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カリガリ博士を例に取るわけではないが、世界的混乱期にこそマイルストーン的な映画は生まれるものなのか……とは言ってもこのホワイト・ゾンビは公開当時、後に語られるほど話題にはならず、どちらかと言うと後々の映画評論家やホラー映画マニアが、この映画をして世界初のゾンビ映画として認定した事がきっかけで、映画史にその名を刻んだ所以があると思われる。恐怖城、というサブ・タイトルが示している通り、現代のゾンビ映画像とは大部で異なり、おおよそゾンビを中心に置いたアクションやパニックとは程遠い。だが、本来の、ゾンビ、としての定義には適った解釈もあるので、むしろコンテンポラリーなゾンビ映画よりも、ゾンビに忠実な映画と仕上がっている。また、本作はガーネット・ウェストンの原作・脚本の古典ホラーでもある。  ニールとマデリーンは挙式をあげる為にハイチのボーモン邸を訪ねる。道中の途中で、ゾンビの集団を目にするが、ボーモンは二人を助け親切にするが、それには恐ろしい理由があった。マデリーンをニールから奪い取るために二人を甲斐甲斐しく庇ったのだった。ボーモンは恐怖城に住む謎の男(ゾンビ使い)と恐ろしい計画を企む。それはマデリーンに毒を盛り、ゾンビにするという計画だった。しかし、本当は悪魔の仕業ともいうべき謎の男の仕掛けた罠の一部にしか過ぎなかった……というのがホワイト・ゾンビの概略でありスクリプト。  この話の上での、マデリーンに毒を盛る、というその毒はゾンビ・パウダーの事で、それはハイチ由来の聖薬であり、死者を蘇らせ労働者にするという効果と効能を要した、言わば秘術的な儀礼でもあった。  遅ればせながらゾンビの本来の出自と存在意義性を詳述すると、ゾンビは土俗的なハイチの民間伝承呪(まじな)いとして誕生したと描かれていて、ブゥードゥー教の一教義の延長線の上で捉えている。ゾンビとは生ける屍の労働者として、人件費もかからず文句も言わず、ただただ淡々と雇い主の命令を聞いてくれる、雇用主にとっては願ったりの叶ったりの存在。それがゾンビの起源であり、現在のゾンビ映画のゾンビが行う人肉食とはかけ離れた造形であった。実際にこの映画でも、作品のゾンビは恐怖の対象ではなく、あくまで、労働力になる死人、程度の扱いで、ゾンビそのものに凶暴性や残虐性の感じは見受けられない。ゾンビは脇役であり、映画はボーモンやゾンビ使い、ニールらの争いに終始している。  上映時間は七十三分。まだモノクロの映画ではあるが、一九ニ七年には映画史上初のワーナー・ブラザースが公開した『ジャズ・シンガー』というトーキー映画(音声映画)が生まれ、ホワイト・ゾンビもサイレント映画ではなくなっている。また、製作費も独立プロとしては破格の予算である五千ドルをも投じ、かなりの豪華なセットなっている。そして、何よりも『魔人ドラキュラ』(一九三一年)に代表される怪奇俳優の大物であるベラ・ルゴシがゾンビ使い役に扮していて、圧倒的なオーバー・アクトが映画の品格を上げている。多分に娯楽映画としての評価は高い。  兎にも角にも、ゾンビ映画はこのホワイト・ゾンビをゾンビ映画の原点として認める事が、今日では定説となっている。だが、まだこの頃は、ゾンビ、というモンスター(?)の概念は広がらず、ユニバサル・ホラーに代表されるドラキュラやフランケンシュタイン、狼男にミイラ男、果ては半魚人やせむし男等々、それら旧来の定番怪物ジャンルが林立して、さらにその薫陶を一九五0年末期から一九七0年半ばまで全盛期を誇った、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションが受け継ぎ、ゾンビの存在は見失われつつあった。  だが、一九六四年に後のゾンビ映画に影響をもたらす転機となったSF映画が登場する。アメリカのSF作家であるリチャード・マシスンの原作SF小説のアメリカとイタリアの合作映画化、原題「I AM LEGEND」こと『地球最後の男』である。  監督はウバルト・レゴーナとシドニー・サルコウ。主演はやはり怪奇俳優として著名なヴィンセント・プライス。 内容は一九七0年代、人間を死に追いやった後に吸血鬼として甦らせる吸血ウィルスが、世界中に蔓延し、人類が滅びる中、ただ一人生き残ったロバート・ネヴィル(ヴィンセント・プライス)は、夜な夜な自分の家の周囲に集い、騒ぎ立てる吸血鬼たちと孤独感に苦しみながら、昼間は眠る吸血鬼たちを狩り出して杭を打ち込みながら、生活必需品の確保と、吸血鬼退治の方法を研究し続けていた。そんなある日、ネヴィルは太陽の下で活動する女性を発見し、自宅に引きずり込む。ルース(エマ・ダニエリ)と名乗る女はやがて自分がスパイであること、そしてネヴィルにこの場所から逃げるように告げて姿を消すが、ネヴィルは結局自宅に留まり続ける。そしてある夜、暴走族のような集団がネヴィル邸を襲撃し、周囲に集っていた吸血鬼たちを殺戮し、抵抗するネヴィルを痛めつけて連行する。彼らは吸血ウィルスに冒されながらも生き残り、新たなコミュニティを形成する、新人類、であった。そしてネヴィルは、彼らが処刑されようとする自分を見る目に恐怖が宿っていること、そして彼らにとって、自分こそが、人々、が寝静まった頃に街を徘徊し、人々、を殺戮しまくる伝説の怪物(LEGEND)であることに気づくのだった……という何ともシュールにして残酷かつ皮肉、そして、斬新なプロットとなっている。 だが、もう一つ評価すべきは、この映画にて吸血ウィルスという媒体が関わってきて、いよいよ感染による人間の異形化、つまりは人間がゾンビ化する予見を思わせるアイディアが散見できること。地球最後の男での吸血鬼という存在が、ゾンビと同位的なアナロジーも連想させる。 そんなプレ・ゾンビ映画の始まりを感じさせる一九六四年に公開された地球最後の男であるが、同年にアメリカはトンキン湾事件(一九六四年八月五日、当時の米国大統領のジョンソン大統領は、ベトナムのトンキン湾を巡視中の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受け、その報復として直ちに反撃のため北ベトナムを爆撃(北爆。アメリカによる、北ベトナムへの空軍による爆撃。翌六五年三月からはローリング・サンダー作戦という徹底した爆撃を開始し、ベトナム戦争が本格化した。それ以後六八年まで行われた空爆により、アメリカは約二二三万トンの爆弾を投下したが、また千機以上の航空機を失った。ベトナム側の人的被害は約五万人と推定されている)。だが、四年後、ジョンソンと対立して辞任した国務大臣マクナマラは、このトンキン湾事件が捏造である事を告白する。当時、北ベトナムは魚雷艇を装備しておらず、大統領が議会に提出した決議文の原案は五日よりも前に作成されたものであったことが明らかになった。一九七0年、このトンキン湾決議は取り消された。そのでっち上げの改竄報告を機会に、アメリカは本格的にベトナム戦争に参戦する)を発表する。 所謂、米国の本格的国外干渉における、大規模化ベトナム戦争の勃発である。 そんなアメリカ社会の不安の中、地球最後の男は生まれ、さらにはベトナム戦争が激化する渦中に、「モダン・ゾンビ」(ちなみにブゥードゥー教由来のゾンビを「ブゥードゥー・ゾンビ」とも言う)とも呼ばれる、現代ゾンビ映画にも通底するエポック・メイキング的な作品がさらに産声をあげる。 一九六八年に公開した『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』である。 地球最後の男をモチーフとしながら、吸血鬼を生ける屍に換骨化。さらにその生ける屍は、吸血鬼以上にグロテスク化(まだまだ迫力感には欠けるものの)して映像を際立たせている。一方、地球最後の男においての心理的な描写や、物語性の強度も備えている。 そのような経緯をもってナイト・オブ・ザ・リビングデッドは、モダン・ゾンビ映画の元祖として今に君臨した。
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