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「奈月」  彼が私の隣に来て、私を呼んだ。学校では、柴崎くん、生徒会長、と呼び合うのが私たちのルールだった。しかも、彼が私に言いつけたのだ、絶対に名前で呼ぶなよと。  なのに、今、彼は初めて学校で私のことを名前で呼んだ。 「奈月。俺になんか渡すもん、あるだろ」 「な……ないよ。何言ってんの」 「ないの?」 「ないよ。駿ちゃんにあげるものなんか、何もないよ」  横で、美由紀とリカが息を呑んでいるのが聞こえた。 「まあた、そうやって呼んだな。そういや、夕べもそうだったな。思い出したぞ」  お仕置き、と言って彼は私の額を指で弾いた。痛い、と言った私を見て、彼はニヤついた。 「ハンバーグ三つ食うなんて、どうかしてるぜ、お前の胃袋」 「う、うるさいッ! 駿ちゃんにそんなこと言う権利、ないんだから! 小さい時は私のハンバーグ、いつも食べてたくせに!」 「いっぺんだけだろォ」 「ねえ、奈月! ねえったら!」  私と彼が言いあいをしているのを、呆気に取られてみていた美由紀が、私たちの会話の間に入ってきた。 「ちょっと、どういうこと? 奈月と、柴崎くん、昔からの知り合いなの?」  しまった、と今更ながら私が答えをためらっていると、彼が笑みを浮かべて、美由紀に答えた。 「うん。こいつんちのお隣に、俺が三つの時にうちが引っ越して以来の、幼なじみ」  ぽかんと美由紀の口があいた。 「ほんとなの、奈月」 「う、うん……。黙ってて、ごめん」 「黙ってろって言ったのは、俺だから、奈月は悪くないよ。ほら、俺と仲がいいなんて知れたら、奈月の印象、悪くなるだろ? でも、もう限界」 「え?」  私と美由紀とリカが同時に言った。美由紀はなにやら、わくわくした顔で私と彼を交互に見ている。 「もう、俺、腹減って限界。こいつんちの弁当、うまいんだよねェ」  ひょい、とお弁当箱の中から、私が大事にとっておいたエビフライを摘み上げた。 「あッ! 返しなさいよッ!」  私は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、彼の手の中のエビフライを取ろうとした。彼は腕を伸ばしてエビフライを私から遠ざけて、逆の手で私の腰を引き寄せた。 「奈月。俺とエビフライと、どっちが好き?」 「エビフライ。返して!」 「即答って、まじかよ。クソッ、もういっぺん訊くぞ、奈月。俺とエビフライと、どっちが大事?」 ――大切なものを守るためになりふり構わないのは、かっこ悪いことじゃ、ないんだよ  桂兄の言葉が、突然甦った。 「……う」 「どっち?」 ――たまには、人前で素直になっても、いいんじゃないかな?  人前ではいつも優等生の殻をかぶっている私を知っている、桂兄の優しい言葉だった。 「う……」 「奈月、どっち?」 「駿ちゃん……」 「よくできました」  彼はいつも私に向けてくれる優しい笑みをまた浮かべて、私の唇に軽くキスをした。 「続きは、帰ってからな」  そして、手にしていたエビフライをそのまま口に入れた。彼の口の中で咀嚼されていく私の大事なエビフライを、私はただ見ていることしかできなかった。 「かっ……返してよォッ! 楽しみにしてたのにッ」 「エビフライのほうが大事みたいね」  叫んだ私の横で、美由紀が冷静に呟いていた。
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