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この世界は、まるで俺が一番の邪魔者かのような日々をくれる。俺の世界は、無音の空間で、俺の声は届かなかった。お前の居場所はないと、言われているようだった。
そして今、俺は何故か元彼女と再会している。彼女と会うのは約一年ぶりだった。彼女は俺に気づいていない。このまま、俺も気づいていないというふりをした方が良いのかもしれない。でも俺は、彼女に声をかけた。自分でも驚いたんだ。声をかけるつもりじゃなかったと。気づいた時には、彼女の元にいて、彼女の声を待っていた。きっと、俺は彼女とまた、話がしたかったんだ。きっと、彼女の声を聞きたかったんだ。
「お前さ、なんで騎士になったの…」
俺の第一声はこれだった。
きっと彼女は驚いただろう。いきなり話しかけてきたと思ったら、内容がデリカシーなくて、しかもそれが元彼である。
ついこの間まで、俺と対して変わらない中学生だったのに、気づけば彼女は騎士になっていた。この一年間、彼女が遠い街で訓練を受けてる中、俺は何もしなかった。ただ日々を過ごして、なんとなく勉強して、特に何もない日々を送っていた。だからかな、久しぶりに会った彼女と自分との成長の差に、圧倒されていた。彼女から溢れる気迫は、そこらにいる同年代とは全く違った。それは紛れもなく本当の、「騎士」というものだった。騎士といっても、俺は具体的に何をしてるのか知ってるわけじゃない。だから、彼女がどれだけ辛い訓練をこなしてきたかも分からない。ただ一つ言えるのは、俺だったらその訓練に耐えることができないということ。俺は騎士にはなれないだろうな。そういう熱い志とか向いてないし、運動嫌いだし、家にいたいし。だから思うよ、凄いなって。彼女だって、運動得意なわけでも、好きなわけでもない。むしろ俺と同じで、苦手で嫌いだし、家にいるのが好きだったから。そんな奴が今では騎士だなんて。昔は想像できなかった。それに、彼女は気弱な方だ。押しに弱いし、すぐ流されるし、自分の意見を伝えるのが苦手で、人見知りだし。彼女が騎士として戦ってる姿を想像するのは、俺にとってとても難しかった。彼女に騎士が務まっているのか。彼女は大丈夫なのか。
「…なんでだろう。私にも、わかんないや。」
彼女は、まるで息をしていないかのような声を紡いで答えた。彼女が紡いだ言葉は、俺の欲しい言葉ではなかった。別に、俺の納得いく理由が聞きたいわけではない。ただ、彼女の納得いく理由を聞きたかった。彼女自身が、いつ死ぬかもわからないような過酷な仕事を選んだ理由が、彼女の中にあることを知りたかった。他の誰のものでもない。彼女の決意を。今、こうして声を交わしていることが奇跡である。本当は、今ここに彼女がいるかすら分からなかったんだから。彼女が今ここへ帰ってきたのは、彼女が採用試験に合格したからだけど、騎士はなる前から命懸けだという話を聞いた。つまり、もしかしたら、騎士になることすらできずに死んでいたかもしれない。そう思うと、背筋が凍るようだった。彼女が、生きていることが、なによりも大事な事実だった。
こんなことを考えている間に、彼女の方へふと視線をおくると、彼女は泣いていた。
彼女を見るのすら久しぶりだったから、泣いている姿を見るのはもっと久しぶりで、どうすればいいか分からなくなってしまった。きっと、こういう時に頼りないから、彼女は俺に話すことができなかったんだ。大切なことを。俺には、彼女の涙の理由が分からない。
また俺は、彼女が困ってる時に何も出来ない。こんな奴、彼女は別れて正解だよ。
付き合うときも、別れるときも、告げたのは彼女の方からだった。どちらもきっと、相当の勇気が必要だっただろう。そういうところは、案外彼女の方が勇気があるのかもしれない。俺は、そんなことできないから。ただ、はじめと終わりで違ったのは、彼女の態度だった。はじめは、軽くパニックになっているようで、オドオドして、落ち着きがなかったように感じた。終わりは、とても静かで、大人な雰囲気で話していた。落ち着きが怖いほどにあった。でも、どちらにも共通したのは、俺の目を見なかったこと。はじめも終わりも、彼女は俺の目を見なかった。彼女は、緊張すると目を合わせない。それは俺に対してだけではない。誰が相手でも、緊張するとずっと下を向いて話す。それ程に、彼女は緊張を堪えて告げてくれたということだ。
対して俺は、なかなか酷い態度だったと自分でも思う。はじめは、聞いてるのか聞いてないのか分かんないような相槌をして、終わりは、今までで一番と言っていいほどに素っ気なくあしらった。俺は俺で、彼女と同じくらい人見知りで、上手く人と話すことができなかった。だから、急に告白された時は、どうすればいいかわからず、頭が真っ白になって、結構酷い態度だった。別れるときは、色んなことが頭の中に浮かび上がってきて、軽いパニックになっていた。
そして今、また俺は何も出来ない。
昔と変わっていない。変われていない。
彼女が困っている時、悲しんでいる時に、そばにいて、優しく手を差し伸べることができない。
「なんで泣くんだよ。」
彼女は、この言葉に何を感じるかな。
彼女はいつもマイナス思考だったから、きっとこれを困惑と捉えるかな。そして、俺を困らせてしまったことに反省し、自分を責め立てる。それが彼女。彼女は基本、自分に厳しく、人に優しい。他人への優しさを、少し自分に向けてあげて欲しいと思うほど、自分には厳しかった。
俺のこの言葉は、決して困惑ではない。
俺は今、心配している。昔と変わらぬ心配で、彼女にこの言葉をかけている。
こんな冷たい言葉しかかけられないけど、これでも精一杯心配してるんだ。
人間関係が好きじゃなくて、全然他人と関わってこなかったから、人付き合いが苦手なんだ。彼女とばかりいた。彼女以外の人間に、興味はなかった。俺はいつも、彼女に面白いと言っていた。彼女の行動は、本当に面白かった。可愛かったり、かっこよかったり、よく分からない奴だった。そういえば、彼女は俺によく面白いと言ってくれた。俺の話が好きだと、楽しくなると言っていた。俺にとってはくだらない話でも、彼女はいつも大切そうに消えてくれた。他の人に話しても笑ってもらえないような話でも、彼女は満面の笑みを浮かべて、楽しそうにしてくれた。俺は、彼女が楽しそうに聞いてくれるのが嬉しくて、話をするのが好きになった。でも、きっとそれがいけなかったんだ。調子にのってたから、彼女の苦しみに気づけなかった。彼女が聞き上手なことをいいことに、彼女の話を聞いていなかった。きっと、話したいことがいっぱいあっただろうに。聞いて欲しい悩みも、たくさんあっただろう。なのに俺は、話を聞いてもらうのが当たり前のように思っていた。彼女の異変に気づけなかった。
彼女は一体、どれだけの涙を流したのだろうか。俺は、彼女の涙を一度しか見ていないけど、きっと俺の知らないところで泣いたこともあっただろう。俺はどれだけの数、彼女を傷つけて、悲しませて、涙を流させてしまったのだろうか。一度だけ見た彼女の涙は、人を想う優しい涙をだった。
その人は、俺だった。
俺と彼女が学校の企画で走っていた時、たまたまぶつかってしまい、俺がその衝撃で鼻血を出してしまった。鼻血なんて何度も経験しているし、痛かったわけでもない。肝心の俺は泣いてもない。なのに彼女は大号泣した。
初めは、心配そうにこちらを見ていた。大丈夫?と声をかけてくれたけど、その声は震えていた。そして、段々と顔色が悪くなっていくのがわかった。きっと、彼女は罪悪感に呑まれたのだろう。俺に怪我をさせてしまったという罪悪感。自分に対する嫌悪と呆れ。そして、怪我をしたのは自分じゃないのに、自分の事のように思う悲しみ。色んな感情が混じっていたのだろう。企画が終わって、もう帰ろうとなった時、彼女の方を見ると大号泣していた。大号泣と言っても、声を荒げて大泣きしていたわけじゃない。あくまで静かだった。でも、彼女の落ち着いた性格からすれば、あれは大号泣と言っていいだろう。いくら拭っても溢れ出てくる涙。ハンカチはもうびしょびしょで、ハンカチの意味がなかった。息が荒くなって、呼吸の合間に溢れ出る泣き声。正直、そんなに泣かなくてもと思った。俺は、彼女と違って人が良くない。性格が悪いんだ。彼女みたいに、人を思いやることはしない。基本自分の為にやる。でも、人なんて皆、そんなものだと思う。彼女は、人の悲しみや苦しみを、自分の事のように思う心がある。それは俺に対してだけの話ではない。誰に対してもそうなのだ。驚くべきなのは、彼女は全く知らない人の悲しみも、自分の事のように思うのだ。道で通りかかった人、たまたま街中で出会った人。それが誰であろうと関係ないという彼女の考えが、俺は単純に凄いと思っていた。彼女に好きだと言われた時、なんで俺を好きになったのか分からなかった。ただ本当に、なんでこんな奴のことが好きなのか、俺は不思議に思った。断ろうと思ってたんだ。彼女に告白された時、断ってやろうって思ってた。でも、あまりにも必死に好きだと伝えてくれたから。返事はまた今度って言われたから。俺は断るのを辞めた。別に、彼女のことを好きだった訳では無い。いや、本当は好きだったのかもしれないけど、表向きの俺は、彼女のことをなんとも思っていなかった。でもそれは、本当に最初だけだった。時が経てば経つほどに、俺は彼女に惹かれていった。彼女を慕っていた。心から、愛した。
彼女から出た言葉は、俺が聞きたくない言葉だった。
「ごめんね…。…ごめん」
ごめんって、なんだよ。一体何に謝ってるんだ。俺はやっぱり、彼女の心が分からない。別れた今も、付き合っていた頃も。彼女の考えてる事はいつも分からなかった。きっと、彼女は俺に謝りたいんだろう。たくさん、数え切れないほどの謝りたいことが、彼女の中にあるのだろう。でも、俺の中には無いよ。彼女に謝られる覚えは、どこにもない。寧ろ、俺が謝らなければいけないことばかり。なのに俺は、まだ何も、言えていない。ありがとうも、ごめんも。
俺はいつも、少し言い方がキツかった。誰に対してもそうで、彼女に対しても、他の人と同じように、きつい言い方をしていた。毎回がそうではなかったけど、いつも無愛想で冷たく当たっていた。嫌いなわけじゃない。嫌われたい訳でもない。ただ、人と関わるのが面倒で。そうやって思ってきたから、どうしていいか分からなくて。彼女はきっと、そのせいで傷ついたことがあっただろう。何度も何度も、俺に言わずに耐えてきたのだろう。俺は、一つも気づけなかった。
そして、たった今もそうなっている。少し強く言ってしまった。もう少し優しく、なぜ泣いてるのかを聞いてあげれたらいいのに。
彼女はいつも、事ある毎に謝っていた。
誰にでも。自分が悪くなくても。些細なことでも。何かあればすぐ「ごめんね」って。どうしてそんなに謝るのか、俺は分からなかったけど、少しだけ、分かれたよ。今になってやっと。気持ちを察せれたかな。
そういえば、軽いいじめを受けてたな。彼女は平気そうに振舞ってたけど、きっとずっと辛かったよな。そのせいなのかなって。いじめられてる時に、ずっとごめんねって謝ってきたから、癖ですぐに謝るのかなって。考えるより先に、ごめんって言葉が出てしまうのかな。だとしたら、相当辛かったんだな。俺が思っているよりもずっと、苦しみに耐え続けてきたんだな。
「謝り癖は直せよ」、そうやって言ってやれなかった。彼女がどれだけ辛かったのか、分かろうとしなかった。俺は、最低な奴だな。
「え、何が…」
俺は、またも冷たく疑問符を打った。
少しの苛立ちが、俺の言葉に棘を刺した。一つは彼女への、もう一つは俺への苛立ち。すぐに謝る彼女への怒りと、彼女の苦しみに気づけなかった自分への怒り。また謝らせてしまった、不甲斐ない自分への怒り…。
彼女の謝った理由は、俺にとって差程重要ではなかった。一つ一つの彼女の後悔については、その話をする時にちゃんと聞く。だから、今の謝りは、重要ではない。だから、別に疑問をぶつけなくて良かった。良かったけど、俺はまだ嫌な奴のままなんだ。最低な奴のままで、変わることができてない。
そして、彼女の何かが崩れてくことに気がついた。これは嫌な察しだ。彼女の様子がおかしい。確かに泣いているけれど、どこかうすら笑みを浮かべているようだった。それは、彼女自身へ向けた銃口のようだった。今にも引き金を引いてしまいそうで、俺の背中には緊張が走った。
「なんでもない……じゃあね」
彼女は、俺との会話を終わらせようとした。きっと、彼女は俺と話したくなかっただろうに。俺が無理矢理話しかけたから、ずっと早く終わりたくてうずうずしていたのかな。そりゃそうだ。彼女はもう、俺の事を好きではないのだから。昔の彼女ではない。俺の事を好きだった頃の、両想いだった頃の俺たちではないんだ。彼女は今、苦しそうだった。まるで息を殺しているかのようで、見ているこっちまで苦しくなりそうだった。言葉を殺して、繕った仮の言葉を飾っているようだった。俺は、そんな彼女の発したこの言葉が、好きではなかった。彼女はいつも、なんでもないと言って誤魔化していたから。大事な事を言わない彼女のその言葉が、俺は嫌いだった。でもきっと、そうさせてたのは、俺だ。俺が彼女にそうさせてしまった。
終わらせようとしたくせに、なぜかまだ話したそうにしている彼女は、今日初めて、ちゃんと俺と目を合わせた。こんなに話したのに、目が合ったのはたったの数秒。気まずいのは確かだが、なかなか目を見て話してくれない彼女に、少し悲しみを感じていたから、彼女としっかり目が合った今、俺はまた話したくなった。まだ話していたいと、わがままを言いたかった。彼女は、自分を殺しているようだった。
そして俺は、すり減った彼女をまた傷つけていく。また、苦しませてしまう。
「…は、?また、結局何も言わないのかよ」
またも冷たく言葉を発する。きっと彼女も分かってるのに、それを俺は分かれているのに、わざわざ彼女に告げる。何も言わないのには理由があるのに、無慈悲に傷つける。
でも、彼女が何も言わなくなったのは、彼女のせいじゃない。俺や、彼女の周りの人たちによって作られた世界だ。だから、彼女は何も悪くないのに、俺はいつも彼女を責めた。彼女が何も言わないことに対して腹を立て、執拗に彼女に酷いことを言った。そして彼女は、自分が悪いのだと思い込んだ。それがどんどん積み重なっていって、彼女は塞ぎ込んでいってしまったのだ。
俯く彼女に、俺は優しさの欠片もなく語りかけ、さらに追い討ちをかけた。
「俺、そんなに頼りなかった…?」
彼女は、何か言いかけたのを止め、また俺の目を見なくなった。しゃがみこんで、周りの音が聞こえない自分だけの世界を作っているようだった。
「…」
彼女は依然として無言だった。
もう話したくないと言われているようで、俺は少しの焦りを感じた。もう、二度と彼女と話せなくなる気がした。慌てて出した一言は、くだらない作り話だった。
「…俺さ、告白されたよ。真子から。」
真子は、彼女の友達であり、俺の友達でもある。俺と彼女との間を知っている数少ない友達の一人だった。真子は、俺の事を友達としか思っていない。今も昔も、変わらずそうなのだ。それは彼女もそう思っている。だからこそ、彼女にとって衝撃となっただろう。
まあ、これは作り話に過ぎない。嘘だから。突拍子もない嘘。優しくない嘘。
「へぇ、そうなんだ…」
素っ気ない彼女の返事が返ってくる。
俺が思っていた返事とはかけ離れていた。それもそうだ。もう、俺たちは別れてるんだ。今更になって、その現実が頭によぎる。そうだった。とっくに別れてるのに、誰と付き合うとかそんなの、関係ないよな。彼女は、俺の話を聞くのが好きだと言っていた。いつも、自分の話より俺の話を聞きたがった。楽しそうに聞いてくれるのが好きだった。でももう、そうやって話をすることも、出来ないんだな。俺たちはもう、戻れないのかな。
「付き合ってもいいかなって思ってる。」
嘘に嘘を重ねた。誰の得にもならない嘘。誰の為でもない私欲の嘘。そんな嘘は、これで最後にしなきゃな。またお前を傷つけたままにしてしまいそうで、怖かった。
「そっか…良かったね」
吐き捨てるように放った彼女の言葉には、脆くなった刃があるように思えた。その刃は、俺に降りかかる。きっとそれは、彼女の伝えたいことなのだろう。彼女の心には、俺を傷つける刃が眠ってる。それが彼女の本心。傷つけられた分、傷つけ返したいのかな。そんなこと考えるけど、そんなわけないことは俺が一番わかってる。彼女はそんな奴じゃない。傷つけた俺が言うのはなんだけど、彼女はやり返したりしない。彼女は、誰かが傷つくのなら、代わりに自分が傷ついた方がいいと思ってしまうような人だ。それをわかってるくせに、そんなことを考えてしまうのは、俺の心が未熟だから。
「…ありがとう。」
諸刃の剣を翳した彼女に応えるように、俺は偽りの笑みを浮かべた。彼女から見た俺の表情は、どんな風なのだろうか。こんな笑顔でも、彼女は俺を幸せだと思うのだろうか。彼女にとって俺の笑顔は、一体何なんだろう。でも、もし彼女が偽りの笑みを浮かべたとしたらきっと、俺はそれに気づけない。だから、彼女がこれに気づかなくとも、俺は何も言えないよ。言う資格がないんだ。
彼女との思い出は、昨日の事のようだった。今でも鮮明に憶えている。霧が晴れた森の、澄み切った空気のように鮮明だった。彼女の仕草、言葉、表情、匂いにおけるまで、俺は一つも零さず憶えていた。それは、俺の今までの人生、そしてこれからの人生に至るまでの全ての俺の時間の中で、一番大切な時間であり、一番大切な記憶で、忘れたくない思い出だった。彼女はどう思っているのだろう。俺との日々は、もう忘れてしまったかな。俺たちの過ごした5年という月日は、あっという間だったよ。長いようにみえて、実は本当に一瞬だった。そう、一瞬。瞬きしたら全てが終わってしまうかのような一瞬。その一瞬の日々は、俺の世界に色をくれた。だけどその色はもう、俺の世界に残ってはいない。咲いた花は枯れ、美しく広がった空は、暗闇に塞ぎこまれた。もう俺の世界に、色はない。だってその色は全て、彼女がくれたものだから。彼女がいなくなった世界に、色はない。
そして彼女は、また泣いていた。
己の翳した諸刃の剣を受け、俺が浮かべた笑みを見て、彼女はまた一つ傷をつけた。
消えることのないその傷を隠すように、彼女の瞳からは涙が溢れた。
彼女の涙を見ると、俺の記憶がなくなっていくように思えた。彼女が涙を零す度に、記憶は薄れていって、俺の元から消えていく。そしてそれと同時に、彼女も消えていってしまうような気がした。このまま、彼女の落とした涙と共に、何処か分からぬ世界へと、彼女がいなくなってしまうようだった。今にも消えてしまいそうな彼女を、俺は救い出せない。手を握る前に彼女は闇へ呑み込まれる。
そして俺は、まるで悪夢から目覚めた少年のように汗をかき、現実世界に引き戻されたような感覚が走った。前を見ると、戸惑いを隠せずにいる彼女が泣いていた。そして、頬に乾いていく感覚を覚え手で触れると、俺の頬には涙が伝っていた。きっと、彼女が戸惑っている原因はこれだろう。何故だろう。なぜ俺は涙を流しているのだろう。結局、俺は彼女を困らせてしまっている。
「ねぇ、どうして泣いてるの…?」
彼女が苦しんでる時、俺はあんなに冷たく当たっていたのに、彼女は俺に優しくする。こんなにも優しく、包み込むように、俺を心配してくれる。その優しさに甘えてしまう自分も、誰にでも優しすぎる彼女も、俺は嫌だった。泣くばかりで情けない。彼女に涙を見られたのは、これが初めてかもしれない。涙なんて、好きな人に見せたいものではない。なのに、俺の涙は止まらなかった。
「…なんでだと思う?」
昔を思い出す。よくこんな質問をしていた。彼女をからかうのが俺は好きだった。最低だけど、彼女が困っている姿が、考えて答えを出そうとする姿が、可愛かったんだ。彼女は何に対しても全力で、俺が出したくだらない質問にさえ、真剣に頭を悩ませて答えてくれた。周りには、物事にひたむきに向き合う人が少なかったから、彼女はダサい奴だと思われていた。そんなに全力で頑張って、変な奴って言われていた。だけど俺には、彼女がかっこよく見えたんだ。何事にも全力で向かっていく彼女は、誰よりもかっこよかった。彼女の悪口を言う人は、少なくなかった。裏で言ったり、わざと彼女のいるところで聞こえるように言ったり、とにかく酷い人ばかりだった。でも、彼女は耐えていた。何を言われても何もやり返さずに、グッと堪えて日々を送っていた。そして俺は、彼女のかっこいい所を見てしまった。彼女の親友のことを悪く言う人達がいたんだ。彼女は、自分の悪口を言われても怒らなかったのに、彼女の親友の悪口を聞いた時、初めて彼女の怒ったところを見た。彼女は、怒れない人ではなくて、怒らない人なんだと分かった。そして、ちゃんと怒る時は怒るんだと、俺は知った。彼女が怒ったことで、彼女に対するいじめは更に酷くなった。でも、彼女は凛としていた。
「えー、わかんないよ…」
彼女は、しばらく考えてからそう言った。
彼女はいつも、俺のずるい質問に怒らなかった。少し嫌がりながら、最後にはちゃんと答えてくれるのがいつもだった。当たり前に思ってたけど、今思えばそれも、彼女の優しさだった。
「俺…お前に、良かったね…って言われると思ってなかったから、びっくりした」
これは嘘じゃない。ちゃんと俺の心が感じたままのことだった。俺と真子が、本当に付き合うことになったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。もし良かったねと言われたら、俺はどんな顔をするのだろうか。正直、少しは悲しんでほしかったんだ。もう彼女が俺を好きじゃないと知ってても、少しでいいから、悲しんで、寂しくなってほしかった。
「いや…本当に、良かったと思ってるよ。付き合うような人ができて、良かったね」
そういえば、彼女はどうなのだろうか。俺はこんな嘘をつくほどに周りには誰もいないけど、彼女には、付き合うような人がいるのだろうか。また気になることが増えてしまった。もう会うことも、話すことも出来ないのに。聞きたいこと、話したいことだけが増えていく。時間と共に、忘れてしまうのかな。
俺は別れてからしばらくの間、何も手につかなかった。息を吸うことも忘れてしまいそうなほど毎日が退屈で、食事は味がしないし、歩く足の感覚もなかった。二人で歩いた道を歩く時には、まだ隣に彼女がいるような気がしていた。でも、隣を見ても、後ろを振り返っても、彼女はどこにもいなかった。少しして、俺は彼女と出会う前の日々に戻りかけていた。彼女がいない世界。彼女が入ってくる前の、色のない世界。なんでなんだろう。別れてしまったら、付き合う前よりずっと、遠くに感じてしまう。手が届かなくなってしまう。そして俺は、「もう一度やり直したい」。その言葉を彼女に言い放とうとしていた。彼女のいない日々は、想像より遥かに辛くて、俺は耐えることができなかったから。でも、散々考えた後、出した答えは復縁をしないこと。俺には、そんなことを言う資格がなかった。結局、いつもこうやって自分のことしか考えていない。俺がまだ好きでも、彼女はもう俺を好きじゃない。そうやって言われたのに、俺はまだ自分のことで目一杯だった。別れてからも、俺はこのことにしばらく気付けずにいた。
「先輩、そろそろ時間です…」
知らない男が彼女に話しかける。俺の知らない彼女の時間を知る人が、俺の前にいる。俺は、彼女が命をかけて戦った時間を知らない。俺は、何も知れていない。好きだったのに、付き合っていたのに、何も、知らなかった。
話し始めてから、一体どのくらい経ったのか。
随分と長い時間話してしまったようだった。彼女はあくまで任務中。俺はそんな彼女の邪魔をして話しかけた。分かっていたんだ。邪魔をしてはいけないことも、彼女が真面目に仕事していることも。分かっていたけど、久しぶりに見た彼女を前に、俺は勝手に足が動いていた。ここで彼女を見て見ぬふりすれば、本当の本当に、彼女がいなくなってしまう気がして。
「うん、待たせてごめんね。すぐ行くから」
彼女は、先程までとは違う顔つきで仲間に声をかけた。彼女の声をきっかけに、仲間だと思われる多くの騎士達が動き出した。彼女が、行きたがっているのが分かった。でも俺は、口を開かなかった。「行けよ」そう言ってやることが、できなかった。まだここにいて欲しいと、心の中で願ってしまった。
「じゃあね。仕事があるから。」
俺の声を聞く気がないような言葉だった。
そう言われるのは仕方ない。そんなことくらい、俺にも分かる。もうこれ以上、俺の子供みたいなわがままに構ってられるほど、騎士という仕事が楽じゃないことも、分かる。彼女は、最後まで俺の目を見なかった。俺の目を、見てはくれなかった。
「…騎士の仕事。」
俺は、流れた涙をそのままに、彼女に確認するように言葉を吐いた。確認なんかしなくても分かってるくせに、本当に嫌な奴だ。少しでも長くこの時間を続けたくて、要らない言葉を紡いでいた。いまだに俺の涙は止まらなかった。
「うん。」
きっと、俺が欲しい言葉はこれじゃないことを分かって、彼女はたった2文字のこの言葉にしたのだろう。俺は、こんな答えが聞きたいわけじゃないよ。心の中で、彼女の小さな意地悪に答えた。そして俺は、彼女に最後の言葉を言い渡すこともなく、終わらせてしまった。
彼女が去っていく。
後ろ姿を見ているだけで、俺の心からは彼女が消えていった。彼女との思い出が、また一つ薄れていった。もうこれ以上、俺のところには留まることができないと言うかのように、俺の元から消えていく。
彼女の後ろ姿は、立派な騎士だった。
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