空白の一年

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 ひさしぶり、と麻結は言った。  そのどこか大人びた言い方に、俺はひそかにたじろぐ。  おう、とだけ答え、俺は麻結が助手席に乗り込むのを待つ。  一年ぶりに会う娘は髪も背もぐんと伸びていて、そして不機嫌そうに口を真一文字に引き結んでいた。 「今日、どこ行く?」  アクセルペダルに乗せた右足に緩やかに力を加えながら、俺は努めて明るい声を出す。とりあえず駅前のロータリーを出たものの、行き先を決めているわけではなかった。 「どこでもいいよ別に」  助手席のシートに腰掛けた麻結は、堅苦しく背筋を伸ばし、俺から顔を背けるように窓の外に目をやっている。 「映画は?」 「……別に観たい映画ない」 「じゃあ、前に行った県道沿いの喫茶店あるだろ、あの店でケーキでも食うか?」 「……太るからいらない」 「あー……そうだ、動物園にペンギン見に行くか? 好きだろ、ペンギン」 「……あたし、もう小六だよ。親と動物園なんか行くわけないじゃん」 「じゃあさ、アウトレットモールはどうだ。なにか欲しい物あるだろ? 玩具とか服とか……」 「勝手に買ってもらったら、マ……お母さんに怒られる」 「……そっか。そうだった、な……」  思わずこぼれそうになった溜め息を、すんでのところでこらえる。  母親に無断で物を買い与えない。それは娘との面会交流に設けられたルールの一つだ。  元妻が一人娘の麻結を連れて家を出たのは、麻結が小学校に入学する直前のことだった。ろくに話し合いもしないうちに離婚調停を起こされ、離婚なんて考えられないと復縁を訴えたが、元妻の決意は固かった。十ヶ月後、俺が根負けし、離婚が成立した。  麻結の親権は当然のごとく元妻が持つことになり、俺には月に五万円の養育費を支払う義務と、月に一回娘に会う権利だけが残された。  それからは、月に一回の麻結との面会交流が、俺の日々の張り合いになった。  午前十一時に駅前で待ち合わせ、午後四時に同じ場所に送り届ける。一月にわずか五時間の親子時間。麻結も楽しそうにしていた、と思う。  ただの一度も欠かすことなく続いていた面会交流は、一年前に突然途絶えることになった。しばらく面会交流は遠慮してほしいという、元妻からの一方的な連絡で。 「ところでさ。お母さん、なんだな。ママじゃなくて」  一年前に会ったときは、元妻のことは「ママ」と呼んでいた。俺のことは「パパ」と。   「……だって、ママなんて子どもっぽい」  わざわざ指摘したのが気に障ったのか、麻結の声はますますぶっきらぼうになる。  そうか、としか言葉が出なかった。  麻結が言葉を喋り始めた一歳半頃のことが、虚しく思い出される。麻結が「ママ」より先に「パパ」と言えるようになったのは、俺の数少ない自慢だったのに……。  あてもなく走り続ける車内に、エンジン音だけが静かに響く。赤信号で車が止まってしまうと、沈黙はいっそう重みを増したようだった。  その重みに耐えきれなくなった俺は、思いついてダッシュボードに手を伸ばす。  「あのCD、ちゃんと積んであるぞ。ほら、麻結が好きなアニメの」  けれど麻結は、ちらりと視線を寄越しただけで、またそっぽを向いてしまう。 「そんな昔のアニメ、もう誰も観てないよ」  俺は言葉もなく、のろのろとダッシュボードから手を引っ込める。  それは、以前の面会交流のときに買った、某人気アニメのサウンドトラックだった。ぎりぎりルール違反にならないように、俺の車の中で聴く専用として買ったCDだ。麻結と一緒に車に乗るときはずっと流しっぱなしにしていたから、そのうちに俺もすっかり歌詞を覚えてしまった。車を走らせながら二人で大熱唱したのは、ほんの一年前のことだというのに。  大人びたのは見た目や口調だけじゃないんだと、空白の一年が改めて恨めしかった。   「あのさ」  不意に、麻結が口を開いた。この日初めて麻結の方から話しかけてきたことに、にわかに心が浮き立ったが、続いて出てきたのは俺にとって愉快な話題ではなかった。 「お母さん、再婚したの、知ってる?」  もちろん知っていた。一年前に元妻から知らされていたからだ。  それに、再婚相手と麻結が養子縁組するということも。  麻結のために、麻結が新しい父親に慣れるまで面会交流を中止にすべきだ、というのが元妻の言い分だった。  それとこれとは話が別だろうと反論したが、元妻の、こうと決めたら一歩も引かない性格は、離婚調停の頃から少しも変わってはいなかった。  それから一年、待ちに待ってようやく実現した、今日の面会交流だった。  けれど俺は、面会交流を再開したことを後悔し始めている。 「ママ……いや、お母さんから聞いてるよ」  新しいパパはどうだ、仲良くやってるのかと、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。聞けば傷つくのは俺だ、きっと。  そんな俺の気を知ってか知らずか、無情にも麻結の言葉は続く。 「悪い人じゃないと思う、たぶん。ママ、いつもニコニコしてるし」 「……そっか」  あなたと一緒にいると、笑い方が分からなくなるの。離婚調停中に妻から届いたメールの文面が、今更ながら胸に刺さった。 「その人からね、パパって呼んで欲しいって言われて」 「うん」 「イヤだって言ったらママが悲しむから、だから……」  続きは聞きたくなかった。  仕方ないことだと分かっている。覚悟もしていたつもりだった。けれど、俺以外の男を「パパ」と呼んで欲しくない。その気持ちを消すことはどうしてもできそうになかった。 「だからその人のこと、お父さんって呼ぶことにしたんだ。それで、ママのことはお母さんって呼ぶことにした。まだ時々言い間違えるけど。だからね、パパは、パパだから」    早口にそう言うと、麻結はふぅっと息を吐きながら、ゆったりとシートに背中を預けた。 「やっぱりケーキ食べたいかも。CDもひさしぶりに聴いてみようかな……」  そう言ってダッシュボードをゴソゴソと探り始めた麻結の横顔に、今日初めて小さな笑みを見た。  ずっと不機嫌そうだった麻結。そうではなくて緊張していたのだということに、俺はようやく思い至る。  まだあどけない、けれど確実に大人びたその横顔を見ながら、俺は空白の一年を思う。  この一年、俺は心の中で元妻への愚痴をこぼしながら、麻結と会える日を待っていた。  ただ、それだけだった。  信号が青になった。  ありがとうとも、ごめんとも言えないまま、俺は静かにアクセルを踏む。 〈了〉
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