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早朝、甲斐の地は朝霧が覆いかぶさっていた。遠く雪を被った山から頭半分だけだした太陽が霧を青く染めており、その中でもわもわと濁った衝撃音が木霊している。地鳴りのようなその音は輪郭をはっきりさせていき、やがて馬蹄の音だと気づく。
その瞬間、霧を切り裂いて真紅の騎馬武者が数十騎現れた。
虎昌の率いる赤備えの軍団である。
皆一様に赤い具足で統一しており、それぞれが自慢の駿馬に跨がっていた。虎昌は愛馬の砂月に乗っている。右手に槍を持ち、左手は手綱を握っていた。
(頼むぞ)
虎昌は慈しむように左手でたてがみを撫でた。砂月は老いている。尻は叩かない。体力はここぞという時のために温存しておきたかった。
「虎昌様。どこに向かわれているのですか?」
家来の一人が尋ねてきた。
虎昌はここまで義信以外の誰にも謀叛の計画を漏らしていない。
出陣も「ついてこい」の一言を発したのみで、家来も良くわからず追従したが、あまりに急な出陣だったためついてこれた者は少ない。元々、虎昌は三百騎を預かる侍大将だが、日頃から虎昌に心従していた者、十八騎だけである。
数としては心許ないが、虎昌が最も信頼している男達だけだともいえた。
虎昌は一息おいて、
「隠し湯だ」
と言った。
「はて、それはどこに。まさか御館様の身に危機が」
「逆だ。御館様を討つ」
「なっ」
「近頃の御館様は乱心しておる。喝を入れにいくのだ。勇気のあるものだけついてこい」
家来は少し間をおいて快く返事をした。
「我らの主は御館様ではなく虎昌様。お供します」
「ならば、わしと共に命を賭けよ」
虎昌は安堵した。ここに集まったものたち以外なら、反発するものもいたかもしれない。
「虎昌様。深く理由は聞きませんが、我らのやることは正義なのですよね」
「当然だ。武田家を一心に思っての決断だ」
二言はない。全ては武田家の未来のためだ。
家来はこくりと頷いた。
虎昌は檄を飛ばすと鬨の声が上がり、一塊の赤い鬼となる。雪崩れうつように駆けた。皆、馬の扱いに慣れているため、自然と行軍速度は早くなった。
「血がたぎるのお」
信玄を殺すことにではない。
久しい感覚にだ。
重なりあった馬蹄の音が、陣太鼓のように心臓を叩いている。体が熱くなり、手綱を持つ指先までもが脈打っていることがわかった。揺れる手綱から地を蹴る感触が伝わってくる。全てが自分の思い通りにいくような、必勝の感覚だった。
虎昌は急に信玄の首をとるという実感が湧いた。
「往くぞ」
「オオーーー!」
起きた鯨波に、がなり声が混じっているのを、過敏になりすぎた虎昌の神経は聴きのがさなかった。
虎昌は耳をすました。
やはり雑音が混じっている。
(来たか)
虎昌は後ろを振り返った。
霧は薄くなっている。
縦に長くなった赤備えの列の、さらに一町ほど後方に騎馬が見えた。
(来たか。源四郎!)
見違えるはずがない。
源四郎が追ってきているのだ。
「皆のもの。敵襲じゃ。迎え撃つぞ」
「敵? 今度は誰でしょう」
「後ろをむけい。わが弟よ」
虎昌はくるりと馬首を返し、一同もならった。
源四郎の部隊が怒濤の勢いで向かってくる。いや、部隊というには乏しいか、数えると十騎だった。
「行きますか?」
「当然だ」
数秒で源四郎たちに突撃され、瞬く間に混戦に陥った。虎昌は渦中から一歩離れて観察した。皆、最初は馬の上から槍を奮っていたが、乱戦になると逆に邪魔になったのか下馬するものも出てきた。
赤備えは最強の騎馬隊である。虎昌にとってそれは不滅の名誉であった。しかしどうだ。源四郎の方が馬の扱いが上手い。
一人騎乗したまま熾烈に戦っていた。
「邪魔をするか! 兄者をだせ!」
源四郎の激しい声が聞こえた。
まず源四郎の槍が虎昌の家来一人の首をえぐった。
源四郎の動きは止まらない。槍が空に円を描き、その残像を追うかのように血渋きが上がる。馬は躍動し、人と人の隙間を縫いながら縦横無尽に動いていた。
この暴れ方は武田の戦い方だ。虎昌の戦い方だ。
「源四郎……。踊っておるのか」
虎昌は源四郎の姿に見惚れていた。
鬼め。
その姿を見た虎昌はにかっと笑うと一声した。
「源四郎! わしはここだ! 虎昌はここにおるぞ!」
源四郎の目が向く。
「止められるか?」
虎昌はそう言うなり、馬首を翻して砂月の腹を蹴った。隠し湯めがけて駆けていく。
「兄者!」
源四郎も乱戦から抜けて虎昌を追ってきた。徐々に差がつまり、肩を並べて走った。
「兄者。つまらんことをしたな。これが武田家のためを思ってか」
「ああ。答えに気付いたようだな」
信玄が闇に堕ちたきっかけ。
それは、傅役の死だと虎昌は考えた。
信玄は昔、被害を省みない自身の強行策で、傅役の板垣信方を討死させた。当時、板垣信方は戦略の無謀さを説いたが信玄に聞き入れてもらえず、あえて信玄の策を受け入れることで、壮絶な討死を遂げた。命を賭した讒言である。
板垣信方の死は、武田家にとって甚大な損害となったが、一方で信玄の考え方を一変させた。これを機に武田軍の快進撃が始まり、最強の道を歩むことになる。
虎昌は自分の命の価値を見積もった。
義信の傅役は虎昌である。信玄と板垣信方の関係と同じぐらいに、義信と虎昌の関係も深い。
虎昌の死は義信に最も必要な影を与えることができるはずなのだ。
義信には光があれど影がない。逆にいえば、影さえあれば義信は御館の器があるということなのだ。
これは、非情の強さを手に入れ、最愛の妻を家のために見捨てる覚悟にもなるはずだ。
「全ては義信様のため。そうだろ?」
「ご名答。ならばわしを止めてみせよ」
「兄者。腹を切れ。俺が介錯する」
「そうしたいのは山々だが、わしのいない武田家が心配なのだ。肌でその力を確かめんことには死ねんのよ。武田軍は最強との呼び声に値するか、この目でしかと見届けたい」
「馬鹿め。己の技量を買い被りすぎだ」
「うるさい。組み打ちだ」
虎昌は槍を捨てると、両手で手綱を握り砂月を全速力で駆けさせた。一馬身、二馬身とみるみる距離を離していった。
「付き合わぬぞ」
遠く後ろから聞こえる源四郎の言葉を無視して、虎昌は駆けた。半町ほど離れたところで、くるりと半回転して砂月を止めた。
両手を大の字に広げて構える。
「来い!」
虎昌は叫んだ。
「ええい。仕方ない。馬鹿に付き合ってやるわ」
源四郎も槍を捨てた。片手を高くあげている。速度は変わらない。当たるのは四秒後だろうか。一呼吸する余裕がある。
虎昌の神経は研ぎ澄まされていた。今なら、あの時の義信にも負ける気がしない。
虎昌は手で大きく円をかくように回した。それに合わせるように砂月もゆっくりと歩く。力は抜いている。淀みない水の流れを意識していた。あの時、義信にやられたことを源四郎にやり返そうと思った。相手の力を利用して手首を返す。今ならできそうな気がした。
虎昌が呼吸を吐ききった瞬間、二人の手が重なった。
源四郎に凄い力で握りしめられたが、虎昌はその力に逆らわず、時計回転に回した。
源四郎の尻が浮く。
今だとばかりに同じ方向に力を加えると、源四郎を馬から引き剥がすことはできたが、足で馬の腹を蹴って宙に飛ばれた。
猿め。
源四郎の体が翻り、覆い被さられる。二人は落馬してしまった。
体に鈍い衝撃がはしる。
地につけば残るは単純な組み打ちだ。体力で劣る虎昌が不利である。
落馬した衝撃で体をまだ上手く動かせない。老いた。虎昌は歯がゆく思った。
虎昌が起きるよりも早く、源四郎は体を跳ねさせ、馬乗りに跨がられた。源四郎は腰から脇差しを抜き、白刃を真下に向けた。
「見事だ。源四郎」
清々しい。
虎昌は腕を大の字に広げて視線を空に投げた。いつの間にか朝になっていた。雲はない。良い秋晴れになりそうな日だ。
それなのに、虎昌の顔を濡らすものがあった。
「泣くな。笑え」
虎昌の真上で源四郎が泣きじゃくっていた。目からは涙が溢れ、頬も鼻筋も濡れていた。
「なぜだ。兄者。他に方法はないのか」
「ありがとう源四郎。酷な役を買わせてしまったな」
「俺も考える。兄者も考え直せ。別の道を」
「ははは。案外優しいやつだったのだな。たまには兄の考えを尊重せえ」
虎昌は源四郎の脇差しに手を添えて、自分の首に持ってきた。
返り血が源四郎の顔を体を真っ赤に染めた。
(託したぞ)
言葉は発っせなかった。
伝わったか。
大丈夫。伝わったはずだ。
目の前が白くなる。何も見えない。三郎兵衛が何かわめいているのだけわかったが、それも徐々に遠くなっていった。
「じい。これをやる」
「なんですか、これは」
「やると言っているのだ。赤が好きなのだろう」
「は、はい。ありがとうございます」
遠い日の記憶だ。
幼かった義信が渡してくれた、真っ赤なつつじ。
私の色だ。
虎昌はつつじを受けとると、優しさの中でこと切れた。
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