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「どうして……!」  少しの時間が経って、私の首から縄が取り除かれた。私は申し訳ない気持ちと情けなさで、その場から動くことができなかった。妻の顔を直視できないから、私は地面に転がった縄を眺めた。突然、私の身体を熱が襲った。いつも私の頭に蔓延っている「幸せになってはいけない」という熱ではなく、まるで晴れた日のベランダで紅茶を嗜んでいるときのような、優しい温かさだった。  妻に抱きしめられているのだと、私のとろけた脳が理解した。それから、机の上の抗幸福剤へ手を伸ばす。いつもの流れだった。しかし、私の震える手を、妻の手が振り払った。 「……どうして、私を、幸せにしようと、するんだ」  うまく喋ることができなかった。喉から言葉を出そうとするたび、空気の漏れる情けない音としゃがれた老人のような声がふわりと飛び出るだけだった。 「ねえ、覚えてる?」 「なにが」 「十年くらい前、私があなたの誕生日にサプライズで旅行に連れていったときのこと」  妻の声が湿っている。それに引きずられるように、私の声も湿気を帯びる。 「当たり前、じゃないか」  覚えている。仕事を終えて帰ると妻が支度をしていて、今から一緒に旅行へ出掛けると言い始めたのだ。夜行列車に乗って、旅先を目指して……、ああ、そうだ。あのとき二人で食べた売れ残りの駅弁が、とても美味しかった。 「その時のあなたは、『この幸せな記憶を胸にずっと生きていく』って言っていたじゃない。それは嘘だったの?」  彼女は私から身体を離したあと、じっと目を見つめてきた。窓から入ってくる街灯の光がぼうっと彼女の涙を照らし出している。「嘘じゃないが……」、彼女の瞳に当てられた私は、それ以上言葉を続けることができなかった。 「確かにあなたの家族が亡くなったとき、『幸せになるのが怖い』って言っていたのは本当だと思う。でも今のあなたは、ただ自分を追い込んでいるだけのように見えるわ」  家の前を車が通り過ぎていったのか、窓から光が差し込み、天井を経由したあと、そのまま消えてしまった。 「……車を買ったんだ」 「車?」 「そう。君に話すことじゃないかもしれないが、両親が病気に罹る直前、車を買っただろう? もし、車を買っていなかったら、治療費を払えたかもしれない」 「でも、その車は脚の悪いお父さんのためって言っていたじゃない」 「違うんだ。父の車いすを押すのにうんざりしていたんだ。もし、私が……」  私が面倒を避けようとしなければ、両親は死ぬことなどなかったのだ。それまで私に不幸を教えず育ててくれた両親を、私自身の手で不幸にしてしまったのだ。そんな私が幸せになる権利など持っているはずがない。 「……抗幸福剤は、私自身を追い込むのに最適の道具だったんだ。私は不幸でいなければならないから」  妻は一度目を伏せたあと、再び私の身体を抱き寄せた。また、私の身体が熱で覆われる。その熱のなかに、妻の悲しみのようなものを感じた気がした。 「……私は、ご両親がそんなことを望んでいないとか、そういうわかりきったことを言うつもりはないわ。でも、もう少し周りを見てほしい。あなたの幸せを望んでいる人がここにいることに気づいて」  こころの脆い部分が、今にも崩れてしまいそうだった。両親が死んだときに決めた覚悟が、崩壊してしまいそうだった。生き残った意思が石膏のようにこころを補強しようとしているが、もう手遅れに近いところまで来ていた。 「もしそれでもあなたが償うと言うなら、私も一緒にそうするわ。だって、あの車は私も数えられないくらい使っているもの」  声、耳元で妻の言葉が籠もっている。 「どうして、君までそうする必要は」 「だったら一緒に幸せになりましょう。ずっと不幸でいると、いつか幸せを感じられなくなってしまうわ。大丈夫、まだ間に合うよ。いきなりじゃなくていい。少しずつ、ほんの少しずつ幸せの方向に目を向けて」  彼女の涙に震えた声を聞いて、自分が本当に不幸でいた方がいいのか、わからなくなってきた。幸せになったら、それが壊れてしまうかもしれない。私が不幸で居続けることを両親が望んでいないというのはわかっている。しかし、償いというのは死者へのものではなく、自分を許すための行いだと思う。 「私は幸せになってもいいのだろうか」 「少なくとも私はそれを望んでる。あなたが不幸でいることは、私にとってそれこそ抗幸福剤を飲んでいるのと同じだもの」  私の幸せを望んでくれている人がいる。自分勝手だった、と思ってしまった。彼女のことを考えず自分が不幸でいることに浸って、償いをしている気でいた。自分を許せる機会は訪れないだろうけど、彼女の言うとおり、少しずつ幸せを見つけていくのであればなんとかなるような気がした。
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