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 ふと目が覚める。充電コードに刺さったままのスマートフォンは朝の五時を示していて、予定よりも早く起きてしまったことに私は少し損をした気分になった。  昨夜はなかなか寝付けなかった。たしか携帯を手放したのが二時頃だから、えっと、睡眠時間は三時間程度、頭の中でのろのろと計算する。それからノートパソコンの充電をしたままだったから、過充電を防ぐために急いで充電コードを引き抜く。そうしているうちに思考がいくらかクリアになってきて、目を閉じてみても二度寝はできそうになかった。  とりあえず尿意を解消しようと立ち上がったとき、インターホンの電子音が大きく部屋の空気を震わせた。こんな早い時間に一体なんだ。無視を決め込もうと思ったが、妻を起こすのは忍びないと考え直し、私は重い身体を携え玄関へ足を進めた。 「だれだ、こんな早くに」  表情にわざと不快さを乗せ、玄関の扉を勢いよく開いてやった。ぎいいっ、軋んだ音を立てて昨夜の雨の残り香みたいなものが入り込んでくる。 「よかった、起きていたか!」 「……今起きたところだ。どうしたんだ」  日の光と共に現われた赤髪の青年の姿は、私の寝起きでとろけた頭を一瞬で疑問符まみれにさせた。  赤髪の彼は幼いころからの友人で、常識という言葉が服を着たような彼の言動は私も信頼をおけるものだと思っていた。だからこそ、彼がこんな時間に尋ねてくるという非常識な行動を取った理由が私にはわからなかった。 「とにかく来てくれ! どうすればいいかわからなかったんだ!」  彼はそう言うと、くるりと私に背を向け、そのまま朝日のなかへ走り出してしまった。反射的に彼を追いそうになったのをなんとか踏みとどまり、玄関に置いてあった鍵の束を手に取る。鍵を差し込んで回し、ドアノブを引いて鍵が掛っていることを確認してから、彼が消えていった方向へ走る。  家を出発して方約十分、彼はようやくその足を止めた。早朝のランニングにしては些かハードすぎたことを、仏像のように凝り固まった脚が物語っている。「アイツが……」、友人が震えた声でそう口にしたとき、私はようやくそこがもう一人の幼馴染みの自宅であることに気づいた。目の前に立つボロアパートが、必死で不安を抑えようとしている私を嘲笑っているように感じた。 「アイツが、どうかしたのか」  深呼吸を繰り返して肺と心臓を落ち着けたあと、できるだけ平穏なトーンで彼に質問をした。しかし彼は私と目を合わせたあと、そのままアパートの廊下を駆けていってしまった。 「おい!」  思わず出てしまった大声が静かなアパートの壁に反響してから早朝であったことに気づき、それからは黙ったまま彼のあとを追った。赤髪の友人が、がちゃり、乱暴な音を立てて一番奥の扉を開ける。彼に続いて中に入り、1Kの部屋に広がる光景を見たとき、私の心臓は大きく膨張した。  僅かに開かれた窓から風が入ってくるたび、部屋全体がギシギシと軋んでいるような気がした。カーテンレールから伸びる一本のロープが、この部屋の住人が持つ重たそうな身体を懸命に持ち上げている。 「どうして」  じわじわと、重たい感情が身体にかかった重力を強めていく。サンダルですれた足がひりひりと煎りついている。 「遺書が置いてあったんだ……。離れて暮らす妻に保険金が出るから、と……」  彼の死んだ理由が明確になったからなのか、目の前でぶら下がっている身体が既に死んでいることを心がすとんと理解した。古くからの友人が自殺したという悲しみぶん、心が重さを増していく。  首を吊った友人の葬儀はすぐに行われた。葬儀中彼の妻は泣きわめいたりせず、ただどこかもわからない一点をぼーっと眺めていた。彼女は抗幸福剤を服用していると聞いていたが、その表情には悲しみというよりもっと絶望に近い感情を滲ませていたように感じる。  不幸なことがあってもそれに心を蝕まれないためには、幸せの絶対値を下げることが重要だ。抗幸福剤はそういった幸と不幸の境界線を下げることにおいてあまりにも有用だった。しかし、抗幸福剤には重要な欠点がある。この薬は幸福物質のドーパミン、脳内麻薬と呼ばれるエンドルフィン、それから癒しの物質であるセロトニンの働きを妨害する役割を持っているが、オキシトシン、つまりは愛情を感じさせる物質の働きを阻害してはくれないのだ。  愛情がなくなれば人口が増えなくなるという観点から、オキシトシンの阻害をしないような薬にしたのだろうけど、もしそのような効果があれば、死んだ彼の妻が負った痛みはもっと抑えられただろうなと思う。  彼の葬儀が終わったあと、知人たちといくらか言葉を交し、私はすぐに葬儀場を出た。幸い、彼を失った事に関する心的ダメージは少なく済んだ。抗幸福剤万歳、そう言いたくなったがもちろん声には出さなかった。 「ねえ、覚えてる?」  葬儀の帰り、運転席でハンドルを握っていた妻が、唐突に声を掛けてきた。 「何が」 「あなたが初めて、『幸せになるのが怖い』って言った日のこと」 「両親の葬式のときか」  私の返答に、視界の端にいた妻は何も言わずに俯いた。暖房の排気音が、車のエンジン音が、不自然なほど耳に残った。  私の両親は病気で死んだ。父の勤めていた会社は倒産したし、私も給料が少なかったから、父母の治療費を払うだけの余裕がなかった。いや、余裕がなかったというのは言い訳に過ぎない。両親は私の生で死んだも同然だ。私が幼いころ、父はお金がないのに誕生日には盛大にパーティーを開いてくれたし、母は自分の食事を削ってまで私の教育費を捻出してくれた。  もし妻を失ったら、私はきっと壊れてしまう。幸せになるよりも不幸でいることを楽に感じる瞬間が確かにあると思う。もう大切な人を失う気持ちを味わいたくなかった。幸せになれば、それを失ったときの苦しみに耐えることができない。 「私、やっぱり、あなたに幸せになって欲しいわ」  私は何も言えなかった。雨が降っていてくれれば、雑音が増えて聞こえないふりをより自然なものにできたのに、と思った。久しぶりに乗ったこの車は、やはり内部に重苦しい空気が充満しているような気がした。
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