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課長の増田要一は恰幅がいい。簡単に言うと、かなり太めの体型。それもぽっちゃりとしていて、童顔なのも重なってなんとなくかわいらしい雰囲気。ユーモラスでもある。
課長はその体型からは想像できないと言っては失礼だが、仕事に対するバイタリティは高く、成績もいい。近々、部長に昇進すると言うもっぱらの評判だ。
今回も、大きめの商談をひとつまとめて、増田要一始め課員は意気揚々としていた。
「この成功は、誰か一人のものでは無い。君たち一人一人の力の結集がこの成功に繋がったと思っている。せめて今夜は、この勝利に酔いしれよう」
ふっくらぷるぷるした顔から、やや舌足らずな感じで厳かなことばを発する彼のスピーチは、いつも見ている人の微笑みを誘う。これも彼の人徳だろう。
課内で俗に「戦勝祝賀会」と呼ばれる飲み会があり、僕も出席した。
僕は大学を出て配属されて2年目だが、どうも課長には気に入られているようだ。課長はどの課員にもチャンスを与え、その出来で段階的に任せる仕事をチョイスしてくる。
「おまえは相当に課長から有望と見られているようだ。……そのうちに俺らの上司になるかもな。頑張れよ」そんなことを先輩社員から言われたことがある。言われことは素直に嬉しいが、後輩に追い抜かれて悔しくはないのだろうかという気もした。けれど、そういう反発心のようなものを課員に抱かせないのも増田課長の指導の影響らしかった。常に課員の人心を把握して不満が溜まらないように、仕事に専心できるようにと気配りを怠らないのが増田課長の成功の秘訣でもあるらしい。
「戦勝祝賀会」とは言うが、出だしは基本的に課員だけの内輪の小さなパーティーという感じで始まる。それさえ出欠は自由だし、酒を飲むのを無理強いされるようなことはない。そもそも、課長自身がそんなに酒をガバガバ飲むわけではない。
「わたしは、いい酒をゆっくりちびちび飲みながらうまい料理を食べるのが好き」という課長だ。
パーティーの場所は課長が、うまい料理食べたさに自分で選び、費用も課長が持つ。確かに、こういう時に課長がパーティーの場所にする店は、外れなく実に料理がうまい。そういう飲み会だから、少なくともこの1次会を欠席する課員は滅多にいない。
2次会になるとよくある流れでカラオケに行ったりすることが多い。課長は、その体つきのせいか、歌もうまい。いい声をしていて、声が腹から出ている感じがする。課長のあとに歌うと差があってキツいとまで言われている。だが課長自身は積極的に歌ったりはしない、むしろカラオケ店でさえ「ここはあれが旨いんだ」といって料理を注文することが多い。だから、課長のまねをして、一緒になって食べていると体重が爆発的に増えると言われていた。
今夜も食べて飲んで歌って、夜半が過ぎた。
参加した課員はカラオケで半分になっていて、ここで「次」へ行くときはさらに減る。
最後は数人で静かなバーへ行き、ややじっくりとした話をしたりすることが多いようだ。
それでも課長は「ここのバーは、このミックスナッツがやたらと旨いんだよなぁ。これを食べながら飲むウイスキーはこたえられん」と汗をふきふき、食い気が先に立っている。
その、今日のパーティー最後のバーを出たあと、ここで解散と思ったところ、僕は課長に、
「おまえ、問題ないならうちに寄っていけ」と言われた。特に何もないのは間違いないが、僕が少し戸惑っていると、先輩社員が、行けよと促すような素振りをしてニヤリと笑い、あいさつして別れて行った。
タクシーでしばらく走る。タクシーの中で課長は家に電話し、「一人、客を連れて帰る」と電話の相手に言った。タクシーはマンションの前で止まった。
課長について部屋に入った。
「ただいま」
ドアを開けると細身の女性が一人、涼しげに微笑んで立っていた。その女性を課長が、
「俺の女房ね」と課長は言い、それから奥さんに僕を紹介した。
「夜分に失礼します」
僕は一瞬、緊張でことばがもつれそうになった。
「どうぞ、いらっしゃいませ」
こんな夜中だが、奥さんは服もきっちり着ていて、慌てているとか、投げやりな感じとかそんな感じは微塵もない。
僕は課長のあとを付いてリビングに入った。
僕はソファで課長の対面で座り、課長がつけたテレビを見ながら少し世間話をしていると、奥さんがお酒と軽いおつまみを出してくれた。
課長はそれを僕に勧めながら、
「それで、おまえ泊まってけ」といった。
もう、ここまで来たら、そうなるだろうとは思っていたので、
「はい」即答した。
僕は課長としばらく世間話をしながら少しだけ飲んで、最後に紅茶とケーキが出て来た。最後までビッシリと抜け目なくおいしいものが出てくるのがすごいと思った。お茶とケーキは奥さんも加わった。このケーキは、今日のパーティー後に帰宅した課長が食べるために奥さんが昼間買い求めて置いたものだという。それが、戦勝祝賀会の日の課長の一連の儀式らしかった。そういう話を楽しそうに奥さんは話し、課長もニコニコしながら聞いていた。
「このひと、この体型でしょ?もうそろそろ年齢的にマズいから節制しなさいっていってるんだけど」
「まあ、もうしばらくそれは許して欲しいね
課長は実においしそうにケーキをほおばる。
僕もふだん一日でこんなにものを食べないだろうと思うくらい食べているのだが、課長と奥さんの話を聞いていると、なんだかケーキも軽く食べることができた。
もう寝ようと言うことになり、シャワーとパジャマを借りた。来客用には普通サイズのパジャマが用意してあった。
「あなた、おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
それから奥さんは、僕にもまた微笑みながら、
「おやすみなさい」といった。
「今夜はありがとうございます。おやすみなさい」
僕がそういうと、課長は、
「俺らの寝室はこっち」といって、先に立って廊下を歩いて行き部屋に入った。
部屋にはベッドとテレビに小さなデスクといす、それとかなり大きな冷蔵庫が置いてあった。
僕はギョッとした。ベッドがひとつ。しかもこれは大きめではあるがシングルベッドと思われた。
僕は声が詰まった。今の雰囲気だと、『この部屋で課長も寝るのだよな?もしかして、一緒に?そのために僕だけ呼ばれたのか?さっきの別れ際に先輩社員がニヤッとしたのはこれが理由か?』と脳裏を駆け巡った。まさか。だがそれはまだ聞くのは早い。そんな気がした。
少し硬直してドギマギして部屋の入り口に突っ立っている僕に課長が言った。
「そのベッドで寝てくれ。……わたしはこっちで……と」
課長が大型冷蔵庫の前に立った。その冷蔵庫は上段が観音開きのドアで下段は小さめの引き出しになっていた。
課長は冷蔵庫の観音開きのドアを開け放った。冷蔵庫は横の棚などは一切なく、スッキリした空間になっている。ドアポケットにだけビールやジュース、ミネラルウォーターなどとちょっとしたつまみのような食べ物の袋が入っていた。次の瞬間、
「よっこらしょ」
課長はそう言って、冷蔵庫のふちに座り、腰をジリジリと奥へ入れて足を引き上げ、冷蔵庫の庫内に横向きに入り込んだ。それはまたあつらえたように、ピッタリと収まっていた。
「……」
僕がことばを失ってその光景を見ていると課長がおもしろそうに話し出した。
「いやあ、前は女房と向こうの寝室で一緒に寝てたんだけどさ。俺、この体型じゃん、それと汗っかきだから、年中女房が『暑苦しくてたまらん』ていって、夏場には『とても我慢できない』って言われちゃって。それで別々に寝るようになったんだけど、ふと思いついて冷蔵庫に入ってみたのよ。これが完璧にジャストフィットしてさ。涼しいし、いいナァなんて思ったりして。それが運の尽き。それで庫内を改造して換気できるようにして、中の側面にテレビをつけてみたというわけ」
「は、はぁ。そうでしたか」
「いや、ほんとくつろげるんだわここ。全く別の世界っていうの?」
課長が感慨深げにそう言いながら冷蔵庫ににゅるにゅるピッタリと収まっていく。その姿はまるで猫が小さな箱に身をくねらせて入っているのを思い出させた。
「下の段の引き出しに、飲み物とか食べ物が入ってるから、適当に使ってくれ」
課長は下段の引き出しを指さしてそう言った。
「あ、はい」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
課長はパタンとドアを閉めて冷蔵庫に消えた。
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