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体調不良とそれに伴う不埒な関係。
悪い流れは、続いてしまうものだ。
でも、これ以上は悪くならないで欲しいとも思う。
さすがに、住む家を失ったというのは痛い。
マスターの御剣からの緊急連絡は、依春が借りているアパートの大家である老夫婦からの連絡を繋ぐためだった。
木造の築数がかなり経っているものだったが、よく手入れをされていて、大学にもカフェにも近くて選んだ部屋。
本日、昼過ぎ、住人の火の不始末により出火元の部屋と上下左右の部屋が被害に会う事態となってしまった。
依春の部屋は、出火元の右隣の角部屋。
部屋の中まで火は回らなかったものの、消火作業により、部屋中が水浸し。
検分が終われば、物を取りに入ることは可能だが、住める状態ではないため、部屋の斡旋ができるようになるまで級友の部屋かホテル暮らしをお願いしたいとの連絡だった。
幸い、依春自身、貴重品は部屋に置いていかなったということで、今日は帰らずに当面の世話になるところは自分で探すと申し出た。
慌てる老夫婦の心労を少しでも緩和できたらと。
「依春くん、ほんとに大丈夫か?夜は騒がしいかもしれないけど、この店の2階を使ってくれてもいいんだよ」
「ご心配かけてすみません……。とりあえず、今日は大学の友だちに泊めてもらえるようにお願いしてみます」
17時を過ぎて、夜の1番客がちらほらと店のベルを鳴らす時間。
チャームとして出す春野菜のキッシュを小皿に取り分けながら、マスターが心配を全面に出して聞いてきた。
有難いことだが、Subの本能が不安定な今、酔客の多いバーの近くにいるのは、あまり得策ではない気がして、丁寧に断りを入れる。
「まぁ、落ち着いて勉強もできないか……。いいよ。もし、行き場がなかったらいつでも言って」
「ありがとうございます。では、今日はお先に失礼します。お疲れさまでした」
「気をつけて帰るんだよ」
ブルームーンを出る際、スマホを取り出し、頼みやすいのは……とスワイプする。
幾人か脳内にピックアップして、連絡をと思って、すぐに級友たちもバイト上がりには早いと気づく。
(泊めてもらうにも、手ぶらはな……)
そういえば、財布と交通ICカード、大学の授業で使うタブレットPCとデータ、バイトのカフェエプロンしか手持ちがない。
駅ビルで当面の用具を揃えようと思い立つ。
衣服、下着、宿泊セット、手土産に酒やつまみ。
購入するものを頭の中に書き出し、駅構内に入ったところで、背後からくんっと手首を捕まれ声をかけられた。
「haruくん?……やはりそうか、私のことを覚えているかな。先日は1人にして帰ってしまってすまなかったね」
「っ……」
マッチングサイトで使っているハンドルネームにぴくりと肩が強ばる。
優しげを装っているのに、暗い冷嘲を含んだ声音。
陰鬱とした感情が背筋を摩り、先日の終わりのない責め苦を身体が思い出す。
「奇遇だね。まさか、こんなところで会うなんて。今日の相手は決まっているのかな、ん?」
「ぁ……ぃゃ…」
ズッと片脚を下げても、掴まれたままの手首が枷となり振り払えそうにない。
あまつさえ、何度も何度も猫なで声で責め続けられた声音に、身体が勝手に服従しようと始めてしまう。
「ぁぁ、本当に君のその泣き顔は、綺麗だね。深紫の瞳が涙で濡れるのは扇情的で……もっと濡らしたくなる」
「ぃゃ……いかな…っ」
抵抗の言葉が喉に詰まってうまく言えない。
苦しい、でも、身体は本能に従いDomに連れていかれそうになる。
と、その時、
「ハルくん!……待たせてごめんっ」
耳朶を打つマイルドで甘やかな声音が背にかけられた。
いつもより緊張感を孕んだ、それは、混乱した依春の胸をじんわりと温もりで包み込んでいく。
トンと、壊れ物に触れるかのように肩にのった手は、きゅっと肩を包み、硬くなっていた身体を解すようにあたたかい。
ここ数ヶ月で嗅ぎなれた、爽やかな柑橘の香りの中に芯の強いウッディ系がほのかに鼻腔をくすぐり、混乱した心に落ち着きを取り戻していく。
「すみませんが、彼は俺の連れなので、手を離していただけますか」
「……っ、おや、飼い主がいたのか。まぁ、いい。飽きたら、また、ぜひ私のことを呼び出してくれていいからね」
ただでは下がりたくないのか、憎まれ口を叩く男へ、頭上からピリピリとした威圧感が向けられる。
Dom同士が威嚇の意味でも使うGlareに、紳士は、たじろぎながら後退していく。
「押しつけの感情は、嫌われますよ。……じゃぁ、行こうか」
ぐっと肩を引き寄せられ、半ば促されるままにふわふわとした脚を動かす。
「ハルくん……俺は、邪魔したかな?パートナー同士にしては、ハルくんの様子がおかしいように思えて……」
これから、パートナーとの愛瀬に向かうのだろうと思っても仕方がない。
けれど、今は、立て続けに起きた不幸な流れに、泣き出しそうになる心が、お礼の一つも嗚咽となって言えやしない。
だから、ただただ、邪魔じゃなかったこと、迷惑じゃないことを伝えるためにぶんぶんと頭を横に振った。
頭を振った勢いで、ぽろりと流れた涙が引き金となり、次々と涙が頬を濡らす。
「なら、よかった。そんな顔をさせるなんてひどいね。……少し落ち着いて話せる場所に行こうか」
屈んで顔を伺ってきたリアムは、見つめあって一瞬、くっとなにかに詰まる様子をみせて、先を促す。
先程の剣のある声はなりを潜め、いつもの温和な声音に戻っていた。
連れていかれた先は、人目が多い、コーヒーチェーン。
落ち着けるように角席にまわり、リアムが注文を持ってくる間に、濡れた目許を冷やすように水道水でぬらした清潔なハンカチを渡された。
「あまり擦ると赤くなるよ。落ち着いた?」
ことりと目の前に置かれたマグカップは、甘い香りからしてココアだろうが、ホイップが縁から溢れんばかりに盛ってある。
そして、マグカップの隣に、シナモンロールとドーナツが添えられた。
向かいのリアムの前には、アイスコーヒーとハムエッグサンド。
「ありがとうございます。あの、僕の分……っ」
「ぁ、これは俺がハルくんにしてあげたいからやってることだから。気にしないで。食べきれなかったら俺が食べてあげるよ。……それより、大変だったみたいだね」
もう一度、お礼を言うとココアを一口含む。
じんわりとあたたかくなり、甘い香りが鼻を抜けて、ほっと気持ちが落ち着く。
リアムの「大変だったね」に、言外に先程の紳士とのいきさつ以外も含まれていた。
いろいろありすぎて、何が大変なのか自分でも整理が難しいが、アパートが家事で住めなくなり、友人に頼むところで紳士に捕まった話をした。
カフェテラスで約束を最後までできなかったから、ブルームーンに顔を出してみようと店を訪れたリアムは、マスターから聞き及んでいたらしい。
先に店をあがった依春を探して、駅ビルを探していたところで、助け出してくれたのだ。
なんて、運が良かったんだろう。
(リアムさんに見つけてもらえなかったら……そのまま僕は…)
「大学のお友だちとは、連絡が取れたの?」
「あ、いえ。そうだ……泊まらせてもらえるか連絡しなくちゃ」
「ねぇ、ハルくん。提案なんだけど、よかったら俺のうちに来ないかな」
「……はぇ?」
片手で挟んだサンドに豪快にかぶりつくと、口の端をくっと指先で拭い、ナプキンで指先をふく。
その雄々しい仕草に見惚れていて、リアムからの提案に気の抜けた返事を返してしまう。
「独り身にしては、少々広すぎて……。客間もあるからどうかな。それに、さっきの人、ハルくんが同じ路線使ってると分かれば付きまとったりしないかと……心配で」
「ぁ、えっと……そこまでは、考えてなかったです」
確かに、大学に近いこの周辺の友人に頼もうと考えていたから、もう二度と会わないとも限らない。
不安要素は、できる限り取り除いておきたいが、特別な感情を持ちはじめているリアムに頼っていいのだろうか。
「路線は違うけど、大学までは今までと変わらない距離だと思うよ。……あんなところを見て、放っておくこともできないな」
「あれは……その、本当に1回だけ会った人で、あんなに執着するとは思わなくて」
「うん。だから、もうハルくんには恐い思いをして欲しくないなと、俺は思うんだ」
マグカップを両手で握る依春の手に、そっと節くれだつ厚みのある手が添えられる。
長い指先で優しく宥めるように手の甲をさすられて、その優しいタッチにうっとりと解れていく。
その指先が手首まで伸び、隠していた縄の鬱血を辿るように労わっている事に気づかないまま……。
「でも、あの……服とかもなくてっ」
「下着だけコンビニで手に入れようか。あとは、俺のサイズと合わないだろうけど、パジャマにはなるから。必要なものは明日買いに行こうよ」
すぅっと流れるように声が入ってきて、自然とこくりと頷いていた。
リアムに全てを任せることが申し訳なくて、量販店で衣服を買いたいと言うと、今日はここに長居はしない方がいいと諭される。
確かに、続けざまの災難に冷静な判断に欠けているのかもしれない。
「ただでご厄介になるのは心苦しいので、お世話になっている間は、何かさせてくださいね」
「そうか……んぅ〜じゃぁ、何か考えておくね。よろしく、ハルくん」
「こちらこそ、お世話になります」
リアムのマンションに行く道すがら、始終、ゆるく手首にまわった手は、あたたかくて安心できた。
あなたの元へ吸い寄せられるように、触れた肌が吸い付くように心地よく馴染んでいく。
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