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次の日、義信の考えを改めさせるという決意を胸に秘め、虎昌は義信の居館に赴いた。
「じい。あの件か」
「はい」
義信は虎昌にさっと近付くと「見られておる」と耳打ちした。
「少し歩こう」
義信は外へ行ったため、慌てて虎昌も追いかけた。
「義信様」
「じい。たまには早駆けでもするか」
「義信様。待ってください」
「ははは。また老いぼれとでもいうのか」
「違います。落ち着いて話したいのです」
義信は小声で「それができんのよ」と言うと、馬屋から一頭借りて跨がった。
「そうだな。韮崎の丘で会おう。じいは真っ直ぐ来い。わしは迂回して行く」
義信は虎昌の返事も待たずに駆けていった。
虎昌は調子が外れた。
これではまるで密談に場所を探しているようではないか。違う。何もやましいことはない。堂々と話したいのだが、仕方なく虎昌も後を追った。
韮崎は甲斐から四里ほど西にある。義信のいった丘は片側が絶壁になっている、巨人のへそのような場所だった。
「遅かったな。まあよい。念のため小声で話そうか」
義信の声は明るかった。
「遅いもなにも。義信様。これではまるでやましいことがあると言っているようではありませんか」
「じい、気付いておらなんだか。おそらく透波のものが聞き耳を立てておったぞ」
「知っております。別に聞かれたら聞かれたで良いのです」
「聞かれてもいいだと。父を殺すのだぞ」
「私は殺さない」
「なに?」
義信は目を丸くした。当然、虎昌は与してくれるものだと思っていたのか、困惑しているのが窺える。
「まさか、じい。わしに仇なすのか」
「そうではありません。しかし、謀叛など起こしてはなりません」
「じい」
義信は悲しそうな声を出した。虎昌は義信の心情に深入りしないよう気持ちを強く持った。
虎昌は正座して、手を地につけたが、食い入るように義信を見た。目に力を入れ、顎をひく。上目づかいに見る姿は虎のようだった。
「なりませんぞ。御館様に逆らうなどなりません」
「何故だ?」
「御館様が武田家の頭領だからです」
「なるほどな」
義信は額に皺をつくり、一息吐くと、虎昌を睨み付けた。
「その頭領の意見が間違っていたらどうする。間違いも指摘せず、ただ黙ってついていけと言いたいのか。讒言されない頭領など滅びたも同じ。讒言を聞き入れない頭領も滅びたも同じだ。じいなら、わしの意見に反しても、ましな意見をくれると思っておったが」
義信の眼光が鋭くなる。お互いに目を逸らさず、その光景は龍虎が対峙するようだった。
「いえ。御館様にも、聞き入れられる意見と、聞き入れられない意見とがあります。大筋の戦略を変えることなどできないのです」
「だがその大筋とやらが間違っておるのだ」
「物事には必ず表と裏があります。義信様から見れば同盟破棄は間違っておるかもしれませんが、別の側面から見れば間違ってはいないのです。義信様は別の側面を理解するべきかと思います」
「別の側面だと」
「はい。甲斐は肥沃な土地ではありません。民はみな貧困に苦しんでいます。では民を救う術はどこにあるのか。それは海です。海を手にすれば、貿易から富を得ることができます」
「それが別の側面か」
「はい」
「民を貧困から救う手は海だけではあるまい。数ある選択肢のうちの一つにすぎん。理解はできんな」
「義信様」
「ではおつねはどうなる!」
義信の怒号がとんだ。その迫力に空気が震え、草木がざわめいた気がした。
「なにも感情論で言っているだけではない。信用はどうなる。武田家の信用は失墜するぞ」
「強さがあれば信用は失われません」
「父と同じことを言うな。わかった。じいは外れろ。だが、わしは自分の意見は曲げん」
「若っ!」
虎昌も地に向かって吼えた。立ち上がり、義信と正面から向き合った。
若と言ったのは、元服する前の呼び方が自然と出てきたためだったが、功を奏したのか義信が一瞬身構えた。
「若。若が武田家を破滅へ向かわせていることが分からないのですか」
「わしがか」
「御館様との確執が続けば、いずれ武田家は分裂しますぞ。内部崩壊した国の末路など目に見えていましょう。このままいけば、廃嫡される恐れもあるのですぞ」
「……」
「武田家の跡継ぎは義信様しかあり得ないのです」
跡継ぎが義信だけだというのは、誰もが知る周知の事実だった。
信玄の子に勝頼もいるが、名前に「信」の字はない。これは跡継ぎは義信だという意思表示であり、後継者を巡る分裂を防ぐ手だてだった。
「武田家の繁栄を臨むのなら、義信様が継ぐしかないのです。そのために堪えねばならないときもあるのです」
「大切なものを失ってもか」
「はい。武門の家に生まれた以上、ときには理不尽に耐えねばなりません」
「そうか。それがじいの考えか」
義信は踵を返し、颯爽と去っていった。
誰もいなくなった丘に虎昌は一人佇み、大きく息を吐いた。
説得に成功したかどうかはっきりと判断できないが、去り際の義信の声は穏やかだったように感じた。
少なくとも虎昌の考えは伝わったはずだ。義信も一考してくれるはずだ。
(若、か)
虎昌は自分の言葉に笑った。幼少期のころを思いだしたのである。
六歳のときだろうか、つつじの花を引きちぎり、これは母上への贈り物だと言ったことがある。そういえば、そのつつじも虎昌の庭のものだった。じいにもやる、と言って千切って渡してくれた。その時の、風に乗って香った、ほのかに甘く青い匂いを思い出した。
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