しまなみ柑橘系日記

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「気持ちいいね!」  瀬戸内の海風に乗った潮の香りが鼻腔に広がる。せとかさんが無邪気な声をあげてしまう気持ちもよくわかる。 「そうやね」  ミカン畑のさらにその上にある陽当たりの良い場所に座って、こうして海を眺めるのが私は好きだ。島の南にあるこの農園からは、南の大島や四国本土がよく見える。幼い頃は兄らと一緒に見ることが多かったが、いつしかせとかさんと並んでこの景色を眺めるようになった。  大三島の秋は暖かい。冬はもうそこまで迫っているはずなのに全然そんな実感はない。あるのは、ああ、もうすぐ収穫の時期だなあというワクワクした感じ。  私が生まれ育ったこの島は瀬戸内海の島の一つ、愛媛県今治市にある大三島。愛媛県最北にして県内最大の島である。今治と広島県尾道市を結ぶ「しまなみ海道」の真ん中あたりにあり、サイクリングの途中で訪れる人も多かったりする。  私の名は越智みかん。「落ちミカン」をイメージしがちで、小さい頃はよく笑われたものだが、名付けの際には家族の誰もそのことに思い至らなかったらしい。ミカン農家だから「みかん」と安易につけて喜んでいたというのだから呑気なものだ。 「せとかさん。わたしね、高校出たら絵の勉強したいの」 「あら、素敵じゃない。そういえばみかんちゃん、小さい頃から温州みかんとかよくスケッチしてたもんね。きっと才能があるんだ」 「うん。上手いかどうかは分かんないけど、ミカンとかこの瀬戸内の景色とか、描きたいものがいっぱいあるの」 「そっかあ。みかんちゃんもちゃんと将来のことが考えられる歳になっちゃったかあ。こんなにちっちゃかったのにね」  せとかさんが胸のあたりに手を当てながら笑った。いくらなんでもそれは小さすぎだよ、せとかさん。 「健兄、今頃何してんのかなあ。せとかさんにも全然連絡ないの?」 「まあね。だって健吾が大阪に出るとき、一応別れてるしね」  村上せとかさん。ポニーテールがとてもよく似合う痩せ型の美人。私の憧れの人でもあるせとかさんは、兄の健吾と同い年だ。せとかさんは中学の頃この島に引っ越してきたのだが、元々この島で生まれたという。健兄とは高校時代、彼氏彼女の関係で、親公認の仲だった。 「遠距離恋愛すれば良かったのに」 「簡単に言うけど、それはなかなか難しいことよ。私も健吾もよく考えた上での結論。健吾が大阪で忙しくなるのも想像出来たし、私もこっちで就職しちゃって、お互いだんだん疎遠になっていくのがなんとなく分かっちゃんだよね。その辺の微妙な関係とかまだみかんちゃんには分からないだろうけど」 「純兄はどうなの? せとかさん、ミカンの世話も好きだし、わたしから見たらお似合いなんだけど」  高校時代の健兄とせとかさんは、うちのミカン園で「ミカン畑デート」ならぬミカンの共同作業をよくやっていた。健兄が大阪へ行ってしまってからは、せとかさんも就職したこともあって、うちにはあまり来なくなった。それでも休みの日には、時々うちの畑で純兄と一緒にミカンの世話をしている。 「純也君ね……。まあ、弟みたいなもんかな。正直に言うと、特別な感情はないわ。それに純也君、好きな子いるみたいだし」 「え、そうなの? なんか残念だなあ。おとんもおかんもせとかさんのこと気に入ってるのに。健兄がみかん農家継いで、せとかさんと結婚してくれたら一番丸く収まったのにね……」 「まあ世の中そんなに単純じゃないのよ」  私はこの土地が好きだ。ミカンの樹と美しい山と海、瀬戸内の島を拝めるこの場所に生まれたことをすごく感謝している。心地よい風が頬を撫で、柔らかい陽射しが降り注ぐ愛媛の温暖な気候が大好き。他県で暮らしたことがないので実感はないが、雨が少なく晴れの日が多い愛媛県は暮らしやすさで言えば日本有数だという。  二人の兄は小さい頃からミカン作りを手伝っていて、わたしもその影響でミカン管理に加わったりもするが、力仕事は出来ないからあんまり役に立たない。出荷作業ならちょっとは出来るけど。  昔はこの地もミカン農家がもっと多かったらしいが、徐々にやめていく家が増えたという。人手不足も深刻で、収穫期には都会からバイトの学生を雇ったりもしているが、最近はそれさえも難しくなっているらしい。 「みかん、そろそろ帰ってこいって父ちゃんが」  のそのそと大きな体を揺らしながら山側の坂を自転車漕いで来たのは純兄だ。その姿からいつも熊を想像してしまい笑いそうになる。 「はーい、純兄。じゃ、わたし帰るね。せとかさん、また」 「うん、またね」  私はせとかさんに手を振りながら純兄とともに帰途につく。せとかさんも軽く手を振ったが、純兄は少し黙礼をしたたけだった。純兄は高校生にしては体はデカいが、基本的に寡黙で大人しい性格だ。健兄が愛想のいいのとは対照的だが、私はどっちの兄も大好きだ。 「純兄、もしかしてまた自転車いじった?」 「ああ」  機械好きな純兄は自分で自転車を改造してしまう。本当はバイクに乗りたいらしいのだが、今は自転車で我慢している。純兄は愛車を押しながら、徒歩の私にペースを合わせてくれた。 「純兄て、好きな人おるん?」 「知らん」 「知らんて何ねん。自分のことやろ」 「みかんに言う必要あらへん」  それっきり純兄は私の問いに答えてはくれなかった。もともと寡黙な兄だから、これは想定内ではあるけれど。まあ、純兄の顔を見れば分かる。きっと好きなひとがいる。  両脇がミカン畑の下り坂を降り切ったところがミカンの選果出荷場だ。緑の屋根の平屋の建物のその奥に瓦屋根が少しだけ見える。それが私や純兄が暮らしている家だ。外観はまだまだ立派だが、中に入るとやや古びた感じがする。 「おお、二人とも帰ってきたか」  家の玄関でばったり父と出会った。 「わたし、もう中三やから一人で帰れるけん、呼びになんて来んでええよ」  わたしは少し口を尖らせた。 「まだまだ子供じゃが」  父も言葉数の少ない人だ。ボソッと喋るから何を言ってるのかわかりづらいときもある。おしゃべりな母とは対照的だが、それでこそバランスのとれた夫婦なのだろう。私から見ても父と母の仲は良い。 「来月になったら忙しくなるけんねえ。みかんも今のうちに勉強しとき」  父と母、純兄と私の四人で囲む食卓では、いつも母と私の会話が中心だ。母の言いたいのは要するに来月は勉強よりミカンの収穫や出荷を手伝えってことだ。こちらの都合なんてお構いなしなのは母らしいが、今回ばかりはちょっとね。私、これでも受験生なんやけど。 「そんなに人手が足りんの?」 「みかんも毎年見てるから知っとるやろ。ここんとこ、なかなか人が集まらんようなってなあ」 「時給上げるとか?」  母は軽く私を睨むように言った。 「うちにそんな余裕あると思うちょる?」  私は黙って首をゆっくり振る。つまりそういうことだ。結局、家族でなんとかしないといけないのだ。 「ああ、こんなとき健吾がいたらよかったのにねえ……」 「あいつのことは言うな。勝手に家飛び出した馬鹿もんが」 「勝手じゃないわよ。ちゃんと大阪の大学行きたいって言うちょったし。ミカン農家継ぐっちゅうのは勝手にあたしらが期待しとっただけのことよ」  私も母の主張に賛成だ。健兄はちゃんと宣言して進学したんだ。それに馬鹿もんどころか、子供の頃からめっちゃ秀才だったらしい。 「まあ、純也もみかんもいるからなんとかなるでしょ」  とはいえ、母の気楽さも考えものである。少子化、高齢化が進む日本の地方はどこでもたいてい過疎化に悩まされている。ここ大三島も例外ではない。昔はミカン農家も多かったのだけれど、やめたところも多く、耕作放棄地がたくさんある。後継者難と経営悪化が主な理由だ。日本全体でミカンの消費量が減っているのも大きい。 「母ちゃん」  純兄が珍しく食事時に喋ろうとしたので、母は少し驚いた表情を見せた。 「何ねえ?」  「あ、いや、なんでもない……」  純兄は大きな体を子猫のように丸くした。 「なんだい、おかしな子だねえ。まあ、それにしてもうちは働き盛りの子が二人もおるんやから助かるわ。これが幼な子二人やったら今頃泡吹いとるわ」 「なんだかなあ……」  私にも幼な子だった時代があるんですけど。母に聞こえないようにボソッとつぶやいた私の言葉は、母の笑い声にかき消された。  そして秋も終わりミカンの収穫期を迎えた。ここからがミカン農家の繁忙期となる。収穫、選果、出荷と目の回るほどの忙しさだ。猫の手も借りたいそんな時に、父が倒れた。緊急入院ということになったが、検査の結果、脳に腫瘍が発見された。まだ小さく完治の可能性が大ということで一安心したが、これでしばらく父は仕事に復帰出来ない。 「困ったわねえ……」  母が言うといまいち切実感がないが、実際のところ深刻な問題だ。親しい野菜農家さんなどに応援を頼んだりはしているが、最大の働き手の父がいなければとても回らない。私も高校二年の純兄も学校があるから、休みの日以外は手伝えないし……。  母は休まず畑に出掛けていたが、ある日「痛てて」と後ろ手に立ち上がりかけて、また座り込んだ。 「腰を痛めたみたいだね」 「おかん、無理しすぎじゃない?」  あれだけ陽気だった母も今は少し元気がない。 「あたしも歳だね……。まあ、しょうがないわ。ミカンが収穫出来なくても、死ぬわけでもないしね……」  すっかり諦め顔の母に私がかける言葉はなかった。私はただの中学生に過ぎないのだ。どうすることもできない。 「母ちゃん、今日は休んでな。俺が二人分頑張るけん」  いつのまにか近くにきていた純兄が、珍しく男らしい頼りがいのある声を出した。それだけ差し迫った状況だってことだ。 「今日は日曜日だから私もやれるけんね」  仕方ない。今日は純兄に倣って、精一杯頑張ってみるか。私もそんな気にならざるを得ない。  玄関の戸に背を向けて母と話していた私の後ろで、戸が開く音とともに懐かしい声がした。 「ただいま」  振り返るとそこには懐かしい兄の姿があった。 「健兄!」 「おお、みかん。しばらく会わないうちに大きくなったな」 「八か月会ってないだけだからそんなに変わらへんよ……って、それよりこの人たちは!?」  健兄の後ろで、五人の若者が手持ち無沙汰な様子で佇んでいる。 「ああ、こいつらは俺の友達だ。連れてきた」 「連れてきたって……」 「これだけ揃ってりゃ収穫も問題ないだろ」  私も母も純兄も絶句するしかなかった……。  とりあえず全員家に上がってもらって、お茶を飲みながら、あらためて兄の話を聞くことにした。兄の話はこうだ。  兄は大学で経済の勉強をしていたのだが、それ以外にもバイトやNGOの活動にも精力的に参加して交流範囲を広げていたらしい。そして兄は密かに父と連絡を取り合っていたという。 将来的に地域のミカン農家の経営を立て直す算段を二人で描いていたと聞いてびっくりした。  父が倒れたのを知って、兄は新しく出来た友人達に相談した。すると、まだ大学は休み前で学内では人材が集まらなかったが、フリーターの中には喜んで大三島に行くという者も現れた。引きこもり支援をしているNGOの人からは「この子を連れて行って欲しい」と数人推薦された。そんな連中をかき集めてバイトとして連れてきたのだ。 「ああ、こいつらの泊まり先なら心配しなくていいよ。親父が知り合いの農家に頼んでくれたらしい。うちにも二人ぐらいは泊めれるだろ?」  父と健兄の根回しの良さにわたしは感心した。昔から要領の良かった健兄はともかく、父がそこまで面倒見がいいとは思わなかった。 「あの人、あたしにも何も話してくれんかったのにねえ……」  つぶやいた母を横目で見ながら、私はちょっと心配になり、健兄の耳を引っ張り、耳元で囁いた。 「うちに、こんなたくさんのバイト代出す金なんてあると思うちょる?」 「心配すんなて。農業体験も兼ねてっちゅうことで、バイト代は抑えることで納得してもらっとるし、柑橘類食べ放題にしたから。それに俺にだって少々蓄えがあるしな」  入学以来、散財するどころか、ネットを利用して一儲けしたという。まったく健兄には恐れ入る。  今日は母がご馳走を作って出すと張り切ったので、私は兄やその友人たちに混ざってワイワイガヤガヤやっていた。 「妹さん、みかんちゃんていうの? なかなかめんこいがな」  めんこいって……どこの言葉やん!  「膨れたところなんか、まさにミカンみたいやろ」  健兄が私をダシにして笑いをとると、即座にドッと笑い声があがる。どんな人たちかと不安もあったが、どうやら兄は良い人たちに囲まれているようだ。  「健吾……」  その声で、皆の目が玄関で立ち尽くしている人影に一斉に注がれる。 「せとかさん」  わたしは驚いて思わず声を出してしまったが、本当は先に口を開くべき人がいる。 「せとか……久しぶりだな」  言葉は少なかったが、それだけで今も二人の間に固い絆があることが私には分かった。 「何、何? もしかして健吾の彼女? めっちゃ別嬪やん!」  さっきわたしをめんこいと言った健兄の仲間が囃し立てる。 「こりゃ、誘っても健吾が全然女遊びに興味示さんのも納得やで」  せとかさんは、健兄に駆け寄ると、人目も憚らず健兄の胸に体を預けた。抱き寄せる健兄。やっぱり二人は今でも恋人同士なんだ。 「母ちゃん」  せとかさんと手を繋いだまま、健兄が母のほうを向いた。 「俺、将来、この農園継ぐから。父ちゃんから経営引き継いでもっと大きくしてみせる。そのために今勉強しとるんや」  健兄が初めて跡を継ぐことを宣言した。健兄がものすごく大きく見えた。母を見ると、うっすらと目に涙を浮かべている。 「そんでせとかと結婚する。うちの嫁や」  まさかの結婚宣言。なんと、せとかさんも隣で微笑んだままだ。もしかして打ち合わせ済み? えっ、いつプロポーズとかしたの!? わたしの頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。 「そう……ありがとね」  母は驚き、そして嬉しすぎてもう何も言葉にできないらしい。無理もない。わたしだって開いた口がふさがらないのだから。しかしわたしは、健兄の次に続く言葉にさらに驚くことになる。 「純也。お前、好きにしていいぞ。本当は機械工学に興味あるんだろ?」  純兄は、健兄の顔を見つめて目を開いた。 「大学行くなり、専門学校に進むなり、そろそろ考える頃だろ。それにみかん」  わたしは急に自分の名前を呼ばれたので、ビクッとした。 「お前も絵描きたいんだよな。二人とも家のことは心配しないで好きにやりな」  健兄は私の気持ちを知っていた。そうか、せとかさんから……。せとかさんは全然連絡とってないって言ってたけど、そんなわけはない。あれは嘘だったんだ。わたしの知らない水面下でいろいろ進んでた。  私はそこに思い至って、自然と口元が緩んだ。なんだかワクワクする。私が描きたかったのはこんな未来なのかも。収穫を待つ柑橘たちの香りと、みんなの笑顔でわたしの心は満たされた。これから大三島の冬が始まる……。 (完)
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