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『父を殺す』
恐ろしい言葉が虎昌の頭の中で延々と反芻していた。未だかつてこれほど悩んだことはなく、眠れない日々が続いた。屋敷の中にいるのに居心地が悪い。
そんな折り、虎昌の屋敷に訪れたのは弟の飯富昌景だった。虎昌は昌景のことを、改名前の源四郎の名で読んでいる。
源四郎は小柄だが、体の大きさに反比例するように勇猛果敢で、家臣団からの信頼は厚かった。
親子ほど年の離れた兄弟だが、源四郎は遠慮がなく、同等の関係を築いていた。
「源四郎か。お前が来るとは珍しいな」
「たまにはの」
源四郎は無愛想に縁側に腰をかけた。
「いい庭だ。広い」
源四郎は仏頂面を庭に向けている。
松が一本立っているだけの、何もない殺風景な庭だ。特にこだわっている所もない。
虎昌は美的な感覚に乏しく、風情を楽しむ趣味もないため、庭がどうかなどわからなかった。
「そうかのう」
「うむ。今年のつつじは良く咲いたか」
躑躅ヶ崎館はその名の通り、つつじが咲き乱れることから名付けられた。
春になれば虎昌の屋敷にも咲くが、正直、今年がどうだったかなど覚えていない。
「わからん。お前のほうは咲いたか」
「わからん」
「なんだそれは」
虎昌は呆れたようにため息をついた。
「何をしにきた?」
源四郎は頭をぽりぽり掻きながら
「言いにくいことがある」と言った。
虎昌の胸が騒いだ。
「遠慮はいらん。言え」
「義信様のことよ」
額に一筋の汗が流れる。
(まさかもう漏れたのか)
虎昌は縁側に腰をかけると源四郎が続きを話すのを待った。
「御館様と義信様の確執は知っておろう?」
「当然だ」
「御館様は疑っておるぞ。義信様も、兄者も」
虎昌は平常を装いながら唾を飲んだ。
「疑っておるとは何をだ」
「最悪の事態だろう」
「最悪の事態か……」
「実際のところ、義信様はどうなのだ?」
しばらく無言の時間が過ぎていった。
源四郎は虎昌が喋るのを待っているように、庭の一点を凝視している。
虎昌は本音を語ろうと思った。
兄弟だからというのもあるかもしれないが、源四郎が信頼できる男だったからである。
「源四郎。義信様は武田家を背負うお方だ」
「うむ」
源四郎が頷くと虎昌は嬉しくなった。
「だろう。義信様の人柄は知っておろう。真っ直ぐなお人なのだ。わしは義信様のためなら命を賭けられる。そう思わせてくれる御仁なのだ」
「うむ」
「この乱世を統治すべきお人とは誰だと思う? 皆、飢饉に飢え、戦に精根尽き果て、それでもなお戦争に明け暮れる。どこかでこの螺旋から抜け出さねばならない。その役目を担うべきお人とは誰だと思う?」
「それが義信様だと言いたいのか」
「そうだ。人の上に立つものは、強さと正義兼ね備えておらねばならん。が、それだけでもいかん。慈悲の心も大切なのだ。義信様こそ相応しい人物だとは思わんか」
「やけに楽しそうに話すではないか。目が輝いておるぞ」
「ばかもの。この未来に心は踊らぬか。そういえば、昨日、組打ちをしての、義信様のその時の技術といったら」
「ふふっ」
「なぜ笑う?」
源四郎は口許を綻ばせて、虎昌の目を見た。
「義信様は兄者にそっくりだと思ってのう。兄者も真っ直ぐな人だ」
虎昌は口をもごもごした。
確かに似ておるのかもしれん。だが、問題はそこにあった。
「わしは武田家を継ぐのは義信様の他におらんと思う。しかし、それは今ではない。まだ足らないのだ」
「ほう」
「綺麗事だけではやっていけない。乱世を切り抜ける権謀術数も必要だ。時には鬼のような冷徹さも必要だ」
「なるほどの」
「義信様にはまだそれがない。光のようなお人だが、影がないのだ。お前が傅役ならば良かったかもしれん。わしと違って腹黒いからのう」
「笑わせるな。兄者と変わらんわ」
二人は放笑した。
「逆に御館様は闇だのう。深淵を覗こうにも、常人では御館様の考えを推し量ることはできない。だからこそ、武田家はここまで飛翔できた」
虎昌は源四郎と話したことで、考えがまとまった。
信玄を殺すなど絶対にやるべきではない。信玄の存在そのものが武田家であり、信玄の描く道標を進むことが正解なのだ。
必要なのは今までと変わらず、義信を跡継ぎとして育てていくことである。何としても説得し、後継者への道を残さねばならない。
「源四郎。義信様は三国同盟の破棄に不満をつのらせておるのは事実だ。お前のいう、最悪の事態に繋がる可能性も……」
「あるか」
「うむ。だが、案ずることはない。わしがそのようなこと絶対にさせん。謀叛など絶対に起こさせん」
「それを聞いて安心した」
源四郎はおもむろに立つと、虎昌を真っ直ぐ見てきた。
「だが、一つ忠告させてくれ。御館様が疑っておるのは本当だ。おそらく、透波を忍ばせておるぞ。大丈夫だとは思うが、勘違いされるような行動はとらんでくれよ」
「言われるまでもないわ」
源四郎がいなくなると、虎昌はらしくもなく庭を歩いて見てまわった。何周か回り、屋敷のすみの生け垣で足を止めた。
「ここだ。ここにつつじが咲いた」
今は緑でおおいつくされているが、ここで間違いない。
小さな発見に年甲斐もなく虎昌の心は弾んだ。
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