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4.
「奈月」
彼が私の隣に来て、私を呼んだ。学校では、柴崎くん、生徒会長、と呼び合うのが私たちのルールだった。しかも、彼が私に言いつけたのだ、絶対に名前で呼ぶなよと。
なのに、今、彼は初めて学校で私のことを名前で呼んだ。
「奈月。俺になんか渡すもん、あるだろ」
「な……ないよ。何言ってんの」
「ないの?」
「ないよ。駿ちゃんにあげるものなんか、何もないよ」
横で、美由紀とリカが息を呑んでいるのが聞こえた。
「まあた、そうやって呼んだな。そういや、夕べもそうだったな。思い出したぞ」
お仕置き、と言って彼は私の額を指で弾いた。痛い、と言った私を見て、彼はニヤついた。
「ハンバーグ三つ食うなんて、どうかしてるぜ、お前の胃袋」
「う、うるさいッ! 駿ちゃんにそんなこと言う権利、ないんだから! 小さい時は私のハンバーグ、いつも食べてたくせに!」
「いっぺんだけだろォ」
「ねえ、奈月! ねえったら!」
私と彼が言いあいをしているのを、呆気に取られてみていた美由紀が、私たちの会話の間に入ってきた。
「ちょっと、どういうこと? 奈月と、柴崎くん、昔からの知り合いなの?」
しまった、と今更ながら私が答えをためらっていると、彼が笑みを浮かべて、美由紀に答えた。
「うん。こいつんちのお隣に、俺が三つの時にうちが引っ越して以来の、幼なじみ」
ぽかんと美由紀の口があいた。
「ほんとなの、奈月」
「う、うん……。黙ってて、ごめん」
「黙ってろって言ったのは、俺だから、奈月は悪くないよ。ほら、俺と仲がいいなんて知れたら、奈月の印象、悪くなるだろ? でも、もう限界」
「え?」
私と美由紀とリカが同時に言った。美由紀はなにやら、わくわくした顔で私と彼を交互に見ている。
「もう、俺、腹減って限界。こいつんちの弁当、うまいんだよねェ」
ひょい、とお弁当箱の中から、私が大事にとっておいたエビフライを摘み上げた。
「あッ! 返しなさいよッ!」
私は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、彼の手の中のエビフライを取ろうとした。彼は腕を伸ばしてエビフライを私から遠ざけて、逆の手で私の腰を引き寄せた。
「奈月。俺とエビフライと、どっちが好き?」
「エビフライ。返して!」
「即答って、まじかよ。クソッ、もういっぺん訊くぞ、奈月。俺とエビフライと、どっちが大事?」
――大切なものを守るためになりふり構わないのは、かっこ悪いことじゃ、ないんだよ
桂兄の言葉が、突然甦った。
「……う」
「どっち?」
――たまには、人前で素直になっても、いいんじゃないかな?
人前ではいつも優等生の殻をかぶっている私を知っている、桂兄の優しい言葉だった。
「う……」
「奈月、どっち?」
「駿ちゃん……」
「よくできました」
彼はいつも私に向けてくれる優しい笑みをまた浮かべて、私の唇に軽くキスをした。
「続きは、帰ってからな」
そして、手にしていたエビフライをそのまま口に入れた。彼の口の中で咀嚼されていく私の大事なエビフライを、私はただ見ていることしかできなかった。
「かっ……返してよォッ! 楽しみにしてたのにッ」
「エビフライのほうが大事みたいね」
叫んだ私の横で、美由紀が冷静に呟いていた。
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