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キシリ…とベッドのスプリングが小さな音を立てた。
じっと見つめてくるブラウンときらきらとみえるゴールドの光を放つ瞳。
「ハルくん……?やめておきたいなら、今のうちに…」
黙って彼の指先を目で追っていただけの僕を心配したのか、そんな声がかけられる。
どこまでも優しい彼は、瞳に浮かぶGlareを抑え込むように端正な眉を顰めた。
止めたい、なんて思わない。
この数ヶ月、ままならなかった身体の重さが、かけられる声と瞳に滲んだ求めてくる熱を欲しいと叫んでいるから。
退きそうになる彼の熱から離れたくなくて、頬に触れている手に重ねてすりすりと火照る肌を擦りつける。
「あなたが、いやじゃなければ…っ。僕は大丈夫ですから」
「っ、あまり可愛いこと言わないで…」
自制が効かなくなるよ。
困ったように、でも、慈愛に満ちた瞳は、苦笑をはらんでつっと頬から唇の柔らかさを確かめるように触れる指先を見つめている。
触れられるところから、見つめられるところから、じわりじわりと拡がる、こそばゆくも心地よい熱。
低音だけれど爽やかな軽さのある声音が鼓膜を震わせるたびに、頭の芯からどろりと溶けだすような恍惚さに酔わされていく。
今まで、お互いをよく知らないままに肌を触れ合わせることが何度かあったけど、体の中心から蕩けるような心地になるのは始めてで…
もっと声を聞きたい、その瞳に命じられたい、あなたを染み込ませていきたいと、未成熟なダイナミクスが求めてやまない。
*****
こんがりと焼き目のついたパン生地に、とろりとかかる蜂蜜。
たまごとミルクで甘やかな見た目のフレンチトーストの表面から蜂蜜がじんわりと染みていく…。
そんな風に…少しずつ馴染んで、当たり前の組み合わせのように…。
羽月依春は、胸いっぱいにこの穏やかな空気を吸い、ほっとするこの時間が好きだ。
ランチタイムを過ぎると豆から挽いたコーヒーの香ばしい香りとキャラメルやチョコレートの甘い香りに包まれる。
このほろ苦さと甘さの織り成す香りが好きだ。
頭の中まで甘い香りで満たされて、ふわふわと心地が良くなるから。
木目調のアンティーク家具に囲まれたシックな店内の装飾と落ち着いた雰囲気に密かに人気の出てきているカフェ&バー「ブルームーン」
今日も昼時をすぎたあたりから、のんびりとした時間が過ぎている。
大学の学業の傍ら、奨学金の他に生活費の足しにとはじめた仕事も2年続いていた。
料理好きも講じて負担になりすぎることもなく続いているし、大学生活も四年目を目前にしていれば、講義数も少なくなり、空いた時間にのんびりと好きなものに囲まれて過ごすのは悪くない。
「依春くん、休憩入ったら?」
「はい。ぁ、でもそろそろ時間じゃないですか?」
マスターの御剣からの言葉に、壁の振り子時計に目を向けてから返す。
「あの人も…まったく。ちゃんと仕事してるのかな。依春くんが新メニューを出してからしょっちゅうだよねぇ…まぁ、売上に貢献してもらえてるからいいけどさ」
呆れた声で答えながらも、顔は嬉しそうな笑顔。
自分が作ったメニューを楽しみに来てくれることは、嬉しいし、小言をいう御剣も何かと息抜きになる客のため、こちらも自然と笑顔がこぼれる。
「社長のお誘い。依春くんがよければ、オレも力を惜しまないからね。……じゃ、ヤツが来る前にいつものよろしく」
「はい。気に入っていただけていて、作り甲斐があります。まぁ、お誘いは挑戦はしてみたいですが…」
ごにょごにょと濁しつつ、腰のエプロン紐をきゅっと結びなおすと、ミルクと卵液でひたひたになったフランスパンを焼く準備にかかる。
すると、タイミングよくカランと入口のドアベルが鳴った。
「こんにちは、マスター、ハルくん。ぉ、丁度よさそうなタイミングだったみたいだ」
細身のオーダースーツに身を包み、流れる所作で入店した男は、癖のある黒髪にすっと切れ長の目元を綻ばせてこちらに爽やかに挨拶をよこす。
入店すぐに細い鼻先をひくつかせて、フレンチトーストの焼ける香ばしい匂いに、一層うれしそうな声音になる。
この昼下がりの穏やかな時間に決まって訪れる客は、御剣の古い友人であり、このカフェバーで取り扱っている輸入食品を展開している「nature」の副社長、小鳥遊千晃。
まだ30代という若さで、商社副社長となり、社長の兄の補佐として細かなサポートにまわっていると聞く。
――自社が卸している食品が、どんな美味しいものになっているか気になってね――
そんな理由をつけつつ、馴染みのこの店にふらふらと1人で訪れるのが、彼の楽しみのようだ。
そんな彼は、三十路も半ばを過ぎたにもかかわらず、色香の含んだ儚げさをもち、店で女性客に声をかけられることも多い。
小鳥遊は、いつもの窓ぎわの角席に向かわずに、誰かを待つように足を止める。
「今日は、私一人じゃなくてね…」
珍しく1人でないと言う小鳥遊のあとに、またカランとドアベルが鳴った。
穏やかな午後の陽射しを店内に注ぐのと同じくらいあたたかな色をたたえた髪色が、ぱっと目に入る。
と、その時に、ふわりと胸のうちに、これまでに感じたことのない熱を感じた。
それに気づくより先に、今しがた入ってきた男の声に意識は吸い寄せられる。
「小鳥遊さん、予定の調整ができました。ゆっくりお食事なさってください」
「ありがとう、リアム。ぁ、この子が今日の連れで、4月から私の秘書になっていろいろ手伝ってくれてる…」
「はじめまして。小鳥遊副社長の秘書となりました。青葉リアムです」
遅れて入ってきた男は、小鳥遊の言葉を引き継ぐように名前を述べると、ふっと爽やかな笑みを向けてきた。
柔らかさを感じさせるミルキーブラウンの髪をトップに軽く撫で付け、サイドが重くならないように刈り上げている。
きらきらと金の輝きを奥に滲ませた茶色の瞳。
かっちりとした顎のラインは、ワイルドに感じさせるものの、穏やかなトーンの声音と王子様のような爽やかさをたたえる笑みが、荒々しさを隠すようだ。
清潔感とスマートさを醸し出すブライトネイビーのスーツは、均整のとれた筋肉を纏った身体のラインをしっかりと強調している。
そこにも若々しい印象を与えながらも、落ち着いた色遣いが秘書らしい真面目さと誠実さを含ませる。
「いつもふらふらして、取引先の店を食べ歩いているから、お目付け役をつけられたのか?」
「そうじゃなくて。おかげさまで、取引先も増えて、軌道にのってるから、1人じゃ手が回らないこともあってね。まぁ、実は以前から兄さんの秘書さんたちに応援をもらっていたわけだが……」
「こいつは、ふらふらスイーツ巡りに繰り出すから、よく見張っておくといいよ。よろしく、リアムくん。ここのマスターをしている御剣だ」
クールビューティという言葉が似合う小鳥遊と爽やかな王子様という見た目のリアムの並び。
マスターは、2人に向けてにやにやとツッコミをいれて、すっと挨拶の手を差し出す。
なんだか、楽しそうなマスターの様子に調理を進めながら、耳だけ向ける。
あとは、いい具合に焦げ目のついたフレンチトーストを皿によそい、果物やミントを散らして運ぶだけ。
「ニューヨーク支社で修行をして、この度、日本へ来たので、至らないところもありますが、どうぞよろしくお願い致します。小鳥遊さんにこちらのスイーツが美味しいと聞いて、お供させていただきました」
マスターと副社長の気心の知れたやりとりを微笑ましそうに見遣り、会話の流れを見計らい自己紹介を続ける。
リアムは海外の血筋が混じっていることを示唆する会話の中でも、丁寧な日本語で話す。
初めに聞いた、爽やかな中にも温かみと心地良さを感じさせる声音で…
とくん……と、また胸に甘くてあたたかい熱が灯る。
もっと、声を聞いていたい。
そう思わせるのは、どうしてなのか。
普段、あまり客に対して、こんなにも気になることはないのに。
マスターがいつもの席へ2人を促すと、こちらを振り返って、指を1本たてて、「お願い」と視線で訴えてきた。
それに、こくりと頷くと、2皿分のフレンチトーストを手に調理場を出る。
「俺ともう1人。他のスタッフもいるけど、ここのスイーツを作ってくれている、羽月依春くん。ホールも担当してくれる優秀な大学生だ」
「彼の作るフレンチトーストが最近のおすすめで、甘さと塩っけが丁度いいんだよ」
マスターの紹介と小鳥遊の褒め言葉に、こそばゆさを感じながら、テーブルの前でぺこりとお辞儀をする。
「はじめまして。今日は、マスターからの奢りです。甘いのはお好きですか?」
小鳥遊の前にフレンチトーストの皿を置き、マスターに指示されたもう1つの皿を置く前に好みを聞く。
奢りといっても甘いものが好みでないなら……と気をつかったつもりだったが、これまでテンポのいい会話をしていたのに、なかなか返事が返ってこなくなる。
不安になり、手元ばかりみていた目線をリアムの方へ向ける。
「っ……!」
ぱちりとかち合った瞳から放たれた熱が、どくりと本能を刺激して、ぴくりと肩を震わせる。
彼が意図して流したわけじゃないのは分かっているけれど、その瞳から逸らすことができなくて…
リアム自身も驚いたように、きらきらとGlareを散らしはじめたブラウンの瞳を見開いている。
普段であれば、DomのGlareに恐怖や服従心を掻き立てられるはずなのに、今感じているのは真逆の……
それに、初対面でSubを相手にGlareを放つなんて、本来なら禁止されていることだから、滅多に起きやしないのに。
こちらを見つめたまま開きかけたリアムの口から、
「……可愛い……」
ぽつりと零れた囁き。
僕にむけられたその一言に、燻っていた胸の疼きを一気に加速させた。
その心地よい声音が、じわりと腹の奥に湧き上がり、甘い痺れを全身に広げていく。
今までに感じたことのない感覚に頭がぼーっとしたところで、カチャリと手元の食器が音を立てたから、落とす前に意識が引き戻される。
と、同時に小鳥遊とマスターがこちらに向けて心配した声を出す。
「リアム……ハルくんが困ってるから、やめなさい」
「依春くん、オレが代わりに持つよ。大丈夫?」
落ち着いた小鳥遊の声にリアムを叱る色が滲む。
Subの小鳥遊には、すぐにわかったようだったが、Normalのマスターは対応が遅れたことに申し訳なさを滲ませている。
(マスターが気づかないのは仕方がないし、慣れてない僕も悪いのに)
マスターが代わり、フレンチトーストの皿がリアムの前に置かれるのを目で置いながら、今しがた感じた身体の変化に落ち着かなさが増す。
「あのっ……怖がらせて、ごめんなさい。そうしようと思ったわけじゃなくて……」
初対面の僕にGlareを放ったことの失態をDomである彼が1番知っているはずで、だからこそ、今目の前の彼の動揺がその表情から伝わってくる。
「いえ……僕もすみません。慣れてなくて…。もう、大丈夫ですから」
慣れてないのは本当のことで、人類に新たに付加されたダイナミクスという本能を、僕はほんの数ヶ月前に気づいたばかりだった。
それまでは、自身もマスターのようにどちらのダイナミクスももたないNormalだと思っていたから。
ふしゅんと叱られた大型犬を連想させる表情と大きな身体を縮こまらせた仕草に、またきゅんと胸が疼くけど、彼の瞳からはすっと消えたGlareにほっとした。
きちんとGlareをコントロールできるのも、Domとして必要なことだけど、突発的なことにもすぐに対処できるリアムにDomとしての経験と優秀さがわかる。
「慣れでどうこうってわけじゃないけどね。ハルくん、驚かせてごめん。うちのリアムは、普段はこんなことないんだけど……」
「可愛いってのは、分かるけど、初対面で口説くのは、依春くんには強すぎる押しだったと思うよ。まぁ、気に入った彼が作ったんだから、冷めないうちに食べてな、ほら」
「ありがとうございます」
リアムは、おずおずとサクリとした生地にフォークを沈めて、一口分をぱくりと口にした。その後に、口元を綻ばせる表情にふわりとあたたかさが胸に染みていく。
(口にあったみたいでよかった…)
謝罪を述べる小鳥遊に、「びっくりしたけど、今は大丈夫です」と、あまりリアムを責めないで欲しいという思いも込めて返す。
おどけたようにマスターがリアムにフレンチトーストを食べるようにすすめると、場が和む。
さすが、多種多様な客に毎日接して、あしらっているマスターの計らいだ。感謝を込めて笑顔で答える。
「美味しい。甘さがしつこくないのは、ハチミツかな。見た目と違って後を引かせないあっさりとした味が美味しいです。えっと、依春さん?」
「……よく分かりましたね。ハチミツは砂糖より癖はありますが、あっさりとした甘さになるので。……ぁ、あと、お仕事で来ているわけじゃないなら、あまりかしこまった話し方でなくていいですよ」
細かな味の変化にも敏感なマスターには、気づかれたことがあったけれど、まさか今日初めて食べたリアムに気づいて貰えたことに驚く。
同じくらい、嬉しくて、つい気を遣わないでと言ってしまった。
(ぁ、なんか図々しかったかも…)
ふっと爽やかに微笑まれたところで、どう返していいか困るっていると、
「じゃぁ、小鳥遊さんと同じようにハルくんと呼んでも?」
一気に親密度の近くなった呼び方の提案に、頬がじんわりと熱くなるのがわかる。
「随分、距離を詰めるな……」
「リアムって、そういう子なんだよ……気づいたら、すごく馴染んでいるというかなんというか」
隣でことの次第を見守る年長者たちの小言を聞き流して、目の前の王子様然りの雰囲気に戻ったリアムは続ける。
「改めて、俺の名前は、青葉リアム。リアムでいい。さっきは、怖い思いをさせて本当にごめんね。もう怖がらせないから。ハルくんに会いに、これからも食べに来ていいかな?」
差し出された無骨な手のひらに吸い寄せられるように、依春も手を重ねた。
きゅっと壊さないように優しく握り返される手の温かさに、どきりと胸がなる。
「……お仕事に支障にならないのでしたら…?ぜひ、また食べに来てください。よろしくお願いします」
「ありがとう」
するりと手の甲を撫でさすられると、離しがたい気持ちがつのる。
この肌の熱も、見つめられる慈愛に充ちた瞳も、耳朶をうつ心地よい声音も……
リアムのすべてが身を包む感覚が心地よい。
今日、初めてあったばかりの彼に、こんなに心を揺らされるなんて。
はじめての心と身体の反応に、未だ戸惑いがあるけれど、リアムから与えられるものを欲しいと思っているのは間違いない。
――出会ったばかりの彼は、なんの戸惑いもなく、するりと僕の心に染み込んでいく――
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