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「じいか。どうした?」  虎昌は決死の覚悟で会いにいったが、義信の声はあっけらかんとしていた。 「謀叛を企てておるようですな」 「ここでその話は止めろ」 「いえ、止めません。考えを改められるまで退きません」  虎昌は腰から鞘ごと刀を抜き取ると、義信の前に丁寧に置いた。 「今日は討ち死にする覚悟で来ました」  虎昌は一礼すると、失礼と言って立ち上がった。 「透波どもでていけ! 私は義信様と本気の話をしたいんじゃ」  虎昌が大喝すると、天井裏で物音がした。  おそらく潜んでいた透波が逃げて行ったのであろう。しかし、虎昌は「邪魔だといっとろう」と言って、襖を開け縁側の下に隠れていた男を引きずりだし、蹴飛ばした。 「失礼つかまつった。これで本音を話して頂ける」  虎昌は服装を正し平服した。 「本音だと? もう話したではないか。わしは自分の考えを曲げん」 「武田家を継げなくなりますぞ」 「何を言う。殺せば、必然的にわしが頭領になる」 「無理ですな。既に謀叛の計画は露見しております。御館様に楯突くなど到底無理な話なのです」 「露見しておるなら次の計画を立てるまでよ。じい。協力する気がないのなら去れ。邪魔だ」 「私に去れというのなら、その刀で私を斬れば良い。それ以外に私を退ける方法はないですぞ」  虎昌は視線を刀に移した。綺麗に装飾された鞘から皮一枚だけ刀身が出ており、怪しく光を放っている。 「斬れだと? 馬鹿馬鹿しい」 「甘い!」  虎昌は咆哮を上げた。どすの効いた低い声でたたみかける。 「その甘さが武田家を滅ぼすのです。それで武田家を継ごうなど笑止千万。義信様ではまとめられますまい。たとえ謀叛が成功したところで武田家が滅びるは必定」 「甘いか。はははは。甘いのはじいの方ではないか。わしを止めたいのなら、手段はいくらでもあるはずであろうに、あくまで話し合いに拘り、野放しにしておる。のう?」  虎昌は何も言い返せなかった。  義信は鞘を手に取ると、刀を抜き去った。 「斬れというのなら、じいがわしを斬れば良い。わしも命を賭けておるのだ」    義信は刀を高く上げてから畳に突き立てた。  光が揺れ、鏡のような白刃が聳えたつ。  刀身に映った自分と目が合い、虎昌はぎくりとした。血走った目の上で黒目がゆらゆらと揺れている。何に動揺しているというのだ。まさか覚悟が揺らいでいるとでもいうのか。 「勘違いしておるようだが、説得など無理だと思え。わしの決意は鋼より固い」 「なぜそこまで、後継者の道を断ってまで謀叛にこだわる……。武田家の未来を真剣に考えてくだされ!」 「武田家の未来などどうでもいいわ!」  虎昌は唖然とした。義信の悲痛にも似た言葉に、自分の全てを否定された感じがした。 「本音だ。武田家などどうでもいい。わしは、ただ一つ大切なもののために生きる。おつねのために生きる。女々しいか? 情けないと言いたければ言えばいい」 「……」 「じいにはないのか? 自分の命よりも大切なものがないのか?」 (……。ある)  虎昌は言葉を無くした。  何度、戦場に立っただろう。何人の命を奪っただろう。虎昌は人生の大半を戦に費やした血塗られた人生だった。  数多の首に支えられた戦歴を、華やかだといえばそうかもしれない。だが時折、奪い合いの螺旋に吐き気がするのだ。しかし、虎昌の誇りはその螺旋の中にしかない。  昨夜、虎昌は赤備えの具足を見て、己の人生を思い返した。本来あるべき姿に還ろうとの思いからだが、脳裏に出てくるのは、戦ではなく、光のような義信の姿ばかりだった。己の全ては戦場のなかにあるはずなのに、義信の姿ばかりが思い出されるのだ。  幼少期から自分の全てを叩きこんできた。義信の成長にその都度感動してきた。  かまきりに怯え、虫も殺せなかった子供が、川中島で武勇を知らしめるまでになった。  馬から桃のように転げ落ち、泣くのを必死に我慢していた義信は、今や虎昌を凌ぐまでになった。  義信は大きくなった。しかし、つつじの花をとってくれた義信は今も変わらないままなのだ。いや、虎昌が返させられなかっただけなのかもしれない。  優しさは甘さとなり、身を滅ぼす弱点になった。  しかし、それでも義信の甘さを嫌いになれない。    虎昌は義信と目を合わせた。武将然とした瞳の奥が潤んでいる。おつやが棲みついているのだ。 「大切なのはじいも同じだ。実の父以上に、じいのことを父だと思っている。お願いだ。わしに着いてこい」  虎昌は一筋の涙と一緒に 「承知」    と溢した。  虎昌にも命より大切なものがある。  義信を実の子以上に、子供のように思っているのだ。  この命、義信のために燃やし尽くそう。 「良かった。じいがおれば百人力だ」  義信は満足げに頷いた。義信の顔を見ていると、虎昌の何かが吹っ切れ、頭が回転し始めた。  虎昌が謀叛に加担したことは一度ある。  信玄が父信虎を追放した時である。  その時は、家臣たちの心が信虎から離れており、みな信玄に味方した。そのため、追放という形で怪我人もなく紳士的に解決した。  しかし、此度の場合は無理だろう。磐石は揺るぎなく、家臣達は信玄を神のように崇めてさえいる。謀叛を成功させるには、義信の言う通り、殺害以外に選択肢は無さそうだ。  ではどのような方法を取れば良いか。  虎昌はその答えを知っていた。  信玄の警備は厳重であり、近づくことさえ容易でなく、甲斐中に張り巡らされた情報網をくぐり抜けることは困難を極める。  一見、信玄を殺すなど無理に思えるが、警戒を弛めざるをえない場所があることを虎昌は知っていた。    隠し湯である。  信玄は元々、労咳を患っており、その治療に隠し湯を使用し、その間、影武者を用意していた。労咳を患っていることは、重臣しか知らない秘中であり、隠し湯の場所は更に秘中である。義信でさえ知らない。  だがあいにく、武田家の宿老である虎昌はその二つを知っていた。 「策を立てました。一度しか言いません。よく聞いてください」 「流石だ。聞かせてもらおう」 「機を待ち、隠し湯を襲撃する。御館様の唯一の穴を攻めましょう」  義信が唾を飲む音が聞こえ、「なるほどな」と腕を組んで唸った。 「隠し湯の場所を知る人間は少ない。場所を隠すため、警備も厳重にはできません。そこを少数精鋭の部隊で襲撃します」 「少数精鋭か」 「はい。私の赤備えに勝る精鋭部隊はいないでしょう」 「機とはいつだ」 「次の合戦です。今から支度をしたところで、容易に露見しましょう。合戦の準備であれば怪しまれることはないでしょう」 「なるほど」 「そして、風の如く早さで、隠し湯を目指します。我らの早さについてこれる部隊などないでしょう。機を待つあいだは林の如く静かに、山のように動じず」 「風林火山か。皮肉だな」 「それしか方法はないでしょう。ただ一つ」  虎昌は一息ついた。 「ただ一つ。お願いがあります。義信様には、どっしりと居館に構えていて欲しいのです。戦場で戦うのは我らのような家臣の仕事。大将として後ろで構えていてほしいのです」 「虎昌。わしは自分だけが安全な所にいるなどやりたくない。やるならわしが先陣を切る」 「なりません。次の武田家の頭首は義信様になるのです。頭首となるのなら、自分の命の重みを考えてもらわねばなりません。どうかご承知ください」  虎昌は目で義信を征しようとした。背後に猛虎の幻影を見た義信は怯んだ。 「やむをえん。そうしよう」 「ありがとうございます」  虎昌は畳から刀を抜くと、ゆっくり鞘に納めた。金属の擦れる悲鳴のような音が、静寂の空間に響き、虎昌の耳で木霊した。  もう後には戻れない。  虎昌の指は震えている。  それが武者震いなのか恐怖なのか、虎昌自身でさえわからなかった。
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