7.日曜日

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7.日曜日

奇妙な金持ち坊ちゃんストーカー、田中享の正体がわかった翌日、いつもの路線で客待ちをするのをやめ、椿は空車のランプを掲げて街を流していた。 享はやっかいで不思議な男だったのだが、ひとつ助かったのは、腹立ち紛れに椿のセクシャルを会社に暴露するような人間ではなかったということだった。 本当は昨夜、憂さ晴らしに二丁目に繰り出す予定だった。ところが、いざ仕事を終えても全く足がそちらに向かわず、結局どこにも寄らずに家に帰った。 何とも言えないもやもやに苛まれ、よく眠れない夜を過ごした椿は、寝不足で仕事に向かった。 それでも仕事を始めれば、いつもどおりに淡々と車を走らせ、夕方にはそのことを考える時間も少なくなっていた。 そろそろ会社に戻る頃だ、と思った矢先、配車センターからの通知が入った。 昨今はアプリ配車を利用している客が多いが、昔ながらの電話でタクシーを呼ぶ客も一定数いるのだ。 「はい、352号」 「○○町中通り二丁目、寿ビルの前、タナカ様です」 (田中・・・?) 「何分くらいで行けそうですか」 「・・・十分もあれば行けます」 「ではお願いします」 「了解しました」 田中という名字は珍しくない。「田中亨」かどうかなど、いちいち気にしていたら仕事にならない。 椿はアクセルを踏み込み、客の待つ住所に向かった。 指定された場所はさほど遠くなかった。中通りの細いビルの前で待っていると配車センターのオペレーターは言っていた。 人通りの少ないその道を進んでいくと、確かにビルの前に男性が立っていた。グレーのスーツ、手には大きな紙袋。後ろ姿からして、二十代。 車が近づいてゆくほどにその客の姿がはっきりしてゆき、ブレーキを踏み込んだ時には、椿の口は勝手につぶやいていた。 「嘘だろ・・・・・・」 客の前に車を停めた椿は、大きなため息を吐いた。 配車されたのだからどうしようもない。タナカ、という名前だけで判断出来ないのは当然だ。おそらく配車センターに、椿の名前か、352号車で、と注文したのだろう。 それにしても往生際が悪過ぎる。 椿は後部座席のドアを開けた。 「・・・お待たせしました」 「・・・・・・」 享は深刻な顔をしていた。椿はちらりと享を見たが、すぐに前に向き直った。 享の足がマットに乗ったのを確認して、自動ドアを閉める。 「どちらまで」 「・・・・・・このあたりをしばらく回ってください」 「・・・あんたね・・・」 「お金は払います。営業区域内だったらかまわないでしょう?」 「・・・・・・かしこまりました」 苛つきを抑えて、椿はアクセルを踏んだ。いつもより乱暴に踏み込んでしまったので、車が急発進した。 「椿さん」 「・・・はい」 「今日は、聞いて貰いたいことがあります」 「・・・・・・」 「これを聞いてくれたら、もう二度と椿さんの前に姿を現しません。聞いてくれますか」 「・・・・・・わかりました」 「ありがとうございます」 ミラー越しに、享は寂しげな笑顔を見せた。 少し心が痛んだが、これで金輪際会わずに済むのなら話ぐらいは聞いてやってもいい、と椿は覚悟を決めた。 「話というのは」 「一度会っているとお話ししましたよね」 「はい」 「この間は覚えていないですよね、と言いましたが・・・覚えていなくて当然なんです」 「・・・どういうことですか」 「これを見ていただけますか」 ちょうどよく赤信号で減速し、椿は差し出された携帯電話を受け取った。 画面には、黒縁の眼鏡をかけた、100キロはあるだろうと思われる巨漢の青年が写っていた。 「・・・これは?」 「僕です。三年前の」 「・・・え?」 「この頃に会ってるんです。椿さんに」 後部座席に座っている享は標準体型より少し細めで、写真の青年とは似ても似つかない。ただ、よくよく見ると丸く大きな目は確かに本人だった。 信号が赤から青に変わり、タクシーはゆっくり走り出した。 享は、初めて椿に会ったときのことを、ぽつりぽつりと話し始めた。 享が生まれて初めて新宿二丁目に足を踏み入れた のは三年前。気に入ったゲイバーの店子に肩入れしたものの、全く相手にされなかったという。 「好きだった店子があまり性格が良くなくて・・・・・・まあ、もてあそばれたという感じなんですけど」 「・・・・・・」 「僕がうっとおしかったんでしょうね。気がついたら、あることないこと言って回られてて」 「・・・・・・何を言われたんですか」 「お金を盗ったとか、友達の彼氏を寝盗ったとかあることないこと言われました。・・・全然モテなかったのに」 「それで?」 「もう何もかも嫌になってその子と大喧嘩して、強い酒で酔いつぶれて路地に倒れてたんです。汚い話ですが、失禁しちゃってて・・・でも誰も助けてくれなくて」 そこまで聞いて、ふと椿はある記憶が蘇った。 「そのとき、たまたま通りかかった人が、助けてくれたんです。・・・・・・覚えてますか」 「・・・・・・俺が?」 「はい。椿さんに助けてもらいました」 記憶がおぼろげなのは、椿も酔っていたから。 路地で泥酔している酔っぱらいなど、繁華街では珍しくない。だいたいそういう場合連れがいたりするものだが、そのとき路地で丸まっていた青年は、たった一人で泣きじゃくっていた。 贅肉がたっぷりついた身体、土がついて薄汚れてしまっている服、何があったのか、濡れてびしょびしょになった髪の毛。 椿はその姿を見て、感じることがあった。 「あのとき掛けてくれたブルゾン、今日、持ってきました」 享は持って来た紙袋から、黒のブルゾンを取り出した。 それは確かに、二年前、路地でうずくまっていた男に椿が自ら放り投げたものだった。 「僕、子供のころ病気がちだったのが原因で、ずっと太っていて、いじめられてばかりだったんです。それでも二丁目に行って初めて、僕のような者でも受け入れてもらえて嬉しかったのに・・・やっぱりだめなのかなって・・・」 いわゆる○○専と言われるもので、ふくよかな者でもかなりの年輩者でも、需要があるのが新宿二丁目。亨は運が悪かったのだろう。 ウインカーを上げて、タクシーは左折した。どこに向かうでもなく、出発地から3キロほどの場所をぐるぐる回っている。 享は椿のブルゾンを手に、こう尋ねた。 「あのとき、どうして僕にこれを・・・?」 それには、ある大きな理由があった。椿が逡巡していると、享が悲しそうに笑った。 「すみません、そんな理由、もう忘れましたよね」 「・・・・・・覚えてますよ」 「ほんとですか?!」 「・・・・・・あの日は寒かったし」 椿が亨を見かけた夜は、小雨が降っていた。雨の中ひたすら泣きじゃくって、いつまでたっても立ち上がる気配のない享に、椿は若き日の自分を重ねた。 椿は当時の気持ちを思い出しながら、言った。 「何となく、気持ちがわかったからです」 「え・・・・・・?」 「似たような経験がありましたから」 「椿さんが?」 椿は背も高く細身。顔の造作は若干中性的ではあるが、整っている。 ゲイだと明かさなければ普通に、女性が途切れることがないだろうと同僚にも言われる。 しかしその顔には秘密がある。理由を話すべきかどうか悩んで、椿はブレーキをゆっくり踏み込んだ。減速したタクシーは、車通りの少ない道の路肩に静かに停止した。 椿はハザードを焚いてサイドブレーキを引いた。 数十秒を置いて、後部座席から聞こえてきた享の声は情けなく弱々しかった。初めてタクシーに乗車してきた時とは、まるで別人だった。 「椿さんにもう一度会いたくて、僕は死ぬ気で外見を変えました。もしかして・・・振り向いてくれるかもしれないっていう、淡い期待だけで」 「・・・・・・前にも言いましたけど、だったら正直に言ってくださったほうが良かった。こんなやり方じゃ、誰だって不審がりますよ」 「そう・・・ですよね・・・・・・あの、僕、誰ともおつき合いをしたことがないんです。ずっと片思いで、男性とも女性とも・・・だから、っていうか、近づくやり方がわからなくて」 「・・・・・・」 「悪いことをしたと思ってます。なので、これをお返しして気持ちを伝えたら、もう消えます」 「田中さん」 椿は今の今まで、話すつもりはなかった。 が、これは絆される、というのだ。あんなに腹が立っていたのに、昔のエピソードひとつで気持ちが変わるとは。 椿はワイシャツの袖口のボタンをはずして、肘までまくり上げた。 「見えますか」 椿は後部座席に腕が見えるように持ち上げた。 椿の手首の少し上から肘のあたりまでには、赤い痣が広がっていた。 享は目を大きく見開いた。声は出ないようだった。 「このような痣が、反対の腕にも、足にも、背中にもあります」 「椿さん・・・」 「顔にもありましたが、美容外科で手術しました。十八の頃に」 顔の右半分を覆っていた赤い痣は、椿の学生生活を台無しにした。 陰口を叩かれる、もしくは汚い言葉をぶつけられ続ける十二年間は、言葉の通り地獄だった。友人も出来なかった。高校に入り、アルバイトをして費用を貯め、卒業と同時に手術をした。 顔の造作は悪くなかったのだが、痣を消すのと同時に、整形もした。 何もかも変えて、人生をやり直したかった。 「これのせいで、学生の頃はひどい目に遭いましたよ。汚いって言われてね・・・水をかけられたり、石を投げられたりしました。・・・だから田中さんの様子を人ごととは思えなかったんでしょうね。正直、記憶はおぼろげなんですが」 「・・・・・・そうだったんですか」 理不尽な仕打ちをされた人間が、似た境遇にいる者に出会ったとき、取る方法はふたつと言われている。 助けるか、同じ目に逢わせるか。 椿は前者だった。 助けると言っても、ただ服を放り投げただけ。失禁してしまった染みを隠せるほどの布でもない。それでも、見て見ぬ振りは出来なかった。状況は違えど、誰にも振り向いてもらえない亨が、かつての自分のようだったから。 そして享は、その時のことを忘れず、もう一度椿に逢うためだけに必死に身体を変え、タクシーに乗った。方法が間違っていたとしても、それが彼の精一杯だった。 皮肉な巡り合わせのふたりと言える。 椿は言った。 「温泉にも行けないし、夏も長袖しか着れませんが、今は普通に暮らせています。まあ、だからどうしたって話ですけどね」 「・・・椿さんは、僕なんかより大変な経験をされてるんですね」 「それは人それぞれだと思いますよ。どっちが辛いなんてのは、当事者の問題ですから。・・・田中さんも大変だったんでしょう」 「でも僕はそのおかげで椿さんに出会えました」 「・・・・・・」 「お話出来て良かったです。これ以上、ご迷惑おかけするつもりはありません。乗せて貰った場所に降ろしていただけますか」 「・・・わかりました」 椿はハザードを解除した。 Uターンして、タクシーは元来た道を走り始めた。 享も椿も、もう何も言わなかった。 「あ」 ふと椿が言った。 「え?」 「田中さん、少し回り道をしてもかまいませんか」 「は・・・はい、大丈夫ですが・・・」 享の許可を取ると、椿はウインカーを上げて脇道に入った。住宅街の中を通る細い道を抜けていくと、商店街の並ぶ通りに出た。 そこを十分ほど進むと、あの「ショパン」が見えて来る。 椿は前を見たまま享に言った。 「今度、新宿二丁目にも出店されるんでしょう」 「あ、はい、そうなんです」 一言ずつ話して、また車内は静まりかえった。 「ショパン」の前に横付けして、椿はサイドブレーキを引いた。 「田中さん、ちょっと待っててください」 「え、あの?」 椿は車を降りて、「ショパン」に入って行った。 五分ほどで小さな紙袋を持って帰って来た椿は、無言で運転席に乗り込んだ。 「椿さん・・・」 「お待たせしました」 椿はアクセルを踏み込んだ。 「今日はわがままを聞いていただきありがとうございました」 「・・・・・・」 享は一万円札を椿のブルゾンに乗せて差し出した。 椿はそれをじっと見つめ、ぼそりとつぶやいた。 「ブルゾン」 「え?」 「返さなくていいです」 「で・・・でも・・・」 「良かったら着てください」 「本当に・・・いいんですか」 「ええ。あと、これ」 椿は「ショパン」で買ってきた紙袋を享の手に乗せた。 享は小首を傾げた。 「カレーパン、本当に旨かったです。オーナーだから何度も食べてるでしょうけど・・・ちょうど昼飯の時間ですから」 「椿さん・・・」 「日本一のカレーパン、すごいじゃないですか。二丁目の店、オープンしたらちょくちょく買いにいきますよ」 享の目に、じわりと涙が滲んだ。 泣きながら笑って、享はありがとうございます、と言った。 タクシーを降りた享は胸に椿のブルゾンを抱いて、深く頭を下げた。 お坊ちゃんで世間知らず、ストーカー気質のパン屋。 椿は軽く会釈して、アクセルを踏み込んだ。 享の姿が小さくなってゆき、ルームミラーでも見えなくなった時、後部座席でがさっと音がした。 赤信号で振り返ると、そこには白い椿の花束が置かれていた。 「・・・気障(きざ)な坊ちゃんだな・・・」 椿は花束を手に取り、一本の椿を抜き取った。 そしてそれをルームミラーに器用にくくりつけると、空車のランプを灯した。 アクセルを踏み込み、椿のタクシーはゆっくりと走り出した。           完
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