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7. 人間としての叫び声
夏休み直前の生徒集会。
「 ベトナム反戦デモ参加 」が議題に。
あの8月6日の前日、広島で、ベトナム反戦デモが行われる。
それに、本校生徒会執行部と有志が、参加することに。
その際、「 M高生徒会 」名を使用することの承認が求められた。
自己否定の先輩が、趣旨説明。
「 沖縄が、ベトナム爆撃の基地になっている。
米軍の無差別爆撃で、毎日、子どもたちが大勢、虐殺されている。
『 戦争を知らない子どもたち 』を歌って、ぼくらは育った。
が、ぼくらは、戦争を見て見ぬ振りする子どもたちだったのでは?
そんな生き方を自己否定し、はっきりと、決別すべき時が来た。
みんな、できることから、少しでも、始めようじゃないか!」
生徒会名使用の提案は、承認の流れへ。
が、やはりというか、ここで、ソクラテスが登場。
「 君たちのデモは、非生産的な自己満足でしかない。
戦争当事者に、なんの影響も与えない無意味な行為だ。
特に、学校名を出しての参加は、利敵行為とも言える。
なぜなら、地域ボスの、学校攻撃を誘発するからだ。
せっかく勝ち取った学校民主化を、危機に陥れる。
平和のための、科学的認識を、徹底的に学ぶこと。
それこそが、君たちが、今なすべきことだ。
一見、遠回りだが、実はそれが、戦争をなくす近道だ。
少なくとも、デモなどより、はるかに生産的な行為だ。」
例の芸術的たとえ話も華麗に駆使し、圧倒的熱弁。
場内は、静まりかえった。
あの日のような、「 違うんだよ!」の声も出ず。
その時である。
あの、個人新聞の先輩がマイクへ。
驚いた。
生徒集会での発言は、初めてだった。
先輩は「 たとえ話 」を使って話し始めた。
…………
大きな川の向こう側。
罪のない子供たちが、毎日、たくさん虐殺されている。
「 殺すな!」
大声で叫んでも、遠過ぎて、聞こえない。
聞こえても、殺すのを止める連中じゃない。
助けに行こうにも、川幅が広すぎる。
流れも激しく、泳いで渡るのは、全く、不可能。
かといって、どこにも橋がなく、船もない。
いくら叫んでも、全く、意味がない。
今は、泳ぎ方、いや、船や橋の作り方を、学ぶべきだ。
先生の発言の趣旨は、そういうことだと思います。
叫んでもムダ、何の意味もない。
今は、未来に向けて準備すべき時、学習すべき時。
合理的・科学的にはそれが正しいのかもしれません。
が、そう簡単に割り切ってしまって、いいのでしょうか?
子どもが、今、まさに、虐殺されようとしている。
叫んでもムダ、それはいやというほど、わかっている。
でも、「 殺すな!」と、思わず、叫んでしまう。
叫ばずには、いられない。
それが、人間では、ないでしょうか?
叫び続けることを、自ら、放棄してしまうこと。
それは、ある意味、人間を止めることではないか。
ぼくは、叫ばずには、いられない。
なぜなら、人間であり続けたいから。
船の作り方、橋の作り方を学ぶことは当然、大切です。
が、その学びの根底に、必要不可欠なことがあると思います。
「 人間としての叫び 」が、それです。
その叫びのない学習は、長続きしないのでは、ないか。
学習の方向を、誤ってしまうことさえ、あると思います。
いつのまにか、殺す側を正当化する論理を学んでいたりとか ……。
デモは、非生産的な自己満足に過ぎない。
先生から見れば、そうなのでしょう。
でも、人間としての叫び声を、あげること。
ぼくは、それが、デモなのだと思います。
ぼくは、 人間としての叫び声を、あげたい。
叫び声をあげることで、ギリギリのところで、人間であり続けたい。
人間としての叫びを、根底に持ち続けて、学習していきたい。
人間としての叫びを、根底に持ち続けて、生きていきたいんです。
…………
ぼくは、涙があふれ、止まらなくなった。
口先だけの言葉ではない。
それは、先輩の日頃の行動が、生き方が、証明していた。
そこには、確かに、根底に、「人間としての叫び声 」が!
うれしかった。
こんな人が、存在することが。
こんな人に、出会えたことが。
( 8.今、どこで、何を? に続く )
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