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外に出ると、妙に湿気のある風が皮膚をなぜた。おそらく、朝から夕方までずっと降っていた雨のせいだろう。夜空は厚い雲で覆われ、星も月も見えない。
「そういえばこの間久々に帰省したら、自室がドラムセットに占拠されてたの」
「ドラムセット」
「うん。弟が夏休みのバイト代を貯めて買ったみたい。友だちとバンド組むんだって」
「へええ」
「渉くんはないの。帰省あるある」
「母さんの作る味噌汁がやっぱり一番おいしいんだってことに気づける、じゃない?」
「いい子か」
突っこみつつ、でもたしかにそうなんだよなあと心の中で同意する。一人暮らしでなにが一番恋しいかって、お母さんの手料理である。特に私もお味噌汁だった。だからわざわざ出汁の取りかたを一から聞き、家と同じ味噌で作ってみたのに、母親のものほどおいしくは感じられなかった。ものすごく不思議に思ったことを今でも覚えている。
そんなことを考えていたら、喜久子のは少し甘いよねと口にして渉くんは私のほうを見た。
一瞬わけがわからなくなった。彼の言葉にではない。彼の表情に、だ。
渉くんは微笑んでいた。
「ねえ」
「なに」
「どうして笑ってるの」
「僕が笑うと喜久子はおかしいわけ」
「いや、ただ今まで流れのどこにそんな要素があったのかと……」
腕を組みながら首をかたむける。おそらく私は今ものすごい難しい顔をしているに違いない。それぐらい渉くんが微笑んだ理由について考えていたということだ。
喜久子。ふいに自分の名前が呼ばれた。小さな子どもになにか大事なことを教え諭しているかのような声音で。
「なに」
「僕は喜久子のそういうところも含めて好きだけど、少しは自覚もしてくれないと」
「そういうところ? どういう意味?」
「教えてあげない」
渉くんは言うが早いか流れるような動作で私の手を取ったあと、握り締めてきた。さらりとしていて乾いた感触がした。
困惑しながら彼の顔と繋がれた手を交互に見た。渉くんはすでに正面をむいていて、ずんずんと先へ進んでいく。だから自由を奪われている私も続くしかない。
再び軽いため息をつくと、どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
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