下いっぱいに広がり、視界を狭めていく。  りんの心臓がぎゅっ、と縮んだ。脈が早くなり、呼吸ができなくなる。冷や汗が背中を伝う前に、りんは勢い良く廊下を進んだ。  ふすまを後ろ手に閉めて、息を吸い直す。鞄をじゅうたんの上に置き、電気をつけ、ふるえる肩を抱きながら、呼吸を整える。テレビをつけ、内臓のHDDに録画されたあるドラマにカーソルを合わせた。それは、りんが何度も見返しているミステリードラマだった。 「どこかで困っている人がいたら、私は助けたい。偽善だとしても、誰かに非難されるとしても」  主人公の紙縒翼(こより・つばさ)は探偵である。 「もし君が誰かに何かを奪われたとしても、心だけは誰にも奪えない。だから、私を利用して下さい。必ず君の力になります」  少しずつ、りんが自分の心を取り戻していく。  そのドラマは『W ~ダブル~』というタイトルで、翼はりんの理想の男性だった。もう何年も前に放送されていたドラマであるため、録画は再放送時のものだ。大御所と呼ばれる有名俳優と舞台から名を馳せた新人俳優がコンビを組んだ異色の内容で、いまだにコアなファンが多い。再放送でも二桁近い視聴率を誇るモンスタードラマだった。  呼吸が元に戻るのを確認してから、りんは制服を着替え始めた。りんが勤めているのは、地元出身の会計士が経営する個人事務所だ。現在は庶務全般を任されている。ちょうどりんがジーンズに足を通したとき、リビングからハナの怒鳴り声が聞こえてきた。
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