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 その後、信玄は虎昌謀叛の事実を知ることになる。しかし、軍の動揺を隠すためにも虎昌の死は内密にされた。だが、隠しとおすのも時間の問題であり、義信に直ぐ気付かれることとなる。  義信は納得いかなかった。  謀反は失敗し、虎昌は命を落とした。  なのに、義信はおとがめ無しだったのだ。 「父上。なぜわしを生かす? わしは父上を殺そうとした張本人ぞ。情けなどいらない。切腹を申しつけてください」 「お前はこの謀反とは何の関係もない。これを読め。証拠だ」  虎昌の屋敷には密書ともとれる書物が置かれていた。家宅捜索に入った際に見つかったものである。 『御館様は近頃乱心しておられる。今川家との縁を切るとは家を滅亡させることになる。そのため、御館様を隠居させるべく兵を上げたい。ひいては援軍を願いたい。  なお、この計画は虎昌の才覚で行うことであり、《義信様は一切関係ない》ことを追記する。  飯富虎昌』  誰に宛てた密書かは書かれていない。義信は歯がゆい思いをした。 「そんなばかな。父上。じいの名誉のために言う。謀反はわしが企てた!」 「うるさい。その書状が全てだ。虎昌の気持ちがわからぬか?」  信玄の目は潤んでいるような気がした。その姿を見て義信は愕然とした。  虎昌は義信をどうしても生かしたかったのだ。だから、自分だけが罪を被り犠牲になる方法を選んだ。今の武田家には信玄が必要であり、未来の武田家には義信が必要なのだ。 「じい……。じいーー!」  義信はおいおい泣いた。もうそこには勇敢な義信の面影はない。 「お前のような馬鹿者は頭を冷やしておれ」  義信は東光寺に幽閉されることになった。  十月十五日、虎昌の死は公表された。  信玄は家来に起請文を提出させ、家臣団は強い絆で結ばれていることを確認した。  しかし、義信との関係は修復できなかった。高僧などを招いて画策したが上手くいかなかった。  二年後、計画通り三国同盟を破棄され、義信はそれを追うように自刃して果てる。  確かに虎昌の死は義信に影を作った。しかし、それは義信の重荷となり、追い詰めていっただけなのかもしれない。  未亡人となったおつねは駿河に戻って出家し、嶺松院と名乗った。しかし、信玄は駿河に進攻し、徳川家康と駿河を二分したため、おつねの行方はわからなくなった。  虎昌の願いは届かなかった。  虎昌の死は無駄だったのか。  否。  ただ一つだけ。虎昌の生きた証が残った。  源四郎は虎昌の赤備えを引き継いだのだ。そして名家の姓を貰い、山県(やまがた)三郎兵衛昌景と名前を変えた。  みるまに頭角を現した山県昌景は武田四天王を筆頭する武将に登りつめ、他国から恐れられる存在に成長したのである。  虎昌の血潮は、赤備えと共に今なお生きているのである。
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