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 バレンタイン当日の校内は、どことなく全体が浮ついていた。  私のカバンの中には、チョコレートが入っている。けれど、渡すべき相手は学校にきていない。そして、リカがチョコレートを渡しているところも見ていない。まさか、と私が思っていると、彼がようやくやってきた。  それまでざわざわしていた教室が、一気にしんと静まり返る。彼はそんなことにはお構いなしで、自分の席に座るとカバンの中から文庫本を取り出して、読み始めた。  先生が入ってきて、彼は文庫本を机の中にしまった。代わりに何かを取り出した。紙切れだった。それを読んで、怪訝そうに彼は私の方を見た。違う。私を見たんじゃない。リカを見たのだ。  私の背後で、リカが小さく投げキッスをする音が聞こえた。彼はそれを見て、ニヤリと笑って前を向いた。  ただでさえ、聞いていないとさっぱりわからない英語の授業だというのに、私の耳には、自分の動悸しか聞こえてこなかった。 「成功を祈ってて、ナツキ」  放課後になり、颯爽と教室を出て行くリカを、複雑な気持ちで私は見つめていた。彼はすでに教室から姿を消していた。  リカが出て行ってしばらくしてから、私はいてもたってもいられなくなり、彼がいつも煙草を吸っている屋上へと向かった。  屋上に通じる階段をそろそろ上がり、そうっとドアを開けると、金網から外を眺めている彼と、彼を見ているリカの姿が見えた。少し遠くて、声までは聞こえなかった。  リカは彼に近づき、チョコレートを差し出す。  彼はゆっくりと振り向き、チョコレートの包みとリカの顔を見比べる。  リカが何か言ったのか、彼が口を開いて話すのが見えた。  差し出されたチョコレートの包みを彼は受け取り、リカに近づく。  胸が大きくて腰が細い、モデル体型のリカの、その細い腰に彼は手を回す。  リカの手が彼の胸に置かれ、ふたりの唇が重なる。  やがて彼の顔がリカの大きな胸の谷間にうずめられた。  リカが気持ちよさそうに空を見上げた。  私はドアをそっと閉めた。どうやって家まで帰ったのか、覚えていない。  自分の部屋でぼんやりとしていると、隣から声が聞こえてきた。十歳離れている次兄の将志(まさし)が、空手の稽古を部屋でやっているのだ。  頭にきて、将兄(まさにい)の部屋のドアを荒々しく開けて怒鳴った。窓が全開になっているのに、奇妙な熱気で部屋がもわっとしていた。 「うるさいッ! 稽古するなら道場でやってよッ! バレンタインデーなんだから、女の子とデートでもしてきなさいよ! できないんだ? モテないんだ? 空手バカだからモテないんでしょ、ダッサーイ、将兄」 「なっちゃん、なんで今日はお兄にそんなに厳しいんだよ。今日くらい、お兄に優しくしてくれてもいいのに」 「うるさいからでしょッ。バカ兄!」 「なんだぁ、駿介くんにフラれでもし……」  最後まで言わせることなく、私は将兄に回し蹴りを食らわせた。 「パンツ見えるぞ」 「うるさああああああああああい!」 「お、俺じゃない、俺じゃないって、今の、お兄じゃないってば」  必死の形相で兄が窓の外を指差している。 「うるさい! ここは二階だよ、こんな時間にそんな非常識なところから声かけてくるのなんか、門限破った将兄か、駿ちゃんくらい……」 「非常識で悪かったな、おい」  兄の部屋の窓の外にある柿の木の枝に、彼がいた。 「入っていい? 将兄」 「おうおう、入れ入れ。久しぶりだなあ、駿介くん」  私の怒りの矛先が自分から彼に移ると思ったのか、将兄はにこやかに彼を招き入れた。私はぷいとそっぽを向いて、将兄の部屋を出た。自分の部屋に戻ると、壁の向こうからおろおろしている将兄の声が聞こえる。 「駿介くん、何があったんだよ。なっちゃん、今日は帰ってきてからずっとああなんだよ。俺と親父のハンバーグ食べても、まだ怒りが収まらないみたいなんだけど……。駿介くん、どうにかしてくれよ」 「ああ、あいつ、ハンバーグ好きだもんなあ……。ガキの頃から」 「成長してなくて悪かったわね! 不法侵入者は帰りなさいよッ!」  壁にパンチを叩き込み、私は怒鳴った。途端、隣の部屋は静かになった。私の部屋のドアをノックする音がしたけれど、私はそれを無視し続けた。 「奈月。明日、ちゃんと学校来いよ」  それは私の科白だよ、と呟いた。でも私は何も言わなかった。彼が階段を下りていく音がした。階下で家族に挨拶をして、出て行った音もした。 「……駿ちゃんのばか」  彼とリカのキスシーンが、目に焼きついて離れなかった。  散々なバレンタインデーだった。
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