Just me-far away

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彼女が消えた。 俺の目の前から姿を消してしまってから、もうどれくらい経っただろう。俺は、その場から動けずにいた。この場から、去ってしまうのが怖かった。取り返しのつかない現実を受け入れられるほど、俺の心に余裕はなかった。いつかの日も、こんな思いをしたことがあった。薄れた記憶を呼び起こす。 「なんで怒ってるの…?」 彼女からそう言われたのは、俺が彼女に無愛想にしていたからだ。もとから愛想がいい方ではないけど、この日はやけに冷たく接していたのだろう。俺の態度の悪さに彼女は全く関与していない。でもこの時の俺は、彼女の優しい心配が、俺を嘲笑う声に聞こえていた。彼女がどれだけ傷ついていたのか、今となっては分かり得ない。 「別に…」 心配してくれてると分かっているはずなのに、苛立ちは増幅する一方だった。 「なんかしちゃった?」 彼女は優しすぎるから、いつもこうだ。それは、誰にでもそうだった。誰かが困っていたら、自分のせいかもと疑い、誰かが悲しんでいたら、自分のせいだと責めて、誰かが怒っていたら、自分のせいだと謝る。全て自分が悪いのではないかという考えから入っている。この優しさは、きっとほとんどの人の心に届かない。彼女の細やかな気遣いに気づけるのは、わずか一部の人間だけだ。ほとんどの人は、自分が一番可愛いから。自分さえ良ければ、それでいいのだから。 「別になんもないけど。…逆に何?怒ってないのに怒ってる?って聞かれると気分悪いんだけど。」 ここまで冷たく当たったのは、これが最初で最後だったかもしれない。彼女もきっと、びっくりしただろう。俺自身も、こんなに酷いことを易々と言ってしまう自分が嫌だった。しかも相手は大切にしたい人なのに。全然大切にできていなかった。寧ろ、俺が彼女を傷つけていたんだ。今思えば、これほど一方的に理不尽にキレられて、俺のことを嫌いにならなかった彼女は、本当に心が優しいんだと思う。こんな酷い言葉をかけた俺に、彼女は優しく包み込むような言葉をくれた。 「そっか…。ごめんね…!!しつこく言っちゃって、そりゃ気分悪くなるよね…。あっ、でも私が何かしちゃってたなら、本当に言ってね?ちゃんと反省して、直すようにするから!!…ごめんね。」 彼女は、何度も俺に謝った。雰囲気が悪くならないように、重く謝らずに声色を明るくして謝っていた。こんなところにまで気を使うような彼女は、こんな腐った世界では息苦しいだろう。 謝らなきゃいけないのは、彼女じゃない。 俺が、謝らなきゃいけないのに。 ちゃんとごめんって言葉にしなきゃいけないのに。彼女は謝ってばかりで。 結局俺は、彼女に謝らなかった。 さっきはごめんねと言えばいいのに、その日は、その後彼女と話すことはなかった。 でも、彼女が俺を気にしていることは分かった。その後会話さえしなかったけど、彼女からの視線が分かったんだ。心配してる優しい視線が、俺の方に向いていた。 俺は、彼女を横目に学校を後にした。 それから彼女は、俺に何も話さなくなった。大切なことは何も。 きっと、いや、絶対と言えるかもしれない。彼女が話さなくなったのは、俺のせいだ。俺が、彼女に言わせない感覚をつくってしまった。俺は1度だけ、彼女にその事を言った。思っていることを、不安なことを、全部俺に言って欲しいと。でも彼女は、そんな俺の願いに答えることはなかった。 こんな記憶さえ、俺にとってはかけがえのないものだったのに。いつしか俺は、彼女との記憶が少しずつ薄れていくのに、気づけずにいた。 彼女が騎士になってから、俺は何もしなかった。彼女とは全くもって反対の生活をしていたのかもしれない。彼女が、苦しみに耐えて戦う中、俺はくだらない日々を過ごしていたのだから。俺が過ごした彼女のいないその日々は、俺にとってあってもなくてもいいものだった。彼女が消えたあの日から、彼女を想う気持ちのやり場がなくなった。それが募った果てには、無の世界が広がっていた。 初めて彼女の騎士姿を見たのは、彼女と別れてから半年ほど経った日だった。彼女が歩いていた。それは、新しく騎士となった者たちが、人々の囲いの中を歩く凱旋のようなものだった。これから英雄になる者たちと、既に功績を残している騎士たちが、胸を張って歩いていた。その姿が、俺にはどうしようもなくかっこよく見えたんだ。俺とは天と地ほどの差があるように感じた。彼女の目には、俺が映っていなかった。ただ一方的に、俺が彼女を見つめているだけだったんだ。騎士の制服を着て歩く彼女の視線の先には、彼女が守ろうとしている人々と、世界の未来があった。彼女はきっと、人並み以上の目標と決心を胸に、この場を歩いているんだろうと思った。覚悟を決めたその目から、それがひしひしと伝わってきたのだ。 そして数時間前にも、彼女に会った。 これが、騎士になった彼女との二回目の再開だった。初めて見た時の、初々しい騎士の姿とは変わって、彼女は凛々しい騎士の姿になっていた。彼女が過ごした騎士としての時間も、彼女が得た経験も、俺は知らない。だけど彼女はきっと、たくさんの仲間の死を見てきて、たくさんの悲しみを乗り越えて、未だ消化しきれない思いを抱え、命懸けで戦ってきたのだろうというのが、俺には分かった。 彼女の表情には、人々に向けられる笑顔の裏に、世界に絶望した哀しみを感じた。それが仲間の死によるものなのか、自分の不甲斐なさからなのか、はたまた腐った世界を知ったからなのかは分からない。俺は、そんな彼女にかける言葉が見当たらなかった。 この数時間前の出会いに幕を閉じて、動かなくなっていた足を動かした。無理矢理にもその場を去った俺の目には、涙が溜まっていた。俺は近くのコンビニに寄り、いつも決まって買っていた飲み物を手にレジに向かった。俺はこの飲み物を好きなわけではない。好きなのは、彼女だった。彼女が決まって買うこの飲み物は、俺には少し、甘かった。 袋ももらわずにコンビニを出た俺は、早速開けたペットボトルの飲み物を、まるで三日間水を取っていなかった人間のように飲んだ。勢いよく、忘れたい過去を振り切るように。甘い味が口の中に広がる。 気づけば汗が滲んでいた俺は、ひたすらに走り出した。涙も汗も、全部振り切って。どこへ行く当てもなく、走り続けた。 とはいえ、俺に底なしの体力があるわけもなく、少しすれば疲れて歩き始めた。 現実はこんなものだ。漫画の主人公のような人生は、普通じゃ味わえない。そんな出来上がった展開も、出来上がった人格も、覚醒する能力も、俺は持ち合わせていなかった。 いつだって憧れる漫画の主人公は、みんなを助けるヒーローだ。みんな最後には、立派なヒーローになって終わるんだ。でも、きっと俺の終わりは立派じゃない。ヒーローにもなれずに終わってしまう。そんな上手くいくわけないんだ。自分の思い通りの人生なんて、一体どれだけの人が生きられるんだ。 ボヤッとそんなことを考えながら、ただ真っ直ぐに歩いた先にたどり着いたのは、通っていた中学だった。思い出の詰まった校舎を見るのは、久しぶりだった。一人で見る中学は、あの頃に見ていたものとは違うように見えた。懐かしむ気持ちの奥に、悲しみが込み上げてきた。辺りは日が暮れ始めていて、本当だったら、家に帰らないといけない時間だった。でも何故か、この時の俺の頭の中には 、帰ろうという考えがなかった。何かに導かれるように、俺はまた走り出した。 「…はぁ、はぁっ…っ、」 息を切らしてたどり着いた先にいたのは、空を見上げる凪だった。 まだ俺に気づいていない凪を、俺は少し離れて見つめていた。彼女の横顔は、相変わらず綺麗で、月明かりに照らされる瞳が幻想的だった。気づけば月が顔を出す時間になっていたのだ。こんな時間に、たった一人でこの場所にいる彼女は、一体何があったのだろうか。俺には、ただここにいるようには思えなかった。 彼女の視界の外から、俺はゆっくりと足を進めた。ゆっくり、ゆっくりと。そして、彼女の目の前へ止まる。驚いた顔をする彼女の目には、俺が映っていた。 「…」 俺は何も言わずに、ただ彼女の前に立つ。 彼女を静かに見つめるこの時間が、愛おしかった。 「…なんで、」 彼女は弱々しい声を出した。 今にも消えそうな彼女の声に、少しの違和感を感じたが、俺はその違和感を信じることが出来なかった。 「騎士の仕事は…?」 純粋に疑問に感じたことを、俺は口にした。 そうだ、彼女は今頃遠い街にいるはずだったんだ。思わぬ再会が終わり、彼女は仕事に戻ったはずだった。 俺は何も知らない。この世界に起こっていることも。彼女たちが戦っている敵のことも。俺たちを守ってくれている騎士たちのことも。彼女の苦しみも。俺は何一つ、知らないままだ。 「次の任務に向けて、一時休養してるの。もうすぐまた帰るけど、あと少しはこっちにいるかな…」 一時休養。その言葉が頭にとどまった。 俺は本当に何も知らない奴だ。でも、その言葉の意味だけは、俺にも分かった気がした。 休養を任務前に取らなければいけないほどの大きな任務であることを指している。 一度故郷に戻った方がいいほどの危険な任務であることを指している。 俺にはそう思えた。 そんな任務を抱えた彼女を前にしても、俺は何もしてあげることが出来ない。気の利く言葉も、為になる経験や知識を披露することも、他人事な応援をすることも。 結局いつも、彼女にしてあげることが出来ずに終わる。これは彼女のせいでは無い。 全部、俺の責任だ。 「次の任務って?」 嫌な予感がしたんだ。 もう本当に、彼女に会えなくなってしまう気がした。彼女の言う『次の任務』の内容が、きっと簡単なものじゃないと、俺は思った。その任務に彼女は参加する。 聞いてしまった。ここで、聞いてしまいたかった。次の任務が一体なんなのか。 俺は、彼女の代わりに騎士として戦えるわけではない。寧ろ、彼女と比べものにならないほど、俺は戦えないだろう。それでも。何も出来なくても。俺は、彼女が立ち向かおうとしている壁を、知りたかった。 「えっとね…遠征だよ。新人から経験者まで、幅広い層の大勢の人が参加する強化遠征。私もそれに参加することになったの。」 きっと彼女は嘘をついている。 彼女の嘘に、俺は気づかない振りをした。 実際、俺は騎士の仕組みを何一つ理解していない。だから、本当にこれが嘘なのかも分からない。彼女はそれを分かっていて、嘘をついたのだろう。 彼女は嘘をつく時、俺の目をじっと見つめる。彼女は、いつも話す時は目を見ない。ちらちら見ることはあるけど、ほとんどは下を向いて話している。人見知りが染み付いていて、人の目を見て話すのが苦手なんだとか。誰に対してもそうだったから、俺は特に気にしていなかった。でも、彼女は嘘をつく時だけ、やけに目を見つめて話してくる。 そしてさっきも、彼女は俺の目を見ていた。 「へぇ、そっか…。」 俺は静かに声を発した。 彼女にこの気持ちを悟られないように。 わざと冷たく、突き放すように。 「…じゃあね。」 じゃあねと言うのは、いつも彼女からだった。一緒に遊んだ時も、別れる時も、別れを告げるのは彼女からだった。 でも彼女はいつも、暖かく優しい別れを告げてくれた。まるで、当たり前のように次会うことが約束されるみたいに。俺は、そんな彼女の言葉が好きだった。だけど、別れる時のじゃあねは、次がない言葉だった。 そして今のも、次がない言葉のように感じた。俺は、この言葉に返す言葉が無かった。 「うん。遠征…頑張れよ」 なんだか、昔に戻ったようだった。この一瞬だけ、俺が言葉を紡ぐ一瞬だけ。昔の二人に戻ったようだった。「頑張れよ」だなんて、別れる前でさえあまり言わなかった。俺が彼女に頑張れと言ったのは、付き合っている時のたった数回。何故か恥ずかしさを覚えていたんだ。今思えば、もっと言ってあげられたら良かった。彼女は、誰よりも頑張っていたから。毎日毎日、自分を成長させるために、嫌なことから逃げずに頑張っていた。そんな彼女の頑張りを見ていたのに、たった数回しか言ってあげられなかったのが、少し悔しかった。 「ありがとう。…歩も、色々頑張ってね。」 彼女に名前を呼ばれたのは、別れてからはこれが初めてだった。以前はたくさんさ呼ばれていたのに、今となっては、違和感を覚える。こんな感覚、感じたくなかった。 俺は、彼女に名前を呼ばれるのが、一番好きだった。誰に呼ばれるよりも、一番。 「…。おぅ。」 昔を思い出して、涙が泣かれそうになった俺は、小さな掠れた返事をした。 俺が返事をすると、彼女はこの場を去った。 俺の返事をきっかけとして待っていたかのように。彼女との思い出が残るこの場所から、彼女が去っていく。まるで、俺との思い出の橋を切り離すように。 俺と彼女の間に繋がっていた橋が、切り離された。 彼女が去った後、俺は彼女が座っていたベンチに腰をかけた。飲み切っていないペットボトルを片手に、俺は空を見上げた。 滲んで見える空には、一面に広がる星が光っていた。夜空に広がる星の一つ一つが、笑う鈴のように見えた。 「…凪」 たった一人で、たった一人の名前を呟く。 未だ愛おしい思いが抜けない彼女の名を。 久しぶりに口にしたその名は、今すぐに抱きしめたいと思うほどに、大好きだった。 距離が離れていくほどに、どれだけ大きな存在だったかを気づかされる。 離れてしまう前に気づけていたら、今もまだそばにいたかもしれない。そう思うと、また胸が締め付けられた。 溜まっていた涙を頬に伝わせながら、俺はベンチから立ち上がり、またコンビニへと向かった。今度は急がずに、ゆっくりと噛み締めるように歩みを進めた。 コンビニに着くと、俺はコンビニの門をくぐらず、前のゴミ箱にペットボトルを入れた。 まだ飲みかけの甘いジュースを、捨てた。 家に帰ると、俺は自分の部屋にこもった。 それから数日、ご飯も何もとっていなかった。まるで死んだように過ごしていた。 気づけばこの街から、彼女が消えていた。
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