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「ねえ、覚えてる?」  雨が降っていた。窓の外に重く降り注ぐ水滴は、そのまま心の重さだと思った。振り返ればにこやかな表情の妻が立っているだろうから、「何が」、わざと抑揚のない声で返事をする。 「みんなが当たり前に幸せを感じていたときのこと」  ああ、と思った。それに加えて、私が服用している薬に対する皮肉を言われたような感じがした。 「思い出そうともしなかったよ。なに、私がこれを使っていることが気に入らない?」  水滴、窓を這う雨の粒がふたつ引き寄せ合うように下っていき、窓枠へ到達する直前に融合した。キッチンで何かの作業をしているらしい妻の方向から、小さな吐息が聞こえる。溜息のようでもあったし、ただ息を吐き出しただけのようでもあった。どちらにせよ、彼女はきっと呆れたような顔をしているんだろうなと思う。 「いいえ。あなたが『抗幸福剤』を使おうとも文句を言うつもりはないわ。ただ、覚えているのかなって」  意外にも声が明るかったのが気になり、私はとうとう妻の方を振り返ってしまった。「ん。どうしたの?」「いや」、そこにあったのは想像していたやれやれ顔ではなく、太陽のような温かさを纏ういつもどおりの笑顔だった。心をかき回される感じがして、ようやく自分が動揺していることに気づく。  彼女の笑顔を見ていると、花畑で読書をしているような、暖かい安らぎに身を包まれていく。私は心に合わせて震える手で机に置いてあった小瓶を取り、中の錠剤を一つ、水で体内へ流し込んだ。今度は窓の外ではなく、携帯に視線を落とす。  指で画面をスクロールしているうちに、即効性と記載されていたとおり、次第に効果が現れ始めた。心に充満していた暖かい気持ちが、嘘だったかのように引いていく。心が収縮し、背後から何かが襲いかかってくるような不快感がこころにぼうっと現われる。  十年ほど前だっただろうか、国が不景気に陥った影響で抗不安剤を必要とする人が急増した。私を含め多くの人間が薬の力で心を癒し、窮屈ながらも生きることに躍起になった。しかし、あるとき大手の製薬企業が「抗幸福剤」という薬を開発した。抗幸福剤は抗不安剤に取って代わり、次第に民衆へ浸透していった。  抗幸福剤というのは、たしか「ドーパミン阻害物質」やら「エンドルフィン阻害物質」やらの総称だ。私はあまり薬品に詳しくないが、ようは脳から分泌される幸福物質や脳内麻薬のはたらきを阻害する作用のあるものだと記憶している。 「……君は飲まないのか」 「私は必要ないわ。幸せを感じていたいもの」  抗幸福剤の需要が高まったのは、幸せを感じることが怖いという人間が増えたからだろう。不安を解消することに躍起になっていたものはみんな、幸せを感じないことより、幸せが壊れることの方がはるかに恐ろしいと理解したのだと思う。 「はい。コーヒー」 「ん。ありがとう」  妻が運んできたマグカップを受け取り、礼を言う。沈んだままの口をコーヒーで浸したあと、再びスマートフォンに目を落とす。 「さっきから何をそんなに眺めているの?」 「有名アーティストが、抗幸福剤の乱用で命を落としたんだと。ああそうだ、これ、君の好きなミュージシャンじゃないか」  妻の表情が固まったのを見て、私は自分の発言を後悔した。彼女は抗幸福剤を飲んでいないのだから、不幸に陥ったとき、自分の何倍も心を痛めるのだ。心に懺悔の気持ちが湧き出ると同時、抗幸福剤を飲めばいいのにとも思った。  私が抗幸福剤を手放すことができないのは、こういう些細な幸せが壊れたことでいちいち絶望したくないからだ。そのためには、幸せの絶対値、みたいなものを下げて生きていく必要があった。
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