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幸運にも中川は、五百円玉に夢中で気づいていない。
ふたりとも早足でその場を通り過ぎた。
「じゃあ、また明日」
いつものように彼は十字路で圭太郎と別れた。
宗助の母親が経営している亀山書店は駅前の商店街にある。
かつて商店街は賑やかで、人の出入りが絶えなかったが、今では潰れシャッターを閉めている店のほうが多い。それでも量販店やチェーン店の古本屋が近くにないので、亀山書店は夕方になると、閉店時間の八時まで勤め帰りの会社員や下校していく学生でけっこう賑わう。
時々、ふと宗助は思うことがある。
(いったい母さんの過去に、なにがあったんだろう?)
美沙季の生きがいは今年小学校五年生になる宗助の妹、沙耶(さや)をアイドルか女優にして、自分の夢を受け継いでもらうことだ。
妹は小学校の帰りに子供劇団のスタジオで芝居の勉強をしているが、どうも最近、不安に感じることがある。妹を見る母の目が怖い。
時々、猛禽(もうきん)類(るい)が獲物を狩るような眼で、沙耶を眺めるのだ。
もしや? と、宗助は不安を感じていた。
(母さんは沙耶に見切りをつけているんじゃないか?)
そう察しながら、宗助は無理矢理その不安を打ち消し続けた。
(まだ小学生じゃないか……)
しかし――沙耶がテレビの子役のオーデションで採用される回数が減っている。
美沙季はテレビ局で開催するアイドル・オーデションがあれば、学校を休ませてまで沙耶を通わしたが、採用されないのも無理はなかった。
可愛らしい風貌はしていたが、声が掠れていたし、いくら歌を練習しても音程を外してしまうのだ。
芝居も同じで、妹の部屋の前で台本を読む声がドアから聞こえてきたが、いくら練習しても棒読み、これが練習量とか環境の問題でないのは、素人の宗助にもわかった。見込みがないのは本人も自覚があるようだが、やめるわけにはいかなかった――
《母親の愛情を独占したい》
そうしないと、どんな折檻されるかわからない。
沙耶は少女らしいエゴで、凡庸な兄を日頃からバカにしていたし、よくわがままを言って困らせた。
『勉強の気が散るから忍び足で歩け』、『一緒に食事したくないから、宗助だけ食事の時間を遅くして欲しい』、『同じ湯船に入りたくないから宗助はシャワーにして、ソースケ菌が伝染る』
普通の母親なら妹を叱りとばすところだが、美沙季は違った。
沙耶を溺愛して、言われるままに宗助を冷遇した。食事も衣服にも気を使い、まるで姫様のように我が娘を扱い、宗助の普段着は着古したジャージで、文句を言わせなかった。
食事はいつもインスタントかレトルト、酷い時には夕飯はアンパン二個だけという日もあった。沙耶に金をかけているので、そのしわ寄せが宗助に集中していたのだ。
だが、期待されないほうが宗助には気が楽だった。
宗助は知っていた。沙耶はベッドで「助けて!」とか「やめて! 母さん! ごめんなさい!」とか、寝言を言う……。無意識のうちに日頃の不安が口に出てしまうのだ。
《日頃、溺愛されているだけに、そのぶり返しが恐ろしい》
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