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pipipi……
どろりとした夢現の中に響いた甲高いアラーム音に、ぱっと目が覚めた。
さらさらと糊がきいているけど、冷たいシーツ。
綺麗に手入れをされたハイクラスホテルの調度品をみまわして、昨夜は自宅のアパートに帰っていなかったことに気づく。
(プレイの間に寝落ちしちゃったのか……)
のそりと身体を起こし、チェストに備え付けられた目覚まし音を手探りで止めようと、手を伸ばす。
「痛っ……ぅゎぁ…」
ツキリと手首に走った痛みに思わず漏れた声は、少し掠れていた。
ちりちりと痛む手首をみると、白い肌が鬱血して縄の網目がらくっきりと残っている。
たぶん、出血はしていないものの、擦れた皮膚に瘡蓋が残りそうだ。
また、起き上がったところで感じた下半身の重だるい感覚も…。
ふと、チェストの上にあるルームサービスのサンドイッチと、その皿の下に添えられたメッセージが目に入る。
――また会いたいな。発散したい時には連絡して――
(発散したい時……か。こんなこと続けていちゃいけないのに)
その隣の椅子には、クリーニングまでされた衣服が並べられているのを見て、Domの世話を焼きたいという本能なのか、人柄なのか。
未だに、どんよりと曇る頭で昨夜のことを思い出す。
昨日は、大学の講義を終えたら、いつものようにカフェのバイトに入って……そこまでは、いつものルーティンのようなもの。
そんなルーティンの中に、数ヶ月前から紛れ込んだイレギュラーな行動。
朝、目覚めて、偏頭痛の兆候のような目の前が揺れる感覚。それがあると、決まって抑えきれない本能が顔を覗かせるようになった。
(だれかに命令されたい…支配されたい…)
ざわざわとする身体の疼きを自覚したのは、2ヶ月前のあの日。
あの日以来――あの日、陽だまりのようなあたたかいぬくもりを与えてくれる青葉リアムに出会って以来――依春のダイナミクスは、不安定さを増し、安定剤を飲んでも、直接的なプレイが必要になる衝動に駆られるようになってしまった。
あれから、依春は、思い通りにならない身体に困惑しながらも、答えの見えないまま過ごしている。
そして、身体の調整となればと試しているのが、パートナーのいないDom/Subが一夜だけの関わりを求めるマッチングサイト。
昨夜も、そこで連絡を取り合った開業医を名乗る年上の男と……相手の求めるままに肌を触れ合わせた。
『慣れてないってプロフィールに書いてあったから、今日は軽いプレイにしておこうか』
『ぁぁ、大丈夫。軽く手首を縛るだけだ。してもいい?……ありがとう』
『私は、どちらかというと乱れる姿をみるのが好きでね……』
男は、始終、穏やかな口調で、歓喜に充ちた笑顔を向けてきた。
そして、こちらの同意を見てとると、待ち合わせから大事そうに抱えていた紙袋から、勿体ぶるように取り出してきた、いくつかの無機質な機械。
小さな卵形から伸びるコード、ぽこぽこと珠が連なったシリコン製のもの、吸盤のついたなにか……。
知識としてはあっても、実物をみると、ぞくりとした冷たい恐さが背を這うのを感じた。
その先のことは、うっすらとしか覚えていない。
的確に性感を高める場所を見つけられ、そこを執拗に責められ続けられる、まるで快楽の責め苦。
痛いことはされなかったけれど、身体が初めて受け入れる異物感と快楽の熱の吐き出し先を泣きながら懇願しても、終わりのない底なし沼にずぶずぶと沈められていく恐怖。
それまでの相手の欲を手や口で奉仕するだけでも、Subの尽くしている欲を発散させられていたのとは違う、完全に支配権をDom側に握られ、こちらの意志に見向きもされない孤独感。
ダイナミクスの欲求は、趣味嗜好に大きく関わるというが、嗜虐性の強いDomの相手は初めてだった。
今思えば、あの笑みからは、硬い焦げ目のように暗く、どろりとしたものが宿っていたように思う。
ちっともすっきりしない身体と心に、薄ら寒いものを感じた。
「ぁっ…!」
先ほど止めたデジタル時計の日付と時間を思い出し、手首を擦りながら、ベッド脇のバックパックを手繰り寄せる。
金曜日の早朝。
大学の時間割とバイト時間を逆算しながら、シワひとつ無くなった服を羽織って、ホテルを後にする準備にかかる。
(これからアパートに戻って、服を着替えて……。今日は、長袖で過ごすしかないかな)
5月の爽やかな空気は過ぎ去り、6月に入れば湿気を含んだ暑さを感じさせる日が続く。
火を扱う調理をする依春も、シャツの袖を捲ったり、七分丈のカットソーを着たりすることが多くなる季節だ。
頭の片隅に、もしも、服装の指摘があれば、まだ朝夕は冷えるからという理由を考えておく。
手首の跡が目立たなくなるまでは、少しの間、暑さを我慢するしかない。
*****
依春のダイナミクスが出現したのは、昨年の大学生2年生の時だ。
多くの者が思春期を境に自覚するが、依春の場合は、20歳までその兆候はなかった。
だから、それまでは、自分はDom/Subどちらにも属さないNormalなのだろうと勝手に思っていたのだ。
遅咲きのSub。
しかし、20歳になったその日……
大学の友人たちとの戯れの中で出たコマンドに、身体が極端に反応した。
大概は、何気ないコマンド、相手を支配しようと意図したものでなければ、反応しないというのに……
それなのに、開花したばかりの依春のSubは、異常に反応を示した。
その時には、慌てた友人たちがかかりつけ医を紹介してくれ、付き添ってくれたほどだ。
遅咲きのSubの本能に慣れないことや身体が重いことがあると感じながらも、特定のパートナーができるまでは、と安定剤に頼ってきた。
それで、副作用もなかったし、身体が重いことも慣れたら無くなるだろうと…。
だから、特に決まったパートナーもすぐに必要ないと思っていたし、急いた気持ちになることななかった。
ただ、一つだけ……。
周りと違うのがダイナミクスの発現の遅さだけではないことにも気づき始めてはいた。
Dom/Subのパートナー同士の友人たちがいう、「プレイの後は、とても幸せな気持ちになれる」「今まで靄がかかっていたのがすっきりするよ」と、仲睦まじく話す両者の在り方を前に、似たような感覚になれないのはどうしてなのだろう…という疑問。
友人たちの様子は、微笑ましく、いつかはそうなりたいと憧れる存在ではいたが、安定剤でも触れ合いでも感じ得ないその感覚を、実感することはできなくて……。
もしかしたら、自分はSubとして欠陥があるんじゃないか。
遅い発現もさることながら、直接的な――夜限りとはいえ、数名の性癖の異なるDomと――プレイをしているのに、幸福感やその後の精神上の開放感は感じたことがない。
無機物な機械でSubの快楽を責めて、その姿を堪能する性癖の持ち主とだって、それまでよりハード目な行為であってもそうはならなかった。
確かに、コマンドを注がれるたびに、従いたい、尽くしたいという感情は生まれても、出口からなかなかすべてを出し切らないうちに閉じられてしまう。
そして、中に燻っての繰り返しのような。
むしろ、霞がかかったような頭の重さは増すばかりだ。
唯一、プレイでもなんでもないのに、初めて目が合って、声を聞いただけの彼に、あんなにあたたかくて、心地がいいなんて思うなんて。
そして、陽だまりのようにあたたかい存在に機会があれば触れていたいなんて……。
*****
隔週の金曜日、正午から15時までの3時間。
ここ、nature本社ビル1階にあるカフェテリアは、普段より女性社員が多く足を運ぶ。
以前から、小鳥遊副社長から、カフェ「ブルームーン」のメニューの一部を本社ビルのカフェテラスで、デリにしてみないかという誘いがあった。
その誘いが実現した形だ。
最近の人気メニューである依春の作るフレンチトーストもその1つ。
初めから毎週では、回転のスムーズさに慣れるまでかかるし、カフェ店舗とデリへのスタッフのローテーションもすぐには出来ないからと。
マスターの御剣の考えで、隔週金曜日に数量限定で営業をさせてもらっている。
人気は上々で、人気メニューの旬の果物を添えたフレンチトーストとミニパンケーキは、あっという間に品切れとなるのが常だ。
自然派輸入食品を扱う会社だけあり、視覚的に癒しを与える観葉植物やエアープランツが並べられ、自然光を陽の光を存分に取り入れられる開放的な作り。
中央に円形のカウンターキッチンが設けられ、そこを囲うように白を基調としたカフェテーブルとチェアが備えつけられている。
ランチやお茶をしながら、仕事もできるように窓際には1人用のソファテーブルもあり、社員の憩いの場と効率の良い作業スペースにもなっているようだ。
「こんにちは。今日は、ハルくんが担当なんだね。久しぶりに顔を見た気がする」
ラストオーダーの14時半を少し過ぎたあたりで、耳に心地がいい爽やかな低音が届く。
丁度、挽きたてのコーヒーの会計に立っていた依春は、とくんと胸に優しく触れるような声の先に顔を上げる。
「リアムさん、こんにちは。久しぶりと言っても先々週もお会いしましたけどね。ぁ……あの、フレンチトーストとミニパンケーキはどちらももう品切れで…」
「うん、だよね。ハルくんの作るものは美味しいから。俺は、いつものホットコーヒーと小鳥遊さんへのホットカフェラテをお願いするよ」
リアムのミルキーブラウンの髪を吹き抜けガラスから差し込む昼下がりの陽光が照らす。
所々、きらきらと反射する毛先とこちらを温かく包みこむ笑顔が陽だまりのようで、日向ぼっこをしている穏やかな気分になる。
「俺は、2週間も君の顔が見られないのは、久しぶりというか……寂しい気持ちになるんだよ」
人もまばらになりはじめたカフェテリアは、リアムの後ろに客は無さそうで、会話が進む。
依春がコーヒーを用意している目の前のカウンター席を陣取り、会話を続ける気まんまんのようだ。
そんなリアムの様子に、自然と作業をする手が遅くなる。
「先週は、デリの予定がないからお店にお邪魔したけど、依春くん夜はあまりいないって聞いて……」
「僕、あまり夜はシフト、入れられないんですよ。レポート作りもあると夜が勝負になってしまうので」
「学生さんは、学業に忙しいね。でも、このデリのシフトは、多めに入れてもらえてるようでよかった。仕事で疲れた時に癒されるから」
頬杖をついた姿勢で透き通ったブラウンの瞳からは、こちらに慈愛を含んだ熱が送られる。
(こっちへのシフト多めに入れたのわかるんだ……)
初めてカフェに訪れて以来、リアムは週に一度は、カフェ店舗かこちらのカフェテラスによく顔を出すようになった。
その都度に、海外仕込みの可愛い、癒される、とリップサービスのきいた褒め言葉を会話の端々に送ってくる。
言われ慣れない愛情の言葉に、依春が辟易するたびに、今と同じ愛おしそうな瞳を向けてくるのだ。
「……そう、言ってもらえるの、嬉しいです」
「うん。少し慣れてきた?俺からハルくんへの気持ち」
「ぁ……えっと……」
――俺からの言葉が嫌じゃなかったら、嬉しいって言って欲しいな。嫌ならやめるから――
初めは、依春に真正面から向けられる言葉の数々。
他にも言い慣れてるんだろうと思う反面、恥ずかしさと身体を包む心地良さに赤面するか、押し黙ってしまうかだった。
それに対して、恥ずかしいだけなら嬉しいって言ってほしいというリアムからの提案。
もとい、希望。
初対面でGlareを不用意に零してしまった折に、「怖いこと、嫌なことはしない」と誓ったのは本当で、今も適切な距離できちんとこちらの心を推し量り、言葉をかけてくれている。
その言葉ひとつひとつに、とろりと胸が蕩けそうになる感覚が、たまらなくて……
少しでも会えたらとカフェテラスへのシフトを多めにしているのは、秘密だ。
「ところで、ハルくん、最近疲れてる?なんか元気なさそう」
「ぇ?いや、そんなことはないですけど」
リアムに出会ってから身体に起こった変化とその対応のために、定期的に見知らぬ男の命令を受けてるなんて言えない。
その対応で改善するならまだしも、昨夜の一方的に与えられた快楽とは違う、リアムからの言葉だけに反応を示す身体の不条理さも…。
まるで、目の前のドリップポットから注がれる適温の湯が、コーヒー粉にじわりじわりと染み込んでいくのと同じ。
リアムの言葉もじわりじわりと少しずつ依春の身体に染み込んでいく。
そして、足りないともっと欲しいと求めるように、染み入った表面にぷくぷくと気泡を盛り上がらせる。
「長袖……暑くない?」
「……ぇ…」
じっと、煎れる作業を見つめていたから、リアムの視線もこちらの手元に向けられていることに気づかなかった。
先程の甘やかなブラウニーのような瞳の色が、硬質なするどさをもったそれに変わる。
「っ……帰る頃には肌寒いので…」
「そう……、ぁ、今日、俺もこの後は早く仕事を切り上げられそうなんだけど、よかったら、夕飯どこかで一緒にどう?」
「この後なら、僕も特に予定はないですが……」
この高鳴る気持ちと焦った様子が伝わらなければいいなと願いながら、傍らのエンボスカップにブラックとカフェラテを作っていく。
リアムは、シュガーもミルクもなしのストレート。小鳥遊副社長は、ハーフミルクにシュガー多めの甘さが強いカフェラテを好む。
「じゃぁ、18時にブルームーンに迎えに――」
「依春く〜ん、マスターから連絡入ってるよぉ。緊急みたい。あとの片付けは、私が代わるから、話してきて〜」
約束を取り付ける間際に、休憩室からのんびりとした同僚の女子大生の声に話が中断する。
「ありがとう。……すみません、お話はまた今度」
彼女にお礼を言い、リアムには話の腰をおってしまったことを詫びて、休憩室へ向かう。
「まぁた、リアムさん。依春くんかまってたんですかぁ?コーヒー、冷めちゃいますよぉ」
「……大丈夫ですよ。副社長は、猫舌なので少し冷ましてから、お持ちした方がいいんです」
「またまたぁ。ぁ、その猫舌って英語でなんて言うんですか?」
「日本語で言う、猫舌のような言い回しはないので、熱いのが苦手ですって言いますね。あちらでは、苦手なこと嫌いなことは、きちんと言葉にしていいと思われていますから」
背中に彼女と話すリアムの声質や話し方が変わることに、なぜか内心ほっとした。
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