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 義信が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の居館に戻ってくると、正室のおつねが待っていた。武家の妻というより、公家の娘のような上品さと柔らかさがある。義信は妻をおつねしか娶っておらず、一途に愛していた。  おつねは義信に微笑みかけると、義信も笑顔で返した。 「あら、義信様。何かありましたか?」 「ん。何もないが」 「嘘。義信様が満天の笑みを浮かべているときは、何かを隠しているときですのに」 「ははは。おつねは何もかもお見通しだな。少しばかり決心してきた」  義信は肩をいからせていることに気付き、力を抜いた。これだけの動作なのに、気持ちがらくになった気がする。おつねのおかげだろうか。 「決心?」  おつねは義信の顔を覗きこんできた。  「御館様との関係ですかね。今は武田家が一丸となるとき。私のことは考えなくても良いのですよ」 「そういうな。わしはそちにこれ以上悲しい想いをさせたくないのだ」 「有り難いお言葉。しかし、義信様は武田家の跡取り。お家を第一に考えてください」 「当然だ。全ては武田の未来のため。力と恐怖で人を繋ぐ父のやり方は間違っておる。わしは慈悲で絆を築きたい。ふふ、理想論だと笑うか?」 「立派なお考えです」 「うむ。とはいえ、まだわしにその力はない。まずは目に見える所からじゃ。自分の妻すら幸せにできない男に何か変えられるわけがないからな」  義信はおつねの白く細い手を引き寄せると、胸に抱えこんだ。今にも折れそうなうなじから、香のかおりがする。 「そちは何も心配するでない。わしが守るでな」  義信は胸にうずくまったおつねの肩に手を回し、天井をぼっと見つめていた。小さい肩だ。おつねだけは守りたい。いや、守る。何があっても守るのだ。  義信と信玄の確執は退くに退けないところまで来ていた。 (わしは断じて間違っていない)  義信は唇を強く噛み締めた。  そもそも確執の原因はどこにあるのか。  話は一月前にさかのぼる。  信玄と義信は向かい合い激しく口論をしていた。  三国同盟(甲斐・駿河・相模)の存続についてもめていたのである。 「父上。三国同盟を破棄するとは本当ですか?」 「本当だ」 「それは駿河(静岡県)を攻めるということですか?」 「そうだ」    義信は唾を飲んだ。  駿河の今川義元が桶狭間の戦いで討たれてから今川家は急速に力を失い、同盟国としての意味をなさなくなった。  信玄の戦略は領地拡大にある。甲斐は貧しい国なため、領地を広げるしか国を富ませる術がない。弱小国となった今川家を新しい標的としたかったのである。  しかし、義信は同盟破棄を呑むことはできなかった。  妻のおつねが今は亡き今川義元の娘なのである。父に先立たれたうえ、故郷を戦地に晒されるなど、あまりに可哀想ではないか。  義信は目を見開き、信玄の目を見据えたまま、まくし立てた。 「父上。お言葉ですが、三国同盟は武田の屋台骨。それを破棄するなどもってのほか」 「屋台骨などとうの昔。いまや今川に力などない。均衡は崩れ、三国同盟はすでに終わったようなものなのだ。妻が気になるか? お前の妻は今川義元の娘だ。今川家に人情でも湧いたか?」 「ち……、違います! 同盟国を裏切って攻めるなどすれば天下から信用を失います。このような行いに、誰が着いてきましょう?」 「世迷いごとを。乱世は弱肉強食だ。弱きものを強きものが喰う。自然の摂理ではないか。強さこそが正義なのだ。強ければ誰もが従う。信用とはそういうことではないか? 勝たせてくれる者こそが信用を持つ」 「強さは正義、おっしゃる通りです。しかし、人には心というものがあります。恐怖で支配するだ」 「黙れ! やはり人情が湧いたか。心を鬼に徹しきれんものは武田にはいらん。帰れ」 「父上!」 「帰れ!」  二人はそれ以来会っていない。  義信は父の意見に屈する気は毛頭なかった。自分の考えが間違っているとも思わないし、気持ちでは既に父と同格のつもりでいた。川中島の戦いでも武功を上げており自信もついてきている。  何より、虎昌という武田最強の槍が味方なのだ。 (父上は間違っている)  義信は信玄と対立することで、より一層強固な信念を持っていった。それは今も変わらない。 「いたいっ」  気付くと、義信は強い力でおつねを抱きしめており、慌てて離した。 「すまん」 「いえ、いいのです。義信様、これだけは覚えておいてください。私よりもお家を優先すること。義信様は優しすぎますから」  おつねは一礼すると、小走りで去っていった。  家が優先。わかっている。  ただ、武田家の未来を思うにしても、やはり同盟国が弱まったからといって刃を向けるべきではない。  何度自問自答しても、たどり着く答えは同じでだった。  信玄を説得するなど無理な話なのだ。ならば方法は一つしかない。 (やるしかない)  義信は呪詛を唱えるように、何度も何度も復唱した。  
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