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一九六八年のベトナム戦争の状況は、アメリカにしても敵対する北ベトナムにしても、大きな分水嶺を迎えていた。ベトナム戦争の言わば岐路とも呼ばれる年であった。 この年の一月三十日の夜から行われた、北ベトナム人民軍(NVA)及び南ベトナム解放民族戦線(NLF)による「テト攻勢」と呼ばれる、南ベトナムに大進攻した戦闘がその要因である。結果、このテト攻勢がベトナム戦争史上において最大の戦闘になった。 テトとはベトナムの旧正月の事で、その祝日であるテトの期間は、南北ベトナム軍双方、暗黙のうちに休戦期間とする慣例があった。だが、一九六八年は北ベトナムと解放戦線側は、南ベトナム全土での大規模なゲリラ攻撃を七ヶ月前から企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一月三十日未明、一斉に蜂起した。この意表を突かれた攻撃のタイミングに、アメリカおよび南ベトナム政府は大きなダメージを受ける。 言わば隠し矢のような、流行りの用語を使えばコンプライアンス違反の北ベトナム側の進攻だったが、戦術的には解放民族戦線側は損害の大きさの割に成果が少なく、攻撃は結果として失敗に終わった。一方で南ベトナム解放民族戦線は、占領した街で南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していったが、その中には文民(その多くが政府職員)や修道女も含まれていた。フエでは予め処刑者の名簿が配られており、名簿に名前がある人物は、殆どが後頭部に銃弾を撃ち込まれて射殺され(フエ事件)、この攻撃は、結局、南ベトナム解放民族戦線への恐怖を、南ベトナム国民に知らしめる役割を果たした。 また、その戦闘はメディアを通じて世界に報道され、特にテレビにより、生々しい映像がその日のうちにアメリカ合衆国に伝えられ、世論に大きな影響を与えた。その映像は北ベトナム側の残虐性だけを流布しただけでなく、アメリカが味方している南ベトナム側の悪質的な残酷性にも影響は及んだ(その一例として、南ベトナムの国家警察総監グエン・ゴク・ロアン(阮玉鸞)はサイゴンの路上で、解放戦線の捕虜、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)とされる人物を拳銃で即決処刑した。その残酷な場面は、カメラマンのエディ・アダムズに撮影され、世論に衝撃を与えた。アダムズはこの写真「《サイゴンでの処刑》、で一九六九年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞した)。 しかし、ベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよテト攻勢によってアメリカ大使館が占拠された状況などもあり、それらの事実は衝撃をもって受け止められた。このような理由から、コンセプト的かつ戦略的には解放戦線が成功を収めたという結果に見受けられる。 実際に、一九六八年以降からベトナム戦の潮目は変わり、アメリカでは国民が、ベトナム戦争は不毛な戦いであり、自由主義の平和を共産主義から守る抵抗ではない、との論調が高まり始め、反戦運動が盛り上がり、さらに長引く戦況から米国経済が機能麻痺。ただただアメリカの政治や財政そのものが、負のスパイラルで泥沼化していき、国家存亡の危機、と称しても過言でない程の、破綻と破滅が垣間見られるようになる。 そんな時期の折に、ナイト・オブ・ザ・リビングデッド、は上映した。 おおよその粗筋としては、父の墓参りの途中、バーバラと兄のジョニーは生ける屍(ゾンビ)に襲われる。兄を殺された恐怖と悲しみの中、バーバラは近くの民家に逃げ込む。民家には新たに黒人青年のベンが逃げ込み、地下室には若いカップルのトムとジュディ、クーパー夫妻と大怪我を負った娘が潜んでいた。外部との連絡も取れないまま、周囲はゾンビの群れに取り囲まれていた。ドアや窓を塞ぎゾンビの侵入を防いだうえで脱出の方策を探るベンに対し、救助が来るまで地下室に籠ることにこだわるハリーが対立する。ゾンビたちが人間を食い殺していることをテレビで知ったバーバラたちは、最寄りの避難所への脱出を試みるが、ガス欠のトラックに給油しようとした際に漏れたガソリンに引火しトラックは爆発炎上、トムとジュディが焼死してしまう。 停電となり情報も得られなくなった中、ベンが玄関先で燃やしていた椅子も燃え尽きたことで牽制されていたゾンビたちが次々に押し寄せる。さらに塞がれていた窓は次々に破られ状況は絶望的に悪化していく……というのが概容。 所謂、ここでカニバリズム系ゾンビが出てきたと言っても良いが、スプラッターの程度でいえばあからさまな人肉食の描写はほぼない。むしろヴィジュアルよりもストーリィに重きを置いている。 父の墓参りの途中に突然ゾンビに襲われる、という初っ端からの展開は実にシュールで、また、基本的にゾンビ発生に対しての諸々の説明はなく、ただ淡々とゾンビに囲まれた小屋一室の中で映画は進んでいく。 やはりここでもナイト・オブ・ザ・リビングデッドはホワイト・ゾンビと同じく、あくまでゾンビが添え物的な扱いである事と類似し、話の根幹は人間たちのめくるめくドラマにある。だが、最大の特徴としてホワイト・ゾンビなどの旧来のゾンビ映画とナイト・オブ・ザ・リビングデッドが違うのは、群れをなすゾンビたちの圧倒的な存在感。まだまだ一九六0年代の特殊メイク技術であるから、ゾンビの造形及び、残酷描写においては稚拙ではあるが、あえてカラー映画(一九三二年に三原色式の改良版テクニカラーが開発され、ディズニーの『花と木』で初めて、天然色活動写真、として実用化され上映。それがカラー映画の原点ともされている。厳密に言うとイースマン・コダック社の創始者であり、発明家の一面も持つアメリカ人実業家のジョージ・イーストマンが、一九二八年に自宅で知人を招いて映して見せた映画が、カラー実写映画の祖として考える向きもある)ではなく、陰影が濃く些末な箇所が判別しにくい、白黒映像として見せたのも、一つの効果であった。 そして、実の所、ゾンビというグロテスクな存在、が、ある意味、売り文句であったナイト・オブ・ザ・リビングデッドであったものの、そのプロットからは人間ドラマの重厚性にも着目する部分がある。 謎の生ける屍であるゾンビに囲まれ、さぞやそのゾンビに慄く人間模様がスクリーンを支配している、というイメージがあるが、むしろ重要なのは、小屋の中で閉じ込められた人々の葛藤と争いにある。 ゾンビに襲われている、という異常かつ緊急事態にも関わらず、お互いの我の強さから意見が対立したり、内紛も起こったりする。それらの一連の流れは、偶然に集ったキャラクターたちとはいえ、結局の所、皆が分かり合えない、というような印象を持たせる。どんな状況下であっても、大衆はエゴを捨てきれず、利己的行動に走ってしまう。今次のパンデミック問題による、トイレット・ペーパーやマスクの買い占めではないが、共生や協同の概念は果たして機能していたか。そのようなサタイアとして既視感(デジャヴュ)に捉えるのは大仰な事であろうか。 だが、よりリアルな社会風刺として、やはり当時のアメリカの社会状況背景にある、ベトナム戦争というものに大きく依存する事は、想像に難くない。実際にナイト・オブ・ザ・リビングデッドの特殊効果スタッフであるトム・サヴィーにはベトナム戦争中は従軍カメラマンであり、ベトナム戦争従軍期は、メイクの腕を磨くために、戦地にも道具を持って行っていたという話があり、傷のメイクを作って新人兵士を驚かしたりして遊んだ事も。ただ、戦争中はいつも怯えていて、また、戦場に文字通り死屍累々と遺体が散乱しており、その変わり果て朽ち果てた戦死者を見つめて、顔の形やその姿を目でなぞることで、特殊メイクの修行をした。一方で、カメラを通して、彼らの死体を見た。そのことで平静さを保てたという。暗がりから、いつ敵兵が出てきて殺されるかもわからない。そして、ホラー映画も怖いが、あの瞬間、あの空気感はそのどれよりも自分を脅かす、とトム・サヴィーニは語る。サヴィーニとってベトナム戦争の経験は、皮肉にもメイク技術のスキルを上げる現場でありなりながら、地獄の戦場を体験した事によって、胸中複雑な死生観が生まれる機会となった。肉体(フレッシュ)がいとも簡単に死体(ボディ)に変わる。サヴィーニはその後も多くのホラー映画の特殊メイクを担当していくが、特にゾンビのメイクに限って言えば、常にベトナム戦争で体現した、死と隣り合わせ、や、崩壊している死体の群れ、を想起しているのではないか。 そして、そのサヴィーニの思想に共鳴してか、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドは、ジョージ・A・ロメロ監督によって、ベトナム戦争のメタファーとして捉えられる側面もあるような作品になった。所謂、社会派ドラマ的な要素が。このような事態はホラー映画のジャンルにおいては、カリガリ博士などの古典映画を除いては稀有な事である。 ベトナム戦争。人間の生と死の実感を曖昧にさせる戦場という空間。確かにそこで人格や人間性を求めるのは酷な状況であり、眼前で繰り広げられる残虐な光景には、目も眩み立ち眩みが起きるような事が、理性ある人間なら覚えるはず。ベトナム戦争という地獄の現場から、労働力として人間に使えるのではなく、人肉食を目的として襲い掛かる、人間に対して有害種である生ける屍、ゾンビという存在を発想するのは、ある意味、必然的な事だったのかも知れない。元来の由来であるハイチのゾンビ像とは真逆の生態、もしくは行動を弄するモダン・ゾンビの登場は、繰り言になるが改めてショッキングであった。 しかし、一九六八年にナイト・オブ・ザ・リビングデッドが公開された事は示唆的でもある。一九六八年は哲学的視点からすれば、「六八年の思想」とジャック・ラカンやロラン・バルト、ミッシェル・フーコーやジャック・デリダなどのポスト構造主義者が唱えた、言わば思想界にとっても特別な年で、二十世紀の枠から取ってみても全世界的に特殊な事情に溢れたタームであった。世紀のターニング・ポイントと言っても差し支えない程の時事が多すぎた。 話は多少逸れるものの、一九六八年、日本では東大紛争(主に学部生・大学院生と当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題を巡り行われた学内闘争。自衛隊も介入してきて、バリケードで張り巡らされた東大安田講堂に、行政における武力で学生たちに応戦し、世論にも物議を醸し出した事件で、後に全学共闘会議(全共闘。日本の各大学で学生運動がバリケード・ストライキ等、武力闘争として行われた際に、ブントや三派全学連などが学部やセクトを超えた運動として組織した大学内の連合体)の動きも活発化させ、その余波として連合赤軍による山岳ベース事件やあさま山荘事件が後に露見する)が起こり、苛烈な学生運動の始まりの年でもあった。 学生運動と言えば、外国でも例外ではなく、フランスはパリでも盛んになっていた。パリ五月革命と呼ばれる、ゼネラル・ストライキ(労働者が団結して行う労働争議の一形態で、一企業や組織によるストライキではなく全国的な規模で行われるストライキのこと。ゼネスト、総同盟罷業ともいう。また、ある特定の地域や都市において様々な産業が一斉にストライキを行う場合もゼネストと呼ばれる事がある)を母体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それにともなう政府の政策転換を指した出来事で、その内実はセックス革命、文化革命、社会革命などの要素も含まれていた。 一九六八年は見方によっては、第二次世界大戦後より新しく構築された、グローバルなコモンセンスの蹉跌の鬱憤が溜まりに溜まった年であった、詰まる所、世界レベルで大衆の異議申し立て運動が活発化した年だったともいえる。 欧州でも、旧態依然とした父権的な権力(白人=男性=異性愛)は同時代的な意識を求める民衆の挑戦を受け、その権力の在り方そのものが問われるようになる。パリの五月危機(パリ五月革命)も、そうした世界の潮流に共振する形で起きた世界的な大衆運動の一環であり、それ以後のヨーロッパの大衆文化や思考の在り方にポジティヴな強い影響を与えた。冷戦と呼ばれていたアメリカとソ連を筆頭とした資本主義陣営と社会・共産主義陣営のそれは、ベトナム戦争という事態にホット・ウォーの様相を呈するようになり、その混乱はヨーロッパにも広がり(無論、日本にも)、思想的に未熟な若い学生にも波及した。その上でパリの五月革命は起こったと見てみるのもあながち的外れではないと思える。 五月革命の特徴は、学生たち、が状況を先導した所にあり、従来の政治的枠組みを、obsolète metodo(時代おくれのやり方)として見せた。これは、当時のフランス市民たちに新しい政治の季節の到来を予感させるもので、若い学生たちはそれまでの、父権的な政府、も官僚的で怠慢な労働組合の幹部も拒否し、若く斬新な政治姿勢、を打ち出して、若者と市民数の力で圧倒しようとした。また彼らは戦後高度経済成長に育ったベビー・ブーマーであり、急激に数の膨張した大学生だった。このような点も日本の学生運動に連関する部分が見える。 一九三八年、フランスの大学生は六万人に過ぎなかったが、それが一九六一年に二十四万人、一九六八年まで六十万五千人にまで膨れ上がる。それまで特権階級の場だった大学は一般に開かれ、より慎ましい階級の家庭の学生の比率が膨らんだ。旧態依然としたド・ゴール政権(ド・ゴール主義。シャルル・ド・ゴール。一九五九年に大統領に就任して一九六九年まで在職。任期中アルジェリアの独立を承認し、フランスを核武装させ、北大西洋条約機構の軍事機構からの脱退などを実現した)は彼らを発言権のある存在としては認めておらず、倦怠と抑圧を感じる学生の不満は高まっていた。彼らは広い意味で、平等、を求めていた。社会にも、階級にも、帝政の歴史にも、第三世界にも、政治にも。「Egalité! Liberté! Sexualité! ―平等! 自由! セクシャリティ!」は革命運動時の学生の重要なスローガンとなった。古い世代の制度と新しく膨らんだ大学生の間で生じた摩擦はやがてマニフェストをともなったデモやゼネラル・ストライキという形で顕在化されるようになる。 一九六0年代後半は、欧米、日本を中心とした世界の若者は、学生運動によってお互いの理念、思想、哲学を共有し、激しい政治運動を行う事が、共通理念のように通じていた。このような精神活動は国の枠組みを越えて対抗文化(カウンターカルチャー)や反体制文化(ヒッピー文化)を構成するユートピアスティックな、世界的な同世代、という連携を生み出し、世代的な視座が生まれるようになる。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は、発言権を強めるようになり、その一連の流れでもあるパリ五月革命はフランスの現代化を推進させた。 そして、社会主義に改革を求めた、チェコスロバキアで起こった「プラハの春」が起こったのも一九六八年である。 プラハの春とは、一九五六年のスターリン批判(一九五六年のソ連共産党第二十回大会における、党第一書記のニキータ・フルシチョフによる秘密報告「個人崇拝とその結果について」のこと。そこではスターリン執政期における政治指導や粛清の実態が暴露され、その原因として個人崇拝が批判された。このフルシチョフ報告に前後してスターリン時代の思想や政策が批判され、ソビエト連邦の政治・社会の画期をなすとともに、世界各国の共産主義運動に影響を与えた)の衝撃は、ポーランドやハンガリーのように社会主義体制の危機を引き起こすほどではなかったにしろチェコスロバキアにも波及し、一九六0年代に入るとアントニーン・ノヴォトニー(党第一書記兼大統領)の統治体制は揺らぎ始めた、特に、一九五0年代に猛威を振るった粛清裁判犠牲者の名誉回復問題、経済成長の鈍化に象徴される計画経済の行き詰まり、スロバキアの自治要求などをめぐって、ノヴォトニーに対する批判が高まっていった。一九六七年に入ると、第四回チェコスロバキア作家同盟大会において、パヴェル・コホウト、ミラン・クンデラ、イヴァン・クリーマといった作家たちが共産党への批判を行った。また、十月末には、プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモを行い、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に発展した。それに加えて、党内においても、ノヴォトニーの国家・党運営に対して、スロバキア共産党側から強い不満が出された。こうした状況下で、十二月にブレジネフが非公式にプラハを訪れた。ブレジネフからの支援を梃子に、事態の収拾を図ろうと目論んだノヴォトニーであったが、ブレジネフはチェコスロバキア共産党内の問題であるとして、積極的なノヴォトニー支持を打ち出さなかった。結局、党内対立が解消されないまま開かれた12月の党中央委員会総会は、さらなるノヴォトニー批判一色となり、ノヴォトニーが兼任していた党第一書記と大統領職を分離する流れが固まっていった。 一九六八年。やはりこの年は反芻して述べるが、特殊過ぎたのかも知れない。日本ではベトナム戦争の影響を受けて、ベトナムに平和を! 市民連合(日本のベトナム戦争反戦及び反米団体。運動団体としての規約や会員名簿はなく、何らかの形で運動に参加した人々や団体を、ベ平連、と呼んだ)が発足され、反戦活動がフォーク・ソング・ブームと連動して世相を騒がせ、アメリカではフェミニズム運動が興隆を極め、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディは暗殺され、リンドン・ジョンソンからリチャード・ニクソンに米国大統領が交代する、等々。一九六0年代から一九七0年代は、政治の季節、と呼ばれているが、そのクロニクルでも、この年はその意味合いが濃かった。 そのタイミングでのナイト・オブ・ザ・リビングデッドの登場である。何某(なにがし)かの難儀な年は、偶発的にも新機軸たる映画、批評せざるを得ない問題作が出て来る、という傾向があるのは穿った曲解であろうか。 だが、そのような時代背景にして深読みする事とは別に、単純にナイト・オブ・ザ・リビングデッドで、ゾンビが人肉食を行うという部分ばかりにフォーカスが当てられ、その後に残酷趣味の亜流のゾンビ映画生まれることになった。ただ、日本では欧米ほどゾンビ映画は集客力がないとみたのか、あまり上映される事もなく、未公開ゾンビ映画が多く、無論、国産のゾンビ映画も制作される事はなかった。 だが、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドからの、エピゴーネンのゾンビ映画とはいえ、スペイン人監督のアマンド・デ・オッソリオによる、スペインとポルトガルの共作である『エル・ゾンビ』シリーズ(一九七一年~一九七五年まで作られた四部作)などは、テンプル騎士団(中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会)をモデルとしたような、髑髏ゾンビ軍団が人間を襲うというようなシナリオが斬新的でもあり、異端のスパニッシュ・ホラーとしての嚆矢になる。また、ジャネット・デ・ロッシの特殊メイクが冴えるゴア描写の強いポール・マスランキー監督の『悪魔の墓場(一九七四年)』というゾンビの映画の秀作も出ている(余談ではあるが一九七一年には、地球最後の男のリメイクである、チャールトン・ヘストン主演で『地球最後の男・オメガマン』も作られている。吸血鬼(ゾンビ?)が世を占めている終末観は踏襲しているものの、前作よりもその悲壮感は漂っておらず、どちらかと言うとシンプルなSFアクション映画となっている事は否めない)。しかし、ホラー映画やゾンビ映画の波打つ興亡とは別に、映画史自体が大きな潮流に当時飲み込まれていた。 「アメリカン・ニューシネマ」の勃興である。 一九六0年代後半から一九七0年代半ばにかけてアメリカでベトナム戦争に邁進する政治に対する特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメント、として定義づけられた一映画思潮である。ウォーレン・ベイティ制作・主演でアーサー・ペン監督による『俺たちに明日はない(一九六七年)』を起源として、フランシス・F・コッポラ監督の『地獄の黙示録(一九七九年)』までの映画作品を、一般的なアメリカン・ニューシネマの期間としている。ベトナム戦争やアメリカの社会状況の不安は大局にして、映画界にも真摯に影響を及ぼし、その悲愴な影を延々と引きずっている証左でもあるが、そんな中で、やはりゾンビ映画も世相に反映して、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドより直截的な社会派にしてスプラッター感にも溢れ、アクション要素も含んだエンターテイメント性の強い商業的映画にして、モダン・ゾンビの集大成ともいえるゾンビ映画が一九七八年にイタリアで公開される。 ドーン・オブ・ザ・リビングデッドこと『ゾンビ』である。 当時は既にベトナム戦争は終わり、アメリカ経済も再興に向けて出発していたのだが、ベトナム帰還兵たちによる心的外傷後ストレス障害(PTSD)が問題にあっており、自暴自棄の行動による犯罪行為、または自殺などが社会問題になっていた。その時節での「ゾンビ」の上映は、ベトナム戦争への戒めとなったのか、もしくは戦場での苛烈な記憶のフラッシュバックになってしまったのか、それは分からない。 さて、ストレートにゾンビの名を冠したこの映画。このゾンビによって現代ゾンビ映画のフォーマットは形成され、連綿とそのテーマは手を変え、品を変え受け継がれていっている。 ちょうどナイト・オブ・ザ・リビングデッド公開から十年後の記念碑的ゾンビ映画作品であるゾンビ(無論、前作のような白黒映画ではなくカラー作品にして上映時間も各国、もしくは後々な編集版が掘り出され存在するため、一概には言えないが、大体において約百三十分の長編尺の映画になっている)。監督はやはりナイト・オブ・ザ・リビングデッドと同じくジョージ・A・ロメロ。それに『サスペリア(一九七七年)』でホラー映画の御大になったイタリア人のダリオ・アルジェントが音響効果、ヨーロッパ公開版の監修および一部プロデュースを担当して、アメリカとイタリアの共同出資の作品。 ストーリィは言うに及ばず感はあるが、やはりナイト・オブ・ザ・リビングデッドと同じく、どうしてかゾンビが地球を支配していて(日本でテレビ公開された際は、宇宙からの謎の怪光線を人間が浴びてゾンビ化する、という描写が付け加えられた)、それに対して人々が抵抗をする、というナンセンスなもの。ただ、今作は小屋の中という狭い密室ではなく、主に巨大ショッピングモールが物語の主戦場となっており、もはやゾンビが世界中に跋扈しているという状況なので、ゾンビの出現によるパニック感や、人間同士の心理的な密室劇は薄い。まるでそのままの人間生活の延長線上のように映画は淡々と進行していると言っても良い。ゾンビがいる状況がここでは異常ではないようで、そのゾンビたちも歩く屍ながら、生前の習慣からショッピングモールに群がって来る。そんな不条理な世界観がよりいっそう、生者と死者の境界線を曖昧にさせる。 また、ここにおいて暗黙のゾンビの三原則である、動きが緩慢、頭を撃たなければゾンビは死なない、ゾンビに噛まれたら自らもゾンビになってしまう、というそれが明確にされる。もう一つ付け加えるとしたら、思考力がない、というのも合致するか。SF作家のアシモフの「ロボット工学三原則」では、人間への安全性、命令への服従、自己防衛、であるが、ロボットも本来は人間に代わる労働力をベースとしているので、ゾンビのそれと由来は同じはずなのだが、どうにももはやそのような概念は忘却の彼方。 だが、そんな思想的側面とは別に、ゾンビ=化け物という醜怪性の強い物体、つまり、晴れてフランケンシュタインやドラキュラなどのメジャーモンスターと比肩できる存在になったのではないか。実際にこのゾンビ公開の後にこそ、有象無象にて玉石混交、粗製乱造のゾンビ映画が場当たり的に制作されていった。 もはや「ゾンビ」以降のゾンビ派生映画の名を切り出したら際限なく、有名所だけでもサム・ライミ監督の『死霊のはらわた』シリーズや、H・P・ラブクラフトの原作小説を大幅にアレンジして映画化したエンパオア・ピクチャーズ一派の『ZOMBIO/死霊のしたたり』シリーズ、やはりジョージ・A・ロメロが監督した、ジョージ・A・ロメロの初期三大ゾンビ映画の掉尾を振るった『死霊のえじき(一九八五年)』など枚挙に暇がない。だが、イタリア人映画監督であるルチオ・フルチが作った、『サンゲリア(一九七九年)』などはゾンビの本来の原点に帰って、ハイチを舞台としたブゥードゥー教由来のゾンビ映画になっているので、基本に忠実な映画(?)としての評価は出来るかもしれない(ハイチを舞台としてはいるが、結局、何の説明もないままいつの間にか世界中がゾンビだらけになっている、というゾンビ映画の常套手段の展開ではあるが)。ちなみにブゥードゥー・ゾンビとは違うが、サンゲリアに加えて『地獄の門(一九八0年)』と『ビヨンド(一九八一年)』の作品群をルチオ・フルチ三大傑作ホラー映画とも称されている。 また、ビデオ・バブルが一九八0年代には発生して、映像コンテンツ会社はこぞってZ級クラスのSF映画やホラー映画すらも世界中から探し出しては世に送り出し、ホラー映画などは大方、低予算で作れるので、大量増産の主力作品となり、当時、恐らくホラー映画史上最大の栄華を誇っていた。 だが、確かに、ある意味、この頃が現在から見てもホラー映画、もしくはゾンビ映画のラッシュで黄金時代ではあったが、そのゾンビ映画はゆっくりと涵養しながら、さらに進化もしていっていた。
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