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 もう随分長い間、私はその店の前をうろうろといったりきたりしていた。端から見れば、不審者そのものだ。だが恐らく店の人は、店の外にいる不審な動きをしている女なんか、気づいてもいないだろう。  何故なら、その店は雑誌などにも掲載されたことがある、おいしいと有名なチョコレート屋さんだからだ。更に今日はバレンタイン直前の休日。つまり、大量の女性でその店はごった返しているからだ。  私も彼にチョコレートをあげようと思って、さりげなくリサーチをした。 ――ねえ駿ちゃん、甘いもの好き? ――俺が甘いモン食わないの、知ってるだろ。フレンチトーストも、もういらないからな。  はい、終了、チーン。  開始のゴングがなることすらなく、私のバレンタインデーは終わった。  ……はずだった。 「ナツキ! いい加減に入っておいでよ!」  店の中から、赤い顔をして手招きしているのは、私をここに連れてきた張本人。クラスの友人、野上リカ(のがみりか)だ。帰国子女の彼女は、お父さんの仕事の関係とやらで、三学期になってから転校してきた。  慣れない日本で大変だろうから面倒をみてやりなさい、という担任からの依頼で、私は彼女と話すようになった。だが、私が話すこともなく、いつの間にか彼女は持ち前の明るさで、クラスに溶け込んでいった。  日本でのバレンタインデーは、女の子が好きな男の子にチョコレートを送って告白をする日だと、誰かに吹き込まれたようだ。もちろん間違ってはいないけど、何かが違うような気がしてならない。  それを知ったリカは都内のおいしい店をピックアップし、事前に味見をするという徹底ぶりで、張り切っていた。誰にあげるの、と訊いても、当日のお楽しみ、と答えてくれない。  それどころか、チョコレートを買おうかな、と私が呟いたのを聞きつけたらしく、満面の笑みで私をここに引っ張ってきた。 「ナーツーキー、ほら、ここのチョコレート、ほんとに美味しかったから! ね、好きな男の子がいるなら、チャンスだよ!」  チョコレート、チャンス、といった英単語がいちいち本場の発音で、英語が苦手な私はその都度聞き返す羽目になる。 「リカ、私は、いいよ……」 「いいって、どうして? ホワイ!?」  ほわい、の後はなにやら英語で話しているのだが、もちろん私には理解できない。ポカンとした顔でリカを見ていると、ようやくリカが気づいて、日本語に切り替えてくれた。 「好きなんでしょ、その男の子のこと」 「うん」 「付き合ってるの?」 「……ううん」  学校では、私と彼のことは秘密だ。幼なじみということも秘密なら、付き合っているということも秘密。同じクラスにいるはずなのに、彼は誰よりも遠い存在だった。  そして気づいたのだが、私とのことは、彼は仲間うちでも秘密にしているらしい。私の存在がバレると、もしかしたら危険なことに巻き込まれるかもしれないから、というのが彼の説明だった。  だからって、私と一緒にいない時は今まで通り、奔放に女遊びをしていいってわけじゃあないと思う。そう私が言うと、そうしないとバレるだろ、という一言で、あっさりと却下された。  あんな浮気モノに、大切な小遣いを使ってまで、チョコレートをやる義理なんかあるもんか。 「それなら、まさしく、チャンスでしょ、ナツキ。こういうイベントは、使わないと損だよ」 「いい。もういいの。甘いもの、嫌いって言ってたし」 「食べる食べないが問題じゃない! 気持ち、ハートよ、ナツキ! チョコレートを選んで、その人にあげるっていうハートが大事なのよ。わかる?」 「わかった、わかったよ。買ってくるから、ちょっと待ってて」 「OK、OK。ここで待ってるよ。寒いから早くして」  こうして私は、女性客でごった返す店に突入し、人の波をかきわけ、大声を上げて店員を呼び、小さなチョコレートが四つ入ったセットを購入した。  チョコレートが溶けそうなほどの熱気の店内から、ようやくリカのところに戻った時には、コートはすっかりしわくちゃになっていた。
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