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今日における【改正新型コロナ・ウィルス(正式名称:COVID- 19〈coronavirus disease 2019〉)】のパンデミック問題は、恐らく二十一世紀史上においても世界基準、人類規模で語られ、省みられるインシデントになる事は想像に難くない。所謂、後世に刻まれる災禍、さらには天災だったのか、人災だったのかと喧々諤々の議論の余地も残して。  古くはペストやコレラやスペイン風邪などの億万単位の死亡者を出した感染症以来、二十一世紀にして、けだし現代人としては誰一人経験していないであろう、強大にして凶悪なパンデミックに襲われたわけだが、多くの人々が外での活動を制限され、さらには自宅に引きこもっている事態に、ゴースト・タウン化していく景象を目の当たりにしながら、日常にいまだかつてない違和感を覚えたのは無理のない次第。  静寂な状況が街を制し、人も自由を圧せられる空気感は、無常の世界観すら思い返させ、生への飛躍(エラン・ヴィタール)の欠片も許されない。  極論、ただ人は生きているだけ、の存在に成り下がり、人間が最低限生活する上の経済活動、さらに拡大解釈していえば、文明と文化の停滞を導いた。否、退廃の境地まで辿りうるほど。 そこまでの様相を今次のパンデミックは引き起こしたのではないか。 社会を、人間を無効化させた恐懼(きく)。それは不幸な未来と、彼(か)の存在を、アウトブレイク(感染症の突発的発生)は連想させる。 また、経済学者のマルサスは人口論で、「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する」と述べた。即ち、人類はパンデミックの猖獗(しょうけつ)だけではなく、将来、飢餓を中心としたグローバルな隘路も待ち受けているのかも知れない。一方で、「過剰となった人口は、飢餓や病気、貧困、戦争などの[現実的抑制]によって除去される」とも示唆している。それではまるで改正新型コロナ・ウィルスによる広範囲に及ぶ流行病が、人類への天罰よろしく、ノアの大洪水のような神の仕打ちによって、運命論的にその、現実的抑制、という言葉に収斂して、人口の間引きのような役割を果たしたというのか。自業自得にも近い人類の蓋然性の高い宿痾(しゅくあ)だったのか。それではあまりにも改正新型コロナ・ウィルスで犠牲になった人たちへの哀悼の意味がなくなってしまう。そのような考えは否定しなければならない。 結局にして、如何(どう)しても、塞翁が馬。改正新型コロナ・ウィルスの災禍同様、もはや統計学や非線形の科学が発達した現代においても、予定調和という言葉は無効化され、その有意義性は薄い。何をもってしても人類の危機、人間性の消失の可能性となるべきシチュエーションは起こりうる。 世界的な危機になる飢餓状況もまた、都市のディストピア化の侵攻になりえ、もはや人として「らしくない」日々を送る生ける屍、ゾンビ化したライフ・スタイルを鼓吹する恐れがある。 実際に閉ざされた生活を余儀なくされた人々は、経済的・効率的な問題だけではなく、形而上でも蝕まれ、ある医学論文によれば〔生活費の困窮や自営業者などの経営困難における自殺行為もあるが、人は社会的つながりやコミュニティとの接点を失う事によって、死亡率が五十%上昇する事が示された〕と、自殺念慮の懸案の報告もされている。 またも拡大解釈して言うと、本来、人類は元より哺乳類は、その個体一つ一つでは脆弱なため、群れをなして様々な時代や厳しい生活環境を潜り抜けてきた。遡れば古生代から現代においても、一様において生物は群集として生存を確保してきた。つまりは繋がりである。互助活動である。そして、人間においては、いや、知性の高い霊長類、動物ほど互いの触れ合いを必要とする。これはメンタルの面で片付けられる水位ではない。生物学的にスキンシップというのは、心的から人体への影響(例えば、別名を幸せホルモンと呼ばれている、オキシトシンという、ストレスを和らげる効果があると言われるホルモンが分泌する)に及ぶ行為になる。人と人とは関係を断絶してはならない。 だが、今回のパンデミックではその危殆化を促した。コロナ差別と呼ばれるような、加害者及び被害者意識は、戦中の日本の隣組の相互監視も連想され、まるでコロナ患者や医療従事者が村八分のような扱い。果てはナチス・ドイツ下のドイツ国民のユダヤ人潜伏の報告か、や魔女狩りの時代の密告の類か。隣人を信用できないような社会状況下、それはまさしく「戦時下」と称しても過言ではないと思えるし、現代までに培ってきた道徳観や倫理観の欠如、もしくは退化すら促す。広げれば、人間の真の姿とはこのようなものではないか? というようなヒューマニティの根本的な懐疑へとつながるのではないか。 そのようなボトルネックを顕在化させたのが、現代期の初と言って構わないだろうコロナ・ウィルスにおけるパンデミック。いつも通りの暮らしが破綻し掛けると、もはや世間は、その当然を失った事に困惑し混乱する。水や空気の有難みは無くならなければ分からない、というが、日々の普通が突如として変わること、喪失していくこと、そのような被災が襲い掛かった時、やはり人々はかつての日常に憧憬を感じ、懐かしさをも覚え、さらには僥倖だったとすら顧みるかも知れない。 煎じ詰めれば、健康的な市民生活を過ごしていた、まっとうな人間の〖ゾンビ〗化が窺えるということ。そして、アノミー状態の社会無秩序の世界の到来。そして、それが大言壮語ではなく、今次のパンデミックはより現実的に人々に、終末思想的、な諦念も与えたのではないだろうか。 果たしてどれほど、その仮想としてのウォーキング・デッド化した世間と、現実のパンデミック状態の世相に、どのような相似性、もしくは譬話(たとえはなし)を見出せるかは分からないが、歪んだ化学反応が起きていそうな気配が過去に、いや、今も続いているかを、拙い見聞からではあるものの、ゾンビ社会と人間社会の連関性、それを映画というフィルターをとして、俯瞰しながら検証してみたい。
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